1話
ソーマが最初に感じたのは、むせ返るような草の匂いだった。
意識がはっきりするとともに、閉じた瞼に優しく光が差し込んでくる。
「うーん……? なんだあの夢」
ソーマは片手で目をこすりながら、もう片方の手をついて体を起こす。地面は、やわらかな土と草の感触がした。
「どこだ、ここ?」
目が覚めてきたソーマは、キョロキョロと辺りを見回す。
目に映るのは、すぐ後ろにそびえる一本の大樹と、その周りを囲むように生えている草地。草地の向こうは森になっていて、先が見通せない。
大樹の周りを歩きまわった後、ソーマはやっと違和感に気づいた。
「なんだこれ……?」
慌てて自分の体を確かめる。いつの間にか、革と金属で造られた黒い軽鎧を着ていた。ご丁寧にも、腰には細身の剣まである。
「なんだこれ!? まるでゲームか、ネットの小説みたいな……それじゃあさっきの夢は本当に……!?」
頭は混乱続きだが、体の方は何も異常がないらしい。それどころか、体は今までにないほど軽い。
ソーマは自分が寝ていた大樹の根元まで戻る。さっきは気づかなかったが、そこにリンゴが一つ転がっていた。
「異世界に来ちゃったってことか……まさか自分がこうなるとは。……つっても、ずっとここにいても仕方ないよな」
そうぼやき、リンゴをポケットに入れた。
今いる草地を通過するように、森から小道が続いている。ソーマから見て右側は下り道で、左側は上りになっている。
「ものすごい山奥……ってわけでもないのか?」
祖父母の住む田舎で聞いた知識が頭をよぎる。こういった道は、人か獣が通っていなければすぐに消えてしまうらしい。
「どっちにするかな……まずは人のいそうな場所に出ないと」
森の先を目指し、ソーマは下りの道を一人歩き出した。
森の中の植物は、ソーマの知るものと微妙に違う気がしたが、詳しくはないのでよく分からなかった。枝を拾って振り回しながら、10分くらい歩く。
細い下り道を抜けると、そこから先は一面の草原になっていた。風に揺れる茶色がかった草の中に、まばらな木と岩が寂しく立っている。
後ろを振り返ると、森の向こうに、雪を冠した峰々がそびえ立っていた。もし逆方向に進んでいたら、大変なことになっていたのかもしれない。
「あれは……?」
よく見ると草原の向こうから、一筋の煙が立ち上っている。煙はどす黒く、不吉さを感じさせた。
ソーマの心臓が、苦しいほど鼓動を強める。
(あの煙の根本に、魔物がいる。自分はそこに行き、魔物を倒さなければならない)
理由は分からなくても、そう確信できる。
見えない何かに突き動かされるように、ソーマは走りした。
煙の発生源に辿り着いたソーマが見たのは、破壊の限りを尽くされた農村の姿だった。
広場を囲むように、簡素な家……だったガレキが散らばっている。かまどの火が燃え移ったのか、火の手があがっている家も見えた。
「あの煙が見えたのか……って大丈夫ですか!?」
広場に何人もの男達が倒れているのが見え、ソーマは急いで男達に駆け寄る。
男達は自分と変わらないような若者や、老人というべき年齢の者がほとんどだった。
一番近くの、明るい茶髪の少年を助け起こす。あちこちが傷付き、足も骨折しているようだが、見たところ意識には問題ないようだ。
「むこう…まだ」
そう言いながら、茶髪の少年はゆっくりと指を動かす。指が示した先には、まだ扉以外壊されていない一軒の家があった。
「わかった」
ソーマが彼の瞳を見つめ、頷く。それを見た茶髪の少年は、緊張の糸が切れたかのように意識を失った。
一瞬後、ソーマは無事な家に向かって走りだす。
何故先に怪我人を助けない? それ以上にやるべきことがあるから。
何故走る? 手遅れになる前に守りたいから。
何から守る? 今そこにいる、村を襲っている脅威から。
そしてソーマは、村を脅かしている元凶――3匹のゴブリンに追いついた。
* * *
時間は、ソーマが森で目覚めた頃に遡る。
「よーしよし、いい子だから大人しくしててねー?」
魔物がやってきた時、フレアはいつものようにヤギの世話をしていた。
夕日で染めたような茜色の髪はゆるくウェーブしていて、外にハネながら背中まで伸びている。
家にいるのは、母親のハンナとまだ幼い弟のキーア。三人で朝食を食べ終えると、フレアは山仕事をしている父の無事を祈った。
ささやかな食事の後、フレアはいつものように畑へと向かう。
迫り来る魔物は、そんな日常を容易く破壊するのだった。
普段鳴ることのない早鐘が、けたたましく響く。
「そんな、この鳴り方って……魔物!?」フレアの瞳が驚きで見開かれる。
魔物。人間とは異なる理の生き物。体内の魔核を砕かない限り、その力によって生き続ける存在。
村の男は木を伐りに行っており、武器も乏しい。戦える人がほとんどいない今、村が滅ぼされるのは明白だった。
「フレア! 村にゴブリンが来たみたい! 残ってる男の人達が戦う準備をしてるから、急いで地下室に!」母親のハンナが呼ぶ声が聞こえてくる。
フレアは家族と一緒に家に入り、土間の地下に掘られた貯蔵庫に隠れた。入り口は敷物で隠され、一目ではそれと分からない仕掛けだ。
頭上、板越しに村の騒ぎが聞こえてくる。
魔物相手に戦う男衆の雄叫びは悲鳴に変わり、今は何かを壊すような激しい物音が聞こえるのみだ。
「私も戦う」
「駄目よ! フレアが行ったところで何も変わらないわ」
「でも」
「今出て行ってもどうしようもないのは分かってるでしょ!」
「でも……!」
悔しげに唇を噛むフレア。握った拳には、血が出んばかりに爪が食い込む。
(村の人は大丈夫かな……。私は、家族はどうなっちゃうんだろう。父さんが帰ってきたらどう思うかな……。せめて、母さんとキーアだけでも助けないと)
フレアが考えている間に、ゴブリンの足音が近づいてきた。今ではすぐ頭上を、ドカドカと乱暴な足音が蹂躙している。
家具が壊れていく音。地下のフレアたちは、必死に息を潜め続ける。
上では人がいないと勘違いしたのか、ゴブリンは苛立ち地団駄を踏んだ。その怒りをぶつけるかのように、床へ剣を振り下ろす。
破壊音共に切っ先が天井板を突き破り、弟のキーアの目前で止まる!
「――ッ!!」
キーアが声にならない悲鳴を上げた事は、仕方のないことだろう。しかしそれが、フレアたちにとって致命的だったこともまた事実。
剣を引き抜いた跡にゴブリンの指が差し込まれ、地下貯蔵庫を隠していた木板は無造作に投げ捨てられる!
フレアの燃えるような夕焼け色の瞳と、ゴブリンの濁った視線がぶつかる。弟を後ろに隠して一歩も引かないフレアの肩を、ニヤニヤと笑うゴブリンが掴み上げる。
フレアは意を決して、ゴブリンに蹴りを放つ!
「母さん、キーア、逃げて!」
「ギ?」
ゴブリンは意に介さず、フレアを腕で吊り上げる。
「姉ちゃんを離せ!」
弟は家にあった農具でゴブリンを殴りつける。しかしゴブリンには効かず、近づいてきた別のゴブリンに殴り飛ばされてしまった。
「ぎゃっ!」
「キーア!」
家族の傷つく姿を見て、フレアの目に改めて怒りが浮かぶ。
「これでも……食らってろ!」
フレアの右手のひらに小さな火球が浮かぶ。火球を浮かべたままの手のひらを、ゴブリンの腕に押し付ける!
ジュウゥゥ……という音がするとともに、一瞬嫌な臭いが鼻をかすめる。
「ギイィ!」
流石に効いたのか、ゴブリンは金切り声を上げてフレアを離した。
「やった!」
笑みを浮かべるフレアだったが、その表情はすぐに凍りつく。
ゴブリンがこちらに向かって、剣を振りかぶったのだ!
「あ……」
刃こぼれと汚れにまみれた、ひどく野蛮な剣。その剣に射すくめられたように、フレアの体から力が抜ける。
フレアは、思わず目を閉じた。
(あーあ、死んじゃうのか……。母さんもキーアもちゃんと逃せなかったな)
身を強ばらせるフレア。
その瞬間、彼女の耳に少年の叫び声が届いた!
* * *
まだ倒壊していない家に、ゴブリンが集まっている。
破壊されたドア越しに、中の様子が少しだけ見える。剣を振り上げるゴブリンと、その目の前で座り込む少女。
その光景を見た瞬間、ソーマの中で何かが弾けた。
「止まれ! 魔物野郎!」
ソーマは叫び声を上げながら駆ける!
魔物は緑の肌をして、ソーマの背より頭ひとつは小さい。その背の高さに反比例するように、その体はごつごつとした筋肉で覆われている。
(ゲームで見たゴブリンそっくりだな)ソーマの脳裏にかつての日常の記憶がよぎる。
ゴブリン達は少年に気づくと、少女ではなくソーマを迎え撃つかのように武器を構えた。血走った目を見開き、今にもこちらに襲いかからんばかりだ!
初めて見る怪物を前にしても、ソーマは恐怖を感じていなかった。
「どうせ雑魚だろ!」
走りながら一気に剣を抜き、構える。異世界に来た時に、戦うための力も備わったようだ。
一番手前にいたゴブリンが金切り声をあげ、棍棒を振り上げる。棍棒が振り下ろされるより早く、ソーマはその腕に素早く斬りつけた。
白銀に輝く刀身が、空中に光の弧を描く! 宙に飛んだのは切り離されたゴブリンの腕!
跳ね上がった魔物の腕が地に落ちるより先に、ソーマは別のゴブリンの胸元を真横に切り裂く!
「ギ……」
二体目は何も出来ないまま、地面に倒れ伏して動かなくなった。
少し前まで少女を斬ろうとしていた最後のゴブリンは、剣から背負っていたボウガンに持ち替えようとしている。しかしこの距離ならば、矢が放たれるよりソーマの剣が早いだろう。
「終わりだ!」
ソーマは最後のゴブリンに向かい駆け出す。彼の意識の中には、あと一息で倒せる目の前のゴブリン以外はなかった。
「危ない!!」
「!?」
ソーマは声がした方向を見る。さっきまでゴブリンに襲われていた少女だ。
「何が危な」
……そう言おうとした瞬間、彼の体は真横から激しい衝撃を受けた!
「っ……!ぐあっ……!!」
想定外の方向からの衝撃を受け、ソーマの体は吹き飛ばされ、地面の上を数度転がる。
(何が起きた?どこからやられた?誰に?)
不意打ちの正体を考えていた彼は、不意に殺気を感じて素早く跳ね起きた。一瞬後、頭があった場所に突き刺さる矢!
「は!? なんでこいつら」
動いているのは、次の矢を用意しているゴブリンだけではない。目の前に立ちはだかるのは、先程斬り伏したにも関わらず、斬られていない方の腕で棍棒を振り回すゴブリンの姿だった!
「腕を斬るだけじゃダメってことかよ!」
棍棒ゴブリンはボウガンのゴブリンを守るように、ソーマの前に立ちはだかっている。まず棍棒ゴブリンめがけ、ソーマは素早く斬りかかった!
斬り落とした腕の側に回りこみ、ゴブリンの腹を裂く! 飛び散る血飛沫!
「殺った!」
確実な手応えが、剣を通してソーマの手に伝わる。
そのままボウガンのゴブリンめがけて進もうとしたソーマは、嫌な予感を感じて今斬ったゴブリンを確認した。
(まさか……)
腕を斬られ、腹を割かれながらも、そのゴブリンはまだ動いていた。人間ならとっくに死んでいるであろう怪我をして、なお戦いをやめない魔物。とどめを刺そうと剣を振りかぶるソーマを、ボウガンの矢が阻んだ!
「なんだよこいつ! 不死身なのか!?」
悪態をついて、ソーマは距離を取る。一体の力は大したものではないが、同時に攻撃されると面倒だ。完全に倒しきらないと、さっきのような連携が牙を剥く。
「そいつらは魔物だから魔核を壊さなきゃ死なないって!」赤髪少女が再び叫ぶ。「頭か心臓でも動きを止められるけど、完全に死なせるには胸の魔核を壊して!」
「……あいよ!」
声のおかげで、ソーマにも敵以外を見る余裕が生まれる。
煙の匂い。入り口が破壊された家屋。
その家屋にもたれかかり、こちらに叫んでくれた赤髪の少女。少女のそばで倒れている、赤髪の女性と男の子。
日光を反射して輝く右手で持った剣
。その切っ先についたゴブリンの血。
乾いた地面。
そして……砂になって崩れ去ろうとしている1体のゴブリンの姿!
「なるほど」
そこで初めて、ソーマは気付く。倒れ伏し、今まさに砂のように崩れようとしている1体。このゴブリンは最初の剣戟で、胸を深く斬りつけた個体だ!
「ありがとう! 胸!」
ソーマは叫びつつ、片腕ゴブリンの胸部を二度斬りつけた! ボウガンの攻撃を警戒しながら、倒れた片腕のゴブリンを観察し続ける。
胸の魔核を砕かれたゴブリンはあっけなく倒れ、微動だにしないただの物体に変わる。ゴブリンの亡骸は、存在そのものが薄れるかのように灰色になり、砂のように崩れていった。
「「……よし!」」
ソーマと少女の声が重なる。ソーマと少女は目を合わせ、ニヤリと笑った。彼はそのまま、残るボウガンゴブリンへと歩み寄る。
魔物はボウガンを発射したが、一矢たりとも目標に当たることはなかった。
最後のゴブリンに近づいたソーマは、剣に持ち替えようとするゴブリンの胸を一息で刺し貫いた! 突き刺したままの剣を、胴体を切断するよう真横に振り抜く!
ゴブリンは一瞬痙攣し、静かに地面へと崩れ落ちた。
「ふう……これで終わりだな」ソーマは呟くと、剣を鞘に収める。
こうしてソーマは、初めての戦いに勝利した。