<Ⅶ骨>
三日目の午後。
空に太陽は見えない。薄く雲が張っている。
オレたちは沙耶の着替えを調達するために、彼女の家を訪れていた。
提案したのは骨魅。オレも特に反対しなかった。
《トルネード・チャンス》はまだ詰まっている。一晩過ぎても良い案は出ていない。そして返済期限まで、あと二日。まだ時間はある。霊の分布地図作成もほぼ終わっている。
何より、沙耶にこれ以上同じ服を着させるのは、さすがに酷だと思ったからだ。
「思ったより、普通の家だな」
そこは築十数年くらいの一軒家だった。
「何を期待していたの?」
「お寺、か?」
「ご愁傷様」
サッシの玄関扉がガラガラと音を立てて開いた。
「家には誰もいないから。遠慮はいらないわ」
「おじゃまーっす」
「お……おじゃましまーす」
「ようこそ」
中に入ると、オレも嗅ぎ慣れた木造の匂い。
沙耶について二階へと上がる。
急な階段だ。一瞬上を見そうになって慌てて自粛する。
板張りの廊下を少し歩いて沙耶は立ち止まった。
「ここが私の部屋」
沙耶がふすまを開けて、
「……うぉ」「……うわぁ」
オレと骨魅は思わず声を漏らした。
和室だった。そして、なかなか荒れていた。
たんすの引き出しが半分開いており、中からブラウスやサマーセーター、リボンらしきものがはみ出している。足元には服、バッグ、そこかしこに飲み差しのペットボトルや空き缶。布団の上には、数冊の本が散らばっている。入り口から布団まで、獣道のように幅三十センチだけ畳が見えていた。散らかし放題だ。女の部屋にあるまじき、得体の知れない臭いがした。
「気にしないで。私、引きこもってたから。とりあえず入って」
沙耶はそう言って、慣れた様子でずんずん布団の方へ歩いていく。
オレも後について慎重に入るが、座る場所だけはどうしても見つからなかった。仕方ない。立ったままでもいいか、と諦めることにする。
「お、お掃除……しましょうか?」
さらに後から入った骨魅は、オレが邪魔で立ち往生してしまったようだ。オレの足の横から、顔を出している。
「構わないで、すぐに終わるから。弘蔵は後ろを向いて、いるわね」
「つか、オレは外で待ってるべきじゃねえ?」
「どうしても?」
「いや別に、沙耶がいいなら……」
「なら、そこにいなさい」
ささくれた畳が足の裏に痛い。なんとも居心地が悪いことこの上ない。ふすまの汚れをぼやっと眺めた。
背中から、ごそごそばったーん「……忌々しいことだわ」と不安になる音がしている。荷造りは少々難航しているようだ。
オレはその場でしゃがんで、小声で骨魅に話しかけた。
「……なあ骨魅。沙耶は、オレのことどう思ってるんだろう?」
「ななななっ――……な、なんのお話でしょぉぉ……」
骨魅は、あたふたと両手を口に当てている。いちおう内緒話と、理解はしているようだ。
「いや、オレを嫌ってるのは、分かってるんだが。すまん遠くから入りすぎたな」
まともな答えが返ってくる気はしないが、暇つぶしの雑談と思って続ける。
「ただ、それ余計に疑問なんだが、嫌いならなんでオレの傍を離れようとしないんだ? つか、むしろ離れるの、嫌がってるよな?」
「え、えー……そういうお話ですかあ」
あからさまにホッとしたように息を吐く骨魅。
「他に何の話があるんだ」
「ふぇ……な、ないですないです」
両手を顔の前で振って、ごまかすように笑う。しかし、頬は引きつっていた。
「それとも、口や態度で嫌いと言っても、本当は、」
「え、え、……ええっ? あの、やっぱりそういうお話ですか?」
「――やっぱり嫌いだろうな」
「はい、で、ですよ? はい」
「大体オレが近くにいて、いいことなんてあるか?」
「はい、ありますよう。あったかくなります」
「それは、むしろ夏に、近くにいて欲しくないな」
「あ、でも私、冬の寒い日に捨てられて死んじゃったから、あったかい魂の人の近くは好きなんですよう」
「…………さらっと重いこと言ったな」
「すすす、すみません。……言っちゃダメでした?」
「今、なんて言ったの?」
心臓が一瞬止まった。
声に振り向くと沙耶が見下ろしていた。視線はオレの横通り過ぎ、骨魅をとらえていた。蛆虫を見るような目つきだった。
「えっ、はい。私、冬にコインロッカーの中で死んだんです……けど? えっと、何か……?」
「あなたも死霊なの?」
「いいえ違いますっ 私はえっと、その霊じゃなくって、悪魔ですっ。あの……違い、分かります?」
「――死霊ではないのね」
「もっもも、もちろんですっ。ちゃんと成仏してますからっ。あ、でもその、解脱とは違って、しちゃうといなくなっちゃうので……」
「そう」
「す、すみません。何か、お気に触るようなこと……」
「別に。もういいわ」
いい?
それはない。
カチンときた。
オレは立ち上がって沙耶に顔を向ける。
初対面の時なら、そうは思わなかったが――いくらなんでもそれはない。
「沙耶。ここは謝れよ。シャレになってねえよ」
「どうして?」
「なに言ってんだ。骨魅が人間じゃないのは知ってたろ? しかも、そのためにいらないことまで混ぜっ返しやがって」
「謝ることではないわ。本人に聞いてみなさい」
「え、えっと、いいんですよ、弘蔵さん。本当にいいんです」
「よくねえよ。あれはどう聞いても、辛い思い出じゃねえか」
「でもあの、私、違いますから。人間じゃありませんから」
「――な、あのな」
口が動かなかった。
それで、オレに、何が、言える?
分からない――
分からない――から、オレはただ口を動かした。
「あのな、骨魅が人間かどうかなんて、関係ねえだろ。そこじゃねえよ。死に際から、骨魅を死霊と勘違いして、そのことについて、なんで何の謝罪もないんだよ」
――――、で?
――オレが言いたいのはそんなことか?
「違う、そうじゃない」
頭を振って一度考えを追い出した。オレが頭にきたのは、そこじゃない。
人間じゃない、成仏した相手に、
死に際を聞き返すのは、
それはいいのか?
「よくない。辛いんだよ。人間だからオレは辛い。沙耶も人間だろ。骨魅が死んだのは辛くて悲しいことだろ? 人間がそれを忘れたらダメだろ。おかしいだろ。なに淡々と『そう』とか『別に』とか、流してんだよ。それは違うだろ。だからここは、謝れよ」
オレも自分の言葉に、全てきっちり納得しているわけでもない。
ただ、今はこれしか言えなかった。
沙耶の舌打ちが聞こえた。
「なにを言い出すかと思えば、そんなくだらない話?」
眉を潜め、口の端を上げて、オレを見た。
「人間が死んだら辛くて悲しいなんて、そんなことを誰が決めたのかしら? それこそ間違ってるわ」
細い人差し指を、自分の口の前に立てて、
「弘蔵。人間は死んだら、ただ――」
うっすらと笑みを浮かべながら、
「気持ち悪いの」
沙耶は言った。
「いいわ、教えてあげる。死霊たちはこの部屋にもいたのよ。腸を引きずりながら皮一枚で繋がった腕をぶらつかせて、飛び出した眼球を反対に折れた指で何度も戻しながら部屋中を歩きまわって、目に入るどころか十秒に一回は身体を通り抜けていって、食べ物は喉を通らず無理に食べてももどすしかなくて、胃の中が空になっても胃液で口の中がぼろぼろに爛れてもまだ吐き気が収まらず、逃げる先も無く、まして眠ることもできず、この世に生きていることを心から後悔して、いっそ狂った方がマシと思う瞬間にさえ、頭の中身を見せ付けられる。そんな地獄絵図を一週間も耐え続けた経験がある人にとって、死んだ人は気持ち悪いものなの」
笑っていた。機械のように、笑っていた。
「たとえ親を死んでも、死に顔なんて絶対見たくならないでしょうね」
吐き捨てるような言葉。
喫茶店でティーカップから目を離さなかったのも、いつも俯いていたのも、本当に霊を見たくなかったからだろう。
オレから離れるのを嫌っていたのも……、
「悪かった。それは……」
「どうしてあやまるの? それも人間だから?」
沙耶は、じりじりとオレに詰め寄る。
「綺麗なものしか見ようとしなかった、あなたには、何も分からないわ。きっとあなたが正常なのね。弘蔵の骨の欠片でもあれば、私もあんな目に遭わずに済んだかもしれないのに」
オレの足に掴まった骨魅が、震えている。
「喫茶店で弘蔵を見たときは、とても嬉しかったわ。死霊がみんな逃げていくんだもの。初めて死霊を送り返したときも、それはそれは爽快だったわ。あんなに私を苦しめたものが一気に視界から消えていくのよ? 弘蔵に死霊が見えないと聞いたときは、妬ましいと思ったけれど、それもあまり気にならなくなっていたわ」
そして、沙耶は人差し指をオレの胸に突きつけた。
「今はとても嫌い。顔も見たくないわ」
すでに荷造りは終わっていたのだろう。布団の上のスポーツバッグを手に取ると、ペットボトルや缶を蹴り倒しながら、オレの横を早足で通り過ぎていった。
頭の中がぐるぐると回る。オレはその場から動けない。
「さ、沙耶さんっ。ちょ、ちょ……あのっ」
軽率なことを言ったのか?
どうしてこんなことになった?
どこを間違った?
足元で骨魅が何かを喚いている。
「弘蔵さん! 私じゃだめなんです! だめだったんです! 弘蔵さんと離れた時のこと、思い出してください!」
沙耶の事情を、オレはどうして気付いてやれなかった?
その機会はいくらでも有ったはずだ!
オレは自分のことばかり考えていた!?
「お願いします! 外にはまだ、霊が沢山います!」
「オレは、間違えた? どうして……」
「しっかりしてください! そんなの弘蔵さんらしくないです! 弘蔵さんは、いつも色々考えて、考えすぎてるくらいですけど……『直感は鋭い』って、田中課長が言ってました! 私もそう思います! だから、だから、」
骨魅は涙と鼻水を垂らしながら、オレを睨んで言った。
「弘蔵さんは、絶対に間違わない!」
――オレは骨魅を見下ろして、呆けたように口を開けた。
根拠が無いにもほどがある。
直感で全てが解決するなら、オレは苦労しない。
全ては無理だから、オレは考える。
状況は、いまだ進行中で、《反省》は終わった後にすることだ。今は自分を責める時じゃない。
ぐしゃぐしゃになった骨魅の顔は、少し面白かった。
「ありがとな。骨魅はアホだが、根性はある」
「は、はいっ、あの、それは喜んでいいんで――ひぃやぁぁっ!」
小柄な骨魅を横抱きにして、オレは沙耶の部屋から飛び出した。
予想通り、沙耶は玄関で丸くなっていた。
オレは隣にしゃがんで、ただ一言スマンといった。
「――もう終わり?」
沙耶は僅かに顔を上げて、オレに聞いた。
「大丈夫。もう怖いのはいない、と思う」
次の瞬間、玄関に軽快な音が響いた。頬にじーんとした痛み。沙耶の返事は平手打ちだった。
「叩くか。ああそうか。どうせそんなことだろうと思ったよ」
「弘蔵。忌々しいことだわ……」
「い、痛くないですか?」
沙耶が右手を押さえて言った。
「手が痛いわ。骨魅が代わりにあと百回叩いてくれないかしら」
「そ、それはちょっと……」
「つか、痛いのはオレの方だっつーの」
「放っておこうとは、思わなかったの?」
「今は仲違いしてても仕方ねえよ。いくら嫌われても、沙耶がいないとどうにもならないし。沙耶もそうだろ?」
「あなたを殺して私も死ぬ、という選択肢もあるわ」
「はっ、ははは早まらないでくださいっ」
「それはねえよ。沙耶は十日間耐えたんだろ。何のためだ? 少なくともオレを殺すためじゃねえよな?」
「――分かったわ。今はやめておいてあげる」
と、沙耶はバッグから何かを取り出した。ひも状の、何かだ。
「聞いていいか?」
「なにかしら」
「それは何だ?」
沙耶は瞳を潤ませながら、うっとりと言った。
「とても魅力的なものよ」
「左様か」
それが安堵か呆れかは分からなかったが、とりあえずオレは溜息をついた。
ま、なんの解決もしてねえけどな。
オレの家に帰る途中の住宅街の歩道。
沙耶の家から脱出した後、オレたちは《トルネード・チャンス》の打開策を考えながら、のんびり歩いていた。
雲が日差しを遮ってくれるお陰で、体感温度は、ややマイルドだ。
骨魅は相変わらず腕にぶら下がって(引きずられて)いる。
そしてついさっき、沙耶の家を出てから、オレの腰には太さが親指くらいの紐がつくようになった。一端は、沙耶が握っている。
これでも妥協した形態だった。
初めは首輪とリード、とそのままんまの物を渡され、当然ながら突き返した。
理由を聞くと「これで弘蔵の姿を視界に入れなくても、離れずに済むわ。とても名案でしょう」と誇らしげに言われてしまった。それでも拒否すると「私に付けろというの?」と軽蔑の視線で撫でられ、一瞬想像し、それをやったらきっとオレは人間として終わるに違いないと確信した。女子高生に首輪をつけてリードで引っ張る光景は、末世に過ぎる。
最終的に、リードだけなら……、と提案して、こうなった。今は後悔している。
沙耶は下を向いて、先を歩くオレから伸びるリードを引っ張りながら歩いている。オレはなんだ。盲導犬か。
「沙耶は一人で出歩けないんだよな?」
「ええ。だから、引きこもっていたわ」
「よく喫茶店まで来れたよな」
「田中さんに連れて行ってもらったの。普通の人からはどんな風に見えたでしょうね?」
「あのタル課長か。……通報モノだな」
「それを言ったら弘蔵の方も通報モノだわ」
「…………」
オレと霊能者となんだかよく分からない幼女が、平和な街を歩いていく。
「――それで、結局骨魅は何者なんだ?」
「たぶん精霊の親戚ね」
「大体そのようなものです……。す、すみません、勉強不足で……」
幼女の精? もちろんオレに分かるはずも無い。
「田中は悪魔なんだよなあ」
「――その通りだ。入間弘蔵くん」
後ろから、とつぜんのクールボイス。
オレと骨魅は文字通り飛び上がった。
振り向くと銀縁メガネのおっさんがいた。タルタル頬を揺らし、ブルーのハンカチでしきりに額を抑えている。
「た、田中課長。いつからいたんだ……」
「通報モノ、の辺りだな。ところで、そのリードはなんだ?」
「迷子防止用――、だからオレじゃねえ」
可哀相なものを見る、ぬるい目つきで見られてしまった。
当のリードの持ち主は身動き一つしていない。さすが沙耶、動じていない。
「おなかが痛い……」
頬が引きつっていた。田中課長はツボなのか。
「沙耶の迷子防止だ」
「そうか。どうでも良いな」
「……もしかして何か問題ですか? わわ私、何か失敗しちゃいました?」
あわわと口の前で拳を作る骨魅。
「骨魅くんにも後で話がある。立ち話もなんだ、どこかに入るとしよう」
それから十分後。
《喫茶ガイコツロック》
オレたち四人はあの微妙な喫茶店のテーブル席に座っていた。
今日も他に客はいない。店員は人骨エプロンをした五十代の男が一人。
オーダーが揃ったところで、田中課長はおもむろに、懐から一枚のちらしを取り出した。
「まずこれを見ろ」
言われた通り、机の上に置かれたちらしを見る。
ぱっと見、通信販売のものに見えるが……
昭和の絵柄。
ものすごく楽しげなイイ笑顔で、赤いボタンを押している少年。バックは大爆発。
力強い字体で、商品名らしきものが書かれている。
《肋骨式トルネード対応・遠隔起爆装置 リモトル》
アイスコーヒーの苦味が増した気がした。
「あ、新製品ですかあ」
骨魅は興味津々、ちらしに書かれた説明文を追っている。
「こんなものがあるが、どうだ?」
「なに笑顔でボタン押してんだよ」
「とても楽しそうね。妬ましいわ」
話の見えてないオレと沙耶は、とりあえず絵の感想を言った。
このちらしを使うと、なにか凄いことが起こるのだろうか。
「えっと、『対応トルネード、P型トルネード。リモトルを取り付ければ、あなたの送還効率は飛躍的に向上することでしょう』……?」
「こちらも状況は把握している。トルネードの残り回数は十二回だが、予定より回収率が低い。随分無駄遣いをしたようだな」
「だから困ってんじゃねえか」
「ああ、このままでは足りん。そこで私自ら新しいオプションを開発してやった。さあ役に立てたまえ」
「その前に、……その《リモトル》ってのが、なんなのか説明してくれ。どうリアクションしていいか分からん」
「『二十四本の肋骨を霊的に分離し、遠隔操作でトルネードを発生させる装置』だそうです」
「オレ専用じゃねえか」
「田中課長は元開発部の方なので……」
「今なら十文で売ってやる」
「安っ、いや高いのか?」
一文、千二百円。つまり一万二千円だ。
返済額六兆の前に、この程度はすでに誤差だ。
なんだか知らないが、この際、もらえるものなら貰っておいて損はないだろう。
「借りるのはアリなんだよな?」
「いいだろう。では返済額に加算しておく。ここにサインしたまえ」
――今、気付いた。ちらしの下の方に署名欄がある。
田中課長にボールペンを借りて、記入。
《入間弘蔵》
「フリガナも忘れるな」
《イリマコウゾウ》
「契約成立だ。『リモトルのご購入ありがとうございます』」
ちらしを懐にしまうと、はふはふとハンカチで額を拭いて、田中課長は席を立った。
「ところで、骨魅くん。例の件だが――」
「あっ、す、すみませんっ。弘蔵さん、すぐに済みますからちょっと待っててください……」
骨魅と田中課長は少し離れたカウンター席でなにかを話している。
田中課長の言葉に、何度も骨魅が頷いているのを見ると、お説教でもされているのだろうか。
「骨魅。なんか失敗でもしたのかな」
「心配をしているの?」
「まあ……なんだ。ドジだけど一生懸命だろ、あいつ。沙耶はどう思う?」
「溺死体よりは好きね」
「オレは?」
「溺死体に湧いた蛆虫以下」
「左様か」
骨魅の手元に一枚の紙が見えた。ボールペンをグーで握って、なにかを書いている。
「ヘンな子ね」
「お前に言われたくないだろうよ」
ようやく終わったのか、二人がやってきた。
「では、私はここで失礼する。必ず成功させろ……入間」
田中課長はオレの方を一睨みしてから、踵を返して去っていった。
――と思ったら、帰ってきて、
「私が払っておく、安心しろポケットマネーだ」
伝票を持っていった。
背広の後姿を見ながらオレは思った。
あいつ、大人だ。
家に帰り、骨魅から詳しい説明を利いたオレは、まず聞き返した。
本当にそんなことができるのか?
田中課長が持ってきた新製品――《リモトル》は、問題を解決するだけの能力があったからだ。
しかし何度聞いても間違いない。
オレの想像が正しければ、骨魅の手でもキャンディを十個掴むことができる。
「つまり骨魅の手を増やすんだ」
「ふぇ? 私の手は増えませんよ?」
ちゃぶ台の上に、前使った皿と十個のキャンディを用意して、骨魅に説明してやる。
「骨魅は最初四個取れるんだが、それは手が一本だからだ。例えば骨魅が両手を使えば最初に、八個取れるだろ?」
「はい。取れます」
小さな手には確かに四個ずつ、計八個のキャンディが収まっていた。
「もしもう一本手があれば、十二個まで取れる」
「……あ。そうですね!」
「《リモトル》は別の場所で同時にトルネードを起こすことができる。今、オレの中にある神気はあと十二回分だ。これを町の要所に仕掛けて、同時に起動すれば、どのトルネードも約四万ずつ霊を送還できる」
「返済は残り、約四十四万体ですから……」
「とりあえず少なく見て、一回三万八千としよう」
「十二をかければ、四十五万六千ね」
「す、すごいですっ、沙耶さん計算速いですねっ」
足りる。返済はできる。
別なところで感心している骨魅は置いておいて、オレは少し考えた。
不安要素は無いか?
「でもいいのかしら? 勝負は一回だけよ」
「……確かに、問題はそこだよな」
《リモトル》は一度に残りのトルネードを全て起動してしまう。三回だけ残す、という使い方はできない。
「そもそもトルネードの回数は、ギリギリだ。たとえ何回か残すことができたとしても、霊の密度が薄い状態になった後じゃ、結局返済に届かないしな」
もう少し早く田中課長が持ってきてくれれば、もっといい使い方があったかもしれないが……。
「他にこれ以上の案もない。やってみるか」
意を決して、オレは骨魅に言った。
「で、《リモトル》は、どうやって使うんだ?」
「えっと、『神気は弘蔵さんの肋骨に封じられいます』ので、」
「忘れてた。そんな設定だったか?」
「肋骨を引っこ抜きます」
そう言って骨魅がリュックから取り出したのは、巨大なペンチだった。
「落ち着け。使う道具は、それじゃないよな?」
骨魅の手の中にあるから巨大に見える、わけではなかった。
本当にでかかった。骨魅の身長くらいはある。
閻魔様が舌を引っこ抜くのに使うものと言われても、オレは信じる。
「い、痛くないようにします」
「不安過ぎ……つか、肋骨抜かれたら死ぬ!」
「だ、だだ大丈夫ですよう。『しんれいしゅじゅつ』、なので……。ちょっと『こつみつど』が減るみたいですけど……」
「目茶目茶棒読みじゃねえか!」
「私も手伝いましょうか?」
横から沙耶がペンチに手をかけていた。
「それはやめてくれ! 頼むから!」
大きく舌打ちをして、沙耶はペンチから手を離してくれた。
結局それから、オレは十二本、肋骨を抜かれた。霊的に。
ちゃぶ台にオレの肋骨の成れの果てが十二個並んでいた。
大きさはコーヒーの缶と同じくらい。白く、円錐形をしている。
「肋骨……ひでぇ」
《リモトル》の準備は成功したらしい。
骨魅の言うとおり痛みはなかった。
しかし自分の胸にペンチが突き刺さっていく光景は、悪夢以外の何物でもなかった。
「少しは私の気持ちが分かったかしら。蛆虫」
言い返す気力は無い。
「で……、これも神気を帯びてるんだろうから、霊は逃げるよな」
「はい。前ほど強くはありませんけど」
「肋骨の神気で霊が逃げるのは、どのくらいで送還数に影響する?」
「たぶん一時間くらいは、大丈夫です。弘蔵さんの身体の中と違って、小分けになっていますし」
「十二個配置するのに、一時間か……。骨魅はオレから離れて動けるのか?」
「すみません……。あまり遠くだと弘蔵さんを見失ってしまうので……規約で、できないんです。私ができるのは助言と『物理修復』だけで……」
「肋骨の神気で霊がどのくらい逃げるのか、もう少しちゃんとしたデータが欲しいな」
「えと、問い合わせてみましょうか?」
「いや実際に試してみよう。沙耶、これ持ってちょっと歩いてきてくれ」
沙耶は珍しく、目を丸くしてオレを見た。
「本気なの?」
「――かっこよく言えば、信じてる」
「本音は?」
「もし逃げたら、あの世まで追いかけて、首輪をつけてやるから覚悟しろ」
「……変態蛆虫男。せいぜい逃げてやるわ」
沙耶は白い指でオレの肋骨を一つ持ち、黒髪を揺らしながら、部屋の外に出て行った。
「い……、いいんですか? 行っちゃいましたよ?」
「いいんじゃないか? 肋骨の神気で霊が逃げなければ、戻ってくるだろうし」
「そうじゃなくて……、えと、あの肋骨が神気を帯びているのは間違いないです。霊は絶対に逃げるんですよ?」
「ま、霊の集まるポイントはもう分かってるしな」
「……そういうことじゃ、ないんですけど」
沙耶の協力は不可欠だ。
オレ一人で、一時間以内に十二個の肋骨を街中に配置するのは不可能だ。一箇所に使えるのは時間は五分、自転車を使っても無理だ。
しかし肋骨の配置を分担するのを、沙耶に強制する手段は無い。
だとしたら、あとは自由意志に任せるしかない。
沙耶がオレに協力する意志があるのか?
こればかりは実際に試してみるしかない。
もしかしたら、町の外に逃げて、もう帰ってこないかもしれない。
ちゃぶ台の上の肋骨が、長く三角に影を落としている。
「まだ時間はある。待ってみよう」
結局その日、沙耶は帰ってこなかった。