迷い猫
ボタボタと零れ落ちた汚泥は、ものの見事に猫を汚らしく染め上げた。
懐に伸ばされた力の抜けた掌は、自我を失い、熱を失い、烈火の様な黒い焔に融かされて、ドロドロに形を失ったそれは尚もぐちゃりと拳を、拳の様なものを作り上げる。
そら、ね、暗闇に身を落とすのに、力を抜いてはいけないんだ。
見えないことは、恐怖だからだよ。
もういいよ、様々な意味合いを込めて、据わらせた目でそう言葉を零す。
もういいよ、まあだだよ、そんな幼稚な押し問答。
もういいかい、まあだだよ。
もういいよ、もういいよ、もういいよ、もういいよ。
逆さまの言葉で同じ言葉を返す、返し合い、言葉は言葉を失っていく。
見えないから、暗闇で闇雲に宙を払う。
ぶん、ぶん、と空気を切る音が、暗闇にこだました。
大丈夫、何もいないよ。
何もいるよ、嘘だ。
貴方の炎は冷たいね、氷みたいだ。
それでいて、色が無いね、真っ黒で、どろどろだ。
本当に、燃えているのか。
言葉を失う、意味が独り歩きを始める。
手の届かないところに何かが潜んでいる。
そう言って何もないところを右往左往、空気を切り続ける彼は、見事なまでの汚らしさだった。
俺の、腹から溢れ出た、体液だった。
まるでそれは油のように、小さな体にべっとりとこびりついて離れない。
頭から被ったそれに、猫は大層不快な様子を見せ、しかし拭ったところで伸びるだけの汚泥を、まるで蜘蛛の巣に掛かったかのように取り払おうともがき苦しむ。
はは、と。
なんだか笑えてきた、なんて滑稽なのだろうか。
踊る道化師のようだ、哀れで、慰めの言葉すらも無い。
油を掛けたのは俺だというのに、全く酷い話である。
そんな自分の言いぐさにも、笑みが零れる。
いや、嘲笑か。
全く、俺は、哀れである。
滑稽で、卑しい、たまらなく愛しい、ただただくつくつと、こらえきれない笑みが零れ落ちる。
その笑みも、真っ黒だった。
びしゃびしゃと足元を汚し、水面に虹を作る。
ああ、お前も、油か。
ぴしゃりと、襖を閉じた。
三毛猫を追い出して、俺は誰もいなくなった暗闇で胡坐をかく。
なんだ、この黒も、俺から零れ落ちたものだったんだね。
俺を中心に広がる波紋に、力の抜けた笑みが尚も漏れた。
そろそろ出るものも枯れただろうか。
そっと襖を隙間ほど開けてみると、三毛猫は、ちゃんと襖を閉めて部屋に戻っていた。
よくできた野良猫だと思い、俺は、襖を閉じた。