8 トスナル、推理する
次の日、朝が過ぎて京子が事務所にやって来ると、そこにはクンネの姿しかなかった。
「あら? クンネちゃん、トスナルは?」
いつにも増してハデハデのフリルがついた白い服をなびかせ、京子が云った。
「いやあ、それがさあ……。いないんだよ」
テーブルにちょこんと座って、おっかなびっくり、クンネが答えた。
「何ですってぇ? 今日は事件を解決する期限の日よ。逃げた訳じゃないわよね?」
「い、いや。逃げてはいません。ほら、これ見て」
顔を赤らめながらボルテージの上がっていく京子をなだめるように、クンネが云った。クンネの黒い毛で覆われた短い前足の先に、一枚の手紙らしき紙きれがある。
京子はテーブルに近づくと、紙を鷲掴みにして、読み始めた。
「『ぼくわ、さきにげんばにいってます。後午二時にかいだんのところで』って、字が汚ないわねえ。漢字も少な過ぎるし、午後の漢字も間違ってるじゃないの!」
益々ボルテージの上がる京子に、クンネは震え上がった。
「まあまあ落ち着いて、お京さん。逃げてない事は確かなようだし……」
「そ、そうね。とりあえず、後で地下鉄の事務所に行ってみましょう。だけど、逃げてたらアイツ、ただじゃおかないんだから……」
京子が、まだ興奮冷めやらぬ感じで、水色のソファーに座りこむ。ひとまず胸を撫で下ろす、クンネ。
「ところで一つ、私からお願いがあるのですが……」
クンネは前足を擦り擦り、話を切り出した。
「そろそろ、カニ缶が無くなるんですよ。追加の缶なんてものはありませんかね?」
「あるわよ、いくらでも。じゃあ、今度はゴールドを持ってきましょうか?」
「ゴ、ゴ、ゴールド?」
クンネはよろけ、今にも崩れそう。
「ゴールドって、『北の国・ゴールド缶』? 国産タラバガニの、しかも厳選した素材だけ使っているという、あのゴールド?」
「そうよ。当たり前じゃない」
クンネは腰が砕け、ふにゃりとテーブルに横たわる。
「でもね、今日、トスナルがちゃんと謎を解いたらよ。美人秘書の初仕事に恥をかかせたら、ただじゃおかないわ。あなたもね」
クンネはパッと立ち上がり、がっちりと京子の腕をその両前足で握った。
「そんな事には成りません。私に、総てお任せください。トスナルめを、一人前の魔法使いにしてみせます」
これが、トスナル探偵事務所の助手と秘書が固い握手を交わした、最初のときだった。
午後になり、京子とクンネは地下鉄の事務室へと向かう。クンネは、京子の運転手付きの高級自動車に乗って、夢見心地だった。
「やあ、こんにちは。ところで、トスナルさんは?」
待ちかねたように、事務室で藤山が云う。間宮は浮かぬ顔だ。
「トスナル先生は、二時に階段でお待ちしているとのことです」
京子が、何食わぬ顔で、云い放つ。
「そのとおり。ゴールド、ゴールド」
珍しく京子の肩の上に収まったクンネは、熱にうなされたかのように、ぶつぶつと「ゴールド」の言葉を繰り返している。
「ゴールド? ……ん、まあ、わかりました。それでは、あの場所へ行ってみましょう」
藤山の一言で、事務室からぞろぞろと出て行く、一同。階段の通路に向かう途中、藤山が振り返った。
「あっ、そうそう、蔵波さんと黒田さんもこちらに呼んであります。午前中に掃除は終わってるんですがね――」
間宮は沈んだ表情で、軽く頷いた。
黒猫を肩に乗せた京子とその一行が階段の通路にたどり着くと、そこには蔵波と黒田の二人が、ただぼんやりと立っているだけだった。トスナルの姿が見あたらない。
「やあ、皆さん御揃いで。あれ? 探偵さんがいませんね?」
待ちかねたイライラを隠すかのように、蔵波が明るい声で云った。まるでワックスがけをしたかのように、光り輝くおでこが、この前より一段と目立っていた。黒田のおばちゃんは、むっつりしたまま、何も云わない。
「二時にここで待ってるってことなんだけどな……」
クンネが言い訳がましく呟くと、雪だるまに似た黒田のおばちゃんが、きりっとにらんだ。まるで、家に勝手に入ってきたドラ猫を見る目。
「あたしゃ、次の場所の掃除もあるんですよ。さっさと終わらして欲しいね」
「ま、まあ、二時まであと三分ほどありますわ。ちょっと、待ってみましょう」
京子は、こめかみの血管をぴくぴくさせながら云った。
(アイツ、すっぽかしたらただじゃおかないわよ。)
燃え上がる赤黒いオーラに、クンネは思わず京子の肩から逃げ降りた。
二時まで、あと三十秒。
いよいよ痺れを切らした京子が、ついに爆発した。
「アイツ、何してんのよ! あのボンクラ探偵、見つけたらただじゃおかないんだから」
恐れ慄く藤山と間宮。さすがの黒田のおばちゃんも、びびって京子から目を背けた。蔵波は、きょとんと、京子を見つめる。
「ゴ、ゴールドが……」
クンネが尻尾をがっくりとうなだれたとき、通路の何処からか、聞きなれた声がこだました。
「お京さん、そんなに焦ってはいけません。二時まで、まだあと十秒もあります――」
それはまさしく、トスナルの声だった。慌てて辺りを見回す、一同。
「どこだ、トスナル。早くしないと、ゴールド缶がもらえないぞ!」
クンネが、必死になってトスナルの姿を捜す。
「ゴールド? カン? 何云ってるか解らないけど、ボクはもう目の前にいるよ」
そのとき、黒田のおばちゃんの上着のポケットが、眩しいほどの金色に光り始めた。何が起こったのか理解できず、石のように固まった京子たち。
「ク、クモ?」
金色の光が弱まっていくにつれ、それは小さな塊に変化し、そして終には一匹のクモになった。慌ててそのクモをポケットにしまいこもうとする、おばちゃん。
「おばさん、ウソはいけないな。バリボン、ドモラール!」
その声とともにクモはムクムクと大きくなり、黒いローブを纏った、一人の男となった。魔法使い探偵、トスナルである。
「はい、ぴったり二時。ボクは、こう見えても時間には正確なんだ。それから、ちょっと云わせていただくと、ポケットの中身は時々掃除した方がいいですよ」
トスナルは、黒革ベルトの銀色腕時計に目をやり、埃のついた黒ローブを右手でパタパタ叩いた。
口をあんぐりと開けたまま立ちつくす、黒田。間宮は、急に子どものように、はしゃぎだした。
「トスナルさん、今の変身魔法ですか? いや、すごいなあ。初めて見ましたよ」
呆れる藤山の横で、間宮は狂喜乱舞、トスナルの周りをぐるぐると周っている。
「あのう……、そろそろ、いいですか?」
はしゃぐ間宮の肩を抑え、トスナルは微笑んだ。
「さあ、黒田さん。どう説明します?」
トスナルは、目線を黒田のおばちゃんに移し、キッ、とにらみつけた。
「あなたは、クモが怖いとおっしゃっていた。しかし、ボクがクモとなってポケットから出たとき、必死になってポケットに戻そうとしてましたよね。怖くて近寄れないようなクモを平気で触って――」
「そ、それは……」
タジタジとなったおばちゃんに、トスナルは右手の人差し指をビシッと突き付けた。
「あなたですね、犯人は。そして、あなたこそ、暗魔団の手先だ」