7 マドガン導師、現る
「わしじゃよ、わし。わしの顔を忘れてしまったかの?」
真っ白く長い顎鬚に、深緑の魔導師のローブ。皺だらけの左手にがっしりとした木の杖を持ち、ほとんど一本の線になった目で穏やかにトスナルを見つめている。背恰好はトスナルの半分くらいと、小柄なお爺さんだ。
「こ、これは、お師匠さま」
トスナルは急にひざまづくと、恭しく礼をした。
「バカモノ。マドガン導師様と呼べと、何度も云っておるじゃろ」
「あ、そうでした、そうでした……。お師、いやいや、マドガン導師様、今日は何の御用ですか?」
「師匠が弟子の様子を見に来るのに、何か用がなくてはダメかの?」
マドガンは、コツコツと杖をつきながら新品の水色のソファーに近寄り、そこへと腰を降ろした。それを見届けたトスナルは、慌ててみかん箱に座り直し、カチンと固まった。
「それにしても、あい変らずお前はトロいのう。身構えるのが遅いんじゃ。わしがあの時、攻撃魔法を出しておれば、お前はとっくに倒れておる」
「はあ、面目ございません。ちょっと考えごとをしてたものですから……」
「言い訳は無用。言い訳ばかりなのは、昔からちっとも変わっていないようじゃ。そんなことでは暗黒魔法団には……、いや、それはまあいい」
マドガンは、左手に持った杖をトスナルの方に突きつけた。
「お前、迷っておるじゃろ」
トスナルは、ギクリと目を見開くとマドガンを見つめた。
「図星じゃな。わしは何でもお見通しじゃぞ」
ふんぞり返る、マドガン。
「その通りです、マドガン導師。今、ある事件の捜査をしておりまして、犯人とその手口について、判断を迷っているんです」
俯きながら弱々しい声で話す、トスナル。
「なるほど。じゃあ、わしにその事件と今のところの手掛かりについて、話してくれるかな? おっと、その前に……茶を一杯入れてくれると有難いのう」
「は、はあ」
トスナルは、軽く顎をつき出して、気のない返事。それから、おもむろに模様替えで訳のわからなくなった台所に向かうと、どっしゃんがっしゃん、食器や鍋釜をひっくり返し、何とか湯飲みと急須を探し出した。
こぽこぽこぽ……
やっとのことでお茶を入れ、マドガンに湯飲みを差し出すトスナル。
ずずずっずずっ
マドガンは、お茶を啜って満足そうに微笑んだ。
「それでは、話をしてくれるかの」
トスナルは、こくりと一度小さく頷き、ポツリポツリ、話を始めた。
「魔法じゃな。魔法の臭いがする」
話を聞き終わり、お茶をゆっくりと飲み干すと、マドガンは云った。
「魔法……ですか?」
「そうじゃ。何故なら、お前が白い壁の正体を明かす魔法を掛けたとき、何も起こらなかったじゃろ」
「その通りです」
「魔法を打ち破れる力――。それは、魔法以外にない」
真っ白で長い眉毛が覆い被さった師匠の目が、微かに開いた。
「――もしかして、暗魔団?」
トスナルの目が、キリッと鋭くマドガンを見つめた。
「……恐らく、そうじゃろ。お前には、イヤな話じゃろうがな」
お茶を啜ろうとする、マドガン。しかし、お茶はもう無かった。
「まあ、とにかく考えてみることじゃ。三人のうち誰かが、暗魔団の手先であることは間違いあるまい」
マドガンは空になった湯飲みをトスナルに突き出し、御代りをもらおうとした。
しかし、トスナルは湯飲みに目もくれず、考え込んでいる。
しぶしぶ湯飲みを引っこめる、マドガン。
「では、お茶もなくなったし、帰るとするかな」
マドガンはトスナルには通じないイヤミを云いながら、どっこいしょと立ち上がった。トスナルは、それでもまだ、考え中。ピンク色の壁を穴の開くほど見つめ続けている。
「ああ、そうそう。云い忘れたが、この事件のカギはクモが握っておるぞ」
「クモですか?」
トスナルが漸く口を開き、マドガンの顔を見る。
「そう、八本足のクモじゃ。現場で出たんじゃろ?」
「どうして、そう思われるのです?」
「どうしてじゃとぉ?」
それを聞いたマドガンは、急にプンプンと怒り出した。
「カンじゃよ、カン。わしの魔導師としてのカンじゃ。何か不服か?」
「い、いえ、滅相もございません――」
首をブンブンと振って否定するトスナルを余所に、マドガンは右手を高く突き上げた。
「それじゃ頑張れよ。わしは帰るからの――。とはいっても、場所は秘密じゃがな……。ボビアス、ポレティーア!」
マドガンは、ボン、という音と同時に広がった白い煙とともに、一瞬で消え去った。
「あーあ、行っちゃったよ……。もう少し教えてくれても良かったのになぁ……。あーっ、師匠、杖を忘れてった!」
トスナルは、ソファーに立て掛けられた、いかにも古そうで黒光りする木の杖を取り上げた。
「まあ、いっか。また何時か来るだろ。届けようにも、何処にいるか分からないし」
トスナルは、小さな溜息をついて、杖を台所の棚の中にしまい込んだ。
「相変わらず忘れ物は多いみたいだね、ウチの師匠……。ちっとも変わってないや」
目を瞑り、深々とソファーに倒れ込んだトスナルは、何やら考え始めた。
「暗魔団に、クモ……か」
久しぶりに、一人っきりの探偵事務所。その外では、すっかり日も暮れて、街灯がチカチカと灯り始めていた。