2 探偵秘書
魔女より怖い女が事務所で暴れた次の日も、よく晴れた暑い日だった。
風がちっとも通らない昼下がりの部屋の中では、いつもと同じように、黒ローブの男と黒い猫が、ソファーでぐったりとしている。
「オマエ、その黒い服、暑苦しいぞ。爽やかな色の半袖ローブとかないのかよ?」
クンネは長い尻尾でパタパタと風を顔に送りながら、云った。
「ある訳ないだろ。魔法使いの服は、これって決まっているんだから。クンネこそ、黒い毛が暑苦しいな。刈り取って、涼しい水色にでも塗ってやろうか?」
「ヤ、ヤメロー」
トスナルにぐいっと毛を引っ張られたクンネは、ギャアギャアとわめき散らしながら、トスナルの左腕に咬みついた。
「イッテエ!」
とそのとき、入り口のドアがバタン、と閉まる音がした。クンネが、歯をトスナルの腕に突き刺したまま、ドアの方を見遣る。
そこにいたのは、うすい青のスーツを着こなし、スラリと立った女性。シルクの艶々した白い帽子を深々と被っているため、その顔は見えなかった。
「い、いらっしゃい!」
クンネは、トスナルの腕に食い込んだ歯を急いで抜き、ぴょんとテーブルの上に跳び乗った。
トスナルは咬まれた腕を抱えながら、ソファーの上で、のたうち回っている。
「よくもまあ、ケンカばかりするもんだわ」
白い帽子の奥からの、女の声。一人と一匹には、聞き覚えのある、声だった。
一瞬凍りつく、真夏の探偵事務所。トスナルはブルブルと寒さに震えた様になり、クンネはガチガチと音をたてるようにして歯を何回も噛みあわせた。
「た、田中、京子さ……ん?」
青いスーツの女が、はらりと帽子を取る。それは、忘れもしない、あの顔だった。美人だが、目の奥にまるでバラのトゲのような冷たさが漂う女、田中京子。
トスナルが、バネのように跳ね起きてソファーの裏に隠れ、クンネがソファーの下に、一目散に潜り込む。まさに、目にも止まらぬ速さだ。
「きょ、今日は、どのようなご用件で?」
ソファーの陰から、声を絞り出すように、トスナルが云った。
「用件? 簡単よ。私、今日からここの秘書としてお世話になることにしたの」
「きょ、うから、おせ、わになる?」
しばらくの間、事務所は静まりかえって物音一つしなかった。
しびれを切らした京子が、口を開く。
「ちょっとお。あんたたち、いつまで隠れてんのよ」
「か、隠れてなんかいませんよ。ボクらは、いつもこんな感じです。なあ、クンネ」
「お、おう。そうでございます」
「ふーん……。でも、早く出てこないと、また暴れるわよ。それでもいいの?」
京子は、ソファーの隅を両手で挟み、それを持ち上げようとした。
「ああ、それだけはやめて! わかりました、わかりましたから!」
一人の黒服の男と一匹の黒猫が、ソファーの上で背すじをピンと伸ばし、並んで座った。瞬き一つしない姿は、まるでカチンと凍りついた氷の彫像のようである。
京子は、事務机の椅子にどっかと座り、氷の固まりと化した一人と一匹を見下ろした。
「ということでぇ、私が今日からこの事務所の秘書になります」
「は、はい」
「有難いでしょ? これでも私、有名な女子大の秘書科の卒業なのよ」
「はあ……それはそれは」
「素敵よねぇ。こんな美人がいれば」
「ええ? まあ、そうですね……」
「そうでしょう、そうでしょう。昨日、ここに来て思ったのよ。『ああ、こんなしょぼくれた小汚い探偵事務所に、私みたいに優秀で、花のように綺麗な秘書がいれば、どんなにかここが華やぐだろうか』ってね。そしたら……」
「あのう――楽しいお話の途中、誠に申し訳ありませんが!」
延々と続きそうな京子の話を遮るように、トスナルが声を張りあげた。
「んもう、今、話の良いところだったのにぃ……。何よ?」
「えーと、今までおっしゃったのは、全部、ご冗談なんですよね?」
「冗談? ばっかねえ、そんな訳ないでしょ。この格好、見てよ! どう見たって、働く女の格好よ。それとも何? 何か文句あるわけ?」
「い、いえ。滅相も御座いません。ただ、私には、田中さんにお給料をお支払いできるような、そんな余裕はありませんが……」
「なに、やあねぇ。そんなこと?」
京子は口に手を当てると、オホホホ、といやに上品な笑い方をした。
「私、お金になんて、興味ないわよ。あるのは、『おもしろそう』ってことだけ。だから、給料なんて要らないわ」
顔を見合わせ、大きくため息をついたトスナルたち。それには御構いなく、京子はやたら楽しそうに、弾けた笑顔で話し出す。
「じゃあ面接も済んだし、これで決まりね。働く時間は――十時半から午後三時ということで。だって私、早く起きれないし、長く働くと倒れちゃうし……。あ、それから、私の呼び方は『田中さん』じゃなくて『京子さん』ってことにしてもらえる? 堅苦しいの嫌いだから」
「ああ、もう、お好きにどうぞ」
トスナルが、半分ヤケになる。
それを聞いた京子は、益々楽しそうに笑うと、
「良かった。あっ、そうそう。私、クンネちゃんに『おみやげ』があったの」
と、云い出した。
「お・み・や・げ?」
クンネが、急に両耳をピンと立て、鋭い視線で京子を見つめる。
「そうよ。はい、これ」
京子は、どこかの有名デパートの紙袋を、ぽんとテーブルの上に載せた。
ソファーからぴょんとテーブルの上に跳び上がり、紙袋の中をオソルオソル覗き込んだクンネ。
「やや、何と!」
クンネの両眼が、眩しいほどの銀色の光に包まれた。
「こ、これは、国産タラバガニを贅沢に使った、高級カニ缶! しかも、一流メーカー、『北の国缶詰』のブランド物!」
缶詰に詳しいクンネが、一気にまくし立てた。滅多に御目にかかれないカニ缶は、クンネの大好物。クンネはトスナルにカニ缶を開けさせ、貪りつくように、あっという間に三缶を平らげた。
「まるで、夢のようだ」
お腹をポンポコリンに膨らませ、まだ紙袋の中にぎっしりとつまったカニ缶を眺めながら、クンネはうっとりとろける目をして云った。
「こんな物なら、うちにいくらでもあるわ。また、持って来てあげる」
「……。いい人じゃないか」
クンネは京子の膝の上に飛び乗って丸まると、甘えたような声で、ニャアと鳴いた。
「さっきまで、一緒に怯えてたくせに……。この、裏切り者」
口をとんがらせて呟く、トスナル。
「何だって?」
京子とクンネが、口をそろえて怒りだした。
「い、いえ。何でもありません」
トスナルが、慌てて背中を丸める。
と、そのときだった。
タンタン、タンタン
事務所に響く、ドアのノック音。
「そうか、ドアってノックするものだったんだ。最近聞かなかったから、忘れてたよ」
「ふん。そんなこといいから、とっとと返事しなさいよ」
京子は、ニヤつくトスナルをキリリとにらみつけた。
「はい。どうぞ、お入りください」
トスナルは、京子に見えないように黒いフードの奥で、べろりと舌を出した。