青紫の月夜に
―雨が降ってるのに、お月さんがよく見える夜は、出会う人に気をつけるんだよ…『こっち側』にいない人も見えてしまうからね―
よく、おばあちゃんが言ってたっけ…
でも、生まれてから十九年の間、一度もそんな夜はこなかった。だから、そんな言葉もすっかり忘れてたんだ―
もう7月なのに、朝から降り続いている雨のせいでなんか肌寒かった。
夜空を見上げたら、青紫の月が綺麗で、顔が濡れるのも構わずに月を見続けていたんだ…
終電間近の駅前。電車をあきらめた人たちはタクシー乗り場に並んでる。僕みたいに歩いて帰れる人たちは、皆足早に去っていく。
僕は何となく帰る気にもなれなくて、月を見ていたんだ…
「風邪、ひいちゃうよ?」
澄んだ、というよりも、透明感のある声。雨の降る音に混じらないその声が僕を現実に引き戻した。
「えっ?あぁ、月が綺麗だったから、つい…」
何故か、自然に答える僕。知らない人、だよね…?
彼女は、そのまま僕の横に立って、空を見上げてる。僕よりも少し年上かな?かなりの美人。っていうか、すごく、『キレイ』なひと…そう、『綺麗』じゃなくて『キレイ』。
雑誌やテレビに出てるような『観せる』顔じゃなくて『魅せる』顔。
僕は、生まれて初めて『一目惚れ』という言葉の意味を理解した。
「キレイだね…」
言ってしまってから、自分の顔が真っ赤になっていくのが分かる。
『ホントに綺麗だね、あんな色の月、初めて見た。』
どうやら、僕の言葉を勘違いしてくれたらしい。それから少し、いや、かなりなのかな?僕たちは月を見ていたんだ。
「マキ。」
「えっ?」
「私の名前。マキっていうの。キミは?」
唐突な自己紹介。僕は少し困惑しながら
「タクミっていいます。」
マキが、小さく笑った。
「何でいきなり敬語になるかなぁ?」
だって、僕よりも年上じゃん…
マキには、僕の心の中のツッコミが分かったらしく、
「多分、正解。私は23歳。タクミはまだハタチ前だよね?」
うっ、鋭い…でも、悪い気はしないな。あ、その笑顔ヤバいよ?これってマジ恋寸前かも…なんて、考えこんでしまう僕。
「うわわっ!?」
いきなり、マキの顔が目の前に迫っていた。
「タ〜ク〜ミくん?顔が真っ赤だぞ〜?」
甘い息がかかる距離で、いたずらっぽい笑顔。こんなの、反則だよ…これで恋に落ちなかったら、ホモ確定だって…
あれ?でも…なんか懐かしい感じがするな?
うーん、思い出せないや…はっ!今はそれどころじゃないよね…
なんかモヤモヤしたまま、僕は月を見てた。だんだん色が濃くなっていく月。吸い込まれそうな青紫―
唐突に、マキが口をひらあた。
「ねぇ、歩かない?」
マキがそう言って、返事も聞かずに歩きだす。僕も慌てて後に続く。やがて、ふたつの傘が並ぶと。
「変わったなぁ、この辺りも…少し前までは街灯も無かったのに」
マキは僕に、というよりも自分に向かって呟いた。
でもこの道、かなり前から街灯あった筈だけど…一体いつの話だろう…?
「ねえ、タクミ。この公園、知ってる?」
暫らく歩いて、右側に見える公園を見てマキが訊ねた。あれ?この公園、少し前に無くなってマンションになったよね?何でここにあるんだろう…?
「私、一緒によく来てたんだ…」
遠い目をして話すマキ。誰だろう…少なくとも、僕じゃない、誰か。あれ?何で胸が痛いんだろ?僕…
「ん?ひょっとして、ヤキモチかな?そんな顔しないでよ、相手は小さな男の子なんだから。」
くすくすと笑いながら、辺りを見渡すマキ。人気の無い、夜の公園。かなり弱くなった雨音と、ふたつの足音だけが聞こえる。
僕も、この公園には思い出がある。小さな、ホントに小さな頃によく来てた。
そう、一緒に…誰と?どうしても思い出せない…
思い出しちゃいけない。そんな声が頭の中に響く。どうして?とっても大切な事の筈なのに…?
あ、何か頭が痛くなってきた…どうしよう、立ってられない…
頭を押さえてしゃがみこんだ僕に構わず、マキは喋り続けてる。
「すぐ近くに住んでたから、よく遊びに来たんだ…その子の手をひいて、私もまだ小さかったんだ」
顔は僕に向いてるけど、その瞳には僕を映していないマキ。
「その男の子、あ、もう男の人か…今はどうしてるの?」
何気ない僕の質問に、マキの表情が曇るのが分かった…僕、まずい事聞いちゃったのかなぁ…?
「今は…眠ってる。」
それでもマキは答えてくれた。…まぁ、こんな夜中なら、普通は寝てるよね。
「違うの、起きないの、ずっと…」
え?それって?いつの間にか頭痛は消えていて、僕はまた立ち上がっていた。
あれ?また頭の奧が痛くなってきた…
「あ、月が見えなくなりそうだよ…」
不意にマキが空を見上げて呟いた。何か焦ってるみたい…?
「時間、無いなぁ。タクミ、思い出して?私を、そしてあなたを…」
え?思い出す…?困って、月を見上げたら、月の色が変わっていた。真っ赤だ。血のような…目の前が真っ赤になる。あの時みたいに…あの時…?
「ねえちゃん…」
かすれた声と共に涙が流れた。小さな頃に死んだ姉。近所の公園で事故にあって…そう、僕をかばって、血の海の中で、それでも笑って…
『タクちゃん、どこも痛くない?』
って言ってくれて…
「思い出したよ、真雪ねえちゃん…」
『まゆき』って言えなくて自分のことを『マキ』って呼んでた。公園から帰る時にトラックにはねられそうになって、ねえちゃんが…僕をかばって…
「ずっと居たの?この公園に、ずっと…?」
マキ…ねえちゃんは笑って頷いた。
「うん。幽霊も大人になれるんだって思わなかったよ。不思議だよね?」
そうか、ねえちゃんはずっと僕を見ていたんだ。あの日から、ずっと…
下から顔を見上げてた時に感じた懐かしさ。ねえちゃんがよくやってたな…ん?そういえば…
「“僕を”思い出すって云われてもなぁ?ねえちゃん、どういう事?」
また曇る表情。一体、僕の何を思い出せっていうのかなぁ?
「さっき言ったよね?起きないって…」
僕が?起きない?ずっと?それって変だよ、だって僕此処にいるし…
そう思いながら足元を見たら、気付いちゃった。僕には影が無い。つまりこれって……
「僕も、“こっち側”じゃないんだ…?」
「半分正解。もう少し思い出してみて…?」
えっ?確か、バイトの帰り道で、公園のあった辺りで…とばしてた車に……!?
「そう。だけど、まだ身体は生きてるの。今ならまだ戻れる。」
そうか、ねえちゃんは僕を迎えに来て…?それとも『こっち側』に戻しに来た?どっちなんだろう?
「どっちとも言えない。タクミの気持ち次第かな?」
それって、すごく困る答えだよね…
「そう?まだやりたい事や心残りがあるなら、戻ればいいし、もういいや、と思うなら一緒に逝くよ。」
もし、戻るとしたら…?
「戻るなら、私だけ逝くから、此処で最後の、ホントのお別れになるね。」
悲しい筈なのに、笑顔で話している。僕は、悲しい笑顔というものを初めて見た…
「皆は今どうしてるかな?僕の近くにいるの…?」
母さんや父さんはどうしてるだろう?ふと気になったんだ…
「見に行ってみる?」
その声に頷きながら、僕は空気が凍りつくような感覚を感じた。
周りの景色がぼやけて溶けていく…溶けて交ざって、白くなる…白く、白く…