分けられた寝室
†
朝、なかなか侍女が来ないのでヒルデガルトは自分で髪を編み、結い上げた。
生家が貴族とは云え、豊かな暮らしは出来ず、使用人の数も限られていたので自分の身繕いは手慣れたものだ。
朝の支度が済むと、隣の寝台でまだ眠っている王子を見やる。誠に、寝顔だけ見れば天使のような美しさなのに。その黄金の髪も陶器のような肌も内には邪なものを宿しているように見えた。
王子を起こさぬようにと云うよりは、王子の内に巣食う邪悪なものに気付かれぬようにそっと寝室を出た。
王子の父である王に、朝の挨拶と、少しばかりの頼み事をする為に。
「王子と寝室を別にして欲しいと申すか?」
王はヒルデガルトの頼み事を驚くでもなく、怒るでもなく静かに聞き返す。心無しかこの申し出を予感していたかのように。
「勿論、世継ぎを作ると云う役目はいづれ果たします。しかしこのままでは王子の心は離れるばかり、少し距離を置きとうございます」
「そなたと王子の仲の事は女官達に訊いて知っていた……全く、無理を云ってこの城に来て貰ったのに申し訳ない」
そう云うと王は金の冠が重いかのように項垂れ、頭を抱える。その姿からはいつもの威厳は微塵も感じられない。
「ご安心くださいませ義父上、このヒルデガルト、逃げるような事はいたしませぬ。いつの日かきっと、立派な世継ぎを産んでみせましょう」
ヒルデガルトがそう云うと、王の顔に光りが差した。
「おお、何と云う頼もしい娘よ。王子にもそなたのような心の強さが備わっていればあのような事には……そなたの申し出、承知致そう。これからも王子を宜しく頼むぞ」
そうは云ったものの、ヒルデガルトには何の策も無かった。寝室を別にして欲しいと云うのは単に自分の我が儘で、世継ぎなどこのままでは永遠に望めない。事実、嫁いでひと月は経つがヒルデガルトは生娘のままだったのだ。
一生、あの冷たい変わり者の王子を添い遂げる事を思うと気が重くなった。しかし、王をはじめ城の者は皆、ヒルデガルトに善くしてくれていた。逃げ出さぬのはその礼のつもりであった。
寝室を別にする支度を城の者共がしていても王子は別に気にする風でもなく窓の外を眺めていた。
「これで貴方様も清々して眠れる事でしょう」
ヒルデガルトの皮肉に、やっと口を開いた王子は
「余が好かぬのなら、このような回りくどい事をせずにさっさと城から出て行けば良いであろう」
毒には毒で返す。しかしその毒はいつもより心無しか薄い。
「“好かぬ”? 貴方様が私を嫌っておいでなのでしょう? ええ、ええ、嫌いですとも。貴方様の様に意地の悪い方は見たことがございませんから」
さて、どんな毒が返って来るかと身構えるも、王子はまた窓の方を向き、そのまま黙っている。
ヒルデガルトは拍子抜けしたと云うより、不気味に感じた。
「そう云えば、私の侍女をどうしたのです?いくら私が嫌いだとて、仕えるものにまで厭がらせはお止めくださいませ」
そうだ、朝から気になっていた侍女の行方。きっと王子が暇を出したか、考えたくも無い事だが首を刎ねたかのどちらかだろうとヒルデガルトは切り出した。
「侍女?」意外にも王子は反応し、再びヒルデガルトと目を合わせた。
「余は知らぬ」
「まあ、ヴェロアの王子様は意地が悪いだけでなく嘘つきですのね」
王子は何か言いたげだったが、ヒルデガルトはその言葉が王子の口から出る前に、寝室から出て行った。
新しく設えたヒルデガルトの寝室は、それまでのものより狭かったが彼女は満足した。何より自分を嫌っている者のすぐ隣で眠らなくて済む。
城に来てから初めての解放感を感じ、窓から吹き込む風にあたっていると、扉を叩くものが居た。
無理矢理話を切り上げたので、気分の収まらない王子が来たのかと思ったが、そうではない。
「ヒルデガルト様」
扉の向こうから聞こえたのは行方をくらましていた侍女の声だった。
王子に追い出された訳でも、首を刎ねられた訳でも無い事を知り、王子を嘘つき呼ばわりした罪悪感に駆られたが、心底安心した。
「まあ、あなた、今まで何処へ行ってたの?お陰で私は自分で髪を結わなければならなかったわ」
そう云いながら扉を開ける。すると其処には大判の肩掛けを頭からすっぽり被り、顔に巻き付け、目だけ出した侍女が居た。
ヒルデガルトがその姿の異様さに絶句していると彼女は云った。
「ヒルデガルト様、どうか城からお逃げください」
肩掛けの間から見える目は、何かの痛みに耐えているように険しく、その発する言葉は苦しみを帯びていた。
「どうしたの? 具合でも……」
具合でも悪いのかと、ヒルデガルトが侍女の肩に手を触れようとしたその時だった。
侍女の身体から奇妙な音がして、頭から被っていた肩掛けも、着ていた衣服も弾け飛び、侍女が居たその場所には……
ヒルデガルトは声にならない悲鳴を上げた。
其処に居たのは侍女でも、否、人間ですら無い、黒く禍々しい化け物だったからだ。
凄まじい恐怖が見えない鎖となり、ヒルデガルトの自由を奪う。
目の前の侍女……否、侍女だった筈の化け物は、その醜悪な前足でヒルデガルトの腕を掴み、鰐のような鋭い牙の並ぶ巨大な口を開けた。
障気を含む息と唾液。
―喰われてしまうのだ―
ヒルデガルトは齢十六にしてこのような化け物の餌食となる自分の身を嘆いた。
無論、嘆いたと云ってもやはり、涙も声も出ず、ただ凍ったように立ち尽くしていのだが。
せめて自分を噛み砕く化け物の口を見ぬ様にと、渾身の力を込めて目蓋を閉じるしか無かった。
―誰か、助けて―
祈った。祈るしかなかった。たとえ誰かが助けに来ても自分と一緒に化け物の餌食になるだけだ。
目を固く瞑っていると、自分の腕に何かの衝撃が伝わった。
おそるおそる目を開いて見ると、其処に居た筈の化け物が居なくなっていた。
しかし、自分はまだ何者かに腕を掴まれている。あの化け物の醜い前足に。
化け物の首から上だけが無くなったのだ。
やがて、化け物の前足が力を失い、その身体が崩れ落ちると、背後に姿勢を低くして剣を構えた王子の姿があった。
「だから、早く出て行けと云ったであろう!」
……だから?
……王子はこの化け物の存在を知っていたのか?
恐怖と安堵、感謝と嫌悪。様々な感情と感覚が混乱し、ヒルデガルトはそのまま気を失った。