契約
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年老いた門番は城門の向こうに佇む者を見て、まるで幽霊でも現れたかのように蒼ざめ、何か云いたげに口を開くが言葉は凍り付き、小刻みに震えるだけだった。
すっくと立った長身に襤褸を纏い、端整な顔を縁取る黄金の髪は後光のように風になびく。海のような深い碧い眼は、門番やエルヴィンやミルラを通り越し、城の内部を凝視していた。
ミルラは、その者が纏う襤褸で、崖から落ちた時に助けてくれた者だ。と確信した。このように美しい若者だとは。きっと彼は神の御使いと呼ばれる者に違いない。あの襤褸は背中の輝く翼を隠す為のものに違いないとさえ思った。しかし。
「城主が戻って来たと云うに何をしておる。早く湯浴みの準備をし、余の衣を持て」
その者が吐いたのは天上の歌などではなく実に横柄な言葉だった。
ミルラはエルヴィンを見た。彼の口許は硬く閉じ、怒りとも畏敬ともつかぬ感情を押し殺しているように見える。
――怖い――
ジルに捨てられた悲しみの涙は枯れ、言い様のない恐ろしさを感じていた。
持って産まれた王族の威厳と、眼には見えない何かが、恐ろしくて堪らない。
やっと、エルヴィンが口を開き
「父上、お帰りなさいまし」と云うと門番は転がるように城内に走り込みヴェロア城主べリアルの帰還を声を張り上げて伝えた。
数十年の間仕舞い込まれていた装束はいささか黴臭くはあったが、退色も劣化もしておらず、湯浴みを終え香油の香りの漂うべリアルの体に城の女達の手によって着付けられた。
最後に、雪豹の縁取りのある緋色のマントを羽織り、黄金の王冠を被り、長いこと主を待っていた玉座に座って肘をついた姿勢でべリアルは「ヒルデガルトを呼べ」と云う。
「王妃様は病の身ゆえ、此処に歩いて来るのは叶いませぬ」そう告げる女官の背後で
「妾は此処じゃ」と声がした。
歩くのも困難な筈のヒルデガルトは黒檀の杖をつきながらも昔と同じ様子で背筋を真っ直ぐに伸ばして其処に居た。
「ヒルデガルトか、そなたも婆になりおって」
頬杖を付きながらべリアルが云うと、ヒルデガルトは口の片方だけを上げて微笑んだ。
「幸いな事に、妾の人生はもうじき終わろうとしておる。この数十年、貴方様の代わりを努めるのは大変な難儀であった。そこで」ヒルデガルトがそこまで云うと、顔は動かさずエルヴィンの方を横目で見やる。
「この王妃ヒルデガルト、王から褒美を頂戴したく思う」
べリアルも、周りに居た城の者もヒルデガルトのこの言葉に驚いた。財宝ならべリアル不在の間に自由に使えただろうに。およそ着飾る事の興味も無く、物欲も無いと思われて来たこの王妃の欲しいものとは一体何なのだろう? とどよめきが起こる。
「そなたが物をねだるとは珍しい。良い、申してみよ、何が所望だ? 首飾りか? 指環か? どれでも余が極上のものを用意致そう」
ヒルデガルトはその言葉を聞くと、灰色の瞳でべリアルを見据え、低く、良く通る声でゆっくりと云った。
「妾が欲しいものは“王位”じゃ、エルヴィンに王位を渡しそして、未来永劫貴方様がこの城に近付かぬ事、それを所望する」
城中が聞こえぬ悲鳴を上げている様に思えた。つまりはべリアルを王族から追放すると云う事だ。そのような事を云えば首を斬られても仕方が無い。しかし。
「ふむ……」
べリアルは暫く考えた後、側に控えていた者に羊皮紙と筆記具を用意させた。
そして、それに何やら美しい字で書き込み、親指の先を噛み切ると血判を押し、ヒルデガルトに手渡した。上等な羊皮紙に血判とは、これは公式の契約書であることを示す。
それにはこう記されていた。
余の首を獲った者に王位を譲る。
べリアル・フォン・ヴェロア
……と。




