背後の黒い影
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夏の日差しが水面に反射し眼に刺さるような光りを投げ掛けても、友が小魚を掬い上げて自慢気に見せても、エルヴィンは上の空だった。
今まで考えた事もなかった自分の父の事で自然に頭の中が一杯になるのを止められない。
「ヤン」
やおらエルヴィンは一番そばにいて小魚の群れを目で追っている友に声をかける。
一瞬気が散り、川面の乱反射の中に獲物を見失った彼は舌打ちしたが、いつもとは違うエルヴィンの様子を見て川から上がった。
「何?」
「ヤンの父ちゃんってどんな感じだ?」
いきなり何を云いだすのだろう?と、ヤンと呼ばれた少年は怪訝な顔をしたが、エルヴィンに父親が居ない事を思い出すと
「酒飲みだ」
と、答えた。
しかし、ドワーフの男は殆ど酒飲みだ。これは答えになっていない。
自分の訊き方が悪かったのか? と思ったエルヴィンはもう一度訊いた。
「父ちゃん好きか?」
「うん、好きだよ。怒ると恐いけど好きだよ」
「母ちゃんとどっちが好き?」
「同じくらいかな」
結局、何を訊きたいのか自分でも解らなくなってその話は止めた。子供故の語彙不足、それだけでなくエルヴィン本人も昨日から色々な事が在りすぎて混乱していたのだ。
「俺、帰る」
遊ぶどころではなくなり、そう告げると濡れた裸足のまま家へ向かった。
夏草を踏みながらその青い匂いを嗅ぎ、素足に触れる草の感触と、たまに小さな虫を踏み潰す厭な感触と、そんなものを感じながら歩いていると自分の遥か後方で草を踏む音がする。
ヤンが追って来たのかと思った。あの少年はああ見えて優しいところがある。様子の冴えない友を心配して追いかけて来たのかと……だが違った。
それはヤンでも、一緒に小川で遊んでいた子供達の誰でもなかった。
否、ドワーフですらなかった。
ならば人間?
風上から匂うそれは人間のものともまた違う。
エルヴィンは背筋に冷たい汗が這うのを感じた。
―逃げなきゃ―
禍々しい気配。このままでは無事に家にたどり着く事が出来なくなるかもしれない危惧。
一気に走り出すが早いか背後の“それ”も一緒に駆け出した。
言い様の無い恐怖で上手く走る事が出来ない。
ちらりと振り返ると黒いものが追いかけて来るのが解った。それはエルヴィンが生まれてからこれまで見た事も無いような禍々しい気配を発していた。
そして、激痛。あのヒルデガルトの従者に腕を切られた時とは比べようも無い程の激痛で頭が真っ白になった。
「おのれ!間に合わなかったか!」
ふいに、背の高い青い影が何処からともなく躍り出て、禍々しい黒いものと戦っているのが見えたが、その時にはもうエルヴィンの口からは夥しい血が溢れ、意識は薄れつつあった。