王女の願い
†
漆黒の醜悪な蜥蜴の化け物は、瘴気を含んだ息を吐きながら威嚇するが、なかなか襲って来ない。
エルヴィンは手首に嵌めていたあの赤い石の腕輪を掴んだ。それは少しばかりの熱を持ち、見ると、災いを為す者に反応しているのか内側から微かな光を放っているのが見てとれた。
……やはり、ミルラが一人助かったのはこの石のお蔭だったのだ……
「師範、ジル、俺のところへ!」
石の側に居れば安全だ。そう思い、皆を呼び寄せる。
敵は、あの第三王女の成れの果て一体のみだ。しかし、眷族が隠れているかもしれない。アズウェル王や側近の美女達も、いつ変化して襲って来るか解らない。
ラインハルトが雷玉の合図を聞き付け、援軍を呼びに行ったとて、此処にたどり着くまでの時間はかなり有る。
それまで三人、どうする事も出来ずに赤い石に寄り添い、身動き出来ずに居るのも歯痒く、そして恐ろしい。
先程まで饒舌に語っていたアズウェル王は張り付いた様な笑顔を浮かべ黙り、動かずに居た。側近の美女達も同様に。
窓から見える街の景色も、人間が一人も居ない。やはり、あれは幻惑だったのだ。
「サヴラ王女」ふと、エルヴィンは森での出来事を思い出した。
名を呼ぶとほんのひととき、あの化け物は人間の姿と心を取り戻した。
それがどういう意味か分からぬが、“名前を呼ぶ”と言う行為自体が一種の退魔効果をもたらすのかもしれない。
その思惑が当たったらしく、化け物の口から吐かれる瘴気が消え、邪悪な黒光りする皮膚はみるみる人間の肌に変わり、避けた口はしぼみ、可憐な乙女の野苺の如き唇となった。
「サヴラ王女、我等を殺めても貴女の思いは遂げられない筈だ。べリアル王の居場所はヴェロアの者ですら誰も知らない。何故、こんな事をする? 何故アズウェルの民を殺した?」
エルヴィンが半ば早口で訊く、そうだ、またいつ化け物に戻るか判らない。だから、極力時間を無駄にはしたくないのだ。
それを訊くや否やサヴラは黒曜石の瞳から真珠のような涙をこぼす。
「ああ、あれは悪い夢ではなかったのですね? 夢なら良いと何度思った事か。私は怪物の眼を通して民が死に行く様を見ておりました。何故、あんな事をしたのか私にも判らないのです。怪物になっている間、私は、私の意志で動く事が出来ないのです」
涙で声を詰まらせながらも、王女は悲痛な胸の内を語る。
「ただひとつ、怪物になった私と今の私の考えが一致するならば“べリアルに会いたい”と云う事でしょう」
怪物はべリアルを喰らう為に。
王女は、ただ会ってその顔を見、声を聞く為に。
また、サヴラの変化が始まる。
骨が軋み、肉の裂ける音がする。
最後に彼女は
「その願いが叶わぬのなら、どうぞ私を殺してください」
と、確かに云った。




