曲者の正体
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ヒルデガルトが、急に力を失った“それ”から逃れると、青ざめた顔で凍った目を見開いたミルラが震えていて、その小さな手は血塗れになっているのを見た。
先程までヒルデガルトの喉笛を咬み千切ろうとしていた“野獣”は鋏の柄がまるで背中から生えているよに見え、息も絶え絶えにその痛みに耐えている。
城の者を呼ぼうとしたが、その“野獣”の顔を見るなりヒルデガルトは未だ震えの止まらぬミルラを引き入れ、部屋の扉を閉める。
「なんと云う事じゃ」
低い声で呟くと、ミルラの血塗れの手を刺繍の施された手拭き布で拭い、彼女を抱き締めた。
「よい、そなたは曲者を退治した勇敢な子供じゃ、何も案ずる事は無い」
ヒルデガルトが賛辞しているだけではない事は、ミルラにも解った。
何か、何か取り返しのつかない事になったのだ。そしてそれを決定的にしたのは他でも無い自分の行動ではないのか?
もしかして出過ぎた真似をしてしまったのか? しかし、自分がこうしなければ、年老いた王妃はどうなっていたか解らない。
ミルラは恐ろしさを堪えてヒルデガルトの腕の隙間から、声にならない声で呻いている“曲者”を見やる
酷く長い被毛だと思ったのは煤に汚れた髪の毛で、同じく煤で真っ黒になった顔は、いつぞやに城の何処かで見た壁に配した石像にそっくりだった。
あの石像が魔法でも掛けられ、動きだし、王妃を襲ったのか。そう思った程だったが、ヒルデガルトはミルラの血を拭ってやった同じ布でその“曲者”の顔を拭ってやっていた。
煤が拭われ現れたのは人間の肌だ。
人間の、女の肌だ。
子供であるミルラよりも低い背丈であるにも関わらず、乳房が重そうに衣の下でたわんでいる成熟した躰を持った女だ。
年老いた王妃は眉間に皺を寄せ、怒りとも悲しみとも哀れみともつかぬ表情で、その者の煤を拭い続けていた。
「王妃さま……」
ミルラにはもう王妃が助かったと云う安堵より、不安に押し潰されそうになり、どうして良いか解らなかった。この小さな野獣のような女はなんなのだ?
何故王妃は、大切なものの様にこの女の煤を拭ってやっているのか?
ふと、その手を止め、年老いた王妃は異国の子供を見据え、こう云った。
「良いか、そなたは何もしなかった。何も見なかった。誰ぞに問われたらそう答えるが良い。よいな?」
灰色の眼は、“約束を違えたら恐ろしい事が起こる”と無言で脅しているようで、ミルラはただ頷くしかない。
すっかり血を拭き取られた彼女は自室へ行き休むよう云われ、出ていこうとしたその時、王妃が野獣のような女に向かい、こう云っているのを聞いた。
「そなた、なんと云う事をしでかしたのじゃ……マルガレーテよ」




