決意
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「戦が起こると云うのは本当なのですか?」
朝食の席で珍しく自分から話したエルヴィンに、ヒルデガルトはその氷のような色の瞳を向けた。
「戦にならぬよう努めてはおるが」
元々痩身のヒルデガルトだったが、ここ最近更に痩せた。
無理も無い、王の失踪後からずっと、この国を治めて来たのは事実上この痩せた老女なのだから。
「アズウェルは何を要求しているのですか? 国土だってこの国より広いし気候も温暖だと聞きます」
「アズウェルは国獲りをしたい訳ではなかろう。国王を差し出せと云っておる」
「え……でも、王様は……」
「無論、王が行方知れずになった事は申した。しかし彼方はこの国が王を匿っていると思っておる。王はアズウェルでは“罪人”なのだ。居場所さえ知っているなら直ぐにでも差し出すものを」
最後、心なしか言葉が震えている。それは何か怒りに打ち震えている様な。
しかし、エルヴィンはこの言葉に黙ってはいられなかった。
「差し出す? 何故ですか? アズウェルとの間に何が在ったかは知りませんが、王は貴女の夫では無いですか! 愛してないんですか?」
珍しく語気荒いエルヴィンに驚いたヒルデガルトだったが、例の片方の口元を上げた笑みをこぼす。
「愛? 子供じゃと思っていたら、難しい言葉を使いよる。愛とは何なのか、この歳になっても妾は解らぬのに」
エルヴィンは背筋が寒くなった。“愛”とは何か知らない。それは、愛された事も愛した事も無いと云う事だ。“愛”が欠如した人間。それはどんな化け物より怖いと思った。
王の嫡子とは云え、自分とは血の繋がらぬドワーフとの混血児を城に迎えた心情も理解出来ない。
ヴェロア王族の血を絶やさぬように必死になっていたと云えばそれまでだが、エルヴィンは今迄ヒルデガルトにドワーフの血が混じっている事を悪く云われた事はない。
勿論、母のマルガレーテを敵視すると云う事も無い。
それはエルヴィンにとっては良いことなのだろうが、元々“愛”を知らなければ嫉妬も知らないだけの話では無いのかと今更ながらに思う。
形にならない不安と恐怖に押し潰されそうになり、何処かへ逃げたくて堪らなくなったエルヴィンはある事を決意する。
―村に帰ろう―
“黒い影”も勿論恐ろしいが、今恐ろしいのはこの老女だ。
幸い剣術の腕も上がり、自分を守る手立てはある。
戦が本当に始まってしまえば永遠に帰れなくなるかもしれない。
ホルトやカミル、気のいい老騎士達の顔が浮かんだが、それは生まれ故郷の思慕に勝らない。
翌朝早く、まだ日も昇らぬうちに、厩舎から馬を引き城を出た。
久し振りの城の外の空気はひんやりと心地好く、混沌とした頭を冷やすのに丁度良かった。




