偽りの母と新しい友人
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「剣術試合に出たそうじゃな」
朝食の席でヒルデガルトが云う。
てっきり彼女も観戦していたと思っていたエルヴィンは、あの不様な姿を見られずに済んだと少しばかり安堵した。
「はい……でも、一回戦で負けました」
おずおずと、自分の恥を晒し、所在無く茹でた燻製肉をむしる。どうもこの老婦人は苦手だ。基本的に食事は一緒に摂る事になっているが、その低く冷たい声で話し掛けられると咎められているようで身がすくむし、殆ど色の無いような限り無く灰色に近い青の瞳も寒々として厭だった。
「初めてであれば致し方ない。次に向け鍛練するがよい」
なのでこの慰めの言葉も何処か重く、次はそれなりの成績を修めないと承知しない。と云う意味に取ってしまう。
「はい……」
きっとこの、茹でた燻製肉も澄ましスープも美味なのだろう。しかし、エルヴィンにはどんな馳走も砂の塊を噛んでいるようにしか感じない。
「何が好みなのじゃ?」
ふいにヒルデガルトがエルヴィンに問うたが、余りに突然だったので意味が解らない。
「好みですか……?」
「妾には子が居らぬので子供の食の好みが判らぬ、食したいものがあれば遠慮せずに申せ」
ヒルデガルトはヒルデガルトでエルヴィンを気に掛けているのだ。しかし彼女に備わる威圧感が邪魔をして、それがエルヴィンに上手く伝わらない。
なので、次の言葉も鉛のようにエルヴィンの心を重くした。
「妾の事はこれからは母と呼ぶように」
朝の読み書き算術の習いを済ませ、剣術の稽古に行く足取りも重かった。
―俺の母ちゃんは一人だけだ―
ヒルデガルトを母と呼ぶ事は村に残して来た実の母との永遠の決別を意味するような、ともすれば自分がマルガレーテから生まれた事も無かった事にせよと云う“命令”のような気がしたのだ。
「エルヴィン?」
暗く沈み、城壁に凭れていると誰かが呼んだ。
見ると、十三、四の如何にも田舎者と云った風情の少年が、ソバカスだらけの顔で微笑んでいた。
自分より少し歳上らしいその少年の事をエルヴィンは知らない。
「誰?」と訊くと、
「もう忘れちゃったのか、打ち処が悪かったのかな? 頭は外して打ったつもりだったんだけど」
と云う、エルヴィンはやっとこの少年があの時の自分の対戦相手だった事に気付いた。
「ええっと……ホ?」
「ホルトだよ、“ホ”しか思いだせないのか? やっぱり、頭が……」
ホルトはそう云うとエルヴィンの頭を撫で回す。すっかり赤い髪がくしゃくしゃになり呆然とするエルヴィン。
「ぷっ、なんだその頭。面白れー!」
「お前がやったんだろ!」
自分より頭ひとつ分だけ背の高いホルトに掴みかかるが、それは本気の喧嘩ではなく、仔犬がじゃれあうような戯れの喧嘩だ。
「お前の頭もくしゃくしゃにしてやる」
「チビには無理だなー、手が届かないだろう」
村でもこんな風にヤンと取っ組み合いごっこをしたものだ。こんな楽しい感覚は久し振りだ。エルヴィンとホルトは、中々稽古に来ないのを不審に思い迎えに来たカミルに咎められるまでずっとじゃれ合い、笑っていた。
ホルトは他の城の者とは違い、エルヴィンを特別扱いせず、口調もまるで王族に対してのものでは無かった。
「あいつは本当に不作法者で……」と、他の者が云っていたが、エルヴィンにはそれが逆に嬉しかった。
不作法ではあるかもしれないが、エルヴィンを構い、城の事も教えてくれるこの少年を兄のように慕った。ホルトもまた、故郷を離れ、一人で騎士見習いとしてこの城に来たのだった。
善き友人、善き好敵手を得て、何とか故郷への思いが抑えられるようになったが、相変わらずヒルデガルトへの不信感は消えない。
あの老婦人が現れてから運命の歯車が狂いはじめた。
もしかしたら、自分を襲ったあの黒い影もヒルデガルトの企みのひとつでは無かったのかと思う程に。




