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身を捩ってどうにか逃れようとしていると、ふいに片手が解放され、辻くんの手が伸びてきた。
「大嫌い」だとか「死んじゃえ」だなんて酷い言葉を吐いたから、殴られることを覚悟してぎゅっと目を瞑った。その拍子に涙の残余が流れる。いつの間にか驚きで涙が止まったようだった。
しかしいつまで経っても鋭い痛みが頬を打つこともなく、代わりに彼の手がその涙を掬い取るように優しく触れた。 殴られることよりあまりに意外だったその行為に、わたしは思わず肩を震わせた。目を見開いて辻くんを見る。
「そうやって思い切り泣けばいいのに」
そう言ってわたしに向ける彼の目は、いつもの鋭く射抜くような眼差しではなく、穏やかな眼差しをしていて、いつもの辻くんじゃない。まるで別人だった。
おかしいのはわたしではなくて、辻くんのほうだ。いつもの辻くんはどこへ行ったのだろう。それともこれは、沢田くんのような同情の眼差しなのだろうか。 警戒心を剥き出しにしているわたしに構わずに辻くんが口を開いた。
「あの日のことならちゃんと覚えてるよ。お前が真面目に掃除していて、だけど俺を含めたその他全員が掃除をさぼった日のことだよ。あれは、悪かったと思ってる」
素直に謝る辻くんを見て、わたしは怒りをおぼえた。あの日のことを覚えていたのにわたしにあんな偉そうにしていたのか。信じられない。
言い返そうとしているわたしを制して辻くんは続ける。
「言い訳するつもりじゃないけど、俺が苛々していたのもそれが原因だ。お前があの日みたいに真面目にしてなかったから。ドロップアウトするなんて言うから」
「……どういう意味か、わかんない」
「お前は地味で目立たないとか思っているかもしれないけどさ、クラスメイトの箍が外れて様子がおかしいことに気づくと、みんな調子が狂うんだよ」
辻くんのその言葉に思わず顔を上げて彼を睨む。
「わたしは誰にも迷惑なんて掛けてない。ただ自由になりたいと思っただけ。それの、何がいけないの?」
「お前が何も言わないからだろ? 自分で気づいてないのかよ」
と、信じられないといった様子で、辻くんは目を丸くする。
「相談も、愚痴も、文句を言うこともしない。誰が気づくって言うんだよ。友達だと思っているなら、悩みだって言えばいいだろ。それが逆に気に障るしうざい。本当に放っておいてほしいなら今までみたいに真面目に優等生していればいい。今のお前は、優等生をしているとき以上に陰口を叩かれ、悪い意味で近寄り難い存在になっているんだよ」
辻くんは一気に捲し立てると、軽侮の目でわたしを見た。
「……なんか、ひどいね」
言う事はひどいけど、当たっている。当たっているから何も言い返せなくて、わたしは俯いた。わたしが今までしてきたことは、いったい何だったのだろう。そう思ったら止まったはずの涙が再び目一杯に溢れ出した。みじめにも嗚咽が漏れて、その場に崩れ落ちそうになる。
はあ、と今までで一番深いため息をついた辻くんに、腕をぐいと引っ張られた。そのまま辻くんの胸に倒れて、背中に腕を回された。
抱き締められているというのに、さっきみたいにわたしの涙は止まってくれなかった。それどころか久々に温もりに振れて安心したのか、涙が滝のように流れてくる。
「言えばいいのに。欲張ったって、わがまま言ったって、事情含めて話せば許してくれるだろ」
辻くんが言っていることは少しずれている。ずれているけど不思議と痛くない。彼の言うことは一見卑劣だけどその奥に優しい響きを持っていた。例えば、「もう駄目だ」と言った厭世家に、「だったらやめれば」ではなく「そう思うならこうすればいい」と、新な方法を啓示してくれるのだ。今まで気が付かなかった盲点に、嫌でも気づかせてくれる。それが彼の優しさなのかもしれなかった。
そう気づいた途端、唇の隙間から「うっ」と嗚咽が漏れた。 嫌いな辻くんの腕の中にいることにも構わずわたしは泣いた。みっともなく赤子の産声のような泣き声を上げて、わたしはようやく生まれてきたのだと悟る。
「し、死んじゃえ、とか言ってごめんなさい」
「もういいよ」
「あと名前覚えてなくてごめんなさい」
「それももういい」
涙声で話すわたしの頭を、辻くんは赤子をあやすようにぽんぽんと撫でた。他人に――いや、人に抱き締められたのはいつ振りだろう。もう忘れてしまうほど昔のことだけど、人にも温もりがあるという当然のことを改めて感じた。
一番嫌いだと思っていた辻くんなのに、いつの間にか彼はわたしがこれまでで一番本音を言えた人になっていた。辻くんだけじゃない。また他の人にも本音を言えるようになるだろうか。
今からでもいい。ゆっくりでも、変わっていけるような気がする。答えはここにあるのだから。言えばいい。彼の言うとおり、口にするだけできっと世界は大きく変わるのだろう。
ひとしきり泣いたあと、わたしは顔を上げて辻くんを見上げた。自然と笑みが零れる。
「ありがとう」
照れながらも素直にお礼を言うと、なぜか辻くんは耳まで真っ赤にしていた。わたしから視線を逸らして何か言いたそうにしている。わたしが黙って見つめていると、観念したように彼は口を開いた。
「言っておくけど、真面目に学校行事に出ようって決めたのはお前の影響だからな」
「え?」
「月島が馬鹿みたいに真面目にしているのを見て、そうするのも悪くないと思っただけだよ」
「でも、どうしてそれが辻くんに影響を与えることになるの?」
「……まあいいや、なんでもない」
終わったと思っていたわたしの人生は、きっとまだまだ恐ろしく長い。
- 完 -
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。お疲れ様でした。
書き終わった当初の感想は、「どうしてこんな展開になった!?」でした。
だいぶ前(といっても約二年前ですが)に書き始めたのですが、その頃は私も中学生だったからなのか、内容が中二病的な感じになってしまいました。反省してます。
当時は辛いことがあったので、けっこう勢いに任せて書いたんですが、今見るとすごい青臭いですね。
辻くんもただ冷たいわけじゃないんです。
私の中ではちゃんとある理由があって、京子に冷たい言葉を吐いたりしていたわけですが、収拾できてないです…。すみません。
番外編とか書けたらいいんですけど、いつになることやら…。
長々と書きましたが、とりあえず終わりです。
本当にありがとうございました!
2011.06.27 執筆開始
2011.09.01 完結