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「お前やる気あるのかよ」
いきなり辻くんに肩を掴まれて、そのあまりの痛さに顔が歪んだ。
我に返って自分の右手を見ると、そこには箒が力なく握られていて、そういえば今が放課後の掃除時間だったことを思い出す。目の前にはいつも通りの不機嫌な辻くんの顔。なんだかもう慣れてきた。
掃除の班のメンバーと場所は毎週ランダムで決められている。どうやって今週の掃除表を見て、ここまで来たのか忘れてしまったけど、今週は書道室の掃除で班のメンバーに辻くんが入っているらしい。墨汁の臭いが充満するなか、他のみんなは既に黙々とごみを片付けているみたいだ。
わたしは小さく息をつくと、辻くんの手を振り払おうとする。しかし、辻くんの手の力のほうがよっぽど強くて振り払えない。
「なんかお前、いつにも増して変だぞ。なんでそんなに暗い顔してるんだよ」
「辻くんには関係ないよ。掃除の邪魔だから離して」
「はあ?」
辻くんはますます顔を険しくしてわたしを見た。
「だったら、はじめからちゃんとやれよ。ほんと迷惑」
そう吐き捨てると乱暴にわたしの腕を離し、折りたたみ式の大きな机を運び出した。それを見た他のみんなも辻くんに従って、机を元に戻していく。わたしはそれを見ても動く気になれなかった。というよりも身体が痺れて動けない。
元に戻されていく机を見ながら、ふと顔を上げて辻くんを見た。辻くんの背中は、なるほど、サッカーをしていると言っていた沢田くんの言うとおり、スポーツ少年らしい体つきをしている。その背中は良い意味で堂々としていて、思わず惚れ惚れするほどだ。じっと見つめていたそのとき、何かが頭を過った。
それはまだわたしが、授業も友達関係も、全てに一生懸命だったときのことだ。もちろん掃除をサボるなんて考えは頭になくて、黙々と皆より先に教室掃除を始めていた。だけど、どれだけ待っても班のみんなはやって来ない。それどころか、気がつくと教室には自分以外に誰ひとり残っていなかった。
やられた、とは思ったけど、不思議と先生に言い付けに行こうなどとは思わなかった。ひとりでも掃除は終わらせられる。言い付ける時間があるなら早く終わらせてしまいたい。わたしはただ黙って掃除を続けた。
そのとき、廊下のほうから慌ただしい靴音が聴こえてきた。勢いよく教室の扉が開いと思ったら、入ってきたのは息を切らした男子生徒。顔は覚えていないが、わたしは少しだけ彼に期待した。掃除を手伝ってくれるのではないかと思ったのだ。しかし、彼はわたしを一瞥しただけで、自分の鞄を掴むと教室を出て行こうとした。
期待したわたしも馬鹿だ。手伝ってくれるわけがないのに。そう思って掃除を再開すると、去ったと思っていたはずの彼が振り返ってこちらを見ていた。
「誰も来ないのに、掃除なんてしたって意味ないじゃん」
ぽつり、とそう言い残す彼の背中を見つめて、わたしは瞬時に悟った。彼も今週、掃除当番なのだと。
教室から出ていくその背中が、今も鮮明に目に焼き付いている。
辻くんの背中はあのときの彼の背中に似ていた。最初に辻くんを認識した、放課後の教室でも似た背中を見た。いや、似ているなんてものじゃない。同じなのだ。あまりに堂々としていて、掃除をさぼることなんてちっとも気にしていない、そんな背中。間違いない、あれは辻くんだった。
掃除をさぼった挙句、ひとりで頑張っていたわたしを見捨てた辻くんに「ちゃんとやれ」と言われたなんて。おかしい。笑える。
「くっ、うふ、ははは」
俯いて笑いを堪えるが駄目だ。一度笑い出すと、溢れるように笑い声が漏れる。
不審に思った班のみんなが一斉にこちらを見た。もちろん辻くんもこっちを見ていた。
いつの間に机を運び終わったのか、あとは帰るだけになっている。みんなはここに来る前に用意したのか、教室から持ってきた鞄を持ち、コートを着たりして帰る支度をしているところだった。
わたしは辻くんをまっすぐ見つめた。
「なんだよ」
とふてぶてしい声で辻くんが言う。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
わたしと辻くんの間にある不穏な空気を感じ取ったのか、みんながそそくさと書道室から出ていくと、わたしと辻くんの二人だけになった。
わたしはこれまでにはないような、嫌悪の籠った眼で辻くんを睨みつけた。
馬鹿馬鹿しいのかどっちなのか。偉そうにしていても、結局は最低な男だったのだ。
「自分だってやる気ないくせに、こんなときだけ頑張っているふりしないでよ」
そう言い捨てると、逃げるように書道室を出た。もう辻くんの顔なんて見たくもない。
急いで階段を駆け上がり、 教室へと向かう。
教室の前まで来て息を整えていると、
「ぜーったいないって!」
と教室の中から沢田くんの声がして、整えたばかりなのに胸の心拍数が上がるのを感じた。