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次の日の授業は憂鬱だった。
斜め前の席が悪い意味で気になって、授業を聞くのはもちろんのこと、寝るに寝れなかった。
気弱な英語の先生が、わたしが起きていることに安堵したのか、目が合った瞬間にわたしを指名した。順位が下がったとはいえ、まだ授業の内容に着いていけない段階には至っていなかったので、簡潔に英文の訳を述べる。
「率直に言って、わたしはあなたの考えは間違っていると思う」
「完璧だ。月島はやればできるんだから、これからもっと伸びると思うぞ」
先生はわたしによくわからない励ましの言葉を掛けたが、不思議と悪い気はしなかった。むしろ、不覚にもじんときてしまったくらいだ。恥ずかしくなって俯く。
そんなわたしを見て先生は満足そうに微笑むと、教科書に視線を落として言った。
「月島を当てたから、今度はそうだな、辻。問三の二番」
名前の順番だろう。先生に当てられて、辻くんは静かに席を立つ。あろうことか、そのとき目が合った。例の射抜くような視線でわたしを睨む。
なんでこんなときに限って居眠りしていないんだ。お前のせいで当てられた。明らかにそう責めている眼だった。
「私は高級な鞄を買うために諦めた」
「惜しい。これは各詩的用法だから、正確には〝買うこと〟をだな。紛らわしいけどよく出るから覚えておくように」
間違えたのはわたしのせいじゃないのに、ちっ、と小さく――だけどわざとわたしに聴こえるような舌打ちをした。
とことん嫌な人だな……。
彼が言った、周りがわたしのことを〝模範人形〟なんて呼んでいることも、きっと嘘に決まっているんだ。どうして彼がわたしに攻撃的なのかはわからないけど、こういう嫌がらせをする人は、相手にしないに限る。
わたしは授業中、辻くんを見ないように意識することに徹した。
* * * *
「京子、トイレ行こうよ」
休み時間、友達の久美ちゃんがわざわざわたしの席まで来て言った。腕までがっしりと掴まれ、どうしたものかと一瞬言葉を失う。
恒例の、トイレ会とでもいうのか、毎回友達同士でトイレに行き、好きな人を言い合ったり、先生や気に入らない子の悪口を言い合う習慣に、わたしは正直飽き飽きしていた。わたしの様子がおかしくなってから、最近は誘われなくなって内心助かったと思っていたところなのに、どういう心境の変化なのだろう。
「……悪いけど、遠慮しとくね」
ちょうど今、辻くんの無言の圧力から解放されたところなのだ。ただでさえ疲れているのに、残った体力をこれ以上無駄なことに消耗したくない。休み時間は休むために利用する。
きっぱり言い切ったのに、このときの久美ちゃんはいつもと様子が違った。
「いいから行こうよ。ほら早く!」
掴まれた腕により一層強く力が入り、その痛さにわたしは思わず顔をしかめた。
「なんでよ?」
思ったとおりの疑問を口にすると、久美ちゃんは笑顔を引きつらせた。無理に笑顔を貼り付けているのがよくわかる。
「とにかく行こうよ」
腕を引っ張られると無理矢理立ち上がらされ、そのまま連行されそうになる。
「やめてよ!」
思わず自分でも驚くほどの大きな声が出て、わたしは咄嗟に口を手で押さえた。教室中の好奇の視線がわたし達に集まる。久美ちゃんは目を大きく見開いて、怯えたようにこちらを見ると、唖然としながらも手を離した。
「ごめん。トイレなら、その、ひとりでも行けるから」
取り繕うように笑って言ったけど、久美ちゃんは半ば放心状態のまま、何も言わずに教室を出て行った。肩を落とすその背中を視線で追いながら、その先にいる人物を見て目を見張る。
永田さんだ。
背の高い一人の女子を数名の女子が取り巻きながら、じっとわたしを見つめて――否、睨んでいる。
永田恵梨香。背が高く、切れ長だけどぱっちりとした目が印象的な女の子で、みんなからは「ナガ」と呼ばれて親しまれているけれど、わたしは彼女が大の苦手だった。
クラスの女子のリーダー格である彼女は、友達だろうとなかろうと誰にでも話し掛け、また相手が誰であろうと必ず自分のペースに持っていく。良く言えば明るく社交的、悪く言えば馴れ馴れしい。
なんでもずけずけと訊いてくる彼女に、わたしは土足で自分の領域に踏み込まれたようで、彼女に対し嫌悪にも似た苛立ちを抱えていた。とはいえ、同じクラスで何度か話したり宿題を見せてあげたこともあるから、表面ではそれなりに仲の良いほうだと思ってはいた。
だけど今、永田さんが私を見つめる眼は明らかに友を見つめる眼ではない。きっと、彼女もわたしに対して同じ苛立ちを抱えていたのだ。わたしと永田さんはどこからどう見ても正反対だから、友達として合わないのは当然だけど、同じクラスメイトであり、わたしがときどき宿題を見せてあげていたことで、なんとか均衡がとれていたのだ。わたしは争うことが嫌いだったから、どちらも苛立ちを抱えつつも、それを表に出さなかっただけの話。
今、永田さんがわたしに対し、敵意を剥き出しにして睨んでくるということは、つまりそういうことなのだろう。わたしと彼女の間には友達としての義務どころか、クラスメイトとしての義理さえ存在していない。わたしが久美ちゃんの、くだらない、本当にくだらないトイレの誘いを断ったことによって、それらは一瞬にして消滅してしまったのだ。
今思えば、いつもと様子の違った久美ちゃんの行動は、きっと忠告だったのだろう。皆が受け入れてくれるうちに行かないと、あとで厄介なことになるよ――という、久美ちゃんなりの優しさだったのだ。
久美ちゃんが永田さん達のところへ歩いていくのを見届けながら、わたしはこれから待ち受ける出来事を想像したけど、これまた不思議と平気だった。たしかに永田さんの眼を見て驚きはしたけれど、こうなってしまった以上は仕方ない。何事も受け入れるしかないだろう。
クラスメイトの視線がまだこちらに集まるなか、わたしは早々に次の授業の準備をした。