仕様確認の為の試作小説
仄かな墨の香りが四畳半の部屋に漂っていた。
言ってしまうなら、それは知識の香りだろうか。
人物の手が部屋の中心に据えられた机へ伸び、原稿用紙に線を引く。感情を秘めた線はやがて文字となり、意味を帯び、一つの世界を築いていく。一枚の空白が世界に埋まると、その者は新たな空白に再び世界を書き入れていく。
その筆致はお世辞にも美しいと呼べる物では無かった。校正に手間取ったのか、深い皺があるものも見受けられ、更には丸められて適当に捨て置かれたものもある。知性を感じさせる眼差しからは美を求めていない事が明らかであり、その性格が表れたかのように文章は素朴かつ平易。絢爛たる美辞麗句の類いは最低限の更に下と言える程に数少なく、真に世界と人物を書いているのみである。
何故、そのように書くのか。問えば直ぐに返ってくる単純な質問では無かった。指先で玩ばれる鉛筆が沈黙の間を埋める。くるりと回して原稿用紙へ叩きつけるようにそれが置かれた時、此方は胃が竦む思いがした。
「書きたいから、書く」
迷った末に選んだ答えの後、他の理由なんて思いつかない、と朗らかに付け加え、執筆に戻られる。文章を飾る事に意味は無いと殊勝にも語るのなら、此方は諫言の一つでも言えただろうか。しかし、美しく書くだけの力が無い者の言い訳ならばともかく、違うのだから、それは分からなかった。
突然、筆の音が止む。
美は魔物だ。求める者は囚われる。
それが必ずしも悪いと言う訳ではないが、囚人に新しい風は中々吹かないのだよ。
そう語る背中は、この狭い部屋ではなく、広大な草原の上にあるように見えた。
風が吹き抜ける。
言の葉が蒼天の下で、軽やかに舞った。