1-6.初めてのお仕事
ウェストエンドの奇跡によってクラリック商会が大陸にもたらした最大の変化。
それは“紋章と教本”という二つのシンプルな言葉によって表現される内容にまとめられるとされている。
紋章というのは、いわゆるマークや看板に関する公認制度と統一規格の導入の事である。今や何処の街でも国から正式な認可を受けている施設は同一のデザインの看板を掲げることが当たり前になっているが、それを王家に進言し大陸中に広げていったのはクラリック商会の功績だとされているのだ。
例えば宿屋の看板の『INN』や、教会の看板である『白十字』。医院や病院、治療院などであれば『赤十字』だし、武器屋なら『剣に槌』、防具屋は『盾と槌』、道具屋や雑貨屋は『瓶と鞄』であるし、奴隷商ならシンプルに『首輪と硬貨』、酒場の『瓶と杯』、パン屋の『パンとチーズ』、本屋の『本と棚』、娼館の『枕と硬貨』に至るまで、いろいろな店が公認制度による統一されたデザインの看板を掲げることで、自らの店が納税の義務を果たし、国から正式に認可を受けている真っ当な店であることを対外的に示す事が出来るようになったし、どういった種類の店かを道行く人に分かりやすく伝えられるようにもなっていた。
これによって、街を行き来する旅人も初めて訪れる街であっても、どういった建物にどういった店があるのか、どの店を利用すれば安全か等を看板を見ただけで分かるようになっているので、怪しげな素性の店は早々に姿を消すことになっていた。結果、大幅に世の中の治安も良くなったといろいろな意味で大評判だった。こういった功績一つとっても大陸史に残る大発明だったといえるのだろう。
そして、教本。これはクラリック商会が大陸にもたらした最大級の文化的革命であり、その巨大な貢献は永遠に歴史に語り継がれるほどだと言われている。
そんな大発明の元になったのは羊皮紙に変わる新しい紙、繊維紙と呼ばれる薄くて丈夫な紙の発明であり、それまで手書きで複製を行なっていた書物などを、そんな全く新しい性質をもった紙に全く同一の内容で大量に、しかも安価に複製を行うという謎すぎる新技術(ウェストエンドから訪れた者達は、この技術を機械式写本、あるいは活版印刷などと呼んでいるそうだが、その言葉の意味や中身、仕組み等を知る者は皆無である)と、その技術の更なる応用であるとされる凸版印刷とかいう、これまた正体不明の謎なテクニックの数々によって、全く同一の内容をもつ上に色鮮やかな書物を大量かつ安価に作成出来るようになり、これによって大量の技術書が世にあふれる事になったのだ。
それによって、これまで口伝だけで伝えられてきたような数々の制作技術や伝統工芸、戦闘テクニックや職業上の技術、魔導関連の知識や歴史に関する書物、様々な分野の研究者達の研究成果に至るまで、クラリック商会の全面的なバックアップによって有形無形の知的財産だった無数の伝統と知識、そして技術に至るまで次々と書物化されていき、それらかつては一部の知識層や職人達のみが知っていた数々の知識が大陸中に広められていったのだ。
たった数十年、されど数十年である。ほんの数十年の間に起きた出来事といえども、その時間は決して短くもなく、人の世代でいえば一世代相当の長さがある期間の出来事だった。そんな短くも長く、そして熱く、密度の高かったマグマのような灼熱の時代を経て、大陸の文化は一度新しい波によって焼き尽くされた後、火山の火口に飛び込んだ不死鳥のように蘇り、今度は独特の様式をもつ新しい姿に緩やかに、そして確実に生まれ変わろうとしていた。
その変化の中心にして情報とトレンドの発信地は常にウェストエンドであり、その中核には常にクラリック商会の姿があり、そんな商会の手によって紋章と教本は大陸の文化の中心に据え置かれていくことになったのだ。
「……そんなクラリック商会の躍進の影には一人の発明家の影がある、か」
そんなヨタ話をクロスが聞かされたのは、クロスロードに訪れる前の事であり、大陸西方の商業都市ウェストサイドから東の果てイーストレイクの間を行き来するキャラバンに同乗させて貰っていた時の出来事だった。
この話を酒の席で「ここだけの話」として聞かされた時には、流石に冗談だろうと笑い飛ばしながらも何処か薄気味悪く感じていた、そんな小話であったのだが、クロス個人としては、この噂話には信憑性に今ひとつ欠けているとして疑問符をつけてしまっていた。ありていに言ってしまえば、そんなことはありえないと思いたかったし、信じられない、信じたくないという種類の話だったのかもしれない。
「……しかし、何にせよ、こういった発明そのものは非常にありがたいのでしょうね」
そう口にしながらパタンと閉じた本に書かれていたのは、いわゆる治療魔法に関する数々の教えであり、細かい口伝として伝えられていたのだろう技術的な気づきの部分まで手書きによって補記された先人たちの知恵の集合体と呼ぶべき内容の本だった。
それは当たり前のように教会の関係者でもごくわずかな者達しか閲覧を許されていない治療魔法に関する技術書……。いわゆる一般的には魔導書と呼ばれる魔法使いの為の教本であり、表紙にも大きく『部外秘』と赤い色で刻まれている類の本だった。もっとも、そのさほど興味を掻き立てられなかった様子を見る限りにおいては、その中身は既に知っている他の教会でも見せてもらったことのある教本と大差がなかったということなのだろうが……。
「……もうよろしいのですか?」
「はい。もう十分です。ありがとうございました、司教様。大変、参考になりました」
そう落胆の欠片も漏らすこともなく、小さく礼をしながら口にする。そんな修道士姿のクロスに、礼服姿で司教と呼ばれた男は鷹揚に頷いて答えていた。
「そうですか。……貴方の評判は“色々”と聞いています。良きにつけ悪きにつけ、ね」
「……承知しております」
じっと見つめる司祭と、それを静かに見返すクロス。先に折れたのは司祭の方だった。
「……まあ、良いでしょう。過去の事はとりあえず抜きにしても、貴方にはここでも活躍してもらえると信じているのですが……。信じてもよろしいのでしょうね、修士クロス?」
「……精一杯務めさせて頂きます」
「よろしい。貴方のこれまでと変わらぬ熱意と誠意、人々への献身に期待しています」
それはクロウとの初めてのクエストから数日が経過した日の出来事だった。
あの日、クロウと二人で収集袋が一杯になるまで薬草の葉っぱを集めた仕事の成果は、無事に持ち帰る事に成功し、二人に銀貨一枚と多少の銅貨をもたらしてくれていた。
それを事前の約束通り二人で仲良く分けていた所に、別件の依頼を片付けて帰ってきたアーノルドに捕まったかと思うと、一緒にお昼を食べた店で「新しい仲間の誕生に乾杯!」などと称した宴会が始まり、そんな中で二人はどさくさ紛れにご飯をごちそうになったのだった。
それから夜遅くなってクロスはようやく新しい所属先となるクロスロードの東区にある教会にたどり着き、到着の挨拶を済ませて割り当てられた部屋(幸いに宿舎があった)で眠りについたのだが、その翌日から待っていたのは予想外にハードな日々だった。
「修士、二番のベッドの方も重症です! 出来るだけ早くお願いします!」
「わかっています。もうしばらく待って下さい。こっちはあと数分で終わらせます」
治療台から飛び散った血で白い服をまだら模様に汚しながら、修道服のフードで青ざめた顔を隠した小柄な治療師が酷い傷跡を見せる傷口に、必死に手をかざして魔力を注ぎ込む。その効果は凄まじく、かなり深い傷を受けて血を溢れ出させていた女の太ももが見る間に修復されていく。それはまさに神の奇跡という光景に相応しい代物だった。
「よし。……ここまでやっておけば残すは表層部分だけです。あとは任せます」
「任されました。修士は二番へ!」
そんな言葉に答えることなく、今度は二つとなりの治療台に移動して、そこに運び込まれてきた男に群がっていた修道士達の輪の中に飛び込んでいく。
「……状態は?」
「あまり良くはありません。少し血を流しすぎていて痙攣を起こしています」
「時間がありませんね。壊しても構いませんから、鎧をはいで傷口を……」
「もうやっています! ……っと、よし! できた!」
歪んだ鎧を無理やり剥ぎとった瞬間、周囲に真っ黒な血が飛び散った。鼻の上あたりまで布で覆った顔に飛び散って斑点模様を描き出したソレに思わず目をしかめながらも、目線は患部から外されることはなかった。
「……これは、酷い」
「焼け爛れてるだけじゃないな。これ、周りの肉が吹き飛んでないか?」
「おそらくは大蠍かなにかに毒針をくらったんでしょうな。肉が腐り落ちる前に炎の魔法か何かで無理やり焼き潰したんだと思われますが……」
とりあえず死ななければ良い。地上まで……。治療を受けられる場所まで生きたままたどり着ければそれで良い。そこまで保てばいい。そういったかなり場当たり的な応急処置の思想が、そこからは見て取れる、無茶で壮絶な『応急手当』の仕方ではあったが。
「……後で処置する事になる側のことも、ちったぁ考えてくれよ……」
「死ななければ、とりあえず程度でも生きてさえいれば、あとは俺達がどうにかしてくれるって本気で信じてないと、こんな無茶は出来なかっただろう」
「これもまた信頼の証です」
そこまで信じてくれるのなら。自分達なら死の淵からだって引き戻せる。そう愚直なまでに信じ抜いて、安易に諦めず、どんな苦痛を味わう羽目になってでも……。たとえ自分の手で腹を焼き潰す事になってでも、こうして最後の最後まで悪あがきをして見せたのだ。ここまでして、こうして生きて、帰ってきてくれたなら……。
──後は、我々が応えるだけです。
たとえ腹部が炭化していようとも、だ。その目は、決して諦めては居ない。なによりも患者が諦めなかったのだ。その強い意思の力が。生きたいと願う強い気持があるのなら、きっと助けることが出来る。それを信じて疑ていない目だった。
「貴方は死にませんよ」
血まみれの顔に慈愛に満ちた微笑みすらも浮かべながら。その手が患部へと伸びてゆく。すでに肉体の疲労は限界に達し、魔力はとうの昔に枯渇していようとも。それでも患者が救いを求めてくる限りは、決してへたり込むことは許されないのだ。なぜならば、自分達は怪我人にとっての最後の希望。“治療師”だからだ。
──それだけは、何処でも変わらない。
たとえ神の祝福を受けた建物の中でなくとも。それが例えば暗い洞窟の奥であったとしても。それこそ、死神が首筋に鎌を押し当てている状況であったとしてもだ……。それは決して変わらず、変わってはいけない唯一つの真理なのだから。
震える腕を自らの胸に押し当て、息切れしているかのように早鐘を打ち、暴れるように脈動している小さな心臓に自ら賦活をかけて鞭を入れ、体の奥底から無理やり元気と魔力を引きずり出して来ながら。その小さな体の中に壮絶な決意と意思の力を押し込めた治療師は、僅かにタメ息を漏らしながらも、口早に指示を飛ばしていた。
「さあ、始めましょう。……治療と再生は私が同時に。貴方は平行して解毒と賦活をお願いします。……あと、二人ばかりついてください。大分弱っています。貴方達も賦活を使って下さい。心臓に一人、患部に二人ほど。……もう余り時間が残っていません。ショックを起こすかもしれませんが、一気に処置してしまいますよ」
時に一人で怪我を塞いで回り、時に二人がかりで治療に当たり、時には数人がかりで一人にとりかかり、集まっては散らばって、また集まって。時に話し合い、時に励まし合い、時に患者の胸ぐらを掴んで叫び、必死に戻ってこいと呼びかけながら。途切れること無く、次から次へとひっきりなしに運び込まれてくる緊急対応が必要な怪我人達を次々に治療し、処置の終わった者から隣の大部屋のベッドに放り込んでいく。
そんな嵐の夜のような忙しさがようやく和らいだのは、日も沈み切り、空に月が浮かび上がっているような時間帯での事だった。
「……お疲れ様でした、修士」
今日一日だけでどれだけの死と向き合い、どれだけの患者を死の淵から引きずり戻し、どれだけの数の死神を治療院の外に蹴り飛ばしたのだろうか。朝には真っ白だったはずの服は、夜には黒と赤のまだら模様になってしまっており、そんな汚れが半乾きになった状態のまま、同じく赤黒く汚れた床にへたり込んでしまっていた。
「予想以上の厳しさでした……」
「今日は特別に多かったですからね」
差し出される魔力回復促進の効用があるとされる薬湯の入ったコップを握る手も、それを受け取る小さな手も、お互いにガクガクと震えていた。そして、それをもう隠す気力でさえも残っていなかったのだろう。
「何があったのでしょうか」
「先ほど様子を見に行った大部屋の方で少し小耳に挟んだのですが……。なんでも大迷宮の中層あたりで新しいエリアが見つかったそうで……」
「新しいエリアですか……」
「新しい分岐路、つまり未発見エリアですね」
「未探索だった場所につながる新しい経路が見つかったってことですか」
誰も見つけていないということは誰も探索したことがないという意味であり、どんな形状をしていて、どんな魔物が生息していて、どんな怪物が潜んでいるかも分からなければ、攻略について未着手のため敵がひしめいているという意味であり、そんな場所に踏み込んでいく者達に振りかかる危険度は従来の場所の比ではなかったのだろう。
「……未だ見ぬダンジョンですか」
「未だ手を付けられていないお宝ってことですね」
欲の皮を突っ張らせた挙句に瀕死の重症を負って教会に担ぎ込まれて、そこで治療費をお布施の名目で毟り取られる事になったのだが、果たしてそれは割に合う結果だったのかどうか……。そんなある種の愚かな行為に僅かに苦笑を浮かべていたら、それを隣の男は違う意味で捉えたのかもしれない。
「修士も行ってみたいですか?」
「私ですか?」
「修士は冒険者として登録を済ませてあると伺っています」
「……まだEランク、駆け出しどころか最下級のクエストを一回しか経験していません」
大迷宮に入るためのクエストを受けるには最低限Dランクになっている必要がある。冒険者としてクエストを真面目にこなしていればすぐにランクアップして他の冒険者と組んで迷宮に入っていけるようになるのだろうが……。
「まだ当分は奉仕活動の方が忙しいですからね」
魔力回復のインターバルがどうしても必要になるという都合上、一日置きに休みを挟んではいるものの、治療師として働いた日はほぼ体力も魔力も限界まで振り絞られる事になるし、体の方も延々と賦活を重ねがけして無理やり保たせていた状態だったので、明日は今日無理に無理を八つくらい重ねた副作用、後遺症が吹き出すことになるのだろう。それを考えただけでも気分が滅入ってくるが……。しかし、そうなってくると、とてもではないが冒険者らしい仕事など出来るはずもなさそうで……。不幸中の幸いというべきか、普通の冒険者と異なり宿舎を与えられているお陰もあって、宿暮らしで日々お金が無くなっている訳でもないという事だけでも喜ぶべきだったのだろうが……。
──何年か先になら……。
あるいは時間の余裕も出来てきて、治療院の方にまとまった休みを申請出来るようになれば、もしかすると他の冒険者と供に地下迷宮に入ることも出来る日が来るのかもしれない。それを想像すると、なぜか口に苦笑が浮かんでしまうのは何故なのだろうか。
「……正直、修士が荒くれ者の中に混じって戦っている姿が想像できませんが」
「安心してください。私も想像できません」
おそらくは汚れきった処置室の掃除のためなのだろう。清掃道具を手に入ってくる修道士達を横目に、追い出されるように二人は部屋を後にする。
「これがクロスロード……」
初日からまともに歩けないほどの激務に放り込まれたクロスは明日、我が身に襲いかかるだろう賦活の悪影響……。強制的に体を活性化させる治療魔法の後遺症の事を考えると、ひどく憂鬱な気分になっていた。
イーストレイクでも鉱山事故や山火事、あるいは大規模な魔物の襲撃などがあった場合などは賦活を使って無理やり体を保たせるといった緊急対応的な処置を自分に施した事はあったが、それでもこれほどの重ねがけを行ったことはなかった。
賦活を無理に重ね過ぎた場合の後遺症として有名なのは、酷い頭痛と倦怠感と虚脱感、そして強い眠気……。それら座学において習い覚えた上に何度か味わったこともある強い後遺症の中でも最上級の代物が、明日我が身に襲いかかると分かっているのだ。……気分が沈んでも仕方なかったのだろう。
それでも今日寝るまでには体を綺麗にしなければならないし、汚れた着衣を洗濯室で働く下働きの者達に渡しておいて綺麗に洗濯してもらうなり、新しい服を用意してもらわなければならなかったし、何よりも魔力の枯渇を早期に回復させるためにも、必ず用意されている薬湯をあと二杯ほど飲んでおかなければならないのだ。
それら今日の残りの雑用仕事を思い浮かべながら、クロスは閉じそうになる瞼と闘いながら、仲間の男に肩を借りて、一歩、また一歩と足を進めるしかなかった。
「お疲れ様でした」
こうしてクロスの初仕事はようやく終わったのだった。