4-30.選べなかった選択肢
少女が死病に侵されている。その事は知識としては知ってはいたのだが、実経験に即した体験としてまで知っていた訳ではなかったのだろう……。その事は、目の前の老人の言葉に、僅かに困惑を浮かべている事からも明らかだった。
「……母親と同じ病を患ってしまった結果、あの子がどういった症状を訴えるようになったか。それは分かっておるよな?」
「あっ、え? は、はい。確か、胸の奥に強い痛みを感じるようになったって……」
「ああ。そのとおりじゃ。……あの病は、ひどく患者に苦しみを与える種類でな。それこそ、こられきれん痛みにのたうち回りながら、痛い、苦しい、もう死にたい。頼むから殺してくれ、もう楽にしてくれ、とな……。泣き叫びながら、そう必死に訴えてくるようになる」
その耐え難い痛みと戦い、それに打ち勝つためにも、凄まじく強力な……。それこそ痛覚そのものがなくなるほどの効果の強い鎮痛作用をもつ薬が必要となったのだろう。
「それが黒色魔薬?」
「ああ。国が特定の症を患った病人にのみ特別に処方する処方薬……。この世界において、最強の効果を持つとされる鎮痛薬だ」
その極めて凶悪な作用をもつとされている薬の効果は、かつて大陸が戦乱の渦に飲み込まれた時代において、手足がもげ、首が落とされてなお己が既に死んでいる事にすら気が付けずに戦い続けたとされる不死者の兵団を生み出した原因だとされており、この大陸のみならず他大陸においてさえ食屍鬼生成薬だの、狂戦士生成薬だのと呼ばれて忌み嫌われている程であったのだ。
そんな、いわゆる禁忌扱いされている類の薬であったのだが、この薬の本当の恐ろしさは、その異常ともいえる鎮痛作用だけではなかったのだろう。
この薬を服用すれば痛みを感じなるだけではない。異常な高揚感と幸福感に包まれ、たとえ己が死と呼ばれる絶望の谷に向かって真っ逆さまに転がり落ちている真っ最中にあったとしても。いや、そのことを自覚している状態であったとしても、平然と笑い転げる事が出来るほどに、己の心の中にある恐怖心までもが麻痺させられてしまうのだ。
だからこそ、かつての戦乱の時代において不死者と呼ばれていた戦士たちは、たとえ手足がもげようとも平然と戦い続ける事が出来ていたのだろう。……そう。この薬は体を狂わせるだけではない。心までもおかしくしてしまう効果があったのだ。
それら二つの作用によって、この薬は服用者の心の歯車を狂わせ、次第に腐らせて行くことで段々と倫理観や判断力をも喪失させていく効果があるとも言われていた。
いうなれば死ぬ事を恐れず、己の体が傷つく事にすら鈍感になり、それを恐れなくなるだけでなく、あらゆる行為を命じられたまま行う事への忌避感すらもなくし、ただ命じられるままに死と破壊をばら撒く化物が如き存在になるのだ。
だからこそ、この薬によって生み出された怪物の群れを食屍鬼や狂戦士と呼んで恐れ、蔑んでもいたのだから……。
「……だからこそ、決して、みだりに乱用して良い薬ではないはずです!」
「そうじゃな。決して、みだりに乱用していい薬ではない……。特に、依存性と中毒性が極めて高いとなると尚更だ」
そう。そして、この薬の本当に厄介な所は、どんな形であれ一度でも服用してしまうと、すぐに強い中毒症状に陥ってしまい、薬の服用を辞められなくなる事にあった。それこそ、一度中毒状態になってしまうと、体から薬を抜いて中毒症状から逃れることが恐ろしく難しくなるという非常に厄介な性質をもっていたのだ。だからこそ、この魔薬の中毒者は、多くの場合に悲劇的な結末を迎える事になるのだ。
「この薬の重度中毒者を生み出すことを……。その危険性を一番理解してらっしゃるのは、誰でもない、薬師殿ではなかったのですか?」
その糾弾を受けた老人は、ただ目をつむったまま黙っていた。
王都で正規ルートでやりとりされる正規の処方薬ほどではないにせよ、品質の落ちる二級品の薬などが闇ルートで出回る事はこれまでにも何度かあった。それは品質が悪いだけあって、正規の処方薬よりも安価な値段でやりとりされてはいたのだろうが、それでも一般庶民が数週間で破産に追い込まれるほどの高額な値段だった。
繰り返すが、この薬品……。黒い貴婦人や黒蜘蛛とも呼ばれている黒色魔薬であるが、この魔薬は極めて質の悪い中毒性と高い依存性をもっている。そんな薬の常習者が破産に追い込まれたならどうなるか……。いや、どういった方法で薬を入手しようとするのか……。
「もし、そうなれば……か。まあ、そうなったら、薬を売る売人が殺されたり、反対に中毒者が殺されたりするかもな。……あとは、薬を買う金欲しさに見境なく道行く人に襲いかかる化物になっちまうかもしれんな」
これまでに何度もあったことだ。そう言外に忌々しさを滲ませながら。そんな声が二人の後ろから聞こえてきていた。
「あいつらは質が悪ぃぞ~。なにしろ痛みを感じない上に、みょーに力は強いしよ。なによりも、見た目が怖い。ヨダレをダラダラたらしてキェーだのキョーだの変な奇声はあげるし、ゼェゼェ言いながら肩で息してよ……。真っ赤になるまで血走った目でこっちを睨みつけながら、クスリーだの、カネヨコセーだの……。とびかかってくるんだぜ? 噛まれたら変な病気にかかりそうだったし……。すっげぇ質の悪いゾンビに襲い掛かられてる気分だった」
ありゃぁ最悪を通り越して悪夢そのものだ。……ああ、嫌だ、嫌だ。
そう心底嫌そうにブルリと体を震わせている所を見るに、おそらくは男は過去に魔薬の中毒者とやりあったことがあったのだろう。
「その人はどうしたんですか?」
「どうしたって、そりゃあ……。ひとおもいに、こう、サクッと……な?」
すっと首のあたりを、真横に指で掻き切って見せる。
「殺したんですか……」
「そっちのほうが色々と面倒がなさそうだと判断したんだ。……まあ、そいつ自身にとっても、もう殺してやったほうが色々とマシだろうって状況は、きっとあるんだと思うぞ」
そう何ら後悔してはいないし、その事で罪に問われていも居ない。むしろ関係者から感謝されたとさえ、男は口にしていた。なぜなら……。
「自分たちには出来なかった、から……?」
そんな最後の台詞が本当の意味で理解出来ない限り、この薬の巻き起こす災禍の本質的な部分の悲劇を理解することは出来ないだろう。それが分かったからこそ、老人はタメ息混じりに口にしていたのかもしれない。
「ほれ。昔から『出来が悪いほど可愛い』等とよく言うじゃろ? それか『身内の身びいき』とかの。あの言葉はな、ある意味において血縁という名の鎖がもつ無条件の愛情の他にも、そこに潜むある種の忌まわしさ。醜いまでの執着心という側面をも表しておるのじゃ」
夫も子も持たないお前さんには分かりにくいかもしれんがの、と前置きしながらも。
「血縁という名で縛られた家族という名の生き物達はな、一種独特の偏った価値観と倫理観を発揮してしまうことがあるのだ。……どんなに悲惨な状態になったとしても、我が子や親族を見捨てる事が出来なくなるんじゃよ。だからこそ、あ奴に我が子が殺された時にお礼を言ったんじゃろ。……無論、単純に感謝しておるはずもない。内心では、色々と思う所はあったんじゃろうがの」
だが、全ては終わったことだったのだ。それこそ、この件について、今更どんなに怒ったり文句を言ったりしてみても、すでに殺されてしまった者は帰ってこないのだから。だからこそ違う判断も出来るというものだったのかも知れない。
「……まあ、こんな形になってしまったが、それでも自分達には決断出来なかった事を代わりにしてくれたのだろうし、こうして色んな物に決着をつけてくれた。その事に対してだけは、少なくとも感謝いて良いという事だったのかもしれんのぅ」
我が子を殺してくれてありがとう。その壮絶で理解し難い台詞の裏には『これでようやく救われた』という安堵感があったのだろう、と。そう老人は口にしていた。そして、その安堵とは見守る側の感じている『ようやく終わってくれた』という物だけでなく、見守られる側……。殺された者への『ようやく楽になれたのね』といった性質の物も含んでいるのだ、と。
「……事ここに至っては殺すことでしか救えないと仰っているのですか?」
「必ずしも殺せといっている訳ではない。そういう状況もあるということじゃ。……もう見ておれんと感じるほどに人間性を失って、なお薬にすがって生き続けようとする我が子を前に、絶望と虚無感、なによりも無力感を感じない親など居ないということさ」
そして、なによりも。
「若いの。……お前さんが手にかけた子は、最後、笑っておらんかったか?」
「……さあな。……だけど、憑き物が落ちたような顔だなって感じた気はするな」
まあ、俺の思い過ごしかも知れんがね。そう最後に付け加えてはいたが。だが、それほどの生き地獄を生み出す薬であるという認識は伝わったのだろう。女は思わずゴクリと唾を飲み込んでしまっていた。
「それを分かっていながら……。いえ、この子にとって、せめて痛みだけでも無くすためにも魔薬がどうしても必要な状態だったというのは私も理解出来ました。でも、それを理解したことで反対に理解できなくなった部分も出てきました。……この子の母親のケースの時です。同じ病気を患ったはずなのに、親の時には、なぜ魔薬を処方しなかったのです? あの頃には、すでに王宮に魔薬を申請出来るようになっていたはずです。それなのに、貴方は彼女には普通の効果の弱い鎮痛薬しか処方していない。……同じ症状にも関わらず、親には処方せず、子にだけ処方するというのは何か変です。対応が一貫性に欠けていませんか!?」
その指摘に老人はわずかにうつむき、手にしていたパイプがギリリと軋みを上げていた。
「そうだの……。あの人には、本当に、かわいそうなことをした。最後の最後まで……。体を引き裂かれる如き激痛に苛まれ続けながら、最後の最後まで苦しみ続ける事を強いてしまった。……血反吐を吐き続けるような苦しい思いをさせながら、それでも残される我が子の前で強がって笑いかけさせるような酷い真似をさせながら死んでいかせることになった……」
その酷い後悔を感じさせる声に、女は僅かに背を後ろに下げてしまっていた。
「なぜ、処方しなかった、か……。答えは簡単じゃ。……それを本人が断ったからさ」
そして、その言葉の裏にさえ、未だ姿を表していない『冷たい現実』という魔物が潜んでいることを、女は無意識のうちに察知してしまっていたのかもしれなかった。
◆◇◆◇◆
初めて病気を告知された時のこと。母親の頃からの主治医であった老人に告知の台詞と供に最初に質問されたことは『普通の痛み止めが効かなくなった時どうしたいか』という終末医療に関する質問だった。
「その時に処方してもらった薬で、胸が妙にズキズキ痛んでたのが良い感じに収まってたから。それで、ちょっと安心してたんだけどね……。でも、これはまだ始まりに過ぎないんだって。……これから、死ぬ時まで、その胸の痛みと戦い続ける日々が、今から始まるんだって……。そう、私に隠さないで、教えてくれたの」
その時に告げられた言葉は、ひどく冷たいものだった。
今感じている程度の、ごく弱い痛み……。その当時の少女にとっては、それでも耐え難いほどの強さに感じられた痛みであったのだが、それでも老人曰く、その程度の『弱い』痛みなら、どうにか今の薬でも症状を抑え込む程度は出来るのだが、胸の痛みは病気が原因の物なので、病気が進行すればするほどに痛みは強くなっていくだろうし、痛みを感じる範囲も次第に全身に広がっていくだろう、という事だった。
そうなると、そう遠くない未来に今の薬効が弱い薬程度の鎮痛作用では効果が足りなくなってきて、胸の痛みを抑えきれなくなってしまうのだが、そうなると今の副作用がそれほど強くない薬では薬に立たなくなってしまうのだ、と。
そして、もしそうなったときに少女が選べる選択肢はそれほど多くはないので、今のうちにしっかりと考えておいてほしいのだ、と。
そう未だ大人には程遠い上に、強い衝撃を受けているはずの少女を前に、それでも老人は言葉を尽くして考える事を辞めるなと口にしていた。
「いざ、そうなったときに、どうして良いか分からない等と言って血迷わない様にって……。まだ、本人が冷静な判断が出来る間に……。しっかり考える事ができる時間が残されている間に、最低限のことだけでも……。最後の手段に頼るかどうかだけでも、最初に決めておいて欲しいからって」
その時、少女を前に老人がタメ息混じりに告げた内容が脳裏に蘇る。
『……もし、そうなった時の話だが、そのときお前さんが選べるのは、極めて効果が高く、副作用もやたらと強く、ついでにお値段の方もべらぼうに高い。そんな質の悪い薬を、ずっと……。それこそ病にお前さんの魂が食いつくされる瞬間までの間、大量に処方して貰い続けるか……。それともすっぱりと諦めて死を選ぶか、だけじゃ。……外野から色々と言われるだろうが、実際の所、その二つくらいしか選べる選択肢はないと思っておいてくれ』
本当は安価な今の痛み止めを飲み続けながら激しい痛みに耐え続けるという、苦痛まみれな選択肢も無いわけではないのだが、普通の痛み止めが殆ど効かないような激しい痛みを前にして、それに耐え続けるような真似など、未だ大人にもなっていない少女に出来るはずもないのだし、何よりもソレを側で見せつけられる事になるだろう父親が、その責め苦に耐えられないだろう、と。そう老人は判断していた。
そして、そんな二人だからこそ、どうしようもなくなるまで『我が子に死を与える』という、ある意味究極とも言える最後の手段を選べないだろうとも思っていた。
──つまり、消去法によって必然という名の選択が行われる事になる。それによって、この子が選べる選択肢は『アレ』に頼るしかなくなるという訳か。
それが分かっていたからこそ、決して親が教えようとしないだろう最後の『最終手段』とされる選択肢を、予め、今の段階で、少女自身に……。本人が希望するだけで処置出来るのだということも併せて教えておく必要性を感じていたのかもしれない。
『お前さんに処方する事になるだろう最後の最後に手を出す事になる強い効果の痛み止め……。あれを飲めば、痛みは完全に消える。それは間違いない。なにせ世界最強とまで言われる鎮痛効果がある薬じゃからのぅ。……それこそ、何をされても何ぁんにも感じなくなるわぃ』
効果が極めて高いからこそ、副作用もまた大きかった。
『副作用か……。そうじゃの。色々、あるの。まず最初は感覚かのぅ。いわゆる、触覚という奴だ。あらゆる痛みを感じなくなるせいか、おそらくは最初に皮膚の感覚が失われるじゃろうな。触られても、ケガをしても、何がどうなったか分からなくなるだろう。特に強い刺激……。血が出るほどのケガをした時の痛みとか、水ぶくれができるほどの火傷を負った時とか……。そういった強い痛みを感じる時ほど、それを感じられなくなるはずだ』
他にも時間の経過と供に色々な弊害が出てくると予測されていた。それこそ味覚が失われたりするだろうし、口の中に入れた物の温度も分からなくなったりするだろうし、体の疲労の度合いも認識出来なくなってくるだろうし、そのうち耳や目だって機能を衰えさせて最後には機能そのものを失うのかもしれない。……それこそ、そうやって、ゆっくりと体が駄目になっていきながら死というゴールラインに向かって転がり落ちていくのを嫌でも実感させられることになるだろう、と。
そんな脅す風にして、これから自分が歩くことになる死へと続く道に何が待ちかまえているのか。その苦難の数々を挙げてみせた老人に、それでも少女は戸惑いながらも小さく笑いかける事が出来ていた。
「私ね、聞いてみたの。なんで、そんなに酷いことを言うのって。それに、なんで私をそんなに脅かすような真似をするのって。……ううん。違うか。何か、私に選ばせたい方法でもあるのって。……そうしたら少しだけためらっていたけど、最後には、ちゃんと教えてくれたわ」
少し前までは許可されていなかったのだが、と前置きして。今の時代は死病を患った者限定ではあったものの、変に持ち帰らせたりせず、薬師の手で直接経口摂取させるという事を条件に、いわゆる服毒自殺用の毒物を処方することも許されているのだ、と。
「……もう、嫌だ。もう、死にたい。親に、これ以上の負担をかけたくない。これ以上、親に辛い思いをさせたくない。……そう思ったなら、いつでも訪ねてこいって。……少しも苦しまずに、眠るように楽になれる薬を飲ませてやるって。……そう泣きながら、必死に笑って、私に教えてくれたの」
──望まれて質の悪い薬を高値で売りつけるような真似はしても、自ら死を選ぶ自由と尊厳までもお前さんから奪うつもりワシにはないんじゃ。……だから、その権利を行使したくなったなら、いつでも主治医であるワシの所に来い。……その時には一人で来ても構わんぞ。
そんな台詞にどんな憎まれ口を叩いたかまでは覚えていなくとも。それでも決して忘れられないものはあったのだ。そんな少女にとって、その時に老人の浮かべていた優しそうな笑顔だけが、あるいは信頼の源であったのかもしれなかった。