4-26.あっけない崩壊
前にも書いた覚えがありますが、この章は色々と内容がきっつい感じになっています。ここから先の展開は色んな意味で優しさが足りないシナリオになっていますので、あらかじめご了承ください。
不機嫌そうな表情で仕方ないといった態度で「待っていろ」などと言われたとき、その場で大人しく待っているのがアーノルドなら、勝手知ったる何とやらで、家主に断りもなくお茶の準備などを始めてしまうのがエレノアだったのだろう。
「確か、濃い目が好みでしたね」
いつもならスプーン二杯しか入れないらしい茶葉をもう一杯、あえて追加して。カチャカチャ、チャラチャラと随分と賑やかな音を立てながら準備を進めていく。お茶の道具だけでなく、その体にぶら下がっている鎖の立てる雑音も加わって中々に賑やかである。
そんな女の背中に向かって、アーノルドはやれやれといった口調で話かけていた。
「個人的な好みを言わせて貰うなら、ここの茶葉なら二杯でもちょっと濃い目だよな」
「私も基本的には薄目の方が好きですよ」
「だったら二杯で良かったんじゃ……」
「いえいえ。こういう場合には、店主殿の好みを優先してあげるべきです」
あとは少し蒸らすだけ、とばかりに手をとめたエレノアだったが、そんな女に階段の上から降りてきた家主であるエドは苦笑混じりに答えていた。
「……確かに、いつも濃い目のばっかり飲んどるがの。だが、朝っぱら、あんなに濃いのを飲もうとはなかなかに思わんよ」
それを聞いて「ほらみろ」とばかりに言いたげに肩をすくめるアーノルドであったが、この程度の事で“板金鎧の二枚重ね”の異名を誇るエレナの司祭の面の皮に傷など入るはずもなかったのだろう。それを聞いてニッコリ笑うと、ポンと手を合わせて喜んですら見せていた。
「それは丁度良かったです」
「何処がだよ……」
「あら? 薄い分にはどうにもなりませんが、濃い分には薄めれば済む話ですよ。幸いに、まだお湯も残っていますし?」
あとは各人の好みで調整してくださいな。そう言い放つと、自分がまずお手本を見せましょうとばかりに、かなぁ~り濃い目にはいっているお茶をカップに適量注ぐと、その上からお湯を継ぎ足してスプーンでひと混ぜして見せる。
「……うん。良い味です」
そりゃぁ、人の家でタダで飲む茶は、さぞうまかろうよ。そう横の方からカチャカチャとカップなどが立てる音に混じって聞こえてくる嫌味など、いまさら気にする女ではない事など、この場にいる二人は百も承知であって。
「……それで、今日はどんな用件だね」
ズズズと目覚まし代わりの、ちょっと濃い目に調整したお茶を片手に、いつものパイプをくゆらせながら尋ねるエドに、その正面……。いつもなら患者が座っている丸椅子に腰掛けて、エレノアは答えていた。
「後ろの彼が、少し前に“中央”からの依頼で調べ物をしていたのはご存知です?」
「ああ。ウチにも調べに来ていたからな。何を調べていたかも大体は把握しとるよ」
アーノルドが以前に訪れた時に、自分が調べている事に関する資料を見せていた事もあって、どういった趣旨の調査であるかも分かっていたし、その内容としては、どちらかというと抜き打ち検査に近い代物だとも感じていた。
「では、なぜ、ココに来たのかも?」
「まあ、ワシの所が取扱量が多い事もあって、色々と疑われていたって事くらいはのぉ」
そう淡々と答えながらも。だが、と言葉を続ける。
「あれから一度も訪れてなかった所を見るに、疑いは晴れたと思っておったんじゃがの?」
どうなんだ、若いの。そう視線で尋ねられているのを理解したのだろう。アーノルドは僅かに肩をすくめると、苦笑交じりに答えていた。
「ええ。あの後、書類とか色々と改めて精査してみたんですがね。特別に問題のありそうな部分は一切なし。取扱量と納品量も綺麗に一致してるし、本人からもサリエルに誓ってやましい所はないなんて宣言されるしで、どこにも文句のつけようもありませんって、上には一応は報告させて貰ったんですがねぇ?」
その「問題なし」な報告に横槍を入れてきた女が居たのだろう。
「確かに、書類上は何処にも問題はありませんでしたね」
そう。数字の上ではエドが入手した物を着服したり横流ししたりした痕跡は一切無く、全てがソレを必要とする者達の手へと渡っている事を示していた。
「何か内容で気に入らない点でもあったかね」
「特には。ただ……」
少し、気になった点が。そう口にする女の顔にへばりついた笑みはおろか、その身にまとった雰囲気さえも何時もと何ら変わらないのを見て「これだからエレナの司祭は苦手なんだと」内心でタメ息をつきながらも。それでもエドは答えることが出来ていた。
「周りくどいのはなしで頼む」
あんまりココで時間を食われると、他の患者の迷惑になるかもしれないから、と。そう話を促すエドにエレノアは「分かりました」と短く答えると、その顔に浮かべた笑みを崩す事なく、淡々と事情を説明していた。
「薬師殿は王都での取扱量が最上位であるにも関わらず、書類上では何処にも問題はなかった。でも、その内訳をよくよく調べてみると、妙な事が気になってしまいまして」
スッと、懐から出した折りたたまれた用紙……。それは安物の羊皮紙などではなく、高級品である繊維紙の上に書き込まれた何かの表だった。そして、その右上に刻まれた王家の刻印を見るに、その書類の出処は王宮であり……。
「薬師殿。この書類によると貴方の所の処方量には、何故か妙なバラつきがありますね」
「あって当たり前じゃろう。いわゆるケースバイケースというヤツじゃよ。患者の症状と程度に合わせて処方量そのものを調整するのは、ワシらの業界では常識だし、それはお前さんらも承知しておると思っとったんだがの?」
「確かにそうなのかもしれません。ですが、他の薬師の方の処方量と比較しても明らかに過剰な量を処方している患者が何人か居るのが……。とても気になりますわねぇ……」
その瞬間。薄く浮かんでいた笑みの形が深くなり、猛禽の類の物に変わっていく。
「そう。例えば、このお嬢さん……。クランク商会の娘さんなどのように」
とりあえず、この子への処方量が妙に多い点について、もうちょっと詳しく教えて頂けますか。薬師殿? そう口にする女の瞳には、獲物を前にした肉食獣の光が宿っていた。
◆◇◆◇◆
少年は、自分を先導するように前を歩いている少女の後ろ姿を眺める。
その背中は、出会った頃から大して変わっていないように感じていた。しかし、それは正しくはなかったのだろう。
よくよく眺めてみれば、もともと細かった腕はますます細くなってしまって居たし、出会った頃から改善される事のなかったくすんだ不健康そうな肌の色は、ますます濁りを増してきているようにも感じられていた。
見た感じでは、一応は、顔から首にかけては化粧で上手くごまかしては居るようであったのだが、少なくとも袖やスカートの裾から覗いている肌の黄ばみが強くなってきているのは見間違いでもなかったのだろうし、肌の表面に薄く血管が浮かび上がってきているように見えるのも、きっと偶然などではなかったのだ……。
──なによりも、変わったのは……。
少年は僅かに眉をしかめるようにして意識を手元に向ける。そこにある少女が自分の手を掴んでいるのを見つめて、小さくタメ息をつきながら。
少年の腕を引っ張るようにして前を歩いている少女の握力が、出会った頃と比べると遥かに弱くなってしまっているのを嫌でも感じさせられていたし、別に耳に意識を集中させなくとも、さほど速い速度で歩いている訳でもないはずなのに、目の前でフラフラと僅かに体を横に揺れさせながら歩いている少女の背中は、苦しそうな濁音を混ぜた荒い呼吸を繰り返していた。
「少し、休憩しましょう」
「何言ってんのよ! さっき休んだばっかりじゃない!」
そう元気そうな声と供に振り返る少女の顔色が明らかに青ざめているのは、きっと呼吸が苦しいせいで、まともに息を出来ていないのが原因に違いなかった。
そう考えたクロスは僅かに苦笑を浮かべながら、その掴まれたままの腕を僅かに自分の方に引き寄せていた。そのことで、よろめきながら容易くバランスを崩して倒れそうになった少女を優しく抱き寄せるようにして受け止めると、その耳元に囁きかけていた。
「申し訳ありません。私が、疲れたんです。……昨日、ちょっと忙しくって……」
「……そう。なら、しょうがないわね」
「はい。だらしなくて、ごめんなさい」
そう謝りながら、近くの路上にあるこじんまりとした屋台へと向かう。そこは店の横に椅子とテーブルを置いてあって、いわゆる安いお菓子と飲み物を売っているような屋台であって、お嬢様然とした格好をしたジェシカや、そこそこいい格好をしているクロスが立ち寄るにはいささか浮いてしまいかねない収まりの悪そうな店ではあったのだが、それでも少女の体調の悪そうな顔色を見れば緊急避難的に立ち寄ったのだろうというのが分かるという物でもあったのかもしれない。
「適当に冷たい飲み物を二人前。あとお菓子も一人前、お願いします」
そこに座るなら注文してからにして欲しいなといった表情をのぞかせた屋台の主に、そうオーダーすると、目の前で丸椅子に腰掛けたままうつむいている少女に話しかけていた。
「まだ体調が戻ってないみたいですね」
「……そうみたいね」
「それなら、まだ無理をしない方がいいです」
出来るだけ平静を装っている自分と、体調の悪さを隠すことすら出来なくなった少女。
……少年は、自分たちの関係は、そう簡単には変化しないだろうと思っていた。それこそ、どちらかが勇気を出して今の自分の姿を偽る事をやめて、本当の自分をさらけ出す決断をすることが出来るようになるだろう、その日まで。……きっと今のようなぬるま湯の関係が続くだろうと。そう、思い込んでいたのだ。だが、それは所詮は希望的観測、甘えた思い込みや単なる願望といった、いわゆる叶わぬ類の願いだったのかもしれない。
──現実は何時だって優しくない。それを、私は、知っていたはずなのに。
その諦念すら混じる苦い想いと、悔しさのにじむ感情に指摘されるまでもなく、二人の関係には劇的な変化が起きてしまっていた。……いや、前兆はきっとあったのだ。しばらく前から、少女は体調が悪いから外出を控えているといった言葉を何度も口にしていたではないか。
その言葉の本当の意味を。その言葉の裏側に潜んでいた一欠片の弱音と真実の欠片を。それが、今日のような事の前兆を示唆していたことに気がつけなかった事が、この結果に繋がってしまっていたのだ。
──これまでも、何度も前兆はあったはずだ……。
それなのに、何の手も打ってこなかった。どうして良いかも分からなかったし、問題の根源にあったのだろう“何か”を知るらしきエドに、その部分を全てを任せきりにしてしまっていた。……だからこそ、こんな結果を招いてしまったのかもしれない。
自分から動こうとせず、あえて知ろうともせず。相手が教えてくれるまで待つという消極的な介入にとどめて。その結果、常に相手にのみ辛い決断を強いる形になってしまっていた。
そのことを悔やむには、全てが余りに遅きに逸していた。
……事が少女の体調に関する事であるので、ある程度は仕方ない事でもあるとはいえ、それでも、この変化は少女にとっては決して好ましい変化ではなかったはずなのだ。
これまでどうにかこうにか凪状態を保っていた海が、突如として時化始めたかのようにして、それまでも地を這うレベルの低調っぷりだったとはいえ、それでもどうにか現状を維持出来ていたのに。そんな少女の体調は、突如として雪崩を打つようにして悪い方へと転がり落ちてしまっていた。それこそ、まともに歩くことさえキツイような、そんな状態に……。
「情けないわよねぇ……。まだ西区から出てすら居ないってのに……」
ハァハァと荒い息をつきながら、目の前に置かれた果物のジュースらしき飲み物に口をつけてゆっくりと中身を飲み干していくジェシカだったが、その辛そうな疲れの浮かぶ表情とは裏腹に、声や口調からはまださほど悲壮感は感じられなかった。
「……それ食べて良いわよ」
「いいんですか?」
「うん。……今日、あんまり食欲ないの」
二人の中間位置のあたりに置かれていた甘そうなお菓子を前に少年が手を出していなかったのは、こういった屋台での買い食いといった行為に強い憧れがあったと、以前に目の前の少女から聞かされていたからなのだろう。だが、今日は飲み物は口に出来ても、甘そうなお菓子には手を出せそうにない体調だったのかもしれない。
だからこそ、声のかけにくい相手に間を保たせる意味でも適当に数枚口に運んで、飲み物へと手を伸ばしたクロスであったのだが。
「……うっ」
その手は思わず口元で止まってしまっていた。
──なっ……。なんだこれ……。異常に酸っぱいというか……。じょっぱい?
何かやけに酸味の強い果実のジュースであることは間違いなかったのだが、そのやたらと強い酸味に加えて、やけに塩気も強いとなると、とてもではないが普通に飲めた代物ではなかったのだ。それこそ、嫌がらせかと思う程に……。
「あっちゃぁ~、もう飲んじまってたかぁ……」
そんなクロスに向かってヒョイと屋台の影から顔をのぞかせながら、ペチンと己の額を叩く店主は、スマンスマンと苦笑交じりに謝りながら、ソレの味付けに失敗したみたいだから、今から新しいの出すから、しばらく待っててくれと口にしていた。
「え? それって、どういう……」
「いやなぁ……。その果物ジュース、もともとスゲェ酸っぱい梅の実の砂糖漬け汁を薄めて作ってるんだがよ。それの元々の味が飲めた代物じゃないのもあって、そのまま薄めただけじゃ酸味が強すぎるんだ。かといって薄めすぎても味とか匂いがなくなるからなぁ」
そんな訳で、普通は水で酸っぱさを薄めた後に、甘みをつけるための砂糖などを足すらしいのだが……。
「それでな。さっき、お客さんが多かった時に作りおきのストックが切れちまってな。そんときに慌てて作って継ぎ足しといたんだが……。どうやら、それがいけなかったらしいや」
薄茶色の混じった見た目が大して変わらなかった事もあってか、砂糖と塩、思わず間違えて入れちまってたらしい。たまたま自分で飲んでみて味がおかしいのに気がつけたから良かったものの、お客さんらに出したのは大失敗やらかしたヤツだったみたいだしよ……。ちゃんとしたのを今から新しく作りなおすから、もうちょっと座っててくれ。
そんな店主からの謝罪込みの説明で、先ほど自分が口にしたジュースが、異常に塩気が強い妙な味だった原因は分かったのだが……。
「……」
「……」
ほとんど中身の減っていないコップを手にしたままな少年の対面には、中身が綺麗に空になっているコップを手にした少女が座っていて。そんなコップから視線を上に上げていくと、感情の消えた瞳でワナワナと唇を震わせている少女がいた。
……そんな少女の本当の将来の夢は、お菓子職人になって小さな店をやってみたい、と。そう楽しそうに口にしていたのに。
「……もう、むり……。やだよぉ……。こんなの、やだよぉ……」
何に、そんなに打ちのめされてしまったのだろう。カタカタと大きく、目に見えるレベルで震えながら。見開かれた瞳から、滂沱の涙を溢れさせながら。己の肩を抱くようにして泣きだしてしまった少女を前に。
少年はついに来るべき時が訪れてしまった事を。終わりの日が。今日が、その日であることを。それを、否が応でも思い知らされてしまっていたのだった。