4-14.悪魔憑き
悪魔憑き。その言葉は、古い時代においては、いわゆる『悪魔の血を宿した魔人種の亜人』、いわゆる魔族と人族や亜人などの間に生まれた『混血児』を指す言葉だった。
そんな魔族の血を引く者が内包する事になる膨大な魔力……。それこそ、他の種族とは桁からして違うとされる膨大過ぎる魔力が……。それを内包することになる入れ物たる肉体が、その内側からの圧力に耐えられなくなるほどの魔力を宿してしまった結果、その悪魔の血の証ともされている“黒血”を沸騰させてしまって悶え苦しんだ挙句に、その苦しみを塗りつぶすかのようにして内側から沸き上がってくるとされる他者への破壊衝動によって、理性や自我までをも崩壊させられた結果、先祖から受け継いでしまった悪魔の本能が命じるままに、獣のように暴れまわってしまうのだろう。
その姿を「まるで悪魔が宿ったようだ」と揶揄した事が、そう呼ばれる事になる原因であったともされていたが、そういった事情を抜きにしても、種族的にも優れた能力を持つ肉体と、極めて高い魔力を誇る魔人種が理性を失って、本能のままに暴れまわる事になるのだ。
その厄介さは、そんじょそこらの魔物の比ではなかったのだろう。それくらい恐ろしく、おぞましく、そして忌まわしく、厄介でもある危険極まりない存在であったのだ。
古い時代においては、大陸はかつての支配者であった魔族と、その眷属や被支配種族でもあった無数の配下達の間に生まれ落ちた数多くの魔人種、いわゆる混血児達が溢れ返っており、強大な力を秘めた親から受け継いでしまった魔族の血に肉体が負けてしまった結果、こういった魔力の暴走を起こしてしまう魔人も数多く居たたため、さほど珍しい出来事でもなかったのかもしれない。だが、そんな忌まわしい記憶を払拭すべく、かつての主人を地の底に追いやり、新たな主人を迎えることになった大陸からは、そういった面倒くさい連中を残らず駆逐しようと考える者が多かったのだろう。魔族の血を引いている者であれば問答無用で殺して、見せしめのようにして屍を町中に晒さなければならないという『悪魔狩り』などという狂気に満ちた忌まわしくも陰惨な風習が横行していた闇の時代もあったのだが……。
「悪魔憑き……? 久しぶりに“出やがった”な!」
しかも、こんな……。よりにもよって、最悪のタイミングで! そう「チィッ!」と盛大に舌打ちしたアーサーの腰には、大ぶりではあっても作りからして護身用程度にしか使えないだろうダガー程度しか装着されておらず、その腰には剣すらも下がってはいなかったし、格好だって平服で鎧など着ていなかった。つまりは、ほぼ丸腰同然という格好であり……。
「武器も鎧もなしで、どうするつもり!?」
そう焦ったような声で背後からたずねられたのは、それでもほぼ丸腰な青年が現場に向かって走りだしてしまっていたからなのだろう。
「武器なんざ、コレで十分だ」
そうベルトの腰の後ろの部分に横向きに鞘が装着されているダガーの柄を叩いて見せるが、そんな「武器ならあるぞ。一応」とでも言いたげなアーサーの格好は、やはりただの平服姿であって。少なくともこれから命がけの戦いになるかもしれない現場に飛び込んでいけるような格好では決してなかった。
「アンタねぇ! いくら強いからって、いくらなんでも油断し過ぎじゃないの!?」
「大丈夫だって。悪魔憑きくらい、今の武装でもどーにでもならぁ」
そんな止めようと追いかけてくる少女を振り切るようにして、遠巻きに作られていた薄っぺらい人垣によって囲われた騒ぎの中心地であるらしい公園にやってきた青年と二人(二人はかなり遅れてついてきている形になっていたので)であったのだが、その先頭を走っていた青年は「面倒クセェ」とばかりに、その人垣を乗り越えるようにして野次馬の肩に手を置くと、そこを支点にしてヒラリと飛び越えると、その騒ぎの中心地にスタッと身軽に、そして見るも鮮やかに降り立っていた。だが、そんな真似をすれば当然のように目立ってしまう訳で……。
「ガアゥ!」
そんなアーサーに背後から問答無用とばかりに襲いかかる小柄な人影があった。だが、その歪な爪の生えた鉤爪状の指から軽やかに身をかわすと「いきなりご挨拶じゃねぇか。コノヤロウ!」とばかりに、強烈な膝蹴りを叩き込んで弾き返していた。
「こんな町中で、えらくド派手にやりあってんな。おい」
蹴り飛ばした相手が地面に四つん這いの格好で『ズザザザ!』と盛大に音を立てながら砂煙と共に着地するのを横目に、青年は武装した兵士らしき数人の男に声をかける。そこには槍や剣を手にボロボロになった革鎧で身を包み、あちらこちらから血を流している男達が居た。ただ一人も無傷な者が居ない事が、これまでの戦いの激しさを物語っていたのだろう。
「……何やら手こずってるみたいだし、ちょっとだけ手伝ってやるよ」
そう言いながら顔を背けたのが、大きな隙を見せたかのように思えたのだろう。四つん這いになった低い姿勢のままに足元を狙って飛びかかってきた小柄な亜人を、容赦なく蹴り飛ばして跳ね返したアーサーであったのだが……。
「イッツ……」
その顔が奇妙に歪んだかと思うと、ズボンの脛のあたりからジワジワと赤い染みが広がり始めていた。
「こんにゃろぅ、噛みやがったな……!」
ぶち殺してやる。そう態度で示すかのように腰のダガーを抜いて構えたアーサーであったが、そんなアーサーにまわりの兵士から必死な声がかけられていた。
「待ったぁ! その子を殺さないでくれ!」
「あん? 殺すなだと?」
「ああ。殺さないでくれ! 絶対にだ!」
そう口にする男たちの手にしている武器が刃引きしてある訓練用の物であることに、今更ながら気がついたのかもしれない。そんな殺傷能力の殆ど無い武器を手に現場に立っているらしい三人の革鎧装備の下級兵士らしき男たちに「理解できん」といった表情を向けながらも、飛び込んでこようとする相手の目の前で振るだけに留めて、あえて牽制程度に抑える。無論、詳しい事情を聞くための時間稼ぎである。
「……どういうことだ?」
「その子は、まだ“発現”にまでは至ってない。単なる魔力暴走で暴れてるだけなんだ。手を付けられない状態でない限り、殺害は極力避けるようにと“上”から厳命されている!」
下級兵士の言う“上”とは常識的に考えれば上官という意味になるのだろうが、あるいはもっと上……。王宮といった意味になる場合もあるのだろう。つまりは国法あるいは国策によって無闇な魔人の殺害は禁止されているという意味になる。
「まあ、極力殺すなってのは分からんでもないが……」
教会組織は国と連携して亜人、特に悪魔狩りによってすっかり数を減らしてしまった“魔人”を最重要視しながら積極的に保護することで、地方村や農村部などへの治療師の補充へと繋げていくべく、育成と再教育といった面に力を入れているというのは周知の事実ではあったし、青年も納得のいく部分ではあったのだろう。そういった事業への絡みもあって、魔人は魔力暴走を起こして暴れだしたとしても滅多なことでは殺さないで捕獲に留める事が暗黙の了解になってしまっていたのだろう。それこそ、すぐに殺さないと周囲に大量の死者が出るといった状況でもない限り、まずは力尽くで押さえ込んで身動きがとれなくした上で、エレナの司祭の封印術で暴走状態をどうにかしてしまうという対応が多くの場合に採用されていたのだ。
「……とはいえ、こんな状態になってるヤツを、本当に正気に戻せるのか?」
見た感じ目は真紅の光を発し、全身から黒い霧のような気体が漂い出ていたし、四肢は明らかに人の物から獣の物へと変態を起こそうとしている。恐らくは人から獣への変化を起こす魔物、ウェアウルフなどの獣人が先祖に居たのだろう。
「まずい。“発現”が……。悪魔の血が……。黒血が目覚めようとしているぞ!」
「司祭は?」
「まだだ! だが連絡は行ってるはずだ!」
暴走を止めるにはどうにかして押さえ込まなければならず、押さえこむためには暴走状態をどうにかする必要があった。そんな二律背反な状態ではあったのだろうが、とりあえずは目の前で暴れてる化け物をどうにかして押さえこまなければ、コレ以上は話が前に進んでくれないのは間違いなかったのだろう。
──だが、それを成すためには……。
チラリと視線を向けた先には余りに短い刃だけがあって。今の使い慣れいるとは言い難い手持ちの武器、安物のダガーだけでは色々と足りていないのが事実だった。そんな訳で手を貸すから、そっちの刃引きの武器、具体的には剣を貸してくれ。そう片手で相手を牽制しながら横の兵士の方へと空いた手を伸ばしていた時の事だった。
『ぐがあああぁぁぁああぁ!』
キーンという強烈な耳鳴りと共に。耳の奥の方に直接、音の塊が叩きつけられたかのような叫び声だった。その激しくも巨大な咆哮と共に吐き出された衝撃が体を突き抜けていく。その一瞬で四肢から自由を奪い取ってしまっていた。
──しまった! こいつ人虎族か!
悪魔憑きが恐れられる理由の一つが、この先祖返りによる能力の覚醒、いわゆる“発現”だった。魔人は己の中に眠っていた魔族の血を魔力暴走させることによって先祖から受け継いだ魔族の能力を使えるようになる事が多かったのだ。その結果、魔族のように無詠唱で攻撃系の魔力攻撃を連発したり、今回の獣人系の魔族の特殊能力に目覚めてみたり、それによって攻撃を受けたりと、その脅威は街中に突如として魔族や魔物が表れたに等しかったのだ。
そんな獣人族の中でも最強の種族として知られる人虎族は、その秘めたる特殊能力の衝撃の咆哮によって効果範囲内の生物の四肢を軽い麻痺状態にすることが出来るのだ。それを、こんな至近距離から。しかも何の防具もなしで直撃を食らってしまっては、いくら手だれの冒険者といえども流石に麻痺状態を免れなかったのだろう。
──いくら治療師の育成が目的といっても……。
こんな化け物みたいな奴らを保護なんて、そんな悠長なことゆってられるのか!? そう疑問を感じるのも無理もなかったのだろう。そんな青年の目の前に迫るのは、黒い霧を漂わせる大きく裂けた獣の顎。そこに生えた奇妙に白い色をした鋭い乱ぐい歯。上顎から生える大きな犬歯にいたっては下手な剣よりも鋭そうだった。
──食われる……のか?
咄嗟に避けようとしても体はまだ自由にならず、打ち払うにしても手はおろか足すらも僅かにしか反応してくれない。僅かにビクビクと痙攣しているかのようにして反応するが、それだけしか反応してくれないという意味でもあったのだろう。……あとすこし、ほんの数回呼吸する程度の時間さえあれば体は再び自由に動くようになるはずなのに……。それを感覚で感じ取りながらも。眼の前に迫る牙をどうにかするには、その求められた猶予時間はどうしようもなく長すぎていて……。
──こんな所で終わる……?
黒い霧を漂わせた口が。そこに生えた太い牙が迫って来る。狙いは首か。嫌になるほど適格な狙いだ。まさに獣の本能だな。……顔が思わず引きつり、その目がやけに大きく見開かれている。……おいおい。なんだよ、それ。やけにデケェ牙だなぁ……。お前の先祖ってサーベルタイガーか何かだったのか? そんな下らない苦笑交じりの冗談がよぎり、その直後に思考が怒りの感情に焼きつくされていく。
「ふざ、け……なっ」
思わず噛み締めた歯の隙間から憤怒の声が漏れていた。それと同時に吹き飛ぶのは獣の顔。目の前には固く握りしめられた金属製の“拳”が。いつの間にか振り抜かれていた。無論、それをやったのは自分なのだが、それをやったという自覚は一切なかった。そんなことを考えている余裕すらも残されては居なかったのだ。
そんな青年の脳裏を占めるのは“怒り”。血反吐を吐きながら目の前で地面の上を転がっていく“敵”など、今の青年にとっては最早、どうでもよかったのかも知れない。
──今、何を考えた? お前。今、なにをした? 何を、しようとしていた……?
どうせ亜人のガキでも暴れているだけだろうと油断して? ロクな武装もなしに。安物のダガーを片手に突っ込んでいくような馬鹿な真似をした挙句に? 油断から傷を追った……? それだけか? その上、変に頭に血を昇らせて……? 相手を舐め腐った挙句に、間抜けな事にも程があるが無様に“麻痺”を食らった……? それで、食われそうになった?
「馬鹿が!」
油断もなく。容赦もなく。ただ無造作に拳は振り下ろされる。その拳はいつの間にか青白い鋼に包まれていて。その頑丈な金属製の拳が。頭を。顔を。腕を。胸を。手当たり次第に“破壊”していた。
「油断しやがって!」
その怒りは相手に向けられていた物などではなく。その全てが己に。先ほどまでの自分自身向けられていたからこそ、冷たく。それだけに激しい物だったのかもしれない。
──阿呆が! 腕が動かない……? だからどうした!? 足が動かない……? だからどうした!? なぜ、もっと足掻かなかった? なぜ、もっと必死にならなかった? ……なぜ、今の瞬間、諦めていた? 誰かが、どうにかしてくれるとでも思ったか? 何もしなくても、どうにかなるとでも考えていたのか? ……なる訳、ないだろうが! 油断していたら、一瞬だ! 一瞬で人は死ぬんだぞ!? それを忘れたのか!?
余りの怒りによって。噛み締め過ぎた歯の隙間から血の味すらも感じられていた。
──こんな所で終わりにするつもりだったのか? お前のなりたかった“勇者”ってヤツのご大層な肩書きは、そんなに適当で、安っぽい代物だったのか? ……ふざけるな! こんな所で、亜人のクソガキ相手に油断しまくった挙句に下手打って死ぬだと? そんな情けない死に方が許されるとでも思ったか!? そんな下らない死に方をして、誰が褒めてくれる!? そんなの、誰も認めちゃくれねぇよ! そんなことで……。こんな情けない有様で! 誰がシャルロットの実在を信じてくれる!?
青年の自己嫌悪という名の怒りの炎が渦巻く脳裏に。街の郊外に立つ小さな一軒家で。海に面した部屋の中で。その少年の見つめる先で。海風に当たりながら。まるで疲れきった老人のようにして安楽椅子に腰掛けながら。ぼんやりと。焦点の合わない瞳で空を眺めながら。そこを飛ぶカモメ達の声に耳を傾けながら。ゆっくりと夕日が沈んでいく海を。その果てを見つめてるかのような。その姿を脳裏に思い浮かべながら……。
『勇者なんて、何処にも居やしない。そんな物語のような存在なんて、居ちゃいけないのさ。……だからシャルロットの名も、クラリックの家名も。……何もかも、捨てるしかなかったんだろうね。……でも、そうやって捨てることでしか得られない物もあったってことなのかもしれないよ……?』
──あの日、俺は約束したはずだ。……俺が。俺が勇者が本当に居たんだってことを。それを、皆に証明するって……。俺が皆に、あの人が……。あの人がたった一人でやってのけた“偉業”を。魔族の支配を終わらせたんだって事を“思い出させてやる”って。どれほど大きな恩を揃いも揃って全員が忘れちまってるのかってことを。……それを、力尽くでも思い出させてやるって……。あの日、あの場所で、あの人を前に、己にも。あの人にも、誓ったんじゃなかったのか……? アイツの……。シャルロットが確かに実在していたんだって事を。勇者の力ってヤツの本当の凄さを! それなのに……。それなのに……! 俺は、こんな所で何をしているんだ!? こんなことで、どうやってそれを証明するつもりだったんだ!
「……そのくらいにしておきなさい」
気がついた時には、誰かが肩に触れていた。その冷たい掌の感触と、聞き覚えのある声と。何よりも、先ほどからやけに耳につく無数の鎖がチャラチャラと音を立てている不思議な音色が聞こえていた事が。それら全てが待ち人の到着を。背後に立っているのが、契約と制約を司る“茨の王”エレナの司祭であることを教えていた。
「エレノア」
そうポツリと口にされた名前に、背後から苦笑が漏れるのが感じられた。
「……はい。私です。……また、派手に痛めつけましたね。アーサーさん」
そんな言葉によって、今更ながらに自分が何をしていたのかに気がつけたのかもしれない。血まみれになった手甲……。青白い金属製のガントレットで何度も殴りつけられたことで、いくら人間よりも遥かに強靭でタフな肉体を誇る人虎族に変態していたとはいえ、上半身……。特に身を守るために盾にしていたのだろう両手の傷が特に深刻で、骨はあちこち折れてしまっているし、酷い部分になると折れた骨が皮膚を突き破ってしまっている箇所まであるほどだった。……流石に深刻なダメージを受けてしまっているようだった。
我を忘れて本能のままに危険な力を振り回す形で大暴れしていたとはいえ、流石にこれはやり過ぎと言われても仕方ない有様だったのだろう。
「迷宮の中に居る時だけトチ狂っているのかと思っていましたが……。どうやら外に居る時には、単に猫を被っていただけだったようですね」
それは暗に「そちらが貴方の本性でしたか」と責められているという意味であり、深読みすれば「やっぱりね」といったニュアンスも含まれているような言葉でもあったのだろう。
「それとも、それが貴方の本当の姿ということなのでしょうか?」
そう「すぐに暴力で物事を解決しようとする粗暴な人物と思われたくないなら、さっさとそこをどきなさい」と暗に告げられたことで、ようやくアーサーも沸騰していた頭が冷えてきたのかもしれない。
「……分かった。後は任せる」
「任されました」
そう言葉を交わして。鎧姿の青年は立ち上がり、代わりに体中に黒い鎖をぶら下げた異様な格好をした司祭が「これはひどい」とばかリにため息混じりに屈みこんでいて。
「無償で暴れていた魔人の“捕獲”を手伝って頂けたのは感謝していますが……。次はもう少し、手加減してお願いしますよ? 勇者殿?」
そんな背後から聞こえてくる嫌味混じりの感謝の言葉に、アーサーは何も答えず、ただ頬を自嘲の笑みの形に歪める事しか出来なかったのだった。