4-8.やり残したこと
それじゃ、三十分後にね。
入り口の扉を閉める寸前に、その隙間からピョコンと頭を出しながら、そう言い残してエドの診療所に入っていったジェシカを呆然としたまま見送ってしまったクロスであったのだが、その顔もパタンと扉が閉められた音でハッとなっていた。
──しまった、格好……。
今の格好はいつもの修道士の制服の上に粗末なローブを着ていて、頭にフードをかぶっている。そんな『中身が見えない格好』のお陰で、何とか自分が修士であることがバレずに済んでいたが、流石にこの格好のままというわけにはいかなかった。何しろ、ジェシカは自分の前ではローブで顔を隠すなと言い放って無理やりローブを脱がせてしまうことが多かったのだ。もし、今の格好のまま「行くわよ!」ってなことになったら……。
──まずい。着替えて来ないと。
残り時間は三十分。ここから宿舎に帰って着替えて戻ってくるまで……。そう簡単に計算してみたら残り時間はギリギリであることが分った。とりあえず、着替えてこないと。そう考えたり悩むのは後回しにして、とりあえずは着替えるために走る羽目になったのだった。
◆◇◆◇◆
治療院の寮の廊下はすれ違える程度には広いが、その際に肩が当たる程度には狭かった。そのせいか「廊下をむやみに走らないように」とエルクから日常的に言い含められていたせいもあったのだろう。トタトタと早足程度の速度で廊下を歩きながらも、それまで走っていたせいかハァハァと軽く息を切らしながら、ようやく自室に駆け込んだクロスが見たのは……。
「……おっ。今日はやけに早く帰ってきたな~」
フームと壁にハンガーでぶら下げてあったはずの女物の服を手に、何やらクンクンと臭いを嗅いでいる馬鹿の姿であり、そんな色んな意味でアレな姿を見た瞬間に、色々と力が抜けてへたり込んでしまいそうになったクロスである。
「……何やってくれてるんですか、貴方わ」
「ん~? 何って……。そんなの見たら分かるだろ~?」
う~ん。ちょっと臭うけど意外に体臭って付かないモンなんだなー。そんな色んな意味でアレな感想を口にされて思わず頬を赤くするクロスであったが、今はこんな匂いフェチにかまってる暇はなかった。
「……とりあえず着替えなきゃいけないので、ソレ返してください」
「コレ着るのか? ……ちょっと臭うぞ?」
「……一応、こまめに洗ってはいるんですが……」
一着しかないので大事に洗って着ていたのだが、何しろ女物の服なので洗うにも人目を偲んでやる必要もあって、暗くなってからこっそりと洗ったりしていたのだが……。この前のお見舞いの時に着た時にはさほど長時間着ていない事もあって、さほど汚れてる風でもなかったので洗ったりしていなかったせいか、少し汗の臭いが残ってしまっていたのかもしれない。
「まあ、今日着たら、洗っておきます」
「そーしたら良いかもな~。……汗臭い服来てると、あの子にも嫌われちゃうんだぜ?」
そうニヒヒッと嫌らしく笑いながら服を手渡してくる変態に僅かに顔をしかめながらも。
「……」
「……」
手渡された服を手にしたまま固まるクロスと、そんなクロスを前に平然とベッドの縁で足を組んで腰掛けている馬鹿が一匹。ちなみに、馬鹿の方の格好は「何処の貴族だ、貴様わ」といった洒落た格好で、見るからに上等な仕立てな服を着ていたりした。……言動こそ色々とアレで残念すぎる変態馬鹿だったが、見た目だけは超が付くほどに上等な美青年だったりするのだ。しかも、その顔が自分とよく似ていたりするからこそ、必要以上に疲れを感じてしまって思わずタメ息をついてしまうのかもしれない。
──世の中は色々と不条理で理不尽に満ちていますね……。
せめてこれが見た目が醜悪であったり、見るからに悪魔然とした羽や尻尾や角が生えていたり、肌の色が灰色であったり赤銅色であったり青銅色であったりしてくれたなら色々と割り切りも簡単であったのに、見た目だけは普通に一流階級のおにーさまであったからこそ、こうしてジーと見つめていられてると色々と居たたまれなくなってくるものなのかもしれない。
「あの~」
「なんだ?」
「着替えたいのですが」
「着替えたらいいんじゃないか?」
彼女との待ち合わせの時間があるから急いでるんだろ? 分かってるって。邪魔したらかわいそうだから、今日の所は手を出さないで居てやるから、さっさと着替えたら良い。そうニッコリと良い笑顔で頷かれたら、思わず返す言葉もなくなってしまうのかもしれない。
「……」
「……ん? ど~した? 着替えないで良いのか?」
「その……」
「うん」
「……そうジッと見られていると、その……。恥ずかしいんですが……」
「男同士で肌を見られたからって、恥ずかしくはないんじゃなのかね。常識的に考えて」
普通はそうなのかもしれない。そう。それこそ普通の相手なら。……だが、これまで色々とヤらかしてきた相手が目の前に居る状況のせいか、こういうシチュエーションでは色々と警戒心が湧いてきてしまうのも仕方なかったのかもしれない。
「しかし……」
「……そうやって恥ずかしがってる姿も、なんか女の子みたいでなかなか可愛いぞ。うん、良い感じに萌える。グッドだ!」
そうぐっと親指を立ててサムズアップ付きで笑われてサッと頬に赤みが差したのを見て、ますます笑みを深くする馬鹿であったが……。
「まあ、いいや。我が子を虐めるのもなかなかに有意義な時間の使い方だが、あんまり時間を無駄にさせて後から変に恨まれるのも上手くないからな。このへんにしといてやるよ」
いちおー貸しだからな。あとでノシつけて返して貰うんだぜ? そうウィンク混じりに言い残して馬鹿はいつものように高笑いをお供に部屋を後にする。……例によって扉の向こうには色々と人も行き来しているはずなのだが、きっと誰ひとりとしてそんな大馬鹿野郎の存在には気がつけないのだろう。
「……フゥ」
何というか、今更ながらに存在自体が理不尽という相手の厄介さに思い至ると共に、その正体というものが妙に気になってしまったのかもしれない。
「本当に。何者なのでしょうか」
自称悪魔にして、自分の父親らしい存在。あの生きた伝説クラスで、桁の幾つか飛び抜けている剣士であるエルクにすら存在を一切感知させず、寮の中の人々はおろか薄い壁一枚でしか仕切られていないはずの隣の部屋の住人ですらも自分達のやりとりに気が付けない。そんな訳の分からない存在にして、反則じみた存在である見た目だけは美形の貴族な青年……。
「……そういえば、名前……」
これまで何度も言葉などを交わしておきながら、未だに名前すら知らないのだ。そんな訳の分からない相手に僅かではあっても心を許しつつある自分が居て、それと同じくらい戸惑いを感じている自分も居て。そんなおかしな関係に頭の方までおかしくなりそうな気分だった。
──考えるな。考えるだけ無駄だから……。
そういつものように『アレは人の形をした歩く大理不尽そのものなのだから』と適当すぎる形で自分の中に決着をつけてノロノロと着替え始めていたのだが……。
ガチャ。
「そうそう。肝心なこと言い忘れてた」
「キャッ!」
「その服な。胸元の襟のあたり、血の染みで黒く汚れてただろ? 折角のデートなんだから、ちゃんと染み抜きして『綺麗』にしといてやったぜ。……サービス満点だろぉ? パパの愛に感謝しろよ! あと、今の悲鳴、可愛かったぞ。ごっそーさん。じゃな!」
もう帰った。そう思い込んでいた所に不意に戻ってきて、開いた扉の隙間から頭だけ覗かせながら好き勝手な台詞を吐いて。半裸状態のクロスに縮こまった状態で悲鳴を上げさせて。最後にはウィンクすらして見せながらケッケッケと笑ってみせて。その舌が蛇のようにシュルルルと伸びてるのは自分のことをコケにするためなのだろう。なんとなく、それを察してしまったせいか、手にしていた奇妙に綺麗になっていた服を思い切り馬鹿に向かって投げつけていたのだが、その顔は服が命中する前には扉の向こう側に引っ込んでしまっていて。
「この……」
怒鳴りつけやりたくても相手の名前すら知らないから罵りようもないし、かといって相手の思惑通りに糞親父や馬鹿親父などと呼びたくもなかったし、一人の時に悪魔がどーとか叫んでいては周囲に何とおもわれるか……。結果、叫ぶ事すら許されずに、一人悔しさと怒りと羞恥心に悶々としながらも、握りしめた拳をプルプル震えさせながら、それを振り下ろす先すらも与えられないことで爆発すら出来ないでいた。そんなやり口に「やっぱりアイツは悪魔だ!」と憤慨していたのだが、そんなクロスの表情から戻ってきた直後の精神的な疲れのようなものは残らず消え失せてしまっており、なんだかんだで精神的に賦活されてしまっていたのかもしれない。……それを狙ってやっていたのなら大したものなのだろうが、まあ偶然の産物の可能性のほうが高かったのだろう。
「……フゥ」
そんな沸き上がってくる怒りの感情を飲み込み、心の波を無理やりに押さえつけて冷静さを取り戻しながら、もう残り時間も少ないのだからと急いで服を手にとったクロスであったのだが……。その手にした服から僅かに漂ってくる臭いに気がつけたのは、服が新品同様に綺麗になっていて臭いらしい臭いもしなくなっていたからなのかもしれなかった。
「……これって……」
それは嗅いだ事のある匂いだった。鼻の奥の方をくすぐるようなツンとした刺激臭。長く嗅いでいるとクシャミが出てしまいそうになる、そんな匂いだった。……もしかすると薬入れから立ち上った凝縮された匂いの刺激でクシャミが出たのかな。そんなラチもないことを考えてしまいながらも、思わず匂いの原因を探ろうとしてしまったのか、手にしていた上着を鼻に近づけてしまっていたのだが……。
「……」
その匂いの原因になっているらしき右のポケットから出てきたのはやたらと見覚えのある黒い葉っぱの形をした薬であって。その独特の強い刺激臭を確かめるまでもなく、ソレはあの時に見たエドお手製の処方薬であり……。色々と曰くがあるという品であり、エド曰く『ロクでもない代物』そのものだった。
「……」
本来なら返してあげるべきなのだろう。とても高価な品であるそうだし、色々と厄介そうな代物であるようでもあるし、何よりも薬をちょろまかしたと思われるのはよろしくなかった。しかし、クロスは薬の現物を前に少し迷ってしまっていた。
返すべきか、返さざるべきか……。あるいは、今すぐ返しに行くべきなのか、しばらく借りておいて用が済んでから返しに行くべきなのか。あれだけあれば一枚や二枚無くなったからといっても気がつくとは思えなかったし、何よりもこの薬の正体を探るためにも現物はどうしても必要になるのだから、出来れば持ったままでいる方が色々と都合が良いのは間違いなかった訳で。そんなわずかに迷いを感じさせる表情を浮かべたまま指の先で薬を摘んで、そのまま無言のままにしばらく考え込んで。そうやって散々に悩んだ末にクロスが出した答えは……。
──色々と失格ですね……。
指の先に掴んでいた葉っぱをクルッと一回転させると何かを吹っ切ったのか小さくため息を付いて。引き出しから取り出した綺麗なハンカチで丁寧に挟んで、そのまま部屋に備え付けのサイドテーブルの引き出しにしまってしまったのだった。
◆◇◆◇◆
さて。そんな後ろめたさマックスな出来事の後にジェシカと待ち合わせをしなくてはならないという中々に精神的に“くる”モノがあるイベントに挑む事になったクロスであったのだが、そんなクロスとは対照的にジェシカは何処か落ち着いた表情を浮かべていた。
「おまたせ~」
エドの診療所の入り口の石段に腰掛けてジェシカが出てくるのを待っていたローブ姿のクロス(中身は女装済み)であったが、そんなクロスに微笑みかけるジェシカはいつもとは違って、お嬢様らしい可愛らしい格好をしていた。
「待たせちゃったかな?」
「いいえ。さっき来た所ですから……」
本来の待ち合わせの時間から二〇分近く遅れてやってきたクロスであったが、今日はジェシカの方も時間がかかってしまったらしく、息を乱したクロスが入り口に座り込んで十分以上が経ってから出てきていた。
「それじゃ、行こっか」
「えっと……。何処に?」
「前の続き」
「前?」
そんなイマイチ要領を得ないクロスであったが、そんなクロスにジェシカはニッコリ笑って答えていた。
「私がリタイアしちゃったツアーの続き」
「ツアーって……。冒険者体験ツアーですか?」
「うん」
ジェシカ曰く、あの日は本来なら後回しにしていた“露店街”の散策を最後にやる予定だったのだと。そう穏やかな笑みと供に説明していた。
「あとは冒険者ギルドの見学もかな。私、一回も中に入ったことないんだよね」
だから一回くらい中に入ってみたいのだけれど、どうにも一人では踏み込みにくい場所であるのでクロスにそばについていて欲しいのだと……。そう説明していた。
「気持ちは分からないでもないですが……。大迷宮には入りませんからね?」
そう危険な行為は一切禁止ですよ、と暗に告げられたジェシカであったが、そんな何時もなら不満を漏らしそうな言葉にも特に文句を言ったりせず、僅かに『分かってるわよ』とでも言いたげな笑みを浮かべてうなづいて見せていた。
「入り口を見るだけで引き返す。……ちゃんと、約束するわ」
だからお願い。一緒に来て。一人だとちょっと心細いの。そう手を取られて頼まれた事でクロスもある程度は覚悟が決まったのだろう。
「分かりました。約束ですからね」
「ええ。ありがとう。クロスさん」
そう答えるジェシカの笑みはどこか透き通っているように透明な代物で。……色々とアクが抜け落ちてしまっているとでも表現すべきものだったのか、これまでとは明らかに“何か”が違ってしまっていて。それは容易には掴み切れない変化の証であったのだろうが、その原因については不明なままだった。果たして、それはクロスの内面の変化のせいであったのか、それともジェシカの内面の変化のせいであったのか。はたまたその両方が原因であったのだろうか。その答えは分からないにせよ、何かが変わったことだけは確かだったのだろう。
「……何かあったんですか?」
そう思わず訪ねてしまったクロスの問いにジェシカは微笑みを浮かべながら。
「それを今から確かめに行くの」
そう答えたのだった。