4-6.不安と疑惑
いやぁ大変でした……。そう口にするクロスの頬は僅かに赤くなっていた。
「……叩かれたんですか?」
「まあ……。ちょっと、不幸な偶然の数々と言いますか、色々とおかしなアクシデントが重なってしまいまして……」
そんな色々と想定外のトラブルが重なった結果、床に散らばったエドお手製とかいう色々曰くのありそうな黒い葉っぱを片付けるのを手伝おうとしていたクロスであったのだが、そんなクロスを多少錯乱気味のジェシカは鼻水の後始末すらおざなりにしたまま引っぱたいて、出て行けとばかりに部屋から蹴り出してしまったのだ。
──あのとき、ソレに触るなって怒鳴ってたような気が……?
もともと想定外のタイミングで感情を乱してみたり、その逆に変なタイミングで急にテンションが下がって真顔になってみたりと、情緒不安定の気が以前から多少なりともあったのは確かだったのだろう。だが、今日のジェシカは極め付きだった。
そんな訳の分からないままに頬を引っ叩かれて部屋から叩きだされてしまったクロスであったのだが、そんなクロスを前にジェシカは、しどろもどろではあったにせよ、色々と言い訳の言葉を口にしながらも必死に謝って見せていた。
曰く、いろいろ恥ずかしかったり、みっともないことになったりして、頭がぐるぐるになって訳が分からなくなってしまっていた。多分、あの時には頭がぶっ壊れていたんだと思うし、色々とおかしくなってしまっていたから。だから、後先考えないで思わず叩いてしまったし、部屋から出て行けってしてしまった。……本当に、ゴメンナサイ。海よりも深く反省しています。お願いですから許してください。私の事を嫌いにならないでください。もう二度としませんから。お願いですから、もうこの仕事を請けないとか言わないで下さい……。といった具合に拝み倒されてもいた。
そんな床に頭をこすりつけそうな勢いで土下座されて謝られた事で、表面上は不幸な偶然だったのだからと笑って許して見せた事でその場を収めたクロスではあったのだが、どうにも一連の出来事に違和感が拭えない気分だったのは確かだったのだろう。それくらいジェシカの見せた慌てようは並大抵の物ではなかったのだ。それこそ、錯乱して引っ叩かれた事よりも、その時の必死な形相と口にされた言葉の方が衝撃的過ぎたせいか、未だにクロスは自分で自分の頬を癒すことすらも忘れてしまっていたのだから……。
「……司祭様」
わずかに屈みこんで自分の頬に癒しの光を当ててくれている。そんなエルクを僅かに見上げる形になりながら、クロスはおずおずといった口調で言葉を口にしていた。
「なんですか?」
「一つ……。その……。相談に乗って頂けませんでしょうか」
「私に答えられる事であれば何なりと……」
そう言葉を促されたクロスは長い……。とても長い沈黙の時間の後に、ようやく胸の奥から言葉を絞りだすようにして、つっかえつっかえではあったものの、その“問い”を口にすることが出来ていた。
「め、目の前に……。その……。何か、とても高くて。何やら曰くのありそうな“正体不明の薬”があったとします……。その薬を……。持ち主に許可もとらないで、勝手に手に取ろうとしていた時……。もし、それを見られていて。……その……。持ち主に『何をしているんだ!』って、すごく怖い声で怒鳴られたり、怒られたりしたとして……。その薬は、どういった種類の薬ということになるのでしょうか……?」
そんなひどく聞きづらそうなためらいを感じさせる言葉による問いに、エルクは僅かに考える素振りを見せて答えていた。
「私は薬師ではありませんので薬には詳しくはありません。ですが多少なりとも聞きかじった知識で答えるならば、その薬がとても希少であったり、高価であったり、触るだけでも危険なレベルの刺激物であったりする場合などでしょうか。あるいは……」
あるいは……? その言葉の続きは視線を逸らして口にされていた。
「何かしら取り扱いに資格や許可が必要になるような、とても強い副作用を持つ劇薬……。それこそ万が一にでも誤って服用してしまえば取り返しがつかないレベルの強い副作用があるような……。または触るだけでも体に悪影響を与えてしまうかもしれない、そんな怖い特徴を持つ薬であった場合などでしょうか」
その言葉にクロスは目を閉じて俯いてしまっていた。
──もしも……。もしも、あの“薬”が“そう”だったのだとするなら。
それなら、あの時の……。自分が手に取ろうとした時の、あの慌て様や、手にとってしまった時に反射的に頬を叩かれてしまったり、出て行けって怒鳴られたり、部屋から追い出されたのにも……。納得が出来てしまう。むしろ、そういった危険な薬であったからこそ。だからこそ、あれほど激しく反応してしまったのではないだろうか……。
そう考えると、色々と説明が容易くなるし、色々と変な部分があった出来事の数々にも一応程度ではあったにせよ説明がついてしまうのだろう。しかし……。
「貴方は、どう考えているのですか?」
「……わかりません」
正直に言って、分からなかった。素直に言わせて貰うならば、分かりたくもなかったのだろう。それが素直な感想だったのだ。
「……ただ、変な先入観や思い込みなどを持ちたくないので、この場で結論を出すのはやめておきたいと考えています」
「そうですか」
それでも気になる物は気になるわけで……。考えたくもないはずなのに考えてしまうし、考えてしまえば考えてしまうほどに、あの黒い葉っぱの正体が気になってしまうものなのだろう。少なくとも、アレは何か特別な曰くつきの処方薬なのではないのだろうか……。そう思えて仕方なかったのだ。
──多分、劇薬の類ではないのだと思う……。毎日、あれだけ沢山服用しているのに、劇薬のはずがない……。そのはずが……。あって欲しくない。
エルクには言っていなかったが、あの瞬間……。部屋から追い出される寸前には、触れるだけでも危ないといった風に、思い切り手を叩かれて、はたき落とされているのだ。そんな、他人が触ることすら忌避しているような、そんな素振りを見せなければいけないような代物を、あの人は、毎日、あれだけ大量に服用しているというのだろうか……? そんな疑問が次から次へと湧き出してきてしまう。
──あれは本当に滋養強壮の作用しかない健康増進の薬なのだろうか……?
ただ健康を維持するために……。本人の言っていたような、疲れやすい体を疲れにくくさせたり、疲労を回復させたりするための薬なのだろうか。……本当に体力を強化したりする類の薬でしかないのだろうか……。
あの禍々しい色が。黒い葉っぱという外見が、何故か強い不安を感じさせる。どこか強い不吉さを漂わせているように思えて仕方なかったのだ。思えば、初めて見た時から、ずっと……。あの時から、どうにもソレが気になっていた。それに加えて、今日まで余り気にしない様にしていたおかしな臭い……。あの独特のツンと鼻の奥に染みるような刺激臭を発している処方薬は……。あの変な体臭の原因だったのだろう黒い葉っぱは本当に……。ただ、それだけでしかない、普通の薬だと言うのだろうか……? あんな薬、これまで見たことも聞いたこともないのに。
──駄目だ。考えだすと何もかもが怪しく思えてきてしまう。
日頃、変に先入観や思い込みを持って仕事に当たらないように、何もかもをありのままに受け取るように訓練されていたし、そうあるように努力しているだけに、いったん疑いだすと何もかもが怪しく見えて来てしまうものなのかも知れない。それこそ何の罪もない事柄にさえ罪を見出してしまうほどに……。だからこそ、根拠や証拠もなしに無闇に人を疑うべきではないというのは重々承知していることではあったのだが……。それでも気になってしまう事というのはあったのだろう。
──少なくとも、アレは普通の反応じゃなかった。……多分、ただ高いだけの品や、珍しいだけの品じゃないんだと思う。きっと何か特別な……。厄介な事情なり理由なりがあったんだと思う。ちょっとやそっと高い品を触ったからといって、あそこまで怒ったり人の手や頬を叩いたりしてしまうような人じゃないはずだから……。それに、あの慌て様は何か理由なしには説明がつかない。
根拠にまでは至らない、不安というか予感のようなものがあったのだろう。これまでも、きっと何かしら感じては居たのだ。
これまで何度も側で一日を過ごしていて、毎回欠かさずジェシカが、あの黒い葉っぱを眉をしかめながら摂取している姿を。そのどこか不安を呼び起こされる光景を見ながら、心の底の方では違和感や疑問のような物をずっと感じていたのだ。
……毎日、大量に服用し続けているらしいあの薬が、あれだけ見た目が随分と禍々しく感じられる代物であることも気になっていたし、何よりもあれだけ摂取していたら何かしら体に副作用らしきものがあるのではないのかと……。
──本当に虚弱体質の改善のために薬を飲んでいるのかな。……本当は薬のせいで体がおかしくなっていて、それを虚弱体質だって言ってたんじゃ……?
それこそ、あの奇妙に疲れやすかったり、髪に艶がなかったり、肌の色が変にくすんでいたり、爪が黄色かったり、目が変に血走っていたり……。そんな不健康そうな外見を、本人は虚弱体質のせいで余り日光に当たっていなかったからと口にしていたが、そんな不健康さを強く感じさせる外見や顔色の悪さを化粧などで誤魔化す事すら難しい程に……。それくらい体が疲弊しているように見えていたのも。それすらも、単に虚弱体質のせいなどではなく、あの薬の副作用なり何なりではないのか。そう思えても仕方ないほどの過剰摂取っ振りだったのだ。
──もしそれが本当なら、あの薬は虚弱体質の改善のための物じゃないってことになる。
恐らくは、それが真実なのだろう。何かしら別に理由があってジェシカは薬を大量に摂取し続けていて、その副作用で体が弱ってしまっているのだ。……恐らくは、それこそが真実なのだろうが、そうなると今度は『薬を飲んでいる理由は何なのか』という根本的な部分の疑問に戻ってしまうのだろう。……そして、それを知らないということは、それを隠されているという意味でもあったのだ。
──何かを隠しているというのは承知していたけれど……。
きっとジェシカは何かを隠している。これまでに見てきてあえてスルーしていた数々の姿。そして、これまで見聞きしてきながら気にしない振りをしていた数々の不可解な言葉と違和感のある仕草と態度。……それらの中に混じっていたのは色々な兆候や信号。そして、違和感だったのだろう。そういった不自然な仕草や言動の節々から見え隠れしていたのは本音であって。そして、そこから漏れ聞こえてくるのは弱々しく助けを求めている声と……。無闇に。そして無遠慮に。何よりも無慈悲に。そうやって、自分の抱えている闇に覚悟もなしに踏み込んで来るなという強い拒絶と恐れ……。そこまで思い至った時、クロスはギュッと目を閉じて俯いてしまっていた。
「……それでお前は、どうしたいんだ? 馬鹿息子」
いつのまにかクロスは自分の部屋に帰っていて。薄暗くなってきた部屋の中で一人で粗末なベッドに腰掛けていた。考え込みすぎて、あの後、どんな会話をしてエルクの前を辞したのか、そしてどんな道を歩いて帰ってきていたのかすらも覚えていなかった。そんな一人で思い悩んでいたクロスの耳に届いた声は、どこか強い忌避感を感じさせる声でありながらも何故だか安堵も感じさせていて。
「……わかりません。私は、どうしたら良いんでしょうか」
おそらくは一人で考えて答えを出すことに恐れを感じていたのだろう。それが本当に正しいかどうか不安に感じていたのだ。だからこそ、日頃なら近寄るなといった態度をとっていた相手にすら素直に相談を持ちかけることが出来ていたのかもしれない。それこそ、この相手ならエルクに相談した時とは違った種類の答えなり助言が得られるのではないか……。そんなどこか藁にもすがるような期待感もあったのだろう。
「何、遠慮してんだ? それとも怖がってるのか?」
遠慮と問われて思い当たる節もあったのだろう。無闇に他人の抱えている事情なり秘密に踏み入るのはためらわれたし、何よりも相手がソレを望んでいるとはどうしても思えなかったのだ。そして恐れ。その指摘にもうなづかざるえない部分も多かった。……下手な隠し方ではあったのかもしれないが、ソレを自分の目からジェシカが隠し続けてきたのは事実であったのだから……。そして、そのことを相手から相談されたこともなかった。
そんな中で賢いやり方を選ぶとするなら、それこそどれだけ違和感を感じたとしても、それらを全て見て見ぬ振りをしてあげるのが冴えたやり方、ある種の“優しさ”ではあったのかもしれないのだ。
「ハッ。優しさ、ねぇ……。俺様の目には単なる狡さにしか見えんがな」
「狡さ?」
「ああ。知恵のある振り、賢い振りして面倒事から逃げまわってるだけにしか見えねぇ」
「逃げている、ですか」
そう一言で斬って捨てられた事は多少なりともショックではあったのだろう。どこか自分を甘やかす部分のあった相手から『甘えるな』と冷たく突き放された事で目が覚めた気分だったのかもしれない。……多少の胸の痛みはあったが、それ以上に痛快でもあったのだ。
「……そうですね。多分、逃げてるだけなんでしょうね」
これまで何か隠しているというのを知りながらも、真実を知る事からあえて目を背けてしまっていた。その秘密を暴いてしまった事による結果に……。何か恐怖心と忌避感を感じていたし、下手に面倒事に首を突っ込みたくなかった。何よりも嫌われたくなかったし、こんなことで喧嘩などしたくなかったのだ……。それに唯一といっていい収入源としての仕事を失いたくもなかったし、そういったジェシカとの“接点”を無くしたくなかったのだろう。……おそらくは口実を……。ジェシカと会うための口実を無くしたくなかったのだ。そんな自分の中の狡さや醜さをこれでもかという程に直視させられたことで、自分のためらいの正体と、その原因にも気がついてしまっていたのだろう。
──結局のところ、ソレを認めなかったから……。
多分、自分はジェシカのことが好きなのだ。そのことに、ようやく気がつけたのだろう。だからこそ好きになった相手の秘密を暴くことを恐れてしまった。好きになった相手との唯一の接点を……。仕事という関係を失いたくなかったから。だから、そんな想いが足を引っ張って、向こう側に一歩を踏み出す勇気を奪ってしまっていたのかもしれない。
「よーやくかよ。っていうか今更すぎんだろ」
「……見え見えでしたか?」
「まーな」
ハタから見ていると好意を寄せている相手は見え見えであると。そう指摘されたせいか、その頬は耳のあたりまで赤くなってしまっていた。
「しっかしまあ、人間ってのは、何でこんなに面倒くせぇんだろうなぁ。自分の気に入った相手をこうして抱きしめてやるだけで良いんじゃねぇのか?」
そうからかうように口にしながら背後から抱き締めてくる。何時もなら大人しく抱きしめられるようなことはないのであろうし、だからこそ力尽くで色々と自分勝手を押し付けられてしまうのが常であったのだが……。
「……およ?」
今日はどんな心境の変化があったというのか、そんな嫌っているはずの相手の腕から逃げる素振りすらも見せていなかった。包み込むようにして背後から与えられた。そんな温もりに、あえて背中を預けるようにして。もっと温めてくれとばかりに軽くもたれかかってすら見せていた。……それは相手への何らかのサインになっていたのかもしれない。『嬉しい事してくれんじゃねぇの』とばかりに僅かに抱きしめる腕の強さが増して……。その耳元で囁くようにして続きの言葉が口にされた。
「開いた扉の先から何が出てきたとしても、それを受け止める覚悟はもう出来てんだろ? ……だったら好きにすりゃ良い。相手の都合とかしったこっちゃねぇよ」
ちったぁ父親を見習いやがれ。そう締めくくった自称ではあっても実に悪魔らしいアドバイスに、思わずクロスも口元に笑みを浮かべてしまっていたのだった。