4-4.アカシアの書
治療魔法では、病は癒せない。
それは多くの場合において誤解されやすい事実であり、最も勘違いされやすい部分でもあったのだろう。なにしろ最上級の治療魔法を操る司祭の手にかかれば、死んだ者の魂すらも再び地上に呼び戻すことが出来るのだ。そんな神の御業そのものを操れる司祭を筆頭に、日々死の淵を彷徨う重傷者達を救っている治療師の面々が、ごく簡単な……。それこそ道端に落ちてるようなありふれた材料と簡単な手順で調合出来る飲み薬ですらも癒すことが出来るような、ごく単純で簡単な食あたりによる下痢や腹痛、あるいは風邪といった軽度の症状ですらも治療出来ないなど……。そんなことを誰が想像出来るというのか……。だが、それは紛れもない事実だったのだ。
「……申し訳ありません。魔法による癒しといえども、万能ではないのです」
だからこそ、申し訳なさげに自分達を頼ってきた相手に別の方法でもって治療を行なっている薬師の治療院などを紹介しなくてはならないのだろう。この王都においても、病による死よりも、ケガなどの負傷による死のほうが圧倒的に多いといった事情もあってか、その事実は往々にして忘れられがちであり、そんな謝罪の台詞を聞かされた相手から「嘘をつくな!」だの「面倒くさがるな!」だのと罵倒されることも少なくなかったのだが……。
あるいは、そんな瞬間こそが、一番“己の無力感”という物を感じさせられる場面でもあったのかもしれない。
「治療魔法とて万能ではない、か……」
これまでも何度も口にしてきた言葉であったが、そんな冷たい現実を否定したがっているのは、あるいは先ほど助けを求めて訪れた人ではなく、そんな人を結果だけみれば追い返した形になる自分だったのではないか……。そんな想いが、あるいはため息をつかせていたのだろうか。そんなクロスに声をかける人物がいた。
「……どうしました?」
「司祭様……」
背後から声をかけたのは庭木の手入れをしていたらしいエルクだった。いつもの司祭服に長い棒を手にした……。最近、エルクは庭木の手入れをする際に枝切り鋏などでなく、ただの棒きれ一本だけでスパスパとやるようになっていたのだが、その事に特に注意を払う者がいなかったせいか、妙な違和感を感じているらしいのはクロスだけだったらしい。……さて、そんな密かに個人的な訓練を再開してるっぽい司祭の格好をしている中身は腕の鈍った剣聖様に声をかけられたクロスであったが、そんなクロスが何に思い悩んでいたのか。それを聞いたエルクはフムと小さくうなづく素振りを見せていた。
「我々亜人種は人間種と比べると数倍、あるいは数十倍の時間を生きる事になるせいか、並外れた経験を積むことになります。だからこそ人間種には出来ない芸当も当たり前に出来たりするようになる訳ですが……」
そう、たとえばただの“棒きれ”で、まるで鋭い刃物か何かを使っているかのようにして庭木の枝や葉をスパスパ切り落としてみせたり、なにげない仕草で自分の背丈よりも長い棒きれを平然と地面の上に垂直に立てて手を放してみせていたりといった風に……。そんな摩訶不思議な芸当を何の気負いもなしにやすやすとやってみせることが出来る程度には常人離れしていたし、その内に秘めた異常性が高かったのかもしれない。
「ですが、そんな我々亜人種にとってもどうにもならない物があります。それがいわゆる理。この世界を創った神の定めたとされる摂理であり、多くの場合には努力ではどうにもならない部分のことを指す言葉になります」
摂理。それはこの世界を支配している法則の事であり、単純に考えれば回避しえない現象、運命なども含まれるのかもしれない。そんな広義の意味での『世界の法則』であり『自然の摂理』とも呼ばれている現象の総称だった。
それは例えば地面に垂直に立っている棒を指で押せば倒れる。そんな当たり前の“現象”を指す言葉であり、倒れていく途中で棒の真ん中あたりを指一本ですくいあげられて空中に浮かんだとしても、それはいつか必ず地面に向かって落ちていく事になるという“現象”であり、摂理でもあったのだろう。
そんな動きを見せていた棒は、地面に落ちる前に掴み取られて、再び地面の上に垂直に立てられてしまっていた。だが、今、自分の目の前で二つの摂理が発生していたことをクロスは正しく受け取る事が出来ていた。
「バランスを崩せば安定している物も倒れる。空中にある物は必ず地面に落ちる……。つまりは、そういうことですか?」
「まあ、そういう事になるのでしょうね……。広い意味では、火を近づければ紙や木が燃え上がる。そういった燃えている物に水をかければ火が弱まるし、かけ続けていればやがて消えてしまう。大地に魔力は循環していて、その魔力が自然に凝縮されていって魔物が生まれてくるといった現象もありますね。他にも、われわれ亜人種でさえもいつかかならず死の瞬間が訪れるという定めも……。おそらくは、そういったモノに該当するのだと思います」
そういった多くの避け得ない現象。当たり前にある現象。日頃意識しないレベルの現象や出来事さえも……。それこそ息をしないと死んでしまう、太陽は必ず昨日と同じ方向から昇って、同じ方向に沈んでいき、太陽が沈むにつれ空に星が表れていって、暗くなればなるほどに星の輝きが強くなる。そういった日頃、意識さえしていないだろう現象や出来事さえも。そういった現象や摂理の一つ一つは細かくとも、その何十何百といった法則の組み合わせが。それこそが『自然の摂理』という、この世界のルールをまとめた摂理の正体であり、この世界そのものを意味する存在であり、あるいは“神”をも生み出したとされる『世界を創りだした存在』の正体そのものでもあったのかもしれない。
「その偉大な存在が『治療術でケガを癒し、呪いを解き、毒を消し去り、死者を蘇らせる事までは許しても、病を癒すことまでは許さない』と定めてしまったのです。そういったルールが定められてしまった以上、被創造物の我々としては従う事しか出来ないのでしょう」
それは『諦めろ』という意味でもあったのかもしれない。
「神を生み出した存在ですか」
「それを我々は創造神などと呼んでは居ますが、その存在がどういった物であるのかは議論を重ねてもきっと誰も説明はできないでしょう。なんとなく漠然と、そういったルールの集合体が存在しているのだろう程度にしか……」
なぜなら、この世界において『名前を持つ存在』とは、すべからく『創造神が作り出した創造物』の一つ、いわゆる被創造物という立場にある存在であるからだ。逆にいえば『名前を持たない物』という存在こそがその枠組から外れているということになるのかもしれない。
そういった視点で見た場合、被創造物という括りで囲われたグループの中には、神も人も亜人も。それこそ魔物や悪魔でさえも等しく同格の存在であるということになり、それらは全て創造神の作った『世界』を構成している一欠片、世界の一部であると考えられるのだろう。だが、そういった『創造した存在』と『創造された存在』と二つに分けて考えた場合、創りだした側である創造神を生み出した者は誰なのかという、永久に循環してしまう命題が生まれてしまい、そこで問題は堂々巡りを始めてしまうのだ。だからこそ、こういった『自分達を生み出した存在』について考える時、人はそこに神を求めてはいけない事を本能的に察してしまうのかもしれない。
「この世界を構成している無数の法則達。それらを組み合わせた物こそが世界。自然の摂理こそが世界そのものであり、我々を生み出した根源たる『創造神』の正体なのでしょう」
それは神すらも生み出した存在であり、世界そのものでもあった。そんな世界を構成する無数の法則達。それらの組み合わさったタペストリー、あるいは書物ようにイメージされる無限に存在する法則達の集合体……。それを人々は摂理と呼んでいるが、多くの教義の世界において“それ”は特別な名前で呼ばれていた。
「それがアカシアの書、ですか」
アカシア。それは多くの教典の中で創造神とされている神の名であり、それと等しい存在として『アカシアの書』の名で呼ばれる世界の法則を定めた書の名前であり、この世界の名前そのものであるとされていた。つまり、このアカシアと名付けられた世界を構成している自然の摂理などを定めた書こそが創造神であり、その書でもある創造神の記憶に書き込まれている無数の法則こそが、この世界を構成しているルール、摂理、現象の正体であるとされているのだ。だからこそ、その存在は別の名前で呼ばれることもあったのだろう。
「はい。アカシアの記憶とも呼ばれている物です」
法則の集合体であり、現象を定義している物であり、世界を生み出した存在であり、世界そのものであり、そして創造神でもありながら、その記憶そのものでもあるもの……。そんなひどくあやふやで誰にも正しく定義できず。そして、誰にも理解も出来ず、誰にも知り得ない。それでいて確かに目の前や自分の周囲にそれら摂理は存在していて。その実在を誰も否定が出来ない。そんな存在が“アカシア”であり、だからこそ世界を表す言葉として定着してしまったのかもしれない。
「……では、我々が毒や呪いやケガは癒せても、病だけは手も足も出ないというのは、この世界そのものが……。『アカシアが、そう定めているから』となるのでしょうか」
その答えに返される返事は一つしかなかった。
「そうです。どれだけ心苦しくても、我々は、その現実を大人しく受け入れる事しか出来ないのです」
なぜなら、それがアカシアの定めた摂理だからだ。それを変えたければ、それこそ世界の法則そのものを書き換えるしかないのだ。
そんな出来っこないような事を「何故、この程度のことが出来ないのか」といつまでもウジウジと一人想い悩んでいては、そこから一歩も動けなくなってしまう。そういう意味でもあったのだろう。そして、目の前に助けを待っている人々が存在している限り、自分達はそこで立ち止まってはいけないのだ、と。そうエルクはクロスに説いていた。何故ならば、出来ないことで嘆き悲しんでいるだけでは誰も救えないからだ。そして、えてして自分に出来ないことよりも、出来ることの方が遥かに多いものなのだから。
それを自らの天職とすべく技を磨き、ここに……。王都の治療院に立ってしまった以上は、ここで助けを求めて訪れる傷ついた者達のために生涯腕をふるい、己の身につけた技を使って人々を癒し続けることを己に課したという事なのだ。ならば、後はその道を脇目もふらず毎日一歩づつ……。それこそ一瞬も立ち止まること無く進み続けていくべきなのだ、と。
そうエルクは思い悩んでいるらしいクロスにアドバイスしていた。
「……私は、そう思っていますし、貴方にもそうなって欲しいと願っています」
そんな『出来ないことは放っておいて、とりあえず出来ることに全力を尽くせ』と。そう、ある種のエゴすらも垣間見せながらも。それでもエルクは口にするのだ。『そんな下らない事に悩んでいる暇があるのなら、一人でも多くのケガ人を救ってみせろ』と。そして『それこそが自分達の役目であり、存在意義なのだ』とも。そんな開き直り同然の言葉であったとしても、それでも何処か、心に響く言葉であり、アドバイスではあったのかもしれない。
「……一人でも多く救え、ですか」
「そうです。我々が病を癒せないのは創造神の定めた馬鹿な縛りのせいなのですから、恨むなら己の腕や能力ではなく、そちらにしておくのですね」
そうして『悪いのは全てアカシアだ』とでもしておき、そんな馬鹿の決めたおかしなルールのせいで迷惑をかけてしまった相手に対する穴埋め、あるいは馬鹿のしでかした不始末の尻拭いとして、それが出来る別の人を紹介したり斡旋を行なったりしておいて、そしてそんな救えなかった人達の分も、他のケガ人などに対してより一層の献身でもって罪滅ぼしとすれば良いのだ、と。それは、すげなく門前払いにされてしまった者達にとっては開き直りにしか見えなかったとしても。
「それでも、ただ思い悩んで立ち止まってしまって誰も救えなくなるよりかは遥かにマシな結果でしょう。……この世界には仕方ないと割り切ることしか出来ない事は沢山あるのです。いつまで経っても争いや犯罪、戦争や貧困がなくならないことも同様です。おそらくは創造神とて万能でもなければ完璧なはずもないのですから、そんな存在が定めたルールの集合体に綻びや間違いがないはずがないのですから。……世界のルールにすらも、なにかしらポカやミスはあってしかるべきなのでしょう。だからこそ……。この世界は、そして我々は不完全であり、永遠に完成に至らない存在のままなのです」
だからこそ、多くの場合において教義は同様の理念を説いており、その教えを通して神は民に告げているのだ。……隣人と手を取り合い、助けあって生きて行きなさい、と。
「……完璧でないからこそ助け合えですか」
「それこそが真理であり、神の教えそのものではないのでしょうかね」
自分達は。それこそ神ですらも完全でないのだとしたなら。あとは少しでも穴をふさぐべく互いに手を取り合い、助けあって、力を合わせて生きていくしかないのだと。誰かが出来る事で、誰かが出来ないことをフォローして……。いつか穴のない形を目指して。それこそ、治療師が癒せない病気を薬師が癒したり、といった風に……。
「我らが神、ヘレネもそう説いているでしょう? 汝ら隣人を愛し、供に助け合い、微笑みの中で生きるべし、とね。それこそが美しい生き方であると……」
そんな神の教えを口にして。その指がクロスの頬に当てられていた。
「だから、微笑んであげて下さい」
「司祭様」
二本の指で口の端を持ち上げるようにして。
「貴方が憂いを浮かべていると、周囲の者達がやたらと心配するのですよ」
「……」
「中身はともかくとして、貴方は見た目はまだ子供ですからね……。そんな貴方が調子が悪そうに見えてしまうと、どうしても心配になってしまうのでしょう。無理をしているのではないか、また倒れたりするのではないか。……貴方が冒険者を副業でやっているというのも、一部の者達は良い顔をしていません。彼らの中では、貴方に教区の移動によるペナルティを課している事自体が問題にされているのですよ」
冒険者といえば命を粗末にする職業の筆頭格であり、昨日まで順風満帆だった者達が翌日には地の底で屍を晒しているといった逸話に事欠かない仕事でもあったのだ。だからこそ、そういった物騒な連中に際立って高い治療能力に目をつけられて地下深くに連れて行かれないかというのを心配してしまっていたのだろう。それほどまでにクロスの能力は二級治療師の中でも突出してしまっていて……。
──おそらく、一級魔法を使いこなせる能力がすでにある……。
そうエルクなどは、すでにクロスが司祭級の能力を身に付けるに至っていると感じてもいたのだろう。それは、ここ最近の王都での激務の連続と、限界を超えて魔力を使い続けるといった無謀を通り越してトチ狂っていると評価されそうな凄まじい自己研鑚の果てに得る事になった魔力関連の能力の急成長……。魔力総量や魔力そのものが大幅に底上げされてきている点に加えて、厳しい損傷を負った患者を連日のように治療し続けてきた事による判断力などを始めとした能力面、経験面での成長も加わり、それら複合的な成長要素によって一気に能力が開花し、大輪の花を咲かせつつあったということでもあったのだろう。
「貴方は、もっと司祭候補の筆頭格という自分の立場を理解すべきなのでしょうね」
「……はぁ」
そうイマイチ自分が凄いという自覚がないクロスであったのだが、いくら極めて高い魔力をもつ魔族の血を色濃くひいた魔人種であるとはいっても、まだ見た目は幼い子供であったし、その中身の方もまだ二十歳にもなっていないのだ。いくら長命な亜人種の中でも際立って長命な魔人種であるとはいっても、まだ子供と言ってもいい年齢でしかないのだ。そんな自他共に認める未熟者な人物が、すでに独立して教会を任せられるような能力を修めつつあると言われてもピンとこなくても当たり前であったのかもしれない。
そんな自覚が能力にまるで追いついていないクロスに、エルクは苦笑しながら驚きの一言を告げていた。
「私は貴方に、この教会を継いで貰いたいと思っているのですよ」
「……え?」
その告白に、クロスは呆然とした表情を浮かべてしまっていた。
「先代の司祭様と同様に、私もいつの日か、この司祭服を脱ぐ日が来るのでしょう。そんな日に、私は後を任せる司祭を指名しなくてはなりません。……後を任せるに足る人物として、私は貴方のことを考えています」
そんな自分は貴方のことを認めているという言葉と、後継者候補という言葉。それらの喜びと驚きがごちゃ混ぜになってクロスから反応を奪ってしまっていたのだろう。
「……そ、そうなんですか」
「そうなんですよ。……だから、もっと自分の事を大事にしてあげてください」
私にとっても、貴方は大事な弟子の一人であり、かけがえのない部下の一人であり、たった一人の後継者なのですから。そんな言葉とともに頭に乗せられた手に喜びを浮かべて、微笑みとともに思わず頬を赤くしてしまっていたクロスであったのだが……。
「ん~……。こないだも似たよーな感じがあったけど、やっぱアレだな~。なんっつーか、色んな意味で違う世界に住んでる奴らって感じがするよなぁ」
「はぁ……。やっぱり、クロちゃんって、美人さんだなぁ……」
「こっちはこっちで目をハートにしてやがるし……」
そんな物陰から覗き込んでいる不届き者の言葉に、二人して固まってしまったのは言うまでもなかったのだった。