4-3.見える≒見えている
大きな出来事があった後に、ごく普通の日常生活に戻るというのは、気持ちの切り替えという意味でもなかなかに難しい物ではあったのかもしれない。
「……修士。また、何かあったんですか?」
昼食の手を止めたまま、ハァとため息をついて。妙に難しい顔をしながら窓の外を見つめていたかと思ったら、急にため息をついてしまっていた。そんな何か考え事をしていたらしい所に、唐突に尋ねられたクロスは、咄嗟に「いえ、何でも……。大丈夫です」といささかおかしな答え方をしてしまっていた。……だからなのかもしれない。また何か問題事が起きているのではないかと周囲から変に心配されてしまっていたのだろう。そんな出来事のあった数日後……。日も傾き、本業である治療師としての仕事が終わりかけていた。そんな時間帯に、クロスは前の時と同様にエルクの執務室に呼ばれる事になっていた。
「……何か、あったんですか?」
そう向かい合って座りながら、エルクが手ずから淹れてくれたお茶を前に尋ねられたクロスは、前の時ほど深刻な悩みではなかったのと、目の前に居る相手が悩みの原因そのものだった事もあって、おずおずとではあったのだが、あの日の……。エルクと別れた後にあった出来事について話しをすることが出来ていた。
「そうですか。……彼が、そんなことを……」
クロスとしてもエルクとアーノルドの関係については、それなりではあったが聞き及んでいた。それこそ噂話程度ではあったのだが二人の過去にどういったつながりがあったのかも知っていたし、二人がかつて相棒を組んでいた事も承知していた。だからこそ、エルクがおかしな真似をしてしまったことで、これまで無事に隠し続ける事が出来ていたことが周囲にバレてしまう事を彼も心配していたのだろう。それくらいは、特に悩むこともなく考える事も出来ていたのだ。
「……やはり変に悪戯心を出してしまうと、ロクな事にはならなかったようですね」
エルク本人としては、過去にあったアレやらコレやらといったいささか後味の悪かった出来事に心の中で一応程度ではあったにせよ、とっくの昔に折り合いもついていたし、最近、剣をまともに振ったりはしていなかったにせよ、愛剣や鎧を処分などしていなかったことからも剣を捨てるつもりなど毛頭なかったのだ。過去の因縁にまみれている本名を再び名乗ろうとまでは流石に思わなかったにせよ、何かきっかけさえあれば、剣を再び手にすることにも抵抗感はほとんどないという『いつでも復帰できるよ?』な状態だったのだ。
……無論、そんな状態をずっと維持していたのにも何かしら理由はあったのだろうし、そんな状態だったのに復帰していなかったのにも、自分なりの拘りに近い理由はあったのだろう。では、何故、本来の肩書きであった聖堂騎士に戻ろうとしていなかったのかというと、単に司祭としての日々の方に充実感を強く感じていたからだったし、日々の仕事も順調かつ忙しかったせいもあって、その必要性を特に感じていなかったからだったのだろう。少なくとも、対外的にはエルクは、そういった理由で現役から身を引いたままで居たのだから。
──まあ、何か切っ掛けがあったなら復帰を考えないこともありませんが……。
過去にとある人物を相手に何度か口にしていた台詞にも、そういった示唆は含まれていたのだろう。もっとも、そんな言葉に返される言葉は決まって「心にもない言葉を言うな」といった物だったので、その人物には通じていなかったのかもしれないのだが……。
そんな切っ掛けさえあれば……。それこそ親友(たとえばアーノルドなどだ)などに頼まれたなら、即現役復帰することは出来る状態をずっと維持はしていたのだから、何か切っ掛けになる出来事がなかったからというのが、あるいは最も正解に近かったのかもしれない。
そんな状態を維持しつつ司祭としての日々を送っていたエルクが、クロスから相談を持ちかけられた事に加えて、自分とあからさまに距離を取ろうしている姿が見えてしまう親友と最近、少しばかり疎遠になりつつあったのに加えて、自分以外のヤツと組んで何やら王都の裏社会のゴミ掃除などと、ずいぶんと荒っぽくて危なくて、その上楽しそうな真似をしていやがるじゃないか……。とばかりに、少しばかり『イラッ☆』ときていたし『水臭いなー。少しくらい手伝ってくれとか言ってくれたらいいのになー』とばかりに腹も立っていたのかもしれない。ましてや、そんな友人のやらかしたアレやらコレやらのせいで、あっちこっちから苦情やら苦言といった調子でクレームやら脅し文句が山のように届いていれば、なおさら額と耳のあたりがピクピクしていたのかもしれなかった。
──そんな風に変に心配させられて、後から「ほら。何でもなかっただろーが」などと平然と言われるくらいなら、最初から一緒に連れて行って欲しいと願うのは、そんなに愚かで変なのでしょうか……?
自分としても言い分はあったし、色々と言いたいこともあったのだろう。それに一度や二度、過去の自分に戻ってみせたからといって、そこから即、今の自分に繋げて考える者が現れるとは思っていなかったし「ここに居るのは分かってるんだ! あの野郎を出しやがれ!」とばかりに大挙して過去のアレコレに関わる強面どもが押し寄せてくるだなどと考えてもいなかったのだ。……もっとも、些か自分のネームバリューを小さく見すぎていた気もしないでもなかったのは事実ではあったのだが……。
──だからお前は馬鹿なんだ!
そうゲンコツとセットで頭ごなしに叱られてシュンと耳を寝かせて反省する羽目になった後、どれくらいエルクの正体が周囲にバレる事を自分が警戒して心配しているのか、それを延々と朝まで説かれれば、流石に大事にされているらしい事は嫌という程に感じることも出来た訳で……。アーノルドが今のエルクと距離を取ろうとしているのにも、それなりには理由らしきものがあったのだと、一応は理解することも出来ていたのだろう。もっとも、それに一抹の寂しさを感じてしまうのも事実ではあったし、感情の部分では未だに納得できない自分も居たりしたのだが……。
「……やはり彼の言う通り、いささか軽率過ぎたのかもしれませんね」
そういった事情から、自分の行動を反省するしかなかったのだろう。……実のところ、クロスが「エルリックを引っ張りだすような馬鹿な真似をもうするなよ」と脅された後には、真夜中までエルクのことを探し回っていたアーノルドに、ようやくクランクとの話が終わって商会から出て来た所で捕まってしまっていたのだ。そこから朝まで休憩なしで延々と叱られる羽目になるなど、ささいな悪戯心の代償は少しばかり高くつきすぎていたのかもしれない。
──まあ、流石にあの日のことは誰にも言えませんが……。
そんなフゥとばかりに小さなため息をつきながら、少しだけ耳のあたりを赤くしているエルクが、その日の夜に何があったのかを口にすることは絶対にないにせよ。……まあ、色々とあったのだろう。きっと……。
「ギルドの方ではかなり噂になってるみたいです」
「……そうですか」
かつて冒険者として有名だった時代には、他人が自分のことを噂をしている状態というのは、有名人だという自覚もあったことから自分にとっては日常的なことだった為に、そういった事に対してさほど警戒心も抱いていなかったし、それほど興味も持っていなかった。
今回のことも、危ない火遊びはコレで終わりにして、それ以降は普通の司祭に戻るつもりでいたのだ。だからこそ、ここまで噂になるというのも想定外であったし、その噂話がすぐに消えること無く延々と自分の行方を探っているらしい事として流れ続けているのも想定外ではあったのだろう。それこそ、アーノルドが何を恐れていたのかを今更ながらにエルクは理解させられていたのかもしれない。
「……そうなると、当然、貴方には……」
「最初のうちは、あの時、ジェシカさんと一緒に居たのが私達だと気がつく人はいなかったみたいなんですが……。昨日、ギルドに行った時に何人かに『オメェ、すげぇ知り合いが居たンだなぁ』みたいな感じで探りを入れられました」
ジェシカは、大迷宮に入る時こそフードをかぶっていたのだが、帰り道には意識を失った状態でクロスに背負われていた事もあって、エルクやクロスのようにフードや布や仮面などで顔を隠したりしていなかった。そのせいもあって、エルリックと一緒に居た子供がジェシカであることが早々に嗅ぎつけられ、そこから逆にたどる形でジェシカの護衛といった変り種な依頼を最近、指名で延々と請け続けているらしい冒険者が居るそうだといった形でクロスの存在に行き当たり、そこからクロスの周囲にエルリックにつながる手がかりがあると考えられていたのだろう。そこからクロスの周囲の黒エルフの亜人ということでエルクに行き着く者も遠からず現れるかもしれないといった状況らしかった。
「まあ、バレるのも時間の問題という訳ですか」
あんな真似をしてしまった以上は、何時かこういった事になるのもある程度は覚悟も出来ていたのだろうし、こうなってしまった以上は下手にジタバタ悪あがきをするつもりもなかったのだろうが、そこに意外な横槍が差し出されてしまっていた。
「いえ、それが……」
クロスの知り合いにエルリックが居るのではなく、新人であるクロスの面倒を見ていたアーノルドが過去に高ランクの冒険者として名を知られていて、そんなアーノルドの友人の中にはすでに引退しているとはいえ、超がつくレベルの有名な冒険者も居るらしいということを自慢話として聞かされていた事から、今回どうしても高レベルの冒険者に手伝いを頼まなければならない特殊な事情があったので、アーノルドのコネと人脈に頼ることでエルリックを引っ張り出してくることに成功したらしい……。
そうアーノルドが「どうよ、俺様の人脈と人徳わ」とばかりに自慢話として周囲に吹聴してまわったので、本当の黒幕は誰だったのかを嫌でも理解させられてしまったのかも知れない。それによって、クロスから無理にエルリックの所在を聞き出そうとする者は激減し、今ではアーノルドの方に色々な方面から詳しい話を聞かせろだの、エルリックの情報を寄越せだのと、色々とちょっかいがかけられているらしい。
そんな話を聞かされたエルクは口元に苦笑を浮かべながら「かなわないなぁ」といった表情を浮かべていた。
「では、また彼に大きな借りが出来てしまったということですか」
「そうなるのでしょうか。……アーノルドさんは、すでに報酬は十分に貰ったから、タダ働きって訳じゃないから安心しろとか言ってましたが」
何か事前に報酬を渡してあったんですか? そう視線で尋ねられたエルクは思わず腕を組んで右手でアゴのあたりを隠すようにして抑えると、フムと何かを考える素振りを見せながら、視線を窓の外に向けてしまっていた。……その耳のあたりが妙に赤くなっているように見えるのは、ただの気のせいではないような気もしたのだが……。
「まあ、渡したといえば渡したのかもしれません……」
ただ、あれを渡したと表現するのはいささか無理がある気もしますが。というか、あれはかなり乱暴で力づくだった気もしますから、無理やりぶんどって行ったと表現すべきだと思います……。しかし、アレを報酬などと表現して彼の前で揶揄するなど……。貴方、正気ですか? それとも、あの日のことを、彼にバラされたくなかったら、しばらくは大人しくしておけということですか……? そういうことなのですか……?
「……そこまでしますか」
……確かに私の稚気が全ての騒動の原因ですし、私の考えなしの行動が今の混乱の元凶であったのは事実ですが、ここまでされなければならないのですか? ……そうやって力づくで何もかもを思い通りに操ってしまおうという貴方の性根が気に入りません!
そう何やら考え込んだ挙句に引きつった笑みを浮かべるとユラリと怒気を立ち昇らせたエルクであったが、それも一瞬のことで僅かに目を閉じて荒ぶっていた心を落ち着かせると、次の瞬間には何事もなかったかのように平然と答えていた。
「……わかりました。では、その件については些か不本意ではありますが、私達も彼の『策』に乗らせてもらうとしましょう」
「わかりました」
「貴方も、誰かにエルリックの所在などを聞かれた時には、彼に全てお膳立てして貰ったから詳しいことは何も分からない。そもそもあんな大物がやってくるなど想像もしていなかった、とでも答えておいて下さい」
お膳立てしたのはエルクではあったのだが、その場にとんでもない人物が現れてビックリしたのは紛れもない事実であり、お膳立ての部分以外はほとんど嘘ではなかったので、それなりに説明しやすい内容ではあったのかもしれない。
「……しかし、考えてみれば馬鹿な話です」
何がですか? そう視線で返しながら冷たくなってしまっていたお茶を新しい物にかえていたクロスが、背中越しに聞くエルクの声には何故だか妙に力が抜けてしまっていて。
「こんな仮面一枚で隠せてしまう素顔など……。日頃、人々はいったい私の何を見ているというのでしょうか、とね。それを考えると、少しばかり馬鹿馬鹿しく感じてしまって」
机の鍵がついた引き出しから取り出したエルリックのシンボルアイテムである銀色の仮面を手に、エルクは不思議そうに言葉を口にしていた。
「エルリックと名乗り、仮面を身につけ、剣を腰に下げ、鎧を着ている。エルクと名乗り、仮面を身につけず、腰に剣を下げず、司祭服を着ている。……その程度の差があるだけで、人々は私がエルリックであるということに気がつけなくなる。もしそうだとするのなら、人は私の仮面や剣や鎧しか見ていなかったということなのでしょうか……。私という存在の何を見ていたのでしょう。それを考え出してしまうと、色々と馬鹿らしくなってきますし、気分が悪くなってきてしまうのです」
こんな私は変なのでしょうか。それとも私は、その程度のことで周囲の人々が自分を見失ってしまったことに不快感を感じているのでしょうか。……私はそのことに不満を感じているのでしょうか……。
そう色々と考えすぎてしまったせいか自己嫌悪の沼に足を突っ込みかけたエルクであったが、そんな悩める剣聖にして司祭である偉大な黒エルフの上司に、クロスは微笑みながら答えを返していた。
「それだけ周りの人に対するイメージが強かったということではないでしょうか」
銀の剣聖エルリックは、常に銀の仮面を身につけ、腰に美しい月の名を冠する魔剣を帯び、その身を銀色の鎧で包んでいる……。そんなきらびやかな装備が人目を惹きつけるのはむしろ当たり前の話でしかなく、それらの装備品が本体を覆い隠してしまっていたせいで、見えているのに見えていない、見ていたはずなのに覚えていないし、それ以外のことをよく思い出せないといった現象を引き起こしてしまった原因になっていたのではないか……。
そんなクロスの指摘に、エルクも虚を突かれたということなのか、珍しく表情をなくした顔を向けてしまっていた。
「……見えているのに、見えていない、ですか」
「ごく稀にですが、そういった事もあるそうです」
それはさほど珍しい現象などでもなく、人は多くの場合に人物について記憶する時に一番特徴的な物から順番に覚えていくものなのだ。だからこそエルクの場合にも、ごく稀に自分がエルクであることに気が付かれない場合などがあったのだ。それは往々にして司祭服ではない格好をしている時の事であり、それらのことから、エルクの一番の特徴は司祭であることを示す司祭服を身に着けているという点であるのが分かったのだろう。逆に言えば、その点をなくしてしまえば、人々は、その黒エルフがエルクであるということに気がつきにくくなるということになるのだ。
──そういえば酒場などで、彼もいつも『見違えた』等と言っていましたが、アレはそういった意味でもあったのかもしれませんね。
そうフムとばかりに考えたエルクはまたもや苦笑を浮かべていて。色々と腹立たしかったり、申し訳なかったり、恩義を感じていたり、忌々しかったり、憎々しかったり、好ましかったり、愛おしかったりと、色々と思う所はあったにせよ、こうして色々な事を考えたりするときに、最後に行き着く判断基準が『彼』であったことに。そのことに、思わず「何処まで行っても私の基準は彼なのですか」と笑ってしまっていたのだろう。そして、自分の外見は変わっても、中身の方は変わっているようで何も変わっていない事を……。それを思い知らされてしまっていたのかもしれない。それこそ、何も成長していないし、何も変われていないといった風に、呆れたような気分すらも感じさせられていたのだ。だが、以前と違うのは、それを好ましく、そして誇らしく感じているという点だったのかもしれない。
「……どうしたのですか、司祭様」
何か良い事でもあったのですか? そう言外に尋ねながら新しいお茶を机の上においたクロスに、エルクは笑みを隠さないままに「いえ、何も」とだけ短く答えていて。ただ、銀の仮面に向けられていた笑みがひどく幸せそうな物であったことで、クロスも『きっと何か良い事があったのだろう』と判断していたのだが。
「見えいるのに見えていない、ですか。……なるほど。言い得て妙ですね」
そう前置きして、新しいお茶のゆっくりと口に運びながら。
「人の気持ちというものは、受け取り方一つなのかもしれません。相手の向けてくる気持ちや思いは何も変わっていなかったのに、受け取る側が歪んだ形で受け取っていれば、それは正しい形で伝わらなくなってしまう。……そのことに気がつけない時、受け取る側は、往々にして自分勝手に判断してしまうものなのかもしれません。……彼は変わってしまった、と」
しかし、実際には変わってはいなかったのだろう。ただ、それを正しい形で……。素直に受け取ることが出来なかったから。だから、受け取ったものが歪んでしまっていると感じてしまっていたのだろう。それこそ「彼は変わってしまった」だの「彼はもう自分のことを見てないのかもしれない」だの……。そんな風に変に勘ぐって、女々しく思い込んでしまっていたのかもしれない。
それをこんな些か不本意な形ではあったにせよ正しいだろう形に矯正することが出来て良かったのかもしれない。すくなくとも、変に気を回したり、変に勘ぐったり、変にヤキモチを焼いたり、女々しく悪あがきをしてみたりする必要はなくなったのだから。……そう割り切って考えることが出来てしまえるのなら、今回の結末だって、そう悪い事ばかりでもなかったといえるのではないだろうか。
「……もう仮面は用済みということなのでしょうね」
そう机の引き出しに仮面を戻し、パタンと閉めて見せたエルクの顔は、どこか晴れ晴れとしていたのだった。