4-2.緊急事態
普通の一般人なら、目の前でいきなり知り合いが大ケガをして、大量に出血し始めたなら少なからずパニックを起こすに違いない。そして、それは戦いという行為による出血や、その手の負傷になれているはずの冒険者達ですらも恐らくは多少なりとも共通している部分であり、戦闘中以外のタイミングで知り合いが大ケガをしたら、慌てふためいて適切な行動をとれないといったイレギュラーに弱い者も多かったのだ。しかし、良くも悪くも、その現場に立ち会った二人は、色々な意味で慣れすぎてしまっていたのかもしれない。
それこそ、人の生き死にの現場に立会い続け、そういったシーンを日常的に目撃し続けてきただけでなく、ひどい時には血まみれの臓器が体からはみ出していたり、傷口から大量に血が吹き出していたり、全身が焼けただれていたり、四肢が欠損していたり、そういった箇所の容赦なく噛み千切られた傷跡を至近距離から観察したり触れたりして触診する事や、全身にケガ人の吹き出す血や体液を浴びながら治療に当たるのが当然と言った風な日常を体験してきていた。だからこと得られる資質というものはきっとあったのだろう。そういった、ある種の緊急事態を前に至って平然としているような常人には持ち得ないある種の豪胆さと慣れを身につけてしまっていたのだ。
「……手首を大きくケガしているようです」
「フム……。これはいけませんね。ケガそのものは大したことはありませんが……。ちょっと傷口の状態が良くありません」
地面に突っ伏すようにして荒い息を繰り返しているジェシカの右腕を持ち上げて観察している二人の目の前で、その腕からはボタボタと盛大に血が滴り落ちていて、その出血箇所には透明なガラス片が突き刺さったままになっていた。
「……これは、下手に引き抜いたら……」
「ええ。出血が激しくなるだけですね」
そんな二人の間で「大至急、治療が必要ですね」「この場で治すしかありません。クランクさんとの約束とか言ってる場合じゃないです」といった治療魔法解禁のアイサインが交わされていたのだが……。
「まずは洗浄が第一です。そこらへんの露店で綺麗な水と応急措置セットが売ってるはずです。私達はそこの木陰で準備をして待っていますから、それを買ってきて下さい」
エルクは素早く指示を与えると、ジェシカをお姫様抱っこで持ち上げると、平然と露店街から影になる位置にジェシカを運び込んでいた。その位置を背後に確認しながら、入り口を出てすぐの所にあるこじんまりとした露店で応急措置セットとして売られていた小さな革袋と、水の入った大きな革袋をセットで買うと、クロスも急いで指示された場所に移動していた。
そこでは、すでに血で汚れたローブを袖の部分で切り落とされたジェシカが木にもたれかかる姿勢で休まされていて、その出血している腕は切り落とされた袖の部分で作られたのだろう、即席の布紐で縛られていた。
「見ての通り傷口にガラス片が刺さっていて、細かいガラス片も幾つか刺さっているようです。それを除去してからでないと傷口を塞げません。……今からガラス片の除去と傷口の洗浄を行なって、その後に治療を行います。……クロスさん。貴方は彼女に肩を貸して、頭を抱きかかえていて上げて下さい。……ジェシカさん。治療している光景は決して見ていて気持ち良い物ではありません。それに痛みもかなり伴いますから……。クロスさんにしがみつく形で“耐えて”下さい」
それは意識のある状態で傷口に入り込んでいる小さなガラス片をほじくり出すという宣言そのものであり、その激痛にクロスの体にしがみつくことで耐えろと言っているのだろう。それを理解しているのか、理解出来ていないのか。出血し続けている事も多少なりとも理由に入るのだろうが、未だに顔色が土気色なままのジェシカは小さく頷くと、隣に座ったクロスの肩に頭を預けるようにしてもたれかかると、小さな声で「良いわよ」とだけ答えていた。
「では、始めます。……彼女のことをしっかり抱きかかえていて下さい」
それは『暴れないように押さえておけ』という意味でもあったのだろう。クロスがジェシカの体をしっかりと抱きかかえて固定したのを見たエルクは、ジェシカの右腕を脇に抱えるようにして固定すると、手早く水で傷口を洗って。その手にした細いナイフを躊躇なく傷口に突き込んで、おそらくは事前にガラス片の位置などに当たりをつけていたのだろう、グリグリとえぐるようにして動かしていた。そんなエルクの手際も良かったのか、血まみれの大小様々なガラス片が手際よく地面に落ちていって、最後には傷跡そのものに指をつっこむような真似までして押し開くと、そこに水を流し込んで、奥の方にまで入り込んでいた土や小石に至るまで綺麗に洗い流してしまっていた。
──果たして、この子は運が良いのか悪いのか……。
そう小さくため息をついたのは、白い燐光に包まれた掌がかざされた下で『治療』によって傷口が綺麗に塞がっていって、最後には『再生』の治療魔法によって傷の痕跡すら残っていない状態になった時のことだった。
「一応は治療は済んだのですが、場所が場所なので元通りになった傷口の状態が“馴染む”までは、念の為に数日は包帯を巻いておいて下さい」
そう慣れた手つきでシュルシュルと手首に包帯を巻いて、最後に結び目を作って固定して振り返ったエルクの視線の先には、クロスの肩に預けていた額に汗を浮かべながらも、それでもスゥスゥと寝息を立てているジェシカの姿があったのだった。
◆◇◆◇◆
おそらくは治療を始めてすぐに痛みと疲労が原因で気を失ってしまっていたのだろう。極端な疲労状態だったし、元々そんなに体力がある方でもなかったのだ。それこそ無理して気丈に、元気な振りをしているだけなのだから……。そう結論づけたエルクは、むしろ治療中に下手に意識があって暴れたりされなくて助かったと結論付けていた。
「しかし、どうしましょうか……」
いくら緊急事態だったとはいえ、今まで治療魔法が使えることを黙っていたエルクが、問答無用で傷跡すら残さずに治してしまった。そのことに今更言い訳など通じるはずもなく、おそらくはクランクからきついお叱りを受ける事になるのだろうし、今後は近寄るなとさえ言われてしまうかもしれない……。そう憂鬱そうなため息をついているクロスに、エルクは平然とした顔で答えていた。
「怪我をした彼女を治療したのは私です。貴方は手伝いをしただけです。……治療魔法を使えるのは私だけ。そうでしょう?」
その言葉の意味は、私が治したということにしておけという意味だったのだろう。だからこそ、治療そのものは自分一人だけでやって、あくまでもクロスには手伝いしかさせていなかったのだと。そう、今更ながらにクロスも気が付かされていた。
無論、治療師の一級資格持ちである司祭のエルクのほうが治療魔法の腕が良かったからこそ、あの時には変に出しゃばるような余計な真似はせず、ジェシカの治療の全てをエルクに任せてしまっていたのだろうが……。
「大丈夫ですよ。彼女の愛読書の『銀の騎士の物語』でも、主人公がヘレネ教会の聖堂騎士であるらしいことは有名らしいですから。……そのことは彼女も知っていたはずです」
大陸において、聖堂騎士と呼ばれる者達の多くは、治療師には及ばないにせよ治療術をある程度……。それこそ最低でも初級、普通であれば三級。治療魔法を比較的に得意とする者であれば二級程度の魔法すらも使いこなせるような、そんな治療術をも修めた剣士であることは、かなり広く知られていた。
そういった者達の多くが治療師の派遣だけではフォローしきれない地方の教会の管理者となり、王都から派遣された保安担当の兵士達と供にその土地の治安を守る手助けを行なったり、ケガなどで苦しむ人々に癒しの奇跡を授ける事を生業とする事も多かったのだ。それは大陸でも最も多くの信者を抱えているヘレネ教会の聖堂騎士達に特に顕著な特徴であり、農村部の教区などでは大地と豊穣を司る農業の女神ファトラと同格か、あるいはそれ以上に信仰されている最大の理由でもあったのかもしれない。
そんな治療魔法と剣を使いこなす神に仕える騎士達の頂点に立っているのがエルリックである以上、治療魔法が使えない方がおかしかったのだろう。そのことは、ジェシカもある程度は知っていたはずだったし、これまで治療魔法を使わなかった事に疑問を感じていなかったのも、特にその必要を感じていなかったからなのだろうと承知していたからなのではないか……。
そう指摘したエルクは、横を歩くクロスに背負われたジェシカに視線を向けながら小さくため息をついていた。
「とはいえ……。このまま何も“なかった”事には、流石に出来ないでしょうね」
いくら傷跡が残らなかったとはいえ、命に関わるレベルの大ケガをさせてしまったことは事実であったし、今現在も過労状態に加えて少なからず貧血気味になっているせいか、顔色がひどく悪くなってしまっていた。治療中にエルクが賦活を使っていたせいで今は何とか小康状態を保っているが、このまま放置していると後でほぼ確実に体調を盛大に崩してしまうだろう事は必至だった。それが分かっているからこそ、今のうちにしっかりと予防措置をとっておく必要があったのだろうし、こうしてジェシカを主治医であるらしいエドの治療院に運んでもいたのだろうが……。それと平行して、ジェシカの保護者であるクランクへの説明も早急にしておく必要もあったのだろう。
「クランクさんへの説明と謝罪についてはこちらに全て任せておいて下さい。……貴方は、彼女をエドさんの所に連れて行ってあげて下さい」
そう役割分担をして二手に別れると、フードを目深にかぶったエルクは早足で西区へと向かい、同じようにローブをかぶってジェシカを背負っていたクロスは、そんなエルクに背を向けるようにしてエドの治療院へと足を向けたのだった。
◆◇◆◇◆
体の弱い子に馬鹿な真似をさせるんじゃない。
そうジト目で主治医であるエドに叱られたクロスは、ひたすら謝る事しか出来なかった。もともとジェシカは体が弱い虚弱体質であることは本人もよく口にしていたのだ。それなのに普通の大人でさえ強い疲れを感じるだろう、無駄に緊張感に満ちた地下迷宮探索を体験させるだなどと、常識的に考えて体調を崩すに決まっているし、それが分からない程に二人揃ってボンクラではないだろうに。……その道の専門家が揃って、何をやっているのか。
そんな同業者向けの叱られ方をされてしまっては、クロスにできるのはただひたすらに頭を下げることだけだったのかもしれない。そんなコメツキバッタ状態なクロスを前にひとしきり文句を言い切って満足したのか、エドはようやく小さくため息をつくとドスンと椅子に腰を落として、いつものように愛用のパイプに葉っぱを詰めて火を灯すと、鎮静効果のある煙と一緒にため息を吐き出していた。
「まったく……。次からは、勘弁してくれよ」
そう、こんな馬鹿な真似を繰り返すなよと釘を刺されてしまったクロスである。それは暗に、後でエルクの馬鹿にも同じ事を言っておけという意味でもあったのだろう。
「……ただ、まあ、アレだ。……おそらくはクランクのヤツも素直には礼を言えん結果になっただろうからな。だから、ワシの方から言っておこう。一応だが、礼を言っておく」
そう視線だけを向けながら。何時ものように横を向いて、パイプの煙を天井に向かって吐き出しながら。
「あの子は、前からずっと冒険者ツアー……。今日、お前さんらがあの子のためにやってくれた冒険者の真似事の事だが、アレを体験できるツアーとやらに行ってみたいとしきりに口にしていたそうだ。それを叶えてやってくれただけでも、何となく肩の荷が下りた気がするんじゃ……。だから、一応程度ではあるが感謝もしておる。それも言付かっておいてくれ」
そうやってしまったことや、その結果の『惨状』については主治医としては当然、批判的ではあったのだろうが、それでもジェシカの願いを知っていた身としては、批判ばかりをする訳にもいかないということだったのかもしれない。そんな複雑な立場のエドの建前と本音の混ざった言葉に苦笑を浮かべると、最後にもう一回だけ謝って。
「では、後はお任せします」
「ああ。任された。……あの子が回復したら、ワシが責任をもって送り届けておこう」
今日はご苦労様じゃったな。……本当に。ありがとう。エルクのヤツにも、そう伝えておいてくれ。そう優しい笑みを浮かべてみせたエドにクロスもニッコリと笑うと治療院を後にしようとしていたのだが……。
ガチャ。
「おーい、エドさんよー。ここにエルクきてねぇか~?」
往々にしてタイミングの悪い間というものは存在しているのだろう。
「あ! クロちゃんだ!」
例えば、ジェシカの治療の時に血で汚れてしまっていたローブを『不衛生だから入り口で脱げ』と命じられていた場合などだ。そして、そんな時に限って一番見られたくない格好をしていていたり、そんな時に限って会いたくなかった友人とばったり会ってしまうものなのかもしれなかった。
「……ここにはおらんぞ。あと、いつも言っとるが、開ける前にはノックをせんか」
「へーへー。……フーム。ココじゃなかったか。……つーか、なんか久しぶりに見る顔が居るかと思ったら随分とまあ……。めかしこんでんな~?」
そうフムと少し考える素振りを見せてニヤリと笑ってみせる男の名は言うまでもなくアーノルドといったし、そんな男の背後からひょっこり顔をのぞけているのはクロウだった。
「……で? どうしたんだ? そんな可愛い格好して」
「あ、ほんとだ。……可愛いね~。その服。とっても似合ってるよ。……ね、アーちゃん」
「まあ、そうだな。確かに、似合ってるな。……不思議なことに」
片方は悪意たっぷりに。片方は純粋に天然で。二人して褒める服は確かにクロスに似合っていたのだろう。最初こそ体型の違う他人のお古だったし、服自体が着慣れていなかった事もあって色々と違和感もあったのだが、何度も着て過ごしている内に服の方もクロスの体型に合うようになってしまっていたし、クロス自身もその服を着る事に慣れてしまっていたのだ。だからこその「似合っている」だったのだろうが、外見は女の子みたいな感じであっても、その中身はれっきとした男の子なのだ。当然のことながら、そんなセリフを喜ぶはずもなかった。
「な、なんで……」
なんで二人がこんな所に居るのか。そう言いたげに口をパクパクさせているクロスの真っ赤に照れている顔に苦笑を返しながら。
「二人で請けてた仕事の方も一段落したし、なにやらお前らが面白いことやってるって噂を聞いてよ……」
ジロっと睨めつけるような視線を向けて。
「あの馬鹿に仮面つけさせてオカシナ名前を名乗らせただけじゃない。その上、喧嘩売ってきた阿呆な若造の剣を叩き折って返り討ちにさせたんだって?」
「……そ、それは……」
何か盛大に勘違いしていそうなアーノルドの言葉に一気に顔色を悪くして「違うんです!」とばかりにワタフタとタコ踊りを始めてしまったクロスに怖い笑みを浮かべながら、ズイッと顔を近寄らせて。
「いちおー元相棒として言わせてもらっとくとよ。人の大事なパートナー横取りするような真似して、何やらかしてくれてんだ、このアホがってことだよ。……なあ?」
分かるよな? ん? そう薄く殺気の滲む笑みで凄まれると流石に膝から力が抜けそうになってしまう。そんな背後で「?」と首を傾げているクロウには分からないだろう凄み方をしてみせる男が、けっしてただの面倒見が良いだけの先輩冒険者ではない事は分かっていたはずだったのだが、それでもアーノルドにとっての決して踏んではいけないという意味での虎の尾が『エルリック』であったことは、クロスにしても意外ではあったのかもしれない。
「まあ、アレだ。流石に、お前がアイツに無理強いして頼んだとかは流石に俺も思ってないんだけどよ。……でも、まあ、色々と、な? 長いこと生きてるとあらぁな? ……なあ?」
それは俺達の過去をえぐるような馬鹿な真似をするなという意味であり、クロスに対する警告でもあったのだろう。特にエルクの過去をえぐるような真似だけは何があっても絶対にゆるさないと、その目は語っていて。
「過去の偉人とか剣豪とかって感じの奴らは、せっかく過去の人になれたんだから、そのままにしておくべきなんじぇねぇかなーって、な。俺なんかは、そう思うわけさ。……例え、本人が何を望んだにせよ、な?」
お前にだって、探られたくない過去の一つや二つ、あるだろ? そう耳元で囁かれた事で固まってしまったクロスの肩をポンポンと叩くと。アーノルドは背後で「どうしたの?」とばかりに首を傾けていたクロウに「何でもない。それより、他、探すぞ」と声をかけて。「まだもうちょっとクロちゃんと話させてよー」とばかりに踏ん張って嫌がっているクロウを無理やり引きずるようにして出て行ってしまっていた。
「やれやれ……。何とも、慌ただしい上に騒がしい連中じゃわい」
そんなエドの言葉に生返事を返しながら、クロスはもしかすると自分はとんでもない事をしてしまったのではないか、と……。今更ながらに、生きた伝説そのものを掘り返してしまった上に、そんな英雄譚の登場人物をよりにもよって王都に解き放ってしまった。その事実の重さに思い至らされてしまっていたのかもしれない。