3-28.勇者と剣聖
少し奥の方に行ってみましょうか。そうエルクが二人を連れて奥へと足を向けたのは、自分達の背後……。入ってきた道の方からガヤガヤと場違いに賑やかな集団が近づいてくるのに気がついていたからなのだろう。
「……なんだか普通の人が居るのが、すごく場違いに感じる……」
そんなジェシカの感想は、ある意味で迷宮の真実の一端を正しく感じ取れた証でもあったのかもしれない。こんな狂った場所に、自らの意思で望んでまでして踏み込んで、命を粗末にしながら『生きて対価を掴み取るか、死んで全ての失うか』といった趣旨のトチ狂った上に、決して分の良くないだろう賭けに興じ続ける事を選ぶだ等と……。そんな生き方がまともであるはずもなかったのだ。
「確かに、こんな狂った場所で毎日を過ごすのが自分にとっては当たり前の日常だなどと考えている様なら、その人物はすでに正気を失ってしまっているのかもしれませんね」
もっとも、昔の私はこういった行為に命を晒し続ける事に、何ら抵抗らしき感覚を感じてすら居ませんでしたが……。そう無意識の内に自嘲の笑みを浮かべながら、エルクは我知らず自問の言葉を口にしてしまっていた。
「……あの頃の私は、こんな場所で毎日を送ることに、何ら忌避感も疑問も感じていませんでした。それに頼りになる仲間や相棒も一緒だったせいか、恐怖感らしき物もろくに感じていなかった気がします。……他の人のように闇に視界を遮られなかったせいで、闇そのものに本能的な恐れとやらを抱かずに済んでいただけなのかも知れませんが……」
そういった特殊事情を抜きにしても、果たしてあの頃の自分はまともだったのだろうか……。そして、こうして迷宮の闇と、その中に薄く漂い続けている狂乱と狂気の片鱗に、強い恐れと忌避を感じているらしい今の自分は、果たしてまともになれたのだろうか。
──いや、まて。そもそも“まとも”とは何なのだ。何をもって人は自らを正常だと判断し、人を狂人であると見なすのだろうか。……迷宮を恐れないことを狂気と呼ぶのか? それとも、恐れを克服させた勇気すらも一般人から見れば異常性の証であるのか。……自分のように最初から恐怖も何も感じていなかった存在は、どのように捉えられるべきなのか。最初から狂っていたのか。それとも恐怖すら感じられない程に心が病み切っていたとでも……?
そんな自問の繰り返しは無意識の内に意識をささくれ立たせていたのだろうか。
「あ、あの……」
気がついた時には思わず立ち止まっていて、背後の不用心にもワイワイ楽しそうにはしゃいでいる恐らくは観光目的なのだろう、思い思いに明かりを手にした無数のローブ姿の集団を見つめてしまっていて……。そして、そんな集団を無言で見つめている眉間にシワの寄っていたエルクの袖を、クロスはそっと掴んで引っ張っていた。
それは「怒らないで居てやって下さい」という意味だったのか。それとも「不愉快に感じるかもしれませんが我慢してやって下さい」という意味だったのだろうか……。何にせよ、自分がひどく不愉快そうな雰囲気を漂わせてしまっていたのは確かだったのだろう。エルクは、とっさに強ばっていた頬を笑みの形に緩めると、努めて硬い雰囲気を緩めて見せていた。
「……申し訳ない。ちょっとラチもない事を考え過ぎてしまっていたようです」
そう謝ると、エルクはフゥとばかりに小さくため息をつくと「いけませんねぇ。悪い癖です」とぼやきながら頬をかいて見せて。
「やはりブランクがあるせいでしょうか……。こういった物騒な場所に久しぶりに潜り込んだ事もあってか、色々と下らない事に思いを馳せてしまっていたようです。それに少々、自制心の方も揺らいでしまっていたようですね。……いつもなら多少の事は笑って流せる自信があるのですが……。今日は、色々と良くない」
やはり武装してしまうと、無意識のうちに攻撃性が上がってしまっているのでしょうか……。そう小さくため息をつくエルクは、無意識の内に自分の腕が剣の柄の上に置かれていた事に、今更ながらに気がつかされてしまっていた。
この無限の闇に閉ざされた変な圧迫感を感じる地下空洞は、心の暗部をむやみやたらに刺激してきて、穏やかさや安らぎとはまるで無縁になってしまう場所でもあったのかもしれない。それは、もしかすると単なる錯覚であったのかもしれないが、少なくとも、さほど的外れな考え方でもないはずだった。なぜなら、この場所で生きる魔物や冒険者は、総じて全員が常に殺気立っていたし、いつだって相手を見逃すという選択肢を取る気を失わせてしまっていたからだった。手を出すだけ無駄だから無視するということはあっても、可哀想だから見逃してやろうという発想だけは浮かんでこないのが常だったのだ。
向かってきたら殺す。歯向かっても殺す。向かって来なくても、殺したければ殺す。目の前にあらわれたなら、とりあえず問答無用で殺しておく。往々にして、ここでの選択肢とは、そういった『殺す』か『無視する』かの二つだけといった殺伐とした内容であり、ごくまれに、そこに『逃げる』という屈辱まみれで後ろ向きな選択肢が現れる程度だった。
──やはり、まともではいられない場所という認識のほうが正しいのかもしれませんね。
そうため息をつくと自分のことを不安そうに見つめてくる二人に苦笑を浮かべて見せる。
「……特に悪影響を受けていないようですし、そんな貴方達には無用の忠告かもしれませんが、こういった場所によく知らない人と一緒に踏み込んだ時などには、その人物の言動や態度、なによりも雰囲気の変化という部分に十分に気をつけることです」
それは先程の自分のように、日頃抑え込んでいる心の暗部が理性の殻からにじみ出してきて、表に出てきやすくなるという忠告でもあったのだろう。
「外では紳士的に振舞っていても、地下では別人のように粗野になったり凶暴になったりする人は珍しくもありません。その人の豹変具合は実際に組んで観察する事でしか分からないのかもしれませんが、往々にしてそういった二面性のある人物は評判などで本当の姿というものが垣間見える物ですからね……」
そんな忠告に「貴方のように?」と視線で返されているような気がしてしまうのは、自己嫌悪といった感情によるものだったのか。それとも子供に向かって無意識の行動とはいえ殺気立った空気を感じさせてしまったことに対する後ろめたさだったのか。
「……先程の私のように、ね」
だからこそ、そう付け加えてしまったのだろう。だが、そんなエルクの言葉に二人は小さく首を横に振っていた。
「せっかく良い雰囲気で迷宮体験出来てたのに、それをブチ壊されたんですから。私だって、あの人達のことは不愉快に感じてます。それに、空気の読めない人達に不愉快さを感じるのは、多分、普通のことだと思いますから……。だから、大丈夫ですよ!」
「そうですね。私も、ジェシカさんの意見に賛成です」
そうフォローしてくれる二人に苦笑で礼を返しながら足を進めていたエルクであったが、そんなエルクの耳は、闇の奥……。具体的には少し先に進んだ場所にある側道の奥から“何か”が駆け寄って来ているのを捉えていた。
──三体でしょうか……? 人型。小型二足歩行生物が三。……いや、四か。
ピクッと耳が反応したかと思うと、次の瞬間には大きく足を踏み出していた。その動きに一切の迷いはなく。頭ではどうしようか考えていたとしても、自分が次の瞬間に何をしなければならないのかは、体は既に理解し適切な行動を起こしていたのかもしれない。
「二人とも、そこを動かないで下さい」
お客さんのようです。すぐに戻ります。そう短く言い残すと一人だけ先行して。その背にジェシカのランタンの明かりを受けながらも、特に急いでいる風でもないのにローブの裾は、何故だかはためいてしまっていた。それは運足の速さの証でもあったのかもしれない。
キッ! キッキッ! キャッ!
重なりあう鳴き声が人でない生き物の到来を告げており、先を争うようにして駆け出してきた四匹の子鬼……。コボルトと呼ばれる犬顔をした小柄な人型の魔物であったが、その粗末な布切れと鎧がわりに身に着けていたのだろう皮製の胸当てらしき防具に身を包んだ小鬼達は、その手にしたボロボロの剣を一度も振るう事もなく……。僅かに光を反射させる閃光が数条闇の中を駆け抜けたかと思うと、次の瞬間には「キンッ!」と澄んだ音を立てて剣が鞘に引き戻されていた。そんなエルクの足元には、空中で斜めに断たれた小鬼の上半身が四つ、折り重なるようにして転がって来ていた。
「……失敗したかもしれません」
そう今の神業じみた抜き打ちによる斬撃を「しまった。思わずやってしまった」といった表情で振り返ってみせたエルクであったが、その言葉の真意は何だったのか。その答えはすぐに向こう側からやって来ていた。
「……おぉっ!? 死んでる!?」
目に痛い光を宿した杖。そのやたらと目を引く杖を掲げて松明のように周囲を照らしながら歩いてきたのは四人連れの集団で二番目を歩くローブ姿の女だった。その格好からして、おそらくは魔法使いか何かなのだろう。そして、そんな照明係らしき女の前を走っていたのは、剣を手に全身鎧を着た男であり、そのいささか不自然に感じられる額の部分に拳大の水晶を嵌めこまれた額当てを付けた男は、声からしてまだ若い戦士のようだったのだが……。
「申し訳ありません。そちらが先に目をつけていたのに、勝手に始末してしまいました」
不意に横の道から飛び出してきたので思わず斬ってしまった。そう申し訳ないと謝るエルクに、その強い後光のせいで顔がいまいち見えづらい若い男は、そのシルエットの中で「良いって。気にしなくて」と言いながら掌をヒラヒラとさせながら、反対側の手に持ったままだった長剣を腰の鞘に戻して見せていた。それは敵対する気も難癖をつける気もなければ特に警戒もしていませんよという意思表明でもあったのだろう。平たく言えば、この件に関して文句をいうつもりはないというメッセージでもあったのだ。
「そう言って貰えると助かります」
「構わないさ。こっちも帰り道を塞いでた邪魔臭かった雑魚どもを帰り道がてらに掃除しとくか~って思ってただけなんだ。それを代わりにやってくれたんだろ? 文句なんか、ある訳ないさ。それに下でしこたま稼いできた帰り道だ。もう、色々と、お腹いっぱいだよ」
そう肩をすくめながら笑ってみせるとエルクの目の前に歩みよって、その背後に隠れるようにして近づいて来ていたクロスとジェシカの二人にも視線を向けていた。
「……フ~ム。子供連れ、ねぇ。これから迷宮に潜ろうって風じゃないよな」
本人はしっかり武装しているが、連れの二人は申し訳程度の軽革鎧のみ。はっきり言ってしまえば戦うつもりもなければ自分の身を自分で守るつもりすらないのが分かるダメっぷり全開な格好で。だからこそ、そこから見えてくる“何か”もあったのかもしれない。
「見学か、体験か。まあ、そういった所かな」
そう「どうだい?」とばかりに考えを示して笑ってみせた男に、エルクも苦笑混じりに表情で「正解です」と答えて見せていた。
「しっかし……。鮮やかなモンだな。どうやったら、こんな綺麗に切れるんだ」
つま先で、綺麗に二つに断たれた死体を転がしながら。その目は何やら面白い物を見つけたといった風に細められていた。
「一瞬で五匹ともかい?」
「いえ、四匹でした。団子状になって出てきたので……」
フーン。四匹だったのか。そうか、そうか。なるほどねぇ。いや、それにしたって見事なもんだ。そう何かに納得するかのようにしてウムウムと頷いて。その男はニンマリ笑って犬歯を見せていた。
「アンタ、尋常じゃねぇレベルの“使い手”だなぁ」
それは相当な腕の剣の使い手だな、という指摘でもあったのだろう。いくらゴブリンが迷宮の上層でも最弱クラス相当の魔物だったとはいっても、ほんの一瞬……。自分達の視界から消えた僅かな時間の中で全ての敵が一刀両断に斬って捨てられる。しかも、抵抗らしい抵抗すら許さずに、上半身が皮の防具らしきものごと真っ二つに断たれたとなると……。それこそ、四匹の敵を瞬きする程度の時間の中で二つに断って仕留めなくてはならない計算になる。それは並大抵の腕で出来る事ではなかったのだ。
「……ホントに、良い腕だ……」
地面に屈み込みながら、折り重なった魔物の死体の小山を見つめながら。その口元にゆっくりと笑みが浮かんできていた。その笑みは先ほどまで浮かべていた笑みとは似ているようで何処か禍々しく感じられる別種の物で……。だからこそ、エルクは「余り関わりあいにならない方が良い御仁のようですね」といった疑念の目を向けながら、背後の二人を促して早々に立ち去ろうとしていたのだが。
「おっと、待ちなって。まだ、礼を言い終わってないだろ。……それなのに、そんなに急ぐこたぁねぇだろ。まだ、OHANASHIしようゼ~?」
その何かを楽しんでいる風な愉悦にまみれた声に何を感じたのだろう。それまで無言のままに成り行きを見守っていた男の連れていた女達は三人揃って慌てた風に止めに入って、その中の一人……。聖職者らしき修道服を着た若い女は、視線で「早く逃げて」といった風に促してた。だからこそ、分かることもあったのだろう。
──この仮面を付けている以上、やはり厄介事からは逃げ切れませんでしたか。
その事がかえってエルクに覚悟を決めさせる原因になったとは、恐らくは誰も思わなかったに違いない。しかし、それは事実だったのだ。だからこそ、その瞬間に動くことに躊躇もしなかったし、一切の油断もなかったのだろう。
ギィン!
その瞬間。閃光は、ほとばしった。交差した銀光の二条。それは間に挟まっていた三人の女達の間を縫うようにして駆け抜けていた。
ギャギガリン、ギィン!
果たして、その斬撃の応酬は何度に渡ったのか。無数の閃光は互いに「分かっている」かのようにして中央付近で火花を飛ばし、容赦なく間に挟まれた女達に降り掛かっていた。「ヒィ」だの「ィィッ」だの「キィッ」だの、人間らしくない喉の奥あたりで引っかかっているかのような、ひどく引きつった声になっていない悲鳴を上げさせて。それをやった当人達は、至って平然としていて。片方は面白くもなさそうに。もう片方はとてつもなく楽しげな笑みを崩すこともなく。
ギャキィン!
最後の止めとばかりに盛大に火花を散らした二本の剣は、それを合図にしたかのようにしてようやく動きを止めて。ついにはエルクの剣によって上から力尽くで抑えこまれていた。そんな、ようやく悪夢のような斬撃の檻から解放されたことで、三人の女達は腰が抜けたかのようにしてヘナヘナと、その場に崩れ落ちてしまっていた。
「良い加減になさい」
そう冷たい声で「もう止めておけ」と忠告したエルクであったが、その不愉快さの滲む声に対する反応は、実に対照的な代物だった。
「カッカッカ。流石は“銀剣”こと“銀の剣聖”様だ。剣の腕は当代一とは聞いてたが……。あれは冗談でも何でもなかったらしいな」
恐らくは先ほどの剣戟の応酬で満足を得られたのだろう。チャキッといった音を立てて手元に剣を引き戻した男であったが、その視線の先では明らかに刃に過負荷をかけ過ぎたのが原因なのであろう、小さく刃が欠けていたり、細かなヒビが入ったりしてしまっていた。そんな無残な姿を晒す愛剣を見て、男は『チッ』と小さく舌打ちをしていた。
「……やっぱ、こんなナマクラじゃ駄目だな。腕のほうはそこそこ良い勝負だったのに、アンタの月光の魔剣と打ち合うには、チト荷が重すぎたらしい」
そう愛剣を酷評してみせる男であったが、その手に持った剣は見るからに上等な作りであり、明らかに名のある匠の作であることが見て取れた。例え、それほどの剣であったとしても、地下で散々に酷使された後に、魔剣と呼ばれるランクの剣を相手に散々に打ち合うような馬鹿な真似をすれば刀身がどうなってしまうかなど、考えなくても分かるだろうに……。
──哀れな。
それは折角手に入れた名のある匠の手による作品だろう業物の剣を大事にしようとしない不心得者な未熟者の手に渡ってしまった、そんな剣への哀れみの感情であったのだろうか。それでも駄目な部分ばかりが目立つ主のために折れたり曲がったりすることもなく、これほどの酷使にすらも“最後まで”耐え切って見せたのに。その事を何ら褒めてやる事すら出来ない。そんな若い男に、エルクは軽蔑どころか怒りと哀れみすらも感じていたのかもしれない。
「アンタ、銀剣のエルリックだろ?」
「そういう貴方は?」
「俺か? 俺は……。勇者さ」
“勇者”アーサー様とお供兼お目付け役な三人衆だ。ヨロシクな。そう口にするとニンマリと笑って見せて。殺気こそはあっても、不思議と邪気の類は感じられない。そんな不思議な笑みを浮かべて名乗ってみせた男の手の中で、その死にかけた剣はついに力尽きてしまったのか、半ばからへし折れてしまっていたのだった。