3-2.悩み多き少年
またしてもあの人の登場で(ry この章にはシナリオの都合上、かなり頻繁にあの人が出てきます。ご了承ください。
せめて悪夢が現実になりませんように。
悪夢の影響が現実に及びませんように。
これ以上、面倒なことが起きませんように……。
そう祈るくらいしか出来ない自分に少々嫌気が差してきつつあるクロスであったのだが。
「どうしても言えないか?」
何なら人に言えないような内容の弱音でも愚痴でも何でも聞いてやるぞ。それこそ上司の悪口でも……。そう暗に告げられているのは分かっていても。
「聞いても、多分、無駄です」
そうはっきりと拒否して。
「なんでだね?」
「それを聞いても、私の事を軽蔑するか、頭がおかしい奴だとしか思えないからです」
だから放っておいてくれ。そう言いたげなクロスにエドはそれでも食い下がっていた。
「それじゃあ、本当に無駄かどうか試してみんか?」
その何処か必死な声に、クロスは僅かに表情を歪めて。
「……無駄なことは嫌いです」
そう拒否の言葉を返していたのだが。
「無駄になるかどうか、実際に試してもみんで分かるのか?」
ここまでしつこくつい下がっていたのは、ここで押せば何かしらの反応を引き出せるという手応えのようなものを感じていたからなのかもしれない。先程までのやり取りで、何かしらクロスから『誰か話を聞いて欲しい』といったサインが、それを感じさせるサインが出ているように感じたせいもあったのだろう。
──一瞬、迷いを見せた。ここは押しの一手だ。
あくまでも表情はにこやかに。右手だけを硬く握りしめながら。
「なに。決して、お前さんの言うことを馬鹿にしたりはせんよ。これは約束する」
だから、どうだ? ちょっとだけでもいいからと、身を乗り出しながら。
「ちょっとだけ、ワシに話してみんか?」
その余りのしつこさに、思わず辟易したのかもしれない。クロスは俯いて「ハァ~」と腹の底から盛大にタメ息をついてみせながら。そして、それを見たエドは手応えを掴んだのか『落ちた!』と内心で喝采をあげていた。
「本当に馬鹿にしませんか?」
「しない」
「笑いませんか?」
「誓おう」
「……後悔するかもしれませんよ?」
「しない、とは言い切れんだろうな」
だが、と。
「後悔しないとも限らんからな」
とりあえず聞いてみない事には本当に後悔するかどうかすら分からないのではないか? そんなエドの决意にも似た言葉によって、ようやくクロスの中でも一つのふんぎりがついたのかもしれない。
「わかりました」
そう、自分を苦しめている夢の一つを話すことを決意させていた。
「……悪魔にイタズラされる夢です」
しかし、その内容は予想以上に酷かった。
「その悪魔は夢のなかでこう言うんです。自分の事をパパと呼んで良いぞって……」
もしも、その告白が本物であったのだとしたら。そして、その内容に一切の誇張や嘘や偽りがないのだとしたら。さらに言えば、その悪夢が原因でクロスが他人との接触を極端に恐れてしまう状態に陥っているのだとしたなら……。前に自分が直感で感じたクロスが何者かに犯されたことが原因なのでないかという予測が正しいのであれば……。
──ワシの推測通りなら……。この子は、夢の中で“父”を名乗る“悪魔”に犯されたという事か……。
そのあまりに凄惨な内容に。そして理不尽に過ぎる内容に同情すら感じることが出来ずに。そして腹の底から酸っぱい何かがこみ上げてくるのを感じながらも……。
「お前さん……。そんなに酷い代物を夢に見ていたのか」
「……そうですか?」
あるいは、そんな『なんでそんな変な顔してるの?』といった風なクロスの反応こそが異常なのかもしれないのだが。だが、本人にしてみれば、あの“赤い悪夢”にくらべれば、あの程度の内容、何というほどもないという程度にしか感じていなかったのかもしれない。あるいは、それほどまでに鮮血の悪夢は自分にとって強い忌避感を抱いていたのかもしれないし、なかなか自分では認められない内容ではあるものの、あの自称父親との逢瀬の時間をさほど苦痛に感じなくなってきているという証左でもあったのかもしれないのだが……。
──いや、それだけはない。ありえない。あってはならない。絶対に違う!
「おいおい。そんなつれないこと言うなよ」
──またか。というかよりにもよって今ですか。
そう内心で激しく舌打ちをしながらも。
「お前さん、そんなに魔人であることに強いコンプレックスを抱いていたのか」
「……そうなんですかね」
いきなり耳の横から聞こえてきた馬鹿の声に内心でドキマギしながらも、ひどく焦っていることをおくびにも出さないで、クロスは至って平然とした声でエドの言葉に答えていた。もっともその内容は適当にもほどがある代物であったのだが……。
「ああ。そうなのかもしれん。いわゆる自己の否定、自身のルーツ、親の血、悪魔の血の否定だな。……あるいは己の破滅願望、破壊願望といった所か」
へーそうなのかー程度にか受け取っていない表情なのは、実のところ内心でそれどころではなかったからなのだろう。エドの相手を出来るほどには、今のクロスには余裕がなかったのだ。なぜならば……。
「ほー。お前って、そんなに俺様の血を憎んでいやがったのか」
エドには見えていないのだろう。いや、きっと自分にしか分からないのかもしれない。この背後から抱きつくようにして体をまさぐっている馬鹿の存在は。今、大事な話をしてるところなんだから、頼むから大人しくしていてくれと言えればどれだけ楽なのだろう。しかし、この空気の読めない馬鹿は人の言うことなど聞いてはくれないのだ……。
「随分とやっかいな感情を抱え込んでいるらしいな」
──ええ、分かりますか。この面倒臭さが。というか、このひたすら面倒くさい上に空気まで読めないウルトラ馬鹿、本当に誰かどうにかしてくれないかなー。
そんな投げやりにも程がある諦めきった空気を漂わせて襲われるに任せている無気力ノーガード戦法に出ているクロスを相手に、今日も今日とて全力全壊な自称父親である。
「そんなこと言うなって。お前だって絶対に嫌って訳じゃねぇんだろ?」
最近、部屋での逢瀬にマンネリを感じていたのかもしれない。初心に戻るかとでも言うかのようにして、よりにもよってエドの診察中に襲いかかってきた大馬鹿であったのだが、どうやらいろいろな意味で修行を積まされてしまったクロスにはさほどダメージになっていないようで、乱れた着衣や、その隙間から直接肌を弄られていても、最初の頃のような過剰な羞恥心を煽られる事はなくなってしまっているようだった。
──我ながら慣れとは恐ろしい……。
「俺様の教育の賜物だな。具体的には注ぎ込んだ愛情の量」
──あとは、この色情狂さえ居なくなってくれれば言うことはないのですが。
「お前のほうは今日も素敵にツンデレだな。……ツンなのもなかなか可愛いが、そろそろデレてくれる頃じゃないかと期待してるんだが……」
──それだけはありません!
そんな取り付く島もない態度に思わず背後から笑い声が漏れていた。
「そんなに俺様のことが嫌いか」
「こんなことばかりされて好きになるとでも?」
「愛情表現だぜ?」
「肉欲しかない愛情など、欲しくはありません」
どうやら自分の声はエドには聞こえていないらしい。先程から必死に噛み締めていた歯の隙間から微妙に漏れてしまっていた声に何の反応も見せないエドを見て、おそらくは喋っても大丈夫なのだろう……。今の姿も見えていないようだし、きっと背後の悪魔とのやりとりは聞こえないのだろう。そう感じてはいたのだが。それでも実際に声で答えるのには少なからず勇気が必要だったのだろう。本当に聞こえていないらしいことが見て取れると、それだけで安堵のタメ息が漏れてしまっていた。
「まあ、お前の中には魔族の父の血だけじゃない、人間どもによってたかって植え付けられた魔人である自分ってヤツへの忌避感ってモンがあるんだろうからなぁ……」
確かに自分を許せないという気持ちはあったのだろう。自分を弄んで喜んでいる悪魔のせいでますますそれを自覚していた。それに何故、自分だけがこんな目にあっているのかという、やるせない気持ちも多少はあったのだろう。
「連中と俺達は本来は相容れない存在だ。それを“なかなか強いじゃないか。折角なら利用してやろう”程度のくっだらねぇ理由から無理して受け入れようとして“やっぱりキモイからヤだ”なんて馬鹿な理由で拒絶するなんていう馬鹿の極みな阿呆どもの言うことなんて、真に受けるなよ」
確かに、しょせんは人間側の一方的な理由の押し付けにすぎないのだ。魔族や魔人にとっては馬鹿ががなり立てている下らない戯言にすぎない。人間が何を言おうとも、魔族にとっては自分勝手で一方的な主張に過ぎないのだ。……魔人は人間は根本的に違う。それを一緒にして考えているから混乱を起こしてしまっているだけなのかもしれない。……現に見てみるといい。自分の陥っているこんな屈辱的な苦境のことなど何も知りもしないでしたり顔で説教をたれて、呑気に煙草を呑み、カルテにペンを走らせているではないか。この程度の人間に自分達のことなど本当の意味で分かるはずもないのだ。
──それなのに、受け入れて欲しいだなどと考えたから……。
もしかすると、こんな自分でも人の世界で生きていくことを赦されるかもしれない。そう思った事こそが全ての過ちの始まりだったのかもしれない。そう思った事こそが罪だったのだろうか。……こんな自分に生まれてきてしまったことが。こんなデタラメな親をもって生まれてきてしまったことが。こんな魔人として生まれてきてしまったことが。こんな魔人が人の世界で生きていきたいと願ったことが。自分のことを人間達に受け入れて欲しいと高望みしてしまったことが。それら“全て”が己の背負わされた罪だというのなら。いっそ、このまま悪魔の望んでいる方に流されるのも……。
「泣いてるのか?」
その言葉にハッとなったのは、恥ずかしさからなどではなかった。恐らくは純粋な意味での“悲しみ”によって心を押し潰されそうになってしまっていたからなのだろう。その瞬間に、自己憐憫ともいうべき自分への情けなさ、辛さ、悔しさ、苛立ち、そして怒り……。そういった負の感情がまぜこぜになった代物が不満となって吹き出しそうになっていたことを。それを自覚してしまったからだった。そして、それは自分の心が折れそうになっていた事の……。自分の中の限界がそう遠くないことを自覚してしまった瞬間でもあったのだ。
「おまえなんか、だいきらいだ」
その言葉に、何を感じたのだろう。「……そうか」とだけ言い残すと、背後の悪魔はあっさりと我が子のことを解放していた。そして「悪かったな」と囁くように耳元で言い残すと、これまでの事は何だったのかと思うほどあっさりと姿を消して、その気配も感じさせなくなってしまっていた。
「……どうかしたか?」
「いえ、なんでも……」
カルテに何やら書き込みながら横目を向けてきたエドに、そう白昼夢の世界から帰還したクロスは短く答えながら、わずかに乱れた状態になっていたローブの裾を手早く直して。
「帰ります」
「そうか。気をつけてな」
「ええ」
そんなやり取りの後、診察室の扉の前に立ちながら。わずかに背後を振り返りながら。
「先生のお陰かもしれません。……なぜ他人から触られる事に、これほどの恐怖を感じていたのか。それを、ようやく理解できた気がします」
ある意味で。そう言葉の先頭につけたほうが良さそうな言葉ではあったが、それでも一歩は前に進めたのだろう。
──私はあの淫夢の中で弄ばれているもう一人の自分に……。あの悪魔に屈して弄ばれていた自分になってしまう事を……。あんな情けない自分が現実になってしまうことを。あの悪夢の中で覚えさせられた感覚を“こっち側”でまで味わされることを。それを恐れていたんだと思う。……だから、大人との接触を忌避していた。……いや、違う。誰にも触られたくなかったんだ。
それを理解できたからといって、何かを大きく改善できたという訳でもなく。その恐怖は、おそらくはずっと続くのであろうと分かっていても。それでも訳もわからず他人との接触を恐れていた状態からは、どうにかこうにか少しだけ脱した気がしているというのも確かであり、それは「いつか自分の中でどうにか出来るようになるかもしれない」という希望そのものでもあったのだから……。
「ふむ。……ワシは、少しはお前さんの力になってやれたのかね?」
自分はまだ何もしていない気がするのだが。そう言いたげな言葉からも、クロスが何かを悟ったらしい事は察していたらしい。それだけでも非凡であることの証である。
「ええ、とっても」
そうにっこり笑ってみせるクロスの顔にはすでに暗い陰はなく。エドの視線から逃げることはなかったし、不自然に距離をとったりもしていなかった。それだけでも状況が多少なりとも改善されたという証のようなものだったのだろう。
──此処から先は自分との戦いってことになるのでしょうね……。
本当にトラウマから脱することが出来る日がくるかどうかは分からない。だが、少なくともこれなら治療師として働けなくなる日は来ないで済むはずだった。それなら、あとは時間をかけて少しずつ慣らしていけば良いだけのはず……。
「全ては、ここからです」
エドの医院から外に出たクロスの口元には、僅かに笑みがうかんでいた。