2-7.ココロの痛み
またしてもあの人の登場で話の雰囲気が別の意味で色々とヤバイです。前以上にアレな感じなので色々ご注意下さい。
世界は真紅で染めあげられていた。
月明かりで青白く輝いていた町並みが。湖の湖畔に広がる街が。空に輝く赤い月によって真紅の輝きに包まれていく。
その中で。何かもが赤く染まった世界の中で。その血涙を流す少年は。その夜空に輝く月と同質の赤光を宿らせた右目から。負の感情を血の涙によって押し出していくかのようにして。その抑えきれない憎しみに。その怒りに。悲しみが、口を開かせていた。
「しね!」
その短く、紛れも無い怨嗟にあふれた声が。間違え様もないほどの憤怒によって。
「しね!!」
肋骨の浮き出た骨の上に皮をはりつけただけのようなやせ衰えた肢体が。その青痣と傷に包まれた体にボロをまとっただけの幼い子供が。
「しんでしまえ!」
そのちっぽけな存在の中に。その虫けら同然に扱われていた子供に。“それ”に、どれほどの恐怖が。どれだけの脅威が。そして“何”が潜んでいたのかを。それを思い上がった者達が思い知らされる“夜”が訪れたのだ。
「みんな、いなくなれ!」
その血を吐くかのような甲高くも鋭い叫び声とともに。何処からともなく湧き上がる何者かの高笑いの声と共に。翻るマントの音は怪異を呼び寄せていた。その音の発生と共に。視界を埋め尽くさんとするかのように。見渡す限りの辺り一面に。溢れだすようにして乱れ飛んだのは赤光と真紅の閃光だった。それは時に弧を描き。時に直線で突き進み。時に地面を突き破り、時に空から降り注いだ。頭を。首を。胸を。腕を。足を。特に念入りに腰のあたりを……。時に貫き、時に斬り裂き、時に引き千切り、時に押しつぶし、時にすり潰して、時にえぐり抜いた。そして、最後の止めとばかりに、傷口から黒い炎を噴き上げて燃え上がらせていた。
それは熱を伴わない闇の炎だった。触れたモノの力を残らず吸い上げていき、しなびた枯れ枝のように干枯らびさせていく。そんな性質の。それも、時間をかけてじっくりと……。致命傷を受けたはずの者達ですらも、最後の一瞬まで生かし抜き、苦しめ抜いて。その喉の奥から悲鳴と哀願の声を。頼むから殺してくれと泣き叫ばせ、うめき声ですら哭かせるために燃え続けるのだ。
そんな悲鳴と怒声と泣き声と哀願の大合唱が、いつしかただのうめき声と嗚咽とすすり泣きの声に変わり果てた。そんな真紅の地獄のど真ん中で。
その地獄を生み出した存在は、声もなく泣いていた。怨嗟の声すらも聞こえなくなる静寂の中で力尽き、倒れる瞬間が訪れるまで。……ただ、一人で泣き続けることしか出来なかった。
◇◆◇◆◇◆◇
うっと小さくうめき声をあげながら目を開けると、そこは見慣れた場所だった。
……自分の部屋か。
その認識に。心の声に強い安堵を覚える。「……ああ、ここだ。ここだった」と。目に見える風景が記憶に刻まれた部屋の姿だったことに安堵し、赤く染まった悪夢の風景が目覚めた後にまで続いていなかったことにも強い安堵を覚えていた。
「……安心するのは、まだ早ぇと思うんだがなぁ」
そんな耳のすぐ横から聞こえてくる声にうんざりしながらも、それでも赤い悪夢の世界よりもマシなのだから良しなどと考えてしまうのは、果たして冷静な状態と言えたのだろうか。
「おや、今日は随分と大人しいのな」
いつものように押し倒された生娘のような情けない金切り声を上げて叫んでみたり、手当たり次第に部屋中のものをひっくり返したり投げつけたりしないのか?
そんな挑発的な言葉に反応できるほどの元気が残ってないというのが、あるいは本当のところだったのかもしれない。
「……お願いですから、今日は勘弁してくれませんか」
「嫌だね」
問答無用とばかりに即答だった。
「俺様はやりたいよーにやるだけだ」
「……あー。そーですか」
おおよそ、その答えは想定していたのだろう。返される答えはかなりなげやりだった。
「おいおい、もうちょっと嫌がるなり、説得しようとするなり、必死になってみろよ。そんな自棄っぱちで捨て鉢な態度とられたら、おもわずハッスルしちまうだろ」
「……じゃあ、もうちょっと頑張ったら叛意してもらえるのでしょうかね」
「それはねぇな! 俺様は、誰の指示も受け付けねぇ!」
それを聞いて「やっぱり」とばかりにため息をつく。
「もっとも、お前が大人しく俺様のことを、パパ~って呼んでくれたなら、少しくらいは考えてやってもいいんだがなぁ?」
「……わかりました。たいへんくつじょくてきなめいれいですが、そのことばにしたがいます。ぱぱ、おねがいですから、やめてください」
「嫌だ」
まあ、この返事は予想通りといえば予想通りであろう。クロスもどうせ最初から期待はしていなかったので頼み方も適当なものであったのだろうし……。
「だいたい、さっきのは何だ。あんなの三点だ、三点。百万点中の三点だぞ。もちっと気合いれてやれ、気合を。つーか、もうちょっと誠意と色気ってモンをこめてみろ。あと媚びろ。俺様にへりくだって足を指を舐める勢いでやれ」
本当に腹立たしい。憎らしいというよりもムカつく。そんなイライラしか感じない言葉のやりとりに強い疲れを感じながらも、クロスは寝汗の染みたベッドから体を起こしていた。
「夢も現実も悪夢だ……」
そんなクロスの胸を背後から鷲掴みにして揉みしだいてくる存在がいたとしても、それでもクロスの顔はだれきったままだった。ちなみに、クロスの格好はいつもと大差ないのだが、ここがまだ現実なのかそうでないのかは、正直、自分でもよく分からなくなってしまっていた。
「……今日は女ですか」
「いつも同じだとお前も飽きるだろうと思ってな」
視線を下に向ければ、そこにはわずかに膨らんだ胸があって、体のラインは僅かに丸みを帯びていて、明らかにいつもの自分とは異なっていた。特に腰のあたりに感じる僅かな違和感が……。あるはずのものがないのだから、それにもっと違和感を感じなければおかしいのだが、今自分の感じている感覚は、そんな強くて当たり前のはずの感覚。強いはずの違和感からは遥かにかけ離れた代物だった。
──そうか。違和感がないことに違和感を感じているのか。私は。
そう冷静に自分を分析する余裕があるのは、こんなことが何度も繰り返されていたからなのだろう。……望む望まざるにかからず定期的にやってきては自分を散々に弄んで帰っていく。そんな自称父親の襲来を防ぐ手段が見つからない以上……。神の家の宿舎で悪魔に襲われているという大理不尽な状況なので、ここまで来たらもう諦めるしかなかったのかもしれない。
「……こんなに汗臭いヤツを抱くのは、そんなに楽しいのでしょうか」
「どうせ汗まみれの汁まみれなるんだから問題ねーよ。つーか、そーやってマグロ状態で必死に冷静な振りをしてやり過ごそうって態度が気に入らねぇ」
ぐいっと指先で顎を掴んで顔を引き寄せる顔は相変わらずゲスな笑みを浮かべていて。その無駄に整った顔がどこか自分に似ている事も憎らしいし、そんな男に体を弄ばれているという事も腹立たしかった。……いや、一番ムカついているのは、こんな馬鹿げた理不尽極まりない状況をどうにも出来ない無力で非力な自分に対してだったのかもしれない。
「そーやって顔赤くしながら必死に我慢するなんて、中途半端に無駄にあがいてる姿ってのもなかなか可愛いくてソソられるモンがあるが、そんな知恵の足りねぇ馬鹿息子に無駄な努力っ言葉を叩きこんでやるのも仕事のうちなんだろうな。親としては!」
「こんな親、嫌過ぎます……」
「泣くな泣くな。泣いていいのは気をやった時だけだ」
「死になさい! この悪魔!」
「いいねー、そのツンツンっぷり。今日も相変わらず虐め甲斐があるってなモンだぜ」
どれだけ抵抗しても最後には押さえこまれて頂かれてしまうのだから、足掻くだけ無駄。それは分かってはいるのだが、完全に無駄な努力だからと言って、抵抗を完全には放棄したくないといった所だったのだろうか。ここで変に抵抗したりしても相手を喜ばせて無駄に苦痛の時間が長引くだけ……。それが分かっているだけに、なるべく反応をしたくないのに。それなのに……。それなのに……。
「ふー。満足満足。ごちそうさまでしたっと」
パンパンと。今日も今日とて散々に弄ばれた上にこれでもかというほどに苛め抜かれた上でベッドの上に投げ捨てられた、しどどに汚された自分に柏手を打ってくる変態親父に、息も絶え絶えになりながらも、それでもギッと睨みつけながら。
「……これが現実なら噛み切ってやるのに」
この場合「何を?」とは聞いてはいけないのだろう。色々な意味で。
「無駄だって。すぐ生えてきたろ?」
そうウィンク混じりの答えの意味が分からなくても、この場合も「何が?」とは聞いてはいけないのだ。主に警告タグ的な意味でも。
「この卑怯者!」
「最高の褒め言葉だ」
そんないつも通りなやりとりを終えて、男は満足そうに笑いながら、平然と部屋の扉を開けて出ていってしまう。そして、ゆっくりと扉が閉まっていき、パタンと音を立てると同時に、クロスもパチッと目が覚めていた。
──また、夢。
体を起こせば、そこには見慣れた自分の部屋の姿があって。下を見てみてもいつもと何ら変わらない自分の体しかない。当然、全ては夢の中の出来事であるはずなので、自分が女になっているはずもなかったし、その体も汚されてはいなかったし、ベッドも部屋も綺麗なままだった。
──鮮血の悪夢と、醜悪な淫夢。……どっちがマシなのでしょうね。
朝方もほど近い時間の中で。今日も今日とてクロスは自分の膝を抱いて。肩を震わせて、声もなく泣いていた。……こうして、一人で泣いている時だけは不思議とあの悪魔もやってこなかった。もしかすると遠慮してくれているのかもしれない。ありえないと思いつつも、そう考えてしまったのは甘さなのだろうか。……いつかきっと、こんな甘えさえも許さなくなる日が来るのかもしれない。だが、それでも。こうしてほんの少しだけ弱音を吐くことが許してもらえるのであれば。これを許してもらえている間は。きっと後悔と悔しさに泣くことが出来ている間は。……こうして、一人でゆっくりと涙を流して泣いて良い時間を与えられたことを。それだけはあの悪魔に感謝してもいいと。そうクロスは感じていたのかもしれなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
友達の信頼に背を向けてしまったから。
単純に自分の行動の理由を口にするなら、そういった理由になるのかもしれない。「ここ最近、冒険者ギルドに行ってないのですね」と仕事仲間に心配そうに聞かれた時にも「なかなか、そういった気分になれなくて」とだけ誤魔化すようにして答えていたのだが。
「修士クロス」
その日の務めを終えてフラフラになりながら治療院から出てきたクロスを待ち構えていたのは、どこか険しい表情を浮かべているエルク司祭だった。
「ちょっと話があります。私の執務室に来なさい」
「……はい」
ここ最近、よく悪夢を見ていたのに加えて、そういう日に限って変態の襲撃を受けていたせいもあったのだろう。ちゃんと体を休めているはずなのに体の芯の部分の重い感覚が抜けていなかったし、体全体としても疲労が抜けていない感覚がつきまとっていた。何よりもお腹に上あたりにいつも変な冷たさを感じている気がしてチクチクと針でつつかれているような痛みを感じる時もあって、まともに食事がとれていない状態だったのが一番ダメージとしては堪えていたのかもしれなかった。
「体調を崩していると聞いています」
「……はい」
周囲の仲間達が見かねてエルクに報告を上げたか、あるいは自分のことを休ませて欲しいと要望を上げたか。……心配されているのだから、それに対して文句を言うつもりは一切なかったが、それでも仕事に集中したい時というのはあったのだろうと思うクロスである。
「仕事にはあまり大きな差支えにはなっておりません」
「そうなんですか?」
「はい」
「変ですね。……その割には、現時点でもいくつか気になる兆候が出ているようですが」
手に持った報告書らしき書類に視線を向けながら。
「お腹が痛んでいるらしき素振りを見た者が数名。ここ最近、腹痛によるものか食欲不振を訴えているらしく、お昼や夜の食事を抜いている姿を見たという者が多数。体調不良によるものでしょう、足取りがいつもよりも危なっかしいから転倒したりしないようにもっと気をつけて欲しいという要望込みの苦情が数件……。正直、見ていられないからちゃんと休ませてやって欲しいという要望が、こちらは相当な数が……」
フウッと一つ大きなタメ息ついて。バサッと書類の束を机の上に投げ出しながら。怖い顔で告げてくる。
「あとは、貴方の部屋から、ときどきうなされているような声が聞こえるとも報告が上がってきています」
事ここに至っては、言い逃れは許さないといった強い口調で。
「眠れていないのですね?」
「……若干、その傾向はあります」
悪夢と淫夢のダブルパンチをくらい続けて、まだ何とかなっているのはクロスが賦活を始めとした治療魔法を高いレベルで扱える二級治療師だったからだ。そうでなければ、今頃はとっくの昔にぶっ倒れて病院に担ぎ込まれていただろう。
「お腹の痛みは?」
「弱い痛みがたまに……。ただ、治療は自分でしているのですが、なかなか収まりません」
それを聞いたエルクは少し考える素振りを見せて。
「明日は休みでしたね?」
「はい」
「明日は、冒険者として働く日でしたか?」
「いいえ」
「……ここ最近、冒険者ギルドの方に顔を出していないようですね」
「体調が悪かったもので……」
おそらくはアーノルドから何らかの報告は受けているのだろうが、それでも素直に答えたくない事柄というのはあるのだ。
「では明日はお休みなのですね?」
「はい」
「分かりました。では、私の方で紹介状を書いておきますので、それをもって薬師のところに行ってきなさい」
「薬師?」
「そこで診察を受けて、薬を処方して貰いなさい。……費用はこちらでみてあげますから。良いですね?」
もしかすると余裕がないから薬を買えなくて無理をしていると思われたのだろうか。そう考えてしまったクロスは、とりあえず言うことを聞いておいたほうが良さそうだと判断して、素直に頷いて見せたのだった。