第四話 一人での戦い
第四話 一人での戦い
一日の授業を終了させた宗司はいつも通り廊下を一人で歩き、化け物へと変化した鼻ピアスの事を考えていた。エルの正体すら認めざるを得なかったはずなのに、今となっては疑うことが不自然になっている。
なにより自分の変化に宗司は自分の拳を眺める。その上で昔の事故が脳裏に思い出されていた。
おそらく神と関わった最初の出来事、あれがなければ今の生活も違っていただろう事に戸惑いはある。それでも受け入れる感情もあった。
「ほんとにどうなってるんだろうな俺の人生は」
思わず一人苦笑で顔が綻ぶ。一人になってから作られなくなった表情に廊下の壁ガラス越しに自分がなんなのか考えてしまう。
すると、自分が映るガラスの横に知った顔が映し出された。
「一人で笑っていると変に思われるよ?」
宗司の頭に今更だと思うのと同時、話しかけるなと振り返った。
宗司が振り向くと、にひっと笑顔の雛乃が、よっ、と手を上げている。そんな雛乃に返事はしない、そのまま無視するように横を通り過ぎようとすると、
「ちょっとちょっと、無視はひどいっ!」
それでも雛乃は食い下がる。
この学園にいる人間ならば自分の保身を考え、あの事件で有名になった宗司に話しかけるのは自殺行為だと知っている。だから、例え事件の前に知り合いだとしても妙な噂を立てられないように距離を置くのが当たり前なのだ。
それなのに雛乃はちょくちょくその壁を乗り越えようとする。
それが緒季の兄という立場で気遣っているからなのか、雛乃自身の性格なのか、考えてみれば両方なのだろうと宗司は思う。そして、一度は先輩後輩、さらには親しかった間柄と言う立場から見抜き、宗司は人気の居ない場所まで移そうとした。
「ほぉー、そうでますか?」
それをどう捉えたのか、雛乃は先に歩き始めた宗司と一旦距離を取った。その後に宗司の後ろから上靴の走り出す音が聞こえる。
そして、一瞬足音が消えると、
「とうっ!」
宗司の体に衝撃と重みが加わった。
「なっ、にをしてんだお前は!」
首に腕を回され振りほどこうにも雛乃はアトラクションを楽しむように、宗司の背中で笑っている。その目立つじゃれ合いに宗司は廊下から集まる視線に睨みを加えた。すかさずその睨みから逃れる視線達だったが、後悔も生まれる。
「ったく!」
自分が嫌われているのは元々だからどうでもいい。
しかし、それ以上噂が立てられない内に雛乃を振りほどくのを諦めた。そして宗司は雛乃が飛び乗る前に行いたかった行動を実行する。
下校時間の校門を避け、主に部活者の下校に使われる裏口へと雛乃を連れて行った。
そこでようやく、
「離れろっ!」
少し乱暴に雛乃を振り解いた。
怪我はしないまでも振りほどかれた雛乃は着地と同時にバランスを崩し、尻餅を着く。それならば、罵倒やら侮蔑の言葉が降りかかる、そう宗司は考えた。
だが、立ち上がってお尻に付いた埃を払った雛乃はまたにっこりと笑う。
「相変わらず優しんだね宗にぃ」
「何をっ……」
「分かってるよ、私が孤立しないように皆から嫌われる態度をとってるの。別に私の事まで気を遣わなくたっていいのに」
「ぁあ? そんなんじゃねぇよ」
「素直じゃなーい」
また雛乃は笑顔を見せた。宗司はその笑顔に少なからず救われているのを感じている。だからこそ、そういう態度でその意味を持った行動を取る必要があった。それに雛乃が傷つくのは緒季にも影響が出る。
「ほんと兄妹揃って言いたいこと言わないんだもん。それじゃ苦労するよ」
距離をとっている緒季の事は今となってはほとんど分からない。だけど、友人の位置にいる雛乃の意見は的を射ている。だからそれが緒季の様子だったりと少ない情報源になっていた。
「知るか」
だがそれを表だったりして気づかれる発言は決してしない。一度崩れた環境を直すのは難しいことを知っている宗司は、自分のような存在を作ることを嫌う。それも妹、妹の友達となれば尚更だった。
「ほんと素直じゃないなぁ」
例え宗司と緒季の関係を修復しようとしてくれているとしても、それは絶対に変わらないし、それは変えてはいけなかった。
そんな宗司の性格を難儀に感じるように、雛乃は進展の傾向が薄い事にため息を吐いた。
「はぁ、宗司にぃの近くに神様だったり、悪魔だったりいてくれればいいのに」
そんな人外の願いを叶える存在に宗司は思わず反応しそうになった。雛乃が口に出した存在がまさに現在関わってしまっているからだ。
だが、それを完全に隠さない発言を宗司はした。
「……神様は分かるけどなんで悪魔まで」
そんな事を尋ねた理由は、純粋な疑問と身近で起きていることがあったからだ。それに宗司の身に起きている事を察することなど普通はできるはずが無い。だから、仮定の話は仮定の話だけで終わる。
だが、雛乃は宗司の想像していた反応とは違うものをした。
にやりと、雛乃の表情が悪巧みの顔になる。
それに宗司は心当たりがあった。
「誰もいないなら少しぐらい会話してやるよ」
「やった!」
雛乃は宗司と会話をするために突拍子もない事を言っただけで、それにまんまと引っかかった形だった。
「それで」
「うん? ああ、悪魔の話ね」
本当に思いつきだったんだなと思う宗司だったが、もうどうでもよくなって続きを聴いた。
「だって願い事叶うって言う点じゃ同じじゃん。神様だって願い事全部叶えてくれるわけじゃないしさ」
確かに、とは宗司も思う。魂を売るだとかは人間が勝手に解釈したもので、神様であるエルも神という存在を人間の解釈ではするなと説明で言っている。それでも悪魔という存在の印象が良くなることはない。すでに悪魔に操られた人間と接触している宗司は強くそう感じる。
「どうしたの?」
「ん? いや」
どうやら顔に出ていたらしく不審に思ったような疑問を唱えられた。それを宗司は誤魔化し、関わりたくない話しから遠ざけるように日常の会話に戻した。
「それで、わざわざ俺に会いに来た理由はなんなんだ?」
「へ?」
間の抜けた表情をする雛乃だったが、元とはいえ仲が良かった者の行動を宗司は概ね把握している。何かしら訊きに来たのだろう。
「へへ、バレてた?」
苦笑いをしながら次には遠慮なしにそれは来た。
「緒季ちゃんと何かあった?」
真剣な質問の中にも普段の活発な雛乃の表情がある。それが雛乃なりの気遣いなんだと宗司は知っていた。
知っていた上で返し方は決まっている。
「はぁ、なんでそう思った?」
宗司は結局話が元に戻ったと思うものの、表情にも雰囲気にも出さない。あくまでその質問が大したことではないと思わせるためにため息を吐く。例え唐突な質問だったとしても、誰かに何かを悟られないようにしてきた宗司にしてみれば慣れたものだ。
「え? あ、うん」
だから、想像していた反応と違ったものがきた雛乃は戸惑いを見せて答えた。
「朝の緒季ちゃんの様子がいつもと違ったし、それにみこちゃんもいつもと違ったからさ」
「命が?」
「あ、ううん。みこちゃんの方は別の理由だからいいんだけど」
「何かあったのか?」
緒季に関しては宗司自身が関係しているのだから当然知っているが、今回はエルという理解できない存在が関わっているから口には出さない。
それよりも命の方は雛乃の方が知っているようで、そっちの方が宗司は気になった。
「あはははは、なんにもないよ。ちょっと授業の態度が変だったってだけだから」
隠すのが下手だなと知りつつ無理に聞き出したりはできなかった。緒季と同様命とも宗司は距離を置いている。だから深くは訊いていけないものだとしていた。
「あれだね、えーと、そう、ああえーと」
そんな宗司の気持ちとは裏腹になんとか嘘を取り繕おうとあたふたしながら言い訳を追加しようとしている。すでに誤魔化せる状況ではないな、と宗司が助け舟を出そうとしたところで、ふいに雛乃の携帯が鳴りだした。
雛乃の腕がチャンスと言わんばかりにポケットに突っ込まれる。
「あ、宋にぃごめん! メールがきたみたい」
「ああ、気にしなくていいから見ろよ」
助け舟が必要なくなりメールを確認している雛乃を待つ少しの間、宗司はエルの事を思い出していた。
もう関わるつもりはないと決めているものの、鼻ピアスとの戦いで宗司は死ぬ覚悟をした。そして、その後も続く周りの危機をあの一瞬でも考えた。今考えればエルがなんとかするだろうと考え付く。だが、あの場に来られなかったエルの行動を考えると、多少の犠牲が出て初めて動く可能性がある。そして、その犠牲の中に宗司の周りが必ずしも入らないとは限らない。
宗司は別に超人でも正義の味方というわけではないし、できる事とできない事の区別はきちんとする。鼻ピアスとの一件では逃げたところで狙いが自分である以上、どこかで犠牲が出ると思っての行動だ。それは間違っていないし、鼻ピアスを殴れたのも、自分とは関係のない人間だったからこそ躊躇なくできた。しかし、あれが例えば緒季や命、雛乃だった場合それができたかどうか。
宗司の答えはNOだ。
そしてエルはどうするか。
おそらくはYES、それが神だからという部分で判断できた。
悪魔という存在が化け物を生み出したとしたら、今後同じ事が起こさないためにはエルに会って悪魔をどうにかするしかない。
そうなると、
「……神社だったか」
拒否を続けていてもそれがまたいつかくるなら、対処をすることに迷っている暇はなさそうだった。
「宋にぃ」
「ん?」
色々と決めかねている所で再び雛乃の声で現実に戻された。
「おきちゃん、みこちゃんの家に泊まるらしいから、私も行こうと思います!」
どうやらメールの相手は緒季からだったらしい。逃げ場を見つけた雛乃は敬礼をしながら帰ることを宗司に伝える。
最初から雛乃の誤魔化しを勘定に入れてなかった宗司だったが、それよりも緒季が家に帰らないことが責任になって押しかかる。察するに朝の件が絡んでいるものだと思ったのだ。
「そうか、なら早く行け、俺と話してたって良い事なんてないぞ」
どっちにしろ、泣き言も愚痴も言えるはずもなく。仲の良い三人が集まるように指示する。まるで、できる限りの罪滅ぼしのようだったが、それよりも問題が発生した。
「じゃ、またね宋にぃ!」
命の家というのはエルがいるであろう神社だと、今更になって宗司は思い出した。
宗司が住む町に神社らしい神社は一つしかない。ところが参拝客が少なくなり、さらに命と疎遠になってからは、全く行かなくなったことで宗司は忘れてしまっていたのだ。
もっと早く気付いていれば対処もできただろう事に後悔が生まれる。
「ま、まてっ!」
敬礼が帰宅の挨拶に変わった雛乃を引き留めようとしたが、すでに裏口の扉が閉じた後だった。
急いで外に飛び出た宗司は違和感を感じ取る。
「ひなっ……の?」
校舎の裏手にある扉はそこしかない。扉を出てからは左右ともに校舎を数百メートルあり、奥は長い堀をフェンスが囲っている。フェンスを乗り越えれば音でも分かるしその姿を見つけるのが自然、仮に左右のどちらかに走ったとしても雛乃の後ろ姿が無ければおかしかった。
だが、雛乃がいない。
「どうやって……」
純粋な疑問から辺りを見渡し、
――それは突然現れた。
「カミキソウジダナ」
気を失った雛乃を片手で抱え、フェンスの上に立つ大男が感情のない声でそこにいた。
その存在に宗司は思い当たる。
「お前が悪魔かっ!」
鼻ピアスとは違い成り立つ会話がそう思わせた。
「雛乃になにした?」
久しぶりに感情が高ぶり、高圧的な態度で雛乃の安否を確認すると返事が返ってくる。
「ツイテクレバナニモシナイサ」
そう言った大男は五メートルはある堀を、雛乃を抱えたまま飛び越えていなくなる。
「くそったれ!」
異常な喧嘩から数時間と経たないうちに宗司はまたも関わっていく。
「エルッ!? 聞こえてないのかっ、エルッ!」
今度は神の手助けがないまま――。
▽▽▽▽▽
神殿の前に、神であるエル、神社の管理者の宮司、宮司の孫娘にあたる命、そして宗司の妹の緒季が揃って宗司と同じ所までの説明がされた。粕田は宮司の指示で篝の看病にこの場にはいない。
「さて、ここまではいいかしら?」
神だのなんのって、話を聞かされるたびにお互いの顔を見合わせていた緒季と命だったが、命はじじの孫ともありエルの存在に違和感を、緒季はエルの口からでた宗司の名前に事実だけを知ろうと余計な事で口を挟むことはしなかった。
スムーズに進む話しに満足気にエルは、
「うん、いいわね。宗司もこれだけ素直に話を聴けばこんな事にならなかったのに」
無駄口を入れた。
そんな無駄口に緒季だけが反応する。エルを睨みつけるように今まで我慢していたものが溢れ始めた。
「それでおに……あの人はどう関わっているんですか?」
緒季の睨む意味を理解したエルは失言に慌てて説明の続きに戻ろうとする。緒季は宗司の妹で、さっきから宗司の名前が出るたびに怒りを蓄積していた。それが決壊すれば宗司と同様の結果に繋がると思ったからだ。
しかし、エルの予想とは別に緒季は我慢をし続けるしかない。それは、宗司と喧嘩をしているように見せているだけの緒季は、宗司の事を決して嫌っているわけじゃいからだ。ただ純粋に宗司の心配をする幼稚な行動の表れ、だから昨日起きた宗司の変化を知らなければならない。
「そうね……、緒季あなたは宗司が幼いころ事故に遭ったことを知っているわね」
思わず出た言葉を飲み込み、流れに逆らわらないよう頷く。
「本来あの時の事故は、確実に宗司の生命を奪っていた」
「――っ!?」
過去の参事は幼かった緒季にはうっすらとしか記憶にない。それでも母親に昔話を聞かされ、少なからず残っている記憶と合わさり緒季は恐怖で震えが来た。
「それでも宗司が生きているのは、私が持っていた【御神木の種】が宗司の中に入ってしまったから。それでなければ人間が神の力を手に入れる事なんて不可能」
緒季の様子を流し坦々と続けられるその場に、黙っていた命が口を挟む。
「……それを取り返しに来たということですか? では、あいつから【御神木の種】という神の異物を取り除いた場合……」
そこまで言って命は緒季を気遣って続きを話すか考え直す。この先の答えはただ緒季を苦しめるだけかもしれない。ただそれでも口に出した以上やっぱり聞かなければならなかった。
「あいつは生きていられるのですか?」
仮にエルから出る返答が最悪なものだったとしたら、例えエルが神だったとしても命は緒季のために歯向かう、そう決意していた。
ところがエルの反応は、あー、とどうでもよさそうに命の間違いを修正し始めた。
「説明が足りなかったわね。すでに宗司が巻き込まれた事故の治療は終わっているわ。だから宗司は死ぬことはない。なにより【御神木の種】は一度使われてしまえば取り除くことなんでできないわ、そもそもそんなことできるなら私だって人間を神にしようだなんて考えないもの」
少なからず命も緒季も安堵した。
そして緒季は安堵した上ですでに説明された宗司が神になるという部分に引っかかり、エルを睨んだ時と同様の強い目に戻る。
「だから、あの人を連れて行こうとしているんですか?」
それは命の思いと同じ、宗司を守ろうとするものだったのだが、
「神の世界に?」
またエルは違うと首を振った。
「人間をあっちに連れて行こうなんてさすがにしないわ。あくまで人間世界でのみの神、それが今、宗司がなるべき神よ」
しかし、エルの否定に今度は緒季の否定をぶつける。
「それは危険ではないんですか?」
説明の中に宗司がなるべき神がその土地の安定を齎すことは含まれていた。仮に宗司を神にすれば、命の家である神社が昔の姿を取り戻すことができると同時に、町全体が荒れるという事態を避けることができる。しかし、それはあくまで兄である宗司の身に危険な事態が起きないもの前提だった。
エルはその質問に押し黙るが、それは意味をなさないと見抜き誤魔化すことも、すぐに返事を返すこともしない。この場で必要な言葉を探すため時間が過ぎる。
そうして出た言葉は、
「現段階では危険があるわ。というより既に危険な目にあった」
手遅れであるということだった。
エルはその事実を自分の信頼のない言葉よりも緒季にとって信用できる人間に委ねる為、命を見る。篝が変貌を遂げた時、側に命がいることをエルは知っていた。
「…………命?」
エルの視線を追っていった先に言葉を渋る命の姿に緒季は愕然とした。不良と言う人間世界での争いから離れてほしいがために行っていた行為は、全て無駄だったと言われているようだった。
「ここまで良いようだったら、私があなた達に話を聞かせた本当の意味を教えるわよ」
「兄を説得しろってことですか…………」
力なく緒季は呟いた。
「ええ」
集約されるはそこしかなかった。何をしても巻き込まれるならば、宗司を守るという名目の上、化け物を簡単にあしらったエルが側にいた方がいい。しかし、それは果たして解決に繋がるのか分からない。だから、緒季は肯定の返事はすぐにはできないでいた。
そこに、孫娘の友人を思い宮司がようやく会話に参加した。
「緒季ちゃんよ」
「じじさま……?」
命に遅れて小さく緒季は返事をした。
「……はい」
「悩めばいい。君が兄を思い苦しむのと同じようにとうの本人も悩み苦しんでおるはずだ。君と君のお兄さんの立場は命から聞いておるが、年寄から言わせてもらえば、一歩踏み込むことだ」
「…………踏み込む」
「そうだ。緒季ちゃんが言いたいことが言葉にできず、伝えたい事があるとしてもそこに壁があるのなら、その壁を知ってみる他あるまい」
それは宗司が一人へとなる道を選んだ理由がある。
それで伝えたい気持ちが少しでも届くのならば、緒季は一人の人間として、たった一人の宗司の妹として踏み込むことを決めた。
場面が終わると宮司は視線でエルに返し、一歩後ろに下がる。
そこに、命の尊敬と敬意が伝えられた。
「じじさま、ありがとうございます」
「よい、私の役割はないものと同じ。しかし孫を助けることぐらいはできるからな」
それだけ言い、命も素直に受け取ると、一歩踏み出した少女を後押しするように二人は視線を送る。
「エルさん」
「エルでいいわ」
「……エル、邪魔にならないようにする。だから、私に兄の手伝いをさせて」
重くなり過ぎた空気に優しく微笑んだエルの姿は女神のようだった。
しかし、すぐにその姿は幻に変わる。
「さぁ? それを決めるのはあいつだから、勝手にしなさい」
そう八神位の神は告げたのだった。
話が終わった途端、巫女姿のままエルは足を大の字に広げてくつろぎ始めた。
「ちょ、ちょっとエルっ!?」
「うるさいわね、何よ」
五月蠅い小姑みたいな緒季に大して、だらしないエルにさっきまでの貫録はまるでない。
「わ、私は奥にいなくなるから、二人でエル様の相手を頼んだ」
大人になると理想を崩さない為に目を背けるという術を使う。
「じ、じじさまっ!? これはっ………………に逃げられた」
圧倒的な存在のイメージが崩壊していくのを目の前に、真実を確かめる術を失くす。もう一度その光景を見ても変わらないことに命は宮司が困惑した時と同じ感情で力を失くした。
「神聖な巫女装束の恰好で……」
「神聖ねぇ、今やただのコスプレ衣装じゃないの」
それは禁句と寝転がったエルの口を封じた緒季だったが、力を失くした命の耳には届いていないようだった。
脱力している命をそのままにして緒季は神とはいえ注意が必要だとだらしないエルに視線を戻す。すると、脱力しているのは命だけではないことに初めて気が付いた。
「大丈夫……?」
恰好そのままに視線だけを動かして見上げてきたエルは、現状を教える。
「人間の世界では、ある条件付きの神以外の神は力を制限されるのよ。予想外に神力を使いすぎたわ。だから暫く休憩」
その意味は深く理解できなくとも、その力は間違いなく自分たちを救ったものに違いない、そう考えれば緒季は何も言えず畳の上に投げ出されたエルの頭を自分の太ももへと乗せた。
「およ」
突然できた枕に一瞬戸惑うも、正座を崩し乗せやすくなった緒季の太ももに身を任せてまたエルは力を抜く。
「悪くないわぁ、こういうのも」
「そ」
長年の友人みたいな接し方にお互いに表情を緩めながらしばしの休憩に入る。と、そこに長年友人を務めてきた命が立ち上がった。
「おほんっ、私は邪魔だろうから席を外そうかっ」
「へ? み命?」
どことなく怒った様子で立ち上がると緒季の戸惑いの声を無視して何処かへと消えてしまう。
「ははは嫉妬ね、嫉妬」
「まさか、あの命に限ってそれは……」
「バカね、人間は自分のだと思っていたモノが、誰かも知らない存在が近づけば嫌がるものよ」
エルの言っていることを緒季は理解できていたものの、命と長年付き合いがある分、信じることができない。
「今に分かるわよ、命の性格じゃ……、ほら戻って来た」
エルと二人っきりになって間もなく、体重を掛けられた足音がすぐに戻って来た。
「なんだ? 二人して見て」
エルの言った通り足音の正体は命のものだった。新たな命の一面に思わず緒季は噴き出しそうになるのを我慢した。もし、エルの言った通りの感情を命が感じてくれているのなら嬉しいと思うのと、嫉妬なんて感情で友情に変な亀裂は生み出したくない。
そう思った緒季はエルと話を教えることなく、命が手に持っているものの話題を振ってみた。
「ん、これか」
どこか嬉しそうに自分が起こした行動に、命は躊躇うことなく食いつく。それを密かに笑っていたエルは、命に気付かれまいとする緒季の手によって制裁を加えられる。
どこかで誰かが口を塞がれる苦しんだ声に気付いた命だったが、緒季の注意が離れていくのを警戒して、すぐに思考は持って来た物に戻った。
「これは私の家に代々受け継がれてきた神具【祈刀】だ」
それは普通の木刀とは違い、刀の刃を見立てる部分の角ばりがより一層強く掘られている。
「へぇ、人間が作ったものにしては良いものじゃない」
横やりに、むっ、とした命だったが家宝を褒められたことに関しては素直に受け入れる。それも神が言うとなればただ褒められるよりも嬉しいものがある。
さっきまでの嫉妬相手とは思えない程、命は普段通りの口調でエルに尋ねた。
「仮に悪魔との戦いが始まったとなれば、私はこれで戦うことができるでしょうか?」
その会話に緒季は暗い気持ちを隠すのは無理だったが、命が尋ねた理由は理解している。常識的な部分で対抗手段となるならば、命はそれを使う。だが、訊いたということはちゃんと緒季の気持ちを汲み、自分自身を守ろうとしている事の憐れでもあった。だから、命の行動事態は受け入れる。
「無理ね、悪魔に対抗するには役不足、さっき悪魔に操られていた人間を相手にするのが精々ね」
そして、その神具は悪魔には通用しないことが告げられた。
「そうですか」
やっぱりと言うべきか命の表情に落ち込みが見える。それでも、緒季が思っていたよりは少ない様子だった。仮にも命も宮司であるじじの孫、どこかでそれを感じ取っていたのだろう。
「でも、持っていた方が良い事は確かよね」
「そうね」
「ああ、しばらく持ち歩くことにする」
それから三者三様の思いが沈黙を生んだ。
次に口を開いたのは、
「ごめんね命、巻き込んじゃって」
誰が悪いわけでもないのだが、宗司という兄が関わってしまっている異常な事態に巻き込んだと思う緒季だった。
「はは、巻き込まれているのは私ではないだろ。それに謝るならその悪魔にでも謝ってもらうさ」
仮に緒季が関わっていなかったとしても、悪魔が関わっていなかったとしても、宗司が無理やり解決した事件の清算を自分の手で付けようと考える命は、どちらにせよこの場にはやはりいただろうと思う。
あの時、自分できなかったことは宗司と緒季の関係を戻すことで決着がつく。なぜなら、あの時の事件も悪魔の手によって仕組まれたものだとしたら、二度と事件を起こさないことで風紀委員たる意味が生まれるからだ。
「あんたたちみたいに宗司も私の思い通りに動けば楽なのに」
期待していた以上の反応にエルは張本人がこの場にいない事を悔やむ。だが、その反面、人間との不思議な交遊は心地いいものを感じていた。
「素直の『すの字』も知らないあいつにそれは難しいと思います」
「それは私も思ったわ」
「あはは……不器用な人だから」
それぞれが宗司を思い、
「それで、あいつは今どこに?」
「いずれここにくるわ。あいつはここに来なければいけない理由を抱えているから」
「そっか……、じゃあその時は私が守れるために」
――その時を待つ。
それまでは安息の時間が訪れるものだと誰もが疑いもしなかった。
ところが、
「――――――なっ!?」
突然飛び起きたエルの挙動で事態は急変する。
「なんだっ!?」
「きゃ、なにっ!?」
「ばかな……」
どこか遠くを眺めたエルからそれは伝えられた。
「宗司がすでに悪魔と接触している」
カウントダウンもなく、宗司はすでに悪魔との戦いを終えていた――。
△△△△△
大男を追いかけ橋の下まで宗司はやってきた。
橋の上では車がひっきりなしに通っている。音はかき消され、その下は昼間でも薄暗いせいか人の気配はない。それを見越してか、そこを単なる争い場所を選んだだけなのか宗司が知る術はないまでも、都合がいいとは思う。
「雛乃を離せよ」
これは単なる喧嘩ではない。それでも鼻ピアスとの一件を踏まえ、何もできないわけでもなかった。だから、相手の目的が分からなくても雛乃を助けるという思いがあれば十分。
大男は宗司の言葉に耳を傾け、すんなりと雛乃を川の水が届かない草むらへと下ろす。
「イクゾ」
唐突と言えば唐突、だが、鼻ピアスの化物の行動とは確かに違うその前置きは宗司に戦闘を強いた。
会話などされない。
宗司は自分の目的のため、その拳を振るうのに躊躇いなどないのだ。それは今までもそうだったから、一人で戦う事で誰かを巻き込まないと信じている。
「うぉおおおおおおおおおおおっっ!」
人間ではない者に大して端から手加減をする気は毛頭ない。全身の力を込めた拳を相手の顔面にぶつかる。体格差はあるが、大男よりは小さい宗司の方がスピードでは勝っているからこその先制。
ところが、
「ぐっ」
苦痛の声を上げたのは宗司の方だった。
大男を殴った拳が石を殴ったかのように固い。加えて微動だにしない大男は引き際の宗司の腕を取るとそのまま枝でも投げるように放った。
中央付近でも一メートルもない深さの川に叩きつけられ幾分かはクッションに助けられた。服の重みが増すのを無視して相手の行動に後れを取らないため宗司はすぐに立ち上がる。
「随分と余裕だな」
ところが追撃どころか大男はゆっくりと歩きながら川に侵入して来た。
「ソンナモノカ」
恐らく鼻ピアスの一戦で見せた神の力の事を言っているのだろうと宗司は思う。だが、あの時も今でさえ宗司の意思とは別に勝手に使えたに過ぎない神の力は、ほいそれと拳に宿ってはくれない。なにより自由に使えるならば、人間ではないと判断した段階で使っている。いくら喧嘩が強いと言っても回復が無ければ、負けることは何度もあった。それを自覚している宗司にうぬぼれなどない。
「見てみたかったらお前が引き出せよ」
それでもこの場から引くという選択肢もなかった。
一人で戦う状況であれば、その選択肢は何時だって頭の片隅にはあった。だが、今は気を失っている雛乃がいる。抱きかかえて逃げるには人間を遥かに超える跳躍を持つ大男からは逃げられない。
それに勝つために神の力が必要というならば、相手の力だって利用してでも引き出す。それが勝つということだった。
「ソウダナ」
宗司はその力が目的なのか、と考えた事を後悔する。
「なっ!?」
一瞬の油断の隙に鈍いと決めつけていた大男が足元の水を蹴り上げると、すでに目の前にいた。そして次には殴られていた。
「――のっ」
ぎりぎりのところでガードした宗司だったが両腕で守った前衛の腕がぶらりと落ちる。
回復は行われていた。
だが、間に合っていない。鼻ピアスの時でさえ痺れと痛みだけだったものが、今では感覚すら奪う。残っているのは利き腕とは反対の左。
「うぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
次に大男が突進してくる前に神の力が発動するのを願い、叫びながら立ち向かう。
腹に一発、返しで二発。バランスを崩すことを考えれば顔面は狙えない。そして三発目が振るわれる前に、
「コロスカ」
大男の視線が雛乃に向けられそう呟かれた。
その瞬間宗司の中で何かがキレる。
そして――、
「調子に乗るな」
岩が砕かれるような破壊音が鳴り響き、大男の体が初めて体を曲げ後ろへと十数メートル押し出された。
「ガハッ――」
白いオーラが左腕に纏い確かに神の力は発動していた。
していたが、宗司は舌打ちを止められなかった。
「ちっ、そんなもんかよ」
鼻ピアスの時はそれだけで勝負は付いた。だが、今回は距離が空いて体内の空気を少し吐いただけ、ダメージは少なからず与えてはいるだろうが、あまりに結果が乏しい。
「こっちか」
未だにピクリともしない右手を眺め、利き腕、そして大男の顔面に入れることが勝利だと徐に考える。すると思考に呼応するように左手同様右手もオーラを纏った。
そして動かなかった右手が本来の人間の力を取り戻す。
「驚いたな、こんな効力もあるんだな」
神の力は回復を促進する力もあるらしく、握ったり開いたりさせた右手の調子を確認した。
「なら、止まってられねぇよな!」
大男はまだ態勢を整え終っていない。このチャンスを生かすため宗司は開いた距離を縮める為に走る。
止まらない、走った勢いそのままに顔面目がけて右腕を持ち上げた。
「カハッ――カハッ」
変な呼吸を見せながらも顔を上げて宗司を捉えた大男は、初めて顔面を守る姿勢を取る。それは宗司が見せた防御そのままだった。クロスした両腕を顔面の前に置き視界を絶つ代わりに頭部を護る。
「そう来るだろうなっ!」
喧嘩馴れという戦闘がフェイントを織り交ぜることで相手の先手を行く。持ち上げられた腕は軌道を変え大男の腹へと突き刺さり、もう片方の神の力が宿る左で追撃。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!」
それだけでは終わらない。
右、左、右、左の連打、連打、連打!
それを夢中で繰り返した。
大男の体が次第にバランスを崩しながら持ち上がり、折れ曲がった態勢でベストポジションに頭部が垂れ下がった。
同時、固く守られていた腕が痛みの限界を超え、腹を護るために下げられる。さらにコンマの時間で大男は気づく、腹へ回した腕へ痛みが来ない。
なぜなら腹への攻撃を止めた腕はすでに目標を変え目の前に迫っていたからだ。
「終わりだ」
ここぞと言うばかりに右腕を振り切り、大男の体ごと吹き飛んだ。大男の体格以上の水しぶきが辺りに飛び散り波を起こす。
その姿を勝利したことで眺め、起き上がらない事を確認してからようやく宗司は息を吐き出した。
「はっぁ、終わったな」
闘いは終わってみれば短いものだ。しかし、体感時間を長く感じさせるその緊張感に、宗司はどっと疲れた表情で川の外へと歩き出す。疲れていようと休んでもいられない。早めに雛乃を別の場所、エルがいる神社へと連れて行かなければいけないからだ。
きっと気絶しているだけだと思うが、念のため神様という存在に確認してもらわないと安心できなかった。
それでも、
「どうやってコントロールするんだ」
終わったことで両腕の力が無くなっているはずだと思い腕を見る。だが、腕はまだ力を失ってはおらず輝きを失くしてはいない。誰かに見られたらなんて言い訳をしようか考えている最中、何か不吉な物が宗司に過る。
それを探り記憶の断片が脳裏を駆け回り、思い当たった――。
大男は宗司の動作を、まるで親の白鳥の姿を見て泳ぎの真似をした雛鳥のように防御をとった。それはまるで生まれたてのようだった。
水が滴る音に反応して振り向いた先に影が出来上がる。
「くそっ!」
終らぬ闘いにまだ光を灯す腕を振り上げる。
だが、それは振り切る前に止められた。
それも大男の手によって止められたわけではなかった。
何本もの水流を伸ばし先端は手の形を模様した悪魔の力で、鼻ピアスをエルが捕まえたように今度は宗司が捕縛される。
その力はエルが説明していた。
『悪魔って言うのは、堕ちた神の事を言うの』
いうなれば神と同等の力を使うことができる存在。
大男が悪魔の力を使ったとは思えない。目にはなんの感情もなくただ人形のように動くその姿は、操られた人間そのものだった。
「こいつも悪魔じゃないのかよ」
冷静に考えれば気付けた事にぼやき、仮に気付いたとしても何かできたわけでもない事実に宗司の体から全てを奪う。
そして、絶望を噛みしめた宗司に大男は見えない指示に従い剛腕を振り抜いた。
ガードも許されない体勢で宗司の頭が揺らされる。拘束が解かれ支えを失った宗司の体は水面へと沈む。
水しぶきは花びらのように舞い上がり鮮やかに散った。
宗司の敗北を飾るように――。
宗司が目覚めると天井部が見えた。
木造建築を思わせる天井は一般家庭では中々見ることはないのだが、徐々に戻ってくる思考で自身の安否と状況を大まかに把握した。
「(…………エルか)」
確証はないものの、あの状況で敵である悪魔が撤退もしくは撃退されでもされない限り無事でいる道理が思いつかなかった。
それに天井の造りから思い当たる節は、神社、そして命の存在で繋がる。
「……体は」
どれぐらいの時間が経ったのか敵から受けた箇所を宗司は一通り動かしてみた。手、腕、頭、首、どれも欠落も不動さしないものもない。
ようやく安堵から息を吐いた。
それと同時、安堵は背筋を凍らせる恐怖へと変わる。
「雛乃っ!」
自分が負けたことで雛乃は危険に曝された。周りを見渡すと雛乃の姿はなく、代わりにいびきを掻いて未だ眠りにつく鼻ピアスと、その側で眠りこける粕田の姿がある。
「なんでこいつらが」
不思議ではあったが、それよりも雛乃の安否が優先され布団から飛び出す。可能性としてはエルが助けている。自分がこの場にいることで信頼性はあったが、どうしても自分の目で確かめない事には安心できない。
しかし、回復の力によって外傷はないまでも、体の内部に残されたダメージは回復しきれていない。
立ち上がった体は布団の上に再度崩され、片足を着いた。
「くそ…………」
力なき苦悶も力足らずの自分が悪い。そう思うとまだ休んでいたいと思う体にムチが打たれる。這いつくばりながら壁まで行き、壁を支えに体を引きずりながらその部屋から出て行った。
神社というだけあってそれなりにある廊下は普段歩く道よりも長く感じさせる。それに人の気配が感じられないのも、その感覚に拍車をかけていたのだろう。
近年の参拝客の低下は宗司も知っている。それが土地の不安定さの影響とまでは知らないまでも、力なき体には都合がよく。辺りに気を配ることもしないまま進んだ。
何度かの突き当りを曲がること、ようやく人の声が宗司の耳にも入って来た。その中に宗司が知る者の声が含まれる。後はその中に雛乃さえいればとりあえずは良かった。
襖が開けられてはいたが顔を出すわけでもなく近づいていく。姿を出せないのは負けたことが恥だと思ったからでもなく、声の中に緒季の声が混ざっていたからだ。
巻き込むわけにもいかないはずなのに、すでにエルとの接触を許し、挙句に友人である雛乃を巻き込んでしまった宗司には合わせる顔を持っていない。
宗司はたった一つの声だけを探すために襖に体を預けた。
「エル様っ、何があったんですかっ!?」
宗司を運んできたエルは暫くの間同じ態勢を崩さず、事の顛末を一切話さないまま考えに耽って尋ねられる声を全て無視していた。
そして何度目かの命の問いかけに思い口を開いた。
「少し落ち着きなさい。命の焦りは緒季に心配事を増やさせるだけよ」
はっ、と緒季の名前が出たことで命は冷静さを取り戻した。その姿を見つめることが怖いと思いながらも、ずっと黙っている緒季へと移す。
緒季は下を向いたまま、おそらく宗司のことを考えている様子で何も反応をみせない。そんな脆く壊れてしまいそうな緒季を見て、自分の軽率な焦りに憎しみを覚える。
慰めも言えない代わりに、謝ることしか命はできなかった。
「すまん…………」
暗く重い雰囲気に沈黙が続いている。
襖越しにいる宗司を含め、その場にいた全てがどうするべきかを考えていた。
「そういえば」
そう口火を切ったのは喪失しつつあった緒季だった。
「どうして今回は悪魔の存在に気付けなかったの?」
それは緒季自身が助けられたことを元に出した質問だった。神様と言う存在は町の異変にすぐに気が付く。緒季と命が化け物化した篝に追いかけられた時も、そして宗司が篝と争いになった時でさえそうだった。
加えてエルは悪魔どころか、大男にさえ出会っていない。だが、今回は宗司が倒れ勝敗が決した後、全てが終わった後だった。
エルの探知は常に宗司の神の力、敵である悪魔の力に反応する。しかし今回はそれに引っかかっていない。
「おそらくとしか言えないけど、悪魔がこの神社にしたように私に気付かれないよう結界を張っていた。どういうわけか終わった途端にその結界は解いたようだけど……」
それはエルにすら分からない事だった。それに倒れていた宗司は怪我をしていたものの他には変化がないのも疑問を残している。
「どうなんだ…………」
エルを責める気は緒季には無かった。ただそうなってしまった経緯を知っておきたかっただけのこと。
「ごめん」
それは本来なら必要ないものだった。人間は神に助けられる存在ではない。人間が神に救われるという考えそのものは人間が勝手に思い込んだものだからだ。
それでもエルは謝った。
「違う、そんなつもりじゃ!」
エルがどんな存在であっても緒季という少女は相手を一方的に攻め立てるような少女ではない。
「違うんだ。私が謝ったのは宗司との約束を破ったからだ」
しかし、その意味している部分は違う場所にあった。
「私は宗司に緒季を巻き込まないと約束した。本来なら宗司の説得にすら協力を求めてはいけなかったのだろうが、私はそれを手段として選んだ。その代りに宗司とその周りの人間を護るつもりでいた。だが、……つもりでしかなかった」
聴かなければよかったと襖の奥で宗司は一人で思う。きっとその話を聞かなければエルに会った途端責めたてただろう。だが、そんなことを訊いてしまったら何も言えなくなった。
なぜなら、エルを責めるつもりだった感情はすでに宗司自身の後悔へと変わっている。あの時、エルの話を全て聴き、エルの言うとおりにしていればこの状況は出来上がっていなかった。
「すいません、言い方は悪いかもしれませんが後悔は後にするしかないと思う。今考えるべきはこれからどうするか、どうするべきなのか考える方が優先」
「そうね」
今は一刻も早く悪魔の対処を急がなければならない。それはエル自身重々承知だった。
「今の状態を二人、あと目を覚ました宗司に話さなければいけないんだけど、予定外の無駄な力を使ったことを含め悪魔への対抗手段は宗司の中に眠る【御神木の種】しかない」
え? と緒季と命は驚いてエルに視線を向ける。二人は神の力を疑うことなく、この状況を打開する存在を神であるエルだと信じていた。そのうえで自分にできることをしようと思っていたからだ。
だが、エルから出た言葉は程遠いい、さらに言えば緒季がもっとも嫌な選択だった。
「それはあいつや私達を助けてくれた力が残っていたとしても変わらないのですか?」
「ええ」
その事実を隠すことなくエルは打ち明ける。
そして、それを意味している事はエルの謝罪に含まれていた部分で予想が付いた。
「私たちは何をすれば……?」
宗司がやられた今、エル一人ではどうにもできなくなったということ。そして例え人間である二人の力も必要としているということだった。
「今は分からない。ひとまず命が持っていた【祈刀】に私の力を付与する。それを使って戦うかどうかは決められないし、どちらかといえばあなた達自信を護るために使って」
「そんな……刀を使って戦えるなら私は――」
「話したとは思うけど、それは悪魔との戦いでは役不足、私の力を付与したとしてもそれは変わらない。それにあなた達自身を護れと言ったけど、悪魔との戦いで私が二人を護る余裕は今の私にはない」
エルは言葉を濁しながら伝えたが、邪魔だと言ったも同然だった。
「私はまた何もできないんですね」
例えその場にいて、事情を把握していようとできることは今も昔も変わらない。その思いが命を苦しめた。
すると、
「命は何もしていなかったの?」
エルの問いかけに緒季は静かに微笑んでいた。それは友達だから、身近にいたからこそ伝えてあげられなかった言葉だったからだ。
「命はあの場で何もせず震えていただけ?」
「それは……」
命という少女は例え武器がなくとも守るべき人がいれば立ち向かう。そしてあの時も竹刀という武器がなくともちゃんと守るべき人間を護っていた。
宗司が目の前で喧嘩を繰り広げる側で、後ろにいた風紀委員の仲間から決して離れようとはしていなかった。それはその場から動けばどう展開が転ぶか分からず、何が起きても命自身が護ろうとしていたからだ。
結果的に誰も傷つけられなかったから、見えにくくなった命の行為はちゃんと役割を果たしている。
命は唇を噛んでエルが教えてくれる事実に、嬉しさと悲しみを覚えていた。
「でも…………」
震える声でその続きは言葉にできない。
「命は守れる人間を護りなさい。人は一人で生きてはいけない、だから守りたい人間があなたの手から零れたら誰かの手でその輪を広げればいいのよ」
感情が漏れ出し崩れ落ちる命の肩に優しき緒季の手が置かれた。
きっと、緒季も同じことを考えてはいた。考えてはいたが緒季や雛乃がその言葉を伝えれば、命は親しい友が慰めに言うものだと受け取る。そうなってしまってはエルのような存在が同じ言葉を繰り返した時、素直に受けとめられなくなってしまう。
だから、その時が来るまで緒季は我慢していたのだ、命の為を思って。
「本当に人間って不器用ね」
命は自分の力の意味を確認して今まで背負ってきたものが新しいものに変わり、声を出して涙を零した。
何かをするのに一人ではどうすることもできなかった。それはたった一人で続けてきた風紀委員の仕事をしても実感している。だからこそ、感情が高ぶるのを止められなかった。
自分の事を思い、そして未だそれを解決できない宗司を思って。あの時命の掌から零れてしまった宗司は、未だ一人で戦っている。
そして、襖の奥で聴こえる命の泣き声を聴きながら、エルの言葉は宗司には届かなかった。
命はたった一人、宗司を助けられなかった。だが、宗司は全てを助けたからこそ、存在している壁に新たな分厚い壁を作る。
頑固で意思を貫く命という少女が救われたのなら、自分がすべきことは決まっている。
二度と這い上がることの難しい暗闇に落ちないように誰も巻き込まない事。
「あ、そうだ雛にも連絡しないとね」
そして、一度となく会話の中に含まれることのない雛乃、気を失いその場にいることを願っていた雛乃が、命の問題が薄らいだことを嬉しそうに伝えようとする緒季の言葉によってその場にいないと分かった。
だから、悲しくも回復を続けた宗司はその場から姿を消した。
神社の外へ、決戦へと一人立ち向かうために。
「本当に不器用」
そんな行動にさっきまで宗司がいた襖を眺め、エルが呟いた。