第一話 神に選ばれた男
第一話 神に選ばれた男
夢から覚めるように目を覚ました宗司は、昨夜の事を脳裏でさえ思い起こさず起床した。
目覚めは悪くない。予定にない出来事が起きたことで早めに帰ってきた宗司は、全てを忘れるためにさっさと眠りについたからだ。
極力物を置かないようにされている生活感が窺えない宗司の部屋では起きてすることは少なく、すぐに一階のリビングへと降りて行った。それは毎日の事でいつも通りの行動だったのだが、朝食を摂っている妹の姿を見た瞬間「マズイ……」と失態に気が付いた。
階段を下りてくる音で相手も宗司の姿に気が付いたようで目が合った瞬間、食事の途中にも関わらず食器を片づけ始めた。
昨夜は帰ってくると妹は部屋にいたらしく会うことはなかった。それだけが唯一の救いだったはずなのに、いつも通りの行動に若干の時間のズレがその事態を招いてしまった。
すでに学園への身支度を終え制服姿の妹は宗司を素通りしようとするのに、気遣いを含め宗司は久しぶりに声を掛けた。
「まだ終わってないなら上にいる」
宗司は別に妹の事を嫌ってはいない、ただ一方的に嫌われているだけだ。だから、宗司から話しかけても目を合わされることもなく無視された。
母だけに向けられた出かけの挨拶がされ、無情にも玄関の扉が音をたてて閉められた。
目覚めの良い朝から一転、ため息が出る。
居なくなってしまったのなら二階に上がる必要もなくなり、朝食を摂るためリビングへと宗司は足を踏み入れた。
「あんたたちまだ喧嘩してんの?」
するとソファーに寝転がりながらお茶を啜り、ズボラな態度で母親が顔も向けずに余計な事を言ってきた。
「してねぇよ」
喧嘩は決してしていない。
「飯は?」
それでも原因は分かっている。
「窯ん中」
「それは米だけだろうがっ」
原因は……暴力を振るったことでの妹の立場。
「めんどくさいねぇ、朝ぐらい自分で作りなさいよ。緒季は自分でやるわよ」
同じ学園に兄妹がいれば、良い事も悪いこともどちらかがすれば広がっていく。そして、宗司は悪い事で妹の立場を悪くしたのだ。
「久しぶりに会ったから知らねぇ」
「馬鹿兄妹め」
それが根本的な原因だった。
やれやれ、と母親がようやく立ち上がってキッチンに入る。作るのを見る気はない宗司は顔ぐらい洗いに行こうとリビングを後にし、出てすぐに玄関からチャイムが鳴った。
開けっ放しの扉越しに母親と目が合う。
こんな時間から誰だ? という意見の一致。
そして、母親の顎が突き出された。
「(あんたが出な)」
フライパンを前に出され料理をしているアピールまでされた。
そうなると宗司は文句を言えなくなった。面倒くさいと思いつつも飯を盾に取られれば文句の矛は突けない。
玄関まで赴き適当なスリッパを履いて扉に手を掛けようとする。
が、その前に扉のノブが下げられた。
妹が出ていく際、鍵は閉めて行っていない。つまり、
「はい! おはようございまーす!」
近所迷惑を考えない元気溌剌な挨拶と共に、チャイムの意味を知っているのか勝手に扉は開けられた。
そこには記憶から消してなかった事にしたはずの少女――エルの姿があった。それも妹と同じ、宗司の学園の女子の制服姿で。
「おまっ――何してんだ!?」
突然の出来事に驚きを隠せず、宗司は動きを止めて声を荒げた。
それがいけなかった。
宗司には珍しい訪問者という存在に母親が調理途中のフライパンを持ったまま玄関に来てしまったのだ。
「アツっ!? 持ったままくんな! てか意図的に近づけんなよっ!」
「あらあらあらあら」
それも何かを勘違いして目を輝かせている。
「友達の一人もいないと思っていたら、こんなべっぴんさんが……ねぇ」
「ねぇ、じゃねえだろ! いいからあっち行ってろ!」
べっぴんさんの部分についてはツッコミを省略する。長くこの状況を保つのは危険だと勘が働いた。
ところが、
「おはようございます……、あ、ごめんなさいお食事前でした?」
「いいわ、いい! 上がって食べて行って」
昨夜とはキャラを変えているエルに母親がサムズアップで気に入ったことを示している。だが、キャラを変えるなら挨拶の段階で変えろよと思いつつも、急造のキャラだと知っている宗司は、母親の嗅覚の方が恐ろしい事をこの後知った。
人間らしい女子の仕草で靴を脱いでいるエルを後に、キッチンに戻ろうとして母親が宗司を通り過ぎる際、
「いい性格してるわ。このご時世弱者にならないためには、あれぐらいの嘘を力に変えるくらいの子が生き残るわ」
そう耳打ちをしていった。それが母親としての勘か、女としての嗅覚か宗司が知ることはない。
「目玉焼き一つ追加」
仮にも客人に映っているエルに持て成す料理が卵料理一品なのではと、緒季が料理をするようになった理由を影ながら宗司は知っていくのだった。
それから料理途中だった目玉焼きがエルの手に落ち、宗司の朝食はシリアルへと変貌を遂げると、心の底から長居する理由を失う。元々なぜ宗司の家の場所を知り得、挙句に尋ねてきた理由を知らない宗司はさっさと家族の元からエルを遠ざけるべく学園の支度を済ませて引きずり出した。
いつもはぎりぎりに登校する宗司を見送りになど出てこない母親は、エルがいることで玄関まで出てきた。そして、何かを確信するような怪しい微笑を最後に残して宗司に嫌な印象を植え付ける。
そんな日常が壊れていく姿に修正を掛けたいと思う感情が宗司に芽生えた。今はまだ母親だけだったからあれで済んだ。だが、これを妹の緒季に見られでもしたら、ただでさえ壊れかけている兄妹の末路は目に見えている。
側から見ればいち学生の登校シーンを利用し、宗司は早めに手を打つことにした。
「何のようだ? 昨日の段階であんたの存在は俺の中で消している」
憮然とした態度で相手の顔すら見ない。それだけで喧嘩腰で、もう関わってくるなと伝わっているはず、……だった。
「昨日の答えを訊きにきたんだけど、その反応からして私の言い方が悪かったようね」
エルは宗司の拒否に抵抗はもちろん、思案するわけでもなく言ってのける。
「神になりなさい」
同じく憮然とした態度で宗司の意見など初めから無視する気だったのが分かる。それでも引くわけにもいかないが、言い返したところで言い合いになるとご近所に目立つだけだと考えた。ただでさえ評判が良いとは言えない自分が目立つわけにもいかず、聴こえてくる会話が宗教の勧誘染みたとなれば最悪の事態を招く。
しかし妹といい母親といいエルといい、関わっている異性の思考は分からないことが多い。さらに言ってしまえば口喧嘩をしたことの無い、人付き合いが滅法少ない宗司には、どう戦っていいかが分からない。だから今までは、いざこざが生まれれば無言のまま拳のやりとりに発展してきた。
それが今回に限ってはそうはならない。
理由は一つ、今までの殴り合いの喧嘩では全てと言っていい程相手から先に手を出してきて始まり、自らが始めたことなどなかったのだ。あくまで不良のレッテルはその工程を端折り、結果だけを見られた姿。
相手から来ないなら自分もなにもしない。
そうなると、宗司には諦める方向を変えるしかなかった。
「……なんで俺なんだよ」
一方的な説得が無理なら、宗司が命令される理由を話させる。そうすることで話し合いという形に結び付き、最後には相手に自分の意見を同意させやすくなる。それなら自分が説得されない限りは無理やり意味の分からない存在(神)にされることはない。
「いい心がけね。そういう心がけは必要よ」
訊く耳を持った、そう思わせることで術中に嵌まったものとし宗司はとりあえず話されることを待つことにした。
「まぁ、確かにその辺の理由を知っておいた方が受け入れやすいかもね。最初に説明しなかったことは謝るわ、ごめんなさい」
軽い返事を返し、前置きは良いから「始めろ」と内心で思うが顔には出さない。ただ相手の話は聞く姿勢だけを貫く。
「そうね、まず」
そう言った途端エルが地面すれすれに浮かび上がった。
「ッッッ――なにしてんだ!?」
いきなり冷静に務めた思考が破壊される。
浮かぶ事には昨夜も見ているからさほどでもない。そうなるとどこかで誰かに見られているということに宗司は驚き、慌てて声を出した。
「神は信じているわね」
「信じてねぇよ!」
冷静なら、相手に合わせなくてもきちんと自分の意見を伝えるべきだった。そうすれば相手の怒りも反骨精神だって買わないからだ。
でもそうはできなかった。
「俺は神様なんて信じていない、いいから降りろ!」
それよりも周りの目の方が気になる。
それが失敗だった。
「なるほどね、優先事項は妹の緒季の立場ってわけね」
宗司は、はっ、と下がっていた顔を上げ試されたことに気が付いた。罠に嵌めるどころか土俵は向こうのもの、その証拠と言わんばかりにエルの足はもう地に付いている。
自分の思い通りにいかないことへの怒りよりも、宗司自身気が付いていても誤魔化してきた事実をあっさりと壊そうとするエルに怒りが湧く。
「安心して、別に緒季が迷惑するようなことはしないつもりだから」
それはまるで脅しだった。言うことを訊かなければ手段として使うと言われているような。
「ほら足を止めると遅刻するわよ、宗司」
言われたまま後を着いていくしかなくなった。
「だからそんな怖い顔しなくてもしないってば」
「この顔は生まれつきだ」
怒りを隠しているつもりでも喧嘩の原因の一つでは、
「あっそ」
適当に理解されず、誤解でもないのだけれど誤解を生んだまま話は続けられる。
「で、続きだけど神――」
「信じてない」
宗司の土俵が無くなってしまえば繕う必要はない。相手が言葉を最後まで言い切る前に宗司は答えてしまう。
「嘘、とまでは言わないけど神に『様』を付けている時点で、人間でいう神頼みぐらいの信仰心はあるわね」
「……だったらなんなんだよ」
「神になってもらうのに、一々神そのものの存在を疑ってもらっても面倒なだけだからよ。で、改めて聞くけどどれくらい信じている?」
「………………」
別に嘘でも信じていると答えてもよかった。
それでも、宗司は答えない。
「まぁいっか、なら話を戻すわね。宗司を神に選んだ理由は素質があるから」
そう言われて宗司はため息を吐いた。神の素質がなんなのかは知らない、だとしてもわざわざ人間を神に仕立てようとする根端が見えてこなかった。
そんな呆れ顔が気に入らなかったのだろう。エルはちゃんとその事を理解している事を訴えた表情を作る。
「ちゃんと答えるわよ。でもその前に色々と説明を入れるからね」
もう宗司は仕方がないと諦めるしかなくなっていた。
「順を追って説明したいところだけど、時間は掛けたくないから重要な部分だけ話すわよ」
そこから宗司は口を一切挟まないと決めた。どのみち相手の掌で動かなければいけない状況にされてしまったなら、せめて非協力的な姿勢を貫く。返事には頷くことだけで了解を示し、あとは勝手にしてもらう。
それに気づいているのか、気にした様子も見せずエルはのろのろと歩く宗司の先を歩き説明が始まっていた。
「本来人間を神に育てようなんて試みはありえないんだけど、十数年前、神は悪魔との争いで数を大きく減らしたの」
一切口を出さないと決めた宗司だったが、神の次に悪魔かよ、と思わず黙っていられず聞いてしまった。
「悪魔って言うのは?」
聴いた途端、エルがニヤッと目論見に嵌まったなと言いたげな厭らしい笑みを見せた。それに対して宗司は怒りさえ覚えない。口に出す前にそうなる覚悟はしていたからだ。
そんなこととも知らず、エルは上機嫌な口ぶりに変わって尋ねられた質問には丁寧に話し始める。
「悪魔って言っていうのは人間の言葉を借りた場合。まぁ、説明にも人間の言葉を混ぜるんだけど、そこは理解しておいて。それで悪魔って言うのは、堕ちた神の事を言うの」
「堕ちた神……? 堕天使……」
思わず知っている単語から近いものを探しあてた。
「堕天使って言うのは天使が落ちた場合のことを言うけど、ってその前に十二神階の説明をしないとダメか。元々神ってのは一人じゃない」
「……ギリシャ神話」
宗司が呟いた一言に一瞬驚いたように後ろを振り向いたエルだったか、茶化すわけでもなく説明しやすくなった状況を自然と受け入れる。
「考え方は似ているけどギリシャ神話は人間が考えたものだから今は忘れて。十二神階っていうのは私達神の位の事を指すの、一番上の神から下を十二までの神がいて、その下に神候補生たち、つまり天使がいる」
「つまり堕ちた神と天使が悪魔になった裏切り者ってことか」
把握したことの確認の為に口に出して整理する。ただその言い方は独り言とも、質問として受け取ることも相手次第。あとは好きに解釈して勝手にしろと言いたげだった。
「素直じゃない奴、理解する気があるなら普通にしなさいよ普通に!」
この状況が普通じゃないのに、普通にしろと言う方が無理なのだ。それでも図星を衝かれ宗司は、むっ、と感じ悪く無視を決め込む。
対してエルは「くわぁぁああっ」と面倒くさい苛立ちを、猫が天敵を威嚇するように歯をむき出しにして唸った。
両者には間違いなく、相性の悪さがある。
それはさておいても話には続きがあるのだからエルは話さないわけにはいかない。すると、今度は機嫌が悪くなりはじめ、おざなりに続けられた。
「神の中で堕ちた連中がいた分、そこに欠員がでたのよ。それで底上げ式に神の位が挙げられたけど、神の力に達していない天使を上げるわけにもいかないし、天使といっても神の力に達していればその時点で神の位は与えられていたから、減った分の人数は埋められないままだった。そこで私は人間の中で神の力を持ち得る存在を探したのよ」
また納得のいかない疑問が浮かび上がる。
「天使なんてこっちにいない連中が神に成れないのに、なんで人間の俺が選ばれるんだよ!」
最後まで話を聞きなさいよ、という意味で今度はエルの方がため息を吐いた。最初は煩わしい反応のなさがイラついていたのに、反転して尋ねられることにイラつき始めている。
だから、考えもなしに事実が言い放たれた。
「あんた十年前に事故に遭ったでしょ! それに神の力が関わっているのよ!」
そうエルが怒鳴った途端、宗司の顔から感情が消えた。
エルはその表情に思い当たる節が無く、怯んだ様子で恐る恐る宗司に肩に触れて揺さぶった。
「ちょ、ちょっと何よ……」
すぐに動きはあった。
しかし、優しさのない手がエルの掴んだ手を弾く。
「うるせぇ……二度と俺たちに関わるんじゃねぇ」
呆気にとられる暇もなく、ただの説明だった会話が途中で打ち切られた。宗司は一度も振り向くことなく、そのまま元通りの生活へ戻るように学園へと急ぎ足で向かっていく。
「な、なんなのよっっっおおおおおおおおおおおおおおおお!」
あまりに突然の事で周りの目も気にせず苛立ちだけが空を駆け上った。
△△△△△
エルが宗司の家を訪問する頃、緒季は友人の一人駒沢命を待ち合わせの場所で待っていた。本当ならばもう一人いるのだが、最近はめっきり顔を見せない。それもいつもの寝坊だと考えれば、いつも通りの朝だった。
一つの事を除いては。
宗司が日常のズレを感じていた通り、緒季も同じことを感じている。その理由は朝顔を合わせないようにしてきた人物と会っただけの些細な物。当たり前だが家族である以上、誰か一人の変化は伝わるものだ。
その渦中とあれば尚更。
「はぁ」
緒季は一人溜息を吐く。
それは宗司のものとは違い戸惑いの意味が強かった。
兄である宗司と顔を合わせない、その理由は宗司が起こした行為が許せないから、だから子供のような行為が続き、それが苛立つと同時に悲しくもある。それなのに言葉で伝えることはできない。
「はぁ」
だからもう一度緒季は溜息を吐いた。
そこに、
「待たせたことは詫びるけど、人の顔を見て溜息を吐くなんて失礼だ」
何時からそこにいたのか、黒髪のロングヘアーを後ろで結び、女の子とは思えない程凛々しく腕組みをして命が気づいてくれるのを待っていた。
「え? あ、ごめんっ!」
触れられる程の距離に突然現れたように存在していた命に緒季は心底驚いた。命が側にいる事よりも、側に近寄られるまで真剣に考え込んでいた自分にだ。
「まったく……」
緒季と命の付き合いは長く、親しい中での謝罪は簡素に済ませられる。ただし長い付き合いだからこそ追及はある。
「それで悩み事は神木宗司のこと?」
人の兄をフルネームで呼び、年上の人間を敬う語尾すらつけない。緒季と宗司が問題を抱えているように、別の所で宗司と命は問題を抱えている。それが宗司と緒季の問題の発端でもあるからこそ、緒季は誤魔化すわけでもなく頷いた。
「何度も言っていることになるけど、私の事は気にしなくてもいい。これは私とあいつの問題だ」
兄と友人の二人に起きた問題、それは緒季も理解している。しかし、それに口出しをするのは当然のことではあった。たが、命が抱えている問題と緒季が抱えている問題は別にある。
「わかってるよ。でも違うんだ……、根本的な部分が少し」
今までと同じようにその根本の部分は明かさず、命の気遣いを否定する。そのことでなにかしらの理由があって聞いてはいけないものだとまた命は気遣い、根元の部分を訊き返すことができない。訊いたところで答えない事を知っているから、なによりすでに試したことがあったからだ。
「そうか、なら仕方ない」
さすが付き合いが長いだけある――そう緒季が思った瞬間、
「じゃあ、朝なにがあったかだけ訊こうか」
改めて、さすが、と緒季は思わされた。
歩きはじめて朝の出来事を話すと命は唖然とした。長くなれば簡潔に省略されるものだと思い込んでいた命は、話される内容が簡潔されるまでもなく短いとは思ってもみなかった。
だから、思わず声に出る。
「そ、それだけ……?」
確かに他人からすればたったそれだけの事とはいえ、そうなっているのだから仕方がない。そう思っても、緒季は命の反応に気まずい様子で、こくん、と頷いた。
一応家族観の気配を悟ってくれる命は納得してくれる。ただ、問題の解決に役に立つことはできない。発端に関わっていても原因は知らない上に教えられないのだ。
「しかし、いつも話を聞いているかぎり神木宗司も緒季に顔を見せないようにしているはず……、その部分が変わると何か不思議な引っかかりがあるのは確かだ」
それでも助言くらいできればと思い、命は自分で思いつく限りでこの会話を続けた。
「いつもは話していないと思うけど……、でも……うん、確かに。いつもなら起きている雰囲気もないのに」
いつもそんな雰囲気を感じ取っているのか……、と思っても口には出せない。ただ普通の兄妹の間柄であってほしいと友人として命は願う。特に仲直りができても仲が良くなり過ぎないことへの方面で……。
「ふ、二人の心配は別にしても気になる部分ではあるのは確かだな」
心配の部分にハテナを浮かべる緒季だったが、兄の普段の行動の違いに初めて疑問を抱いた緒季は気になる方向を変える。
「可能性は昨夜の可能性が高いな」
余計な疑問に気付かれまいと、早々と命は変化の兆しに思い当たらないか尋ねる。
「そういえばいつもより少し帰ってくるのが早かった」
帰宅の時間も知っているのか、という戸惑いを抱かせられた命だったが、今度は顔にも言葉にも出さない。これ以上二人の関係に不安を抱くことは自分が持っている価値観が壊れそうで考えられそうになかった。
「昨日の夜かぁ……、たぶんコンビニとかで時間を潰していると思うけど、行動のパターンはそれぐらいだし」
命は遠くを眺めた。
そして思う、「(ああ、ダメだ。聞かないと寝られなくなる)」。
命は意を決した。
「なぁ、緒季」
そんな友達の変化に緒季は心底不思議そうに返事をする。
「なに?」
「なんでお前はそこまで知っているんだ?」
いつも話を聞かされている限り緒季は宗司が『嫌い』というより、たびたび起こる騒動に怒っている。それが家族として、妹として当然のことだと思っていたからこそ、命は愚痴を聞かされるように相談相手として話を聞いてきた。だが、変化が起きた今、それが兄と妹の常識を超えそうな気がしてならない。
仲の良い兄妹なら行動を共にするから把握することができるだろう。だが、どうだろう宗司と緒季は仲が良いと言えるのか……。
緒季の顔は見られない。ただ真っ直ぐと地平線を眺めるように、好奇心なんかを求めるよりも明確な、はっきりとした安心が必要になった。
命は緒季がちらっと自分を見たことに気が付いていた。けど、とてもじゃないが視線を送る勇気はない。どんな表情で、どんな反応をしたのか知るのが怖い。
途切れた会話の間隔が長く感じられる中、その答えは出た。
「……何回か後を付けたことがある、から?」
命は優しく笑った。
逃がしていた視線を緒季に戻す。
少しの間だけ理解するまでの時間が欲しい。理解した時には友達として、ちゃんと世間から守れる友達になっているからと胸に抱き、
「ワァあああああああああああああああああああああああああっっっ!!!」
命は叫びながら逃げ出した。
自分の常識が壊れたことに、精神までも破壊される前に。
「み、みことっ!?」
突然走り出した命に手を伸ばしても届かない。
緒季は後ろを振り向いて何か危険な存在が近寄っているのかと想像し確認もしてみたけど、それは無い、と確信する。命は剣道の有段者であり危険ななにかから友達を置いて逃げるような真似は決してしないからだ。
だから、純粋な疑問だけを残した。
「私おかしな事言った?」
緒季が遅れて学園に到着すると奇怪な行動をした命は右上に風紀委員の腕章を付けて校門の前に立っていた。
そして緒季が近づいていくと命は視線を落として頭を垂れた。
「すまん」
「後で理由聞くからね」
びしっと命に指を指す。
「うっ」
緒季の声には若干の怒りが混じっていたが、それは冗談のもの。だから、理由は聞かないでほしいとだけ命は願っていた。
対して、何があっても自分の仕事を守ろうとする命の真面目さに緒季は笑い、校内へと入る。
その間、追及の緩和と思われる言動はなく許されそうにはなかった。
緒季の追及にどうやって答えるべきか真剣に考え初めたが、一般生徒の登校時間が近づいてきて命は気持ちを切り替える。剣道で使う竹刀を代表的な生活指導の教師を手本に地面へと突き付け、風紀委員の仕事がはじまった。
命と緒季、そして宗司が通う学園は独断校則が厳しい学園というわけではない。あくまで常識の範囲で守るべきルールがあるぐらいだ。
だから、登校してくる学生の荷物持ちチェックや髪形、服装などの指摘はほとんどない。さすがに目に留まる場合を除いては朝の挨拶をする程度で、たったそれだけの仕事だ。逆に言えば、それぐらいしかできない……。
――宗司と緒季の関係を崩すきっかけを作った事件が起きたから。
「おはようございます」
通りすぎる学生に挨拶をすると悪意というよりはテレの部分が多いのか、たびたび挨拶を無視されることが多かった。指導することもできなくはないのだけれど、一人や二人じゃないため流れていく学生を捕まえることができない。
「おはようございます!」
代わりにその人達に向けて命は大きめに二度挨拶をすることで、ひとまずは諦めていた。
すると、
「おっはよぉおおおおみこちゃぁあああああん!」
そんな人見知りの人達とは違い、誰かれ構わず挨拶をする人当たりが良すぎるクラスメイトの立川雛乃がスライディングよろしく、砂埃を巻き起こしながら元気よく登場した。
「相変わらず騒がしいなお前は、だいたい最近ちっとも待ち合わせの時間に来ないじゃないか」
元気が良いだけならまだいいが、時間を守れないのは考え物だ、と命は両腕を上げた。降参するような姿はそのまま言葉通りの意味を表している。雛乃は仲の良い友達には遠慮なく抱きつく習性があった。
だからいつもなら命は抑えるか、逃げるぐらいのことはするのだが、今は風紀委員の仕事中で抵抗すればその分だけ仕事が疎かになる、それを回避するため命は早々と諦めた。
ところが、走り疲れて息を切らしながら制服の端にしがみ付いてきた雛乃はそんな素振りを見せない。いつもと違う雰囲気に命は徐に体調を心配して中腰の雛乃に合わせようして、
「大丈夫か――うわっ」
予備動作のない動きにぶつかりそうになった頭を仰け反ることで回避する。命の運動神経があってこその回避に、別の誰かだったら、例えば緒季だったことの事を考えさすがに危険だと注意しようとした。
「また来た! あいつらがまた来たよ、みこちゃん!」
その暇もなく次に雛乃が出した言葉は、命に苦い記憶を思い出させるには十分だった。
竹刀を持つ手に力が加えられ、表情は強張った。
「どど、どうしよう!」
焦り続ける雛乃のおかげで幾分怒りが抑えられ冷静に対処の指示を出す。
「ひとまず雛乃は先生方に伝えてきてくれ。まだ学生の登校時間のここで騒ぎを起こすのは問題が大きくなる」
「でで、でもみこちゃんは?」
「私なら大丈夫だ。いざとなれば逃げるし、伊達に実家が剣道場を開いているわけじゃない」
「でも何かあったら!? ――あっ、そうだ宗にぃ――」
「あいつにだけは教えるなっ!」
出された名前に命の怒りは一瞬で頂点へと上った。登校途中の生徒たちが野次馬の視線で覗いている。
「ごめん、命」
「あ……」
それに気が付いた命は驚きのあまり硬直して謝る雛乃を見て、自分の未熟さを覚える。
「すまん。改めて後で謝るから言われたとおり動いてくれ。あまり時間を掛けると学園の敷地に入られる」
「うん、すぐ呼んでくるから!」
事態を考えればそうするのが一番だと雛乃も納得してくれた様子で校舎へと走りだした。
その姿を見送るわけでもなく、騒ぎを極力抑える為命は雛乃の情報を元に奴らがいる方向へと駆け出した。
▽▽▽▽▽
宗司に意味が分からない激昂を飛ばされ、説得の失敗にエルは駅の近くまで来ていた。
「あのウスラボケッ、私のやることが増えたじゃないの!」
説明の第一段階がうまく行きそうになった途端、豹変した宗司の態度にエルは困惑と怒りの感情が渦巻き、出勤やら登校やらの人間の視線も気にせず駅前の広場に備え付のゴミ箱に蹴りを入れた。
おそらく、素直じゃない宗司は話しすらも聞こうとしないだろう。ヘタをすれば説得どころか、気配を感じただけでその場からいなくなろうとする。神であるエルが宗司を捕まえるなど簡単な事ではあったが、目的はそんなことではなく神へとなる宗司の意思が必要だった。
人間を神にする、そんな前代未聞の提案に反対しない神がいないわけがない。それどころか賛成する神の方が少ないのを承知で、エルは人間の世界まで足を運んできている。そして、そんなことをしてでも人間である宗司を神に仕立て上げる理由があった。
だからとりあえずは、宗司を神にしてから結果だけ突き付け、神の世界の情勢を考慮して折れる神もいるかもしれない。そんな確定的じゃない行き当たりばったりの計画に、やる気のない宗司を神にしてもオチは見えている。
だから、なんとしてもお互いの同意で宗司には神になってもらう必要があるのだ。
「それが何なのよいったい!」
本当ならその理由も朝のうちにするはずだったのだが失敗に終わった。ガンッガンッと八つ当たりのたびに蹴られるゴミ箱が左右に揺られ、ついには倒れる。
ゴミ箱が倒れたことで、ストレスが発散されたのか、エルはあの時の状況を整理し始める。途中までは上手くいきかけていた会話、それを遮ったのは過去の事故が話題に上がった途端だった。
「調べが足りなかったかしら」
エルなりに下調べをしてから宗司の前に現れた。
だが、結果はこのざまだ。
「一度帰るべきか……」
改めて調べに行くのは時間が掛かる上に、宗司の心情部分までは調べることはできない。結局、早めにかたを付けるには、現在手に持っているカードを切るしかなくなっていた。
「仕方ない、順番を変えましょ」
そう言い、エルはその場を後にしようとした。
そこに、
「ちょっと君っ!」
蹴られたゴミ箱の惨状を近くの交番から見ていた警官が、エルの元へと近寄ってきた。
また面倒くさいことに巻き込まれると判断したエルは頭を抱えて、ため息を吐く。
「なんだ君の態度は、ちょっとそこの交番まで来なさい。その制服は――」
エルが顔を上げた瞬間、その瞳は白いオーラを放っていた。警官は吸い込まれるような瞳に、引き込まれ意識を失くしたように棒立ちになる。
「【今見た事は全て忘れなさい】」
操られた警官は「はい」と返事を返すと、次にエルの視線は野次馬の方へと向いた。
「【あなたたちもよ】」
その数秒後、何事もなかったように平凡な通勤通学の歩行者たちで駅は埋め尽くされ、ゴミ箱を直す警官の姿があった。
と、そこに、
「――んんっ!?」
神としての能力がある風紀委員の少女が直面する問題を感じた。
だが、
「ったく、次から次へと問題発生ね、やっぱり土地が荒れているわ。無視しましょ、目的優先! 目指せ神が住むべき神社へ」
そこに神はいかない。
近くにいるとすれば、不機嫌な様子で登校する少年が一人いるだけだった。