火酒はストレートで
ジョナサンの素性を知るものは居なかった。
或る者は、どこぞの売春婦が産み落とし、夜霧の中教会の前に置き去りにしたと語り、また或る者はさる高名な貴族の娘が、産まれたばかりの彼を捨てて行ったのだと言う。しかしどれも憶測と邪推の域を出ることは無く、やがて酒席の話題は場末のパブに相応しい下種な笑いを伴うものに移っていった。
ジョナサンもまた、歪な顔を更に歪ませて訳の分からぬ話へ熱心に耳を傾けていた。彼の前にも、この場に居る彼の所有者達と同様に火酒の注がれたグラスが琥珀色に揺らめいている。
ジョナサンは皆が笑うとそれに合わせて誰よりも大仰に笑って見せた。彼は皆が何に笑っていたのか、理解しているとは思えなかった。たまに意地の悪い者が煙草の煙を吐きかけると、彼は目を潤ませて咳き込んだ。その様子を見て周りの者がアルコールの熱い息で笑うとジョナサンも、かさついた笑い声をあげていた。
他のテーブルにいる中産階級らしい者達は、その一団を怪訝そうに見たり、酒の合間に嘲るように見やった。
ジョナサンは身体的に凡そすべてが醜い小男であった。額はせせり出て眼孔を落ち窪み、顔の中央の丘ばった鼻は豚のそれに似ている。唇はいつも右頬へ引き攣っている。
彼はこの容姿と、酷い知恵遅れによって神の家からも見放されていた。狭量な神父は15歳になった彼を見世物小屋で各地を放浪するサーカス団に売り払った。無論、サーカス団が教会へ支払った対価は神への寄付だった。
しかし一方でジョナサンは、教会での不自由な生活よりもサーカス団での不埒で放蕩が出来る生活を喜んでいた。彼を蔑む目はここへ来ても以前と変わることはなかったが、少なくとも「奉仕」という彼にとって不可思議でしかない不条理なシステムは無くなっていた。
ジョナサンはいつか26歳になっていた。霧の街ロンドンの街灯は彼が教会に捨てられた晩と同じように、薄らいだ闇の中で黒々と濡れる石畳に光沢を与えていた。
ジョナサンは珍しく一人でカウンターに腰かけていた。その場違いな恰好と奇異な姿に、周りの人間はおずおずと彼に目線をやったりしていた。
見世物屋のサーカス団はもう無くなっていた。社会が人間にあるべき尊厳を取り戻すには、その存在は害悪以外の何物でもなかったのだ。異形の群れと、その飼い主は霧のように呆気なく四散した。働き口を失って、正常な思考能力を持つ者ならば、路頭に迷いながらもこれからの己の身の振り方を想い霧の中に紛れていくだろう。
だがジョナサンは一人、いつか来たパブで、その回路の間違った意識の中で何を想ったか。
「人は生まれながらにして、権利を所有している。それは神によって与えられている故に、その尊厳を貶めることは神を貶めることに等しいのだよ」
テーブルに座った中産階級らしい男が、火酒を片手に誰かへ向かってアルコールで熱い息のまま、雄弁を奮っている。カウンター越しに、丸っこい体の店主がジョナサンへ苦々しい顔をしながら近づいて言った。
「ご注文は?」
「あの人と同じの」
「ははあ、火酒ですかい。 …それでその、先にお代を頂いても?」
ジョナサンは汚れた手をポケットに突っ込んで、入っていた硬貨と糸くずをテーブルへ撒いた。
「火酒は、ストレートで」