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「おっ、どうだい兄ちゃん!」
ガハハ、と豪快に笑うハゲ頭がもうもうと熱気のこもる屋台の奥から声をかけてくる。右目のすぐ横にこれまた目立つ傷があったりして、こんなご時勢にとこちらが心配になってしまうような姿だ。
僕が食べたかった焼き鳥はすでに手に入れることができていたが、不幸なことに焼き鳥屋にはお好み焼きは売ってなかったのだ。他にも冷たい、しかし平時よりもいくらか上乗せされたぼったくりジュースと、つい雰囲気にほだされて買ってしまった彼女用の電飾ブレスレットをピコピコと光らせながらハゲ頭のオヤジの屋台の前で立ち止まった。
もう少しで屋台通りは終わってしまうし、後は橋を通って向こう側に行かないと更なる屋台にはたどり着けない。しかし橋の上は交通規制がかけられているもののそこから花火を見ようと待ち構えている人たちによって占拠されており、そこを迅速に通り抜けられる自信が僕にはなかった。人がぎっちりとしたところは僕のきらいなヤンキーまがいにも目をつけられやすいのだ。
「う……うぅ……」
悔しい。普通の人が営むような屋台で買いたかったのに。
「買えばいいじゃないか。取り合えずこれを喰ったせいであの女が死ぬようなことはない」
「ひぇあ?!!」
後ろから両肩に手を置かれ、僕は今までにないくらいに飛び上がった。犯人は分かっている、分かっているのに!
「……本当に飽きないな、お前は」
ペットだったら飼いたいくらいだ、と名誉毀損なことをさらりと言いのけて闖入者――諫早さんは僕の隣に並んだ。
あぁ、それにしても本当に似合わない。こんな熱気むんむんのお祭り会場に汗もかかずに立つ黒スーツの男(性格はインテリヤクザ風味)だ。ほら、屋台のハゲオヤジも怪しい人を見るような目つきになっているじゃないか。
「うーん……あの、一つください」
「あ? あぁ、ほらよ」
思ったよりも手際のいいハゲオヤジは既に焼いてあったお好み焼きに豪快にソースをかけるとパチリと輪ゴムを巻いて僕の千円札と引き換えにし、それから油汚れのついた手のままで500円玉と100円玉とを一枚ずつ返してきた。それでもオヤジの視線は諫早さんから離れないままだ。まぁ、確かにカッコいいのは認めるけれど、やっぱりヘンなんだよなぁ……格好が。何はともあれ、僕はお好み焼きを入手することができたのでようやく彼女のところへ戻れるぞ、と息巻いた時だった。
「え? 雷……?」
屋台通りを急いで抜け出して彼女がいる方を見ようとした僕の視界の隅に、夜の空を渡り走る光が映った。それから遅れてドーン、という少し重い音。呆然と空を見上げた僕の隣にまた諫早さんが立ち並ぶ。……暑苦しいと思う僕の心を読んだかのようだ。
「知らなかったのか? 今日の天気予報は一日晴れ。しかし、夕方からは一時雷雨の恐れがあるでしょう、だ」
諫早さんがそう言ったのと同時に大きな雨粒が僕の頭に落っこちてきた。再び走る雷光、遅れて聞こえる轟き。
情けないことに、僕の体は再び金縛りにでもあったかのようにそこから動き出せなくなった。僕と諫早さんの隣を、慌てどよめく人々が口々に文句を言いながらせめて雨を避けられる場所へと走り去っていく。
彼女の――深山さんのところに行かなくては。だって、彼女は僕のことを待っているって言っていたもの。こんな大雨に打たれたままずっと外にいたら、今度こそ風邪を引いてしまう。なのに、僕の頭の中は動けないことによるせいか混乱しかけていた。
遠くで、近くで閃く雷光。
逃げ惑う人々の声、強すぎる雨。
何もかも飲み込む、光を拒絶した夜の川。
震えだしたからだに触れてくれる温かな手は、ここにはない。
「……そのぼんやりとした頭が忘れようたって身体が覚えているとは、皮肉なもんだな」
そっと諫早さんの手が僕に近づいてきたかと思うと、ふ、と身体が楽になった。楽になれたのはいいものの、膝まで笑ってしまってそのまま地べたに座り込んでしまう。頑張って手に入れたお好み焼きを、彼女に届けなくては。こんなところで、へたばっている場合じゃない。
僕の耳の奥底で、まだ悲鳴が聞こえ続けている。誰か、と助けを呼ぶ悲痛な声だ。
『……を助けて、誰か――!』と。
「あの女は、川で兄を亡くしている。両親の注意も聞かずに一人川へと遊びに行き、ぬかるみに足をとられ流されかけたのを三歳年上だった兄が助けた。しかし妹を大きな石の上に押し上げた直後――鉄砲雨で増水した川が背丈の小さな少年を幼かった妹の目の前で押し流した」
「突然、何の話を……しているんですか、諫早さん」
本当に、何の話をしているのだろう。雨だからって、川の近くだからってそんな。
「……兄の遺体は見つからないまま、小さな棺桶は少年を偲ばせるものだけが詰め込まれて出棺した。妹は、両親も少しずつ諦めていく中ずっと長いこと兄を探し続けた。しかしそれは幼かった妹にとって重過ぎて、やがて彼女は少しずつ死を願うようになった。この辛い中から、逃げ出したいと。
妹は、幸せな一瞬をずっと無意識に待ち望んでいたんだ。自分が、悲しみや苦痛、罪の意識から逃れられたその一瞬に死にたいと」
もがいていた僕の足がようやく動くことに成功した。
「届けなきゃ」
僕の体がふわりと動き出す。きっとお腹を空かせているだろう。僕だってお腹が空いている。ハゲ頭の焼いたお好み焼きがおいしいかが心配だけれど、優しそうなおばあさんが焼いてくれた焼き鳥が冷めたら悲しい。つまんで食べた一本はとても美味しかったから、あの子にも食べさせてあげたいんだ。
彼女が――あの子が、一人で川原に座ったまま膝に顔を埋めていた。
名前だって、ちゃんと思い出せた。
「……アキナ?」
あれ、どうしたんだろう。小さな肩が、身体が震えている。
雨に打たれて寒いのかな? でも大丈夫、まだハゲお好み焼きも焼き鳥もあたたかいよ。雨に濡れても平気なように、ビニールでくるりと巻いたから中身は濡れていないはずだ。
「お、にい……ちゃん……」
携帯電話があの子の手の中から転がって、雨の中にコロンと落ちた。誰かとまだ通話中だったのか、画面が明るく輝いている。
こんな激しい雨でも、少し遠くで催されているお囃子が止むことはなかった。いっそ勢いづいて花火が上がるその時を待ち侘びているようだ。雨なら花火は上がらないって昔誰かが言っていたけれど、今日は上がってもらわなきゃ困るんだ。川がキレイな場所なんだって、怖くないんだってあの子に教えてあげたい。
もう、辛い思い出なんかないんだよって。
「……明菜!」
と、僕とは別の男が後ろから大声であの子の名前を呼んだ。小さな肩がかわいそうなくらいにビクリと震えて、恐る恐るといったようにこちらを見上げてきた。
すっかりキレイになってたから気づかなかったよ。
僕の顔は鏡には映らないから、自分の顔がどうなったのかだって分からないんだもの。なのに、泣きながら僕を見上げてくる顔が、その表情が――あの時の君と重なる。
「明菜、お兄ちゃんの骨が見つかったんだ! 早く家に帰ってやろう、もう少しで彰人がやっと……やっと家に、帰ってくるんだ!」
抱きしめたくて一歩踏み出した僕よりも早く、大人の手が明菜の腕を掴んだ。
「た、タニカワ君が……」
「タニカワ? あぁ、今日明菜と遊んでいた子か? しかし、あっちから走ってきたが明菜と同じくらいの高校生なんて一人もいなかったぞ? きっとその子も雷に驚いて避難しているんだ、大丈夫」
あれ、この人って……父さん? こんなに白髪が生えたんだ。
でも、と明菜はイヤイヤをするように腕を取られたまま座り込んでいる。
いい加減にしなさいと言われても、それでも座り続けていた。
僕なら、ここにいるけれど。
良かったね、君にも見えなくなったんだ。
「……チッ。どうやらお前が勝ったみたいだな」
派手な舌打ちを漏らした諫早さんも雨に濡れている。僕も、濡れている。ちゃんとここに在っても、僕たちはいない存在。
「あの女は夢のような一瞬をずっと狙い続けていたからなぁ。現実を見せつけられたら却って死ねないんだろ。俺たちはしばらく死ぬ予定のない人間には基本的に見えやしない。しかも、あの女は俺の最後のチャンスから見事に逃げ切ったっつーわけだ……全部お前に救われて、な。てめぇーはとんだ疫病神だねぇ」
「……あ、あの、約束」
疫病神だなんだと僕のことを言いながら、黒スーツの死神はやけに楽しそうだ。僕との賭けに負けて仕事にも失敗したくせに、何故楽しそうなのだろうなんて今は考えていられない。
雷鳴と共に、最初の花火が勢い良く上がり、空に大輪の花を咲かせる。火薬の残りかすが雨粒によって地面へと叩き落とされる。
「さぁ、何を望む?」
死神が、哂った。
□ □ □
「岸野さぁん! だから言ったでしょ、あなたの車はもうないんですってば!」
一体この会話を朝から何度繰り返しただろう。少し視線を遠くに飛ばしながらネクタイを緩めて、僕は今日も照りつける陽射しを手でつくった影の中から見上げた。
「いやいや、アキトくん、よく聞きたまえ。ワシの車はきっとあのヤクザが持って行きおったんじゃあ!」
ふがふがと岸野さんの入れ歯が抜け出そうになって僕はハラハラとする。
真面目に仕事をするのも結構疲れるものだ。あのヤクザ、というのは紛れもなく僕の雇用主のことだろう。こんな暑い日に涼しい顔して黒スーツなんて、あのひとはやっぱりおかしい。
……人、じゃないけどさ。
「祭りじゃ祭りじゃ!」
「そーですね……」
威勢よく通り過ぎていった神輿に、今まで真剣に己が数年前に売り払った車の行方を僕に詰問していた岸野さんは、今にも踊り出しそうな勢いで歩き出した。
今日は花火大会の日。
日中から立ち並んでいる屋台通りには、浴衣で決め込んだ女性やら子どもたちやらが楽しげな声を立てて歩いている。
岸野さん家の縁台あたりに吊るされた風鈴が暢気に風を受けて涼やかな音を立てた。ふらふらと歩いていく岸野さんを追いかけて、僕も人々の流れが溢れるところまで歩き進めたところで――。
「暑いね」
落ち着いた女性の声が後ろからかかった。
「本当だよ、暑くてたまんねぇ」
それに返す低い声。
「明菜ン家の灯篭は何だか小学生でも喜びそうなヤツだよな」
続いていく会話に耐え切れず、僕は後ろを振り返っていた。目の前には少し大人になったあの子が――明菜が知らない誰かと歩いている。短くなってしまった黒い髪に浴衣をしゃんと着て、大事そうに両手で小さな灯篭を抱え持って。
「うん、お兄ちゃんがね、好きだったものをお父さんとお母さんと私とで描いてみたの。私、絵が下手だからみんなに笑われちゃったけど……」
苦笑した明菜が自分が描いたらしい絵を隣を歩く男へと指差すと、男も困ったように笑う。
「本当だな……兄ちゃん、それが何なのか見たってわかんねーかもよ」
「うぅ、それを言われると辛いけど……でも、大丈夫だよ。ちゃんと今年も家に帰ってこれますようにって、祈りを込めて流すから」
そっか、と男が優しい顔で微笑むと、明菜がつられるようにして微笑む。
やがて二人は僕の前を通り過ぎ、たまに笑い声を立てながら屋台が連なる通りへと向かって行った。
「後悔しているか? あの願いが叶ったことを」
「うへぇあ!?」
ぽん、と肩を叩かれて僕は飛び上がった。だから、背後から気配を消して現れるのはやめて欲しいと僕は何度も何度も言っているのに。
現れた諫早さんはさっきの男じゃないが苦笑して、僕の隣へと立った。岸野さんはといえばのんびりと日光浴をしているカメ釣りのカメたちを仏顔で見守っている。
「なんだ、図体はでかくなっても相変わらず気の小さいヤツだな。そんなんで俺の手下が勤まるのか? あぁ?」
「そっ、そんなに凄んだって僕の能力が上がるわけじゃないですよ、諫早さん! ……それと、僕は後悔していませんよ。タニカワだった僕を妹が知っていたままだったら、妹の頭の中にあるままだったら明菜はあそこからもう立ち上がれないような気がしたから。いや、そりゃ心配でしたけど。さっきね、妹の笑顔を見れたから。もう大丈夫だって思えました」
そりゃ、タニカワだった僕がキレイさっぱりと彼女の中から消えてしまったのは寂しい。けれどあんなに綺麗な花火が上がる中で泣き続けていたあの子が、僕との約束のせいであそこに居続けていたら、彼女は死ぬことを止める代わりに立ち直ることも出来ないような気がしたのだ。
「……幸せに、ね」
最期に君の泣き顔を見た時からずっと想い続けていた。
もう、届かないと分かっていても。
ずっと見送り続けていた彼女の背中が、ふと歩みを止めた。どうした、と気遣う隣の男にも応えず、ゆっくりと――あの子が、こちらへと振り返る。
やがて彼女はゴシゴシと目を擦り、再び気遣うような言葉をかけたらしい男に左右に首を振って見せると、二人は再び笑いあって賑やかな屋台通りへと吸い込まれていった。
「ったく、暑い日に熱いもん見せつけてんじゃねーよ、なぁ! お前、罰として今夜の花火、俺に付き合え」
「……でぇ?! なんで、どうしてそうなるんですか! あぁっ、岸野さん! カメをつついてもどこにも行けませんから!!」
本当に暑い一日だ。
けれど。
さらさら流れる川の岸辺で、花火を楽しげに見上げる愛しい人たちを傍で見られるかもしれない……そんな、素敵な祭日。
ここまで読んでくださった方がいましたらありがとうございました!
少しでも季節が感じられれば良いのですが・・・・・・。