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「間に合って良かったぁ!」

 はー、とお互いに深く息を吐き出す。ぎりぎりで駆け込んだ電車の中はあらかたの人を今出たばかりの駅に下ろしてきたせいか、難なく席に座ることが出来た。これでぎゅうぎゅう詰めの車内だったらしばらく汗と不快な争いを繰り広げなくてはならないところなのだろうが、ほどよくまばらに人が乗った車内は冷房のききも良くてなかなかに快適だ。二人同時に息をついたところで小さく吹き出した。

 隣のボックス席に座っていた中年のサラリーマンが不思議そうな顔でこちらを見てきたけれど、彼女は興味深そうに窓の外を見やっている。いつもなら中心の駅と先ほどの最寄り駅との往復しかしていないのは本当だったようで、窓に映る景色は彼女にとっても新鮮なようだった。


 ますます夏の空は赤みを帯びて、少しずつ中心街から離れて空が広くなっていく程にその度合いを増していく。こんな無計画なことをして彼女の両親や周囲は大丈夫なのだろうかと今さら心配になったけれど、彼女は大丈夫、と苦笑して見せた。それから己の携帯電話をちらつかせて見せた。

 すっかりその存在を忘れていたけれど、たしかに携帯電話があれば電波が届く範囲の限り音信が取れなくなるということもないのだろう。さっきメールもしておいたし、と説明する彼女に相槌を打つと、再び彼女の視線は真紅に染まる空へと移っていった。


「遠くに出かける時って、いつもすごくワクワクしちゃうんだ」

 そのまま、窓枠に備え付けられている小さな台に肘を乗せて小さな声で話しかけてくる。僕もその気持ちは分かるような気がして頷いたけれど、彼女の視線は空よりもずっと遠くを見ているようにも思えた。

「できれば、この楽しい気持ちのまま――現実にもう戻りたくないなって思ったりとか、ね」

 彼女の口もとは微笑んでいるようにも見える。

 見えるのに――何故か彼女が今言った言葉がとても寂しく思えて、僕はどうにかしたいのに返せる言葉が見当たらないのだ。


「……なーんてね?」

 それからようやく彼女がこちらへと向き直る。先ほどの言葉が本音だったとしても――冗談として流そうとしているのを感じて、僕も笑ってみせる。何となく、僕の頭の中には最初彼女に出会った時の、必死な様子が思い浮かばれた。


「そうそう、タニカワ君の下の名前をまだ聞いてなかったよ」

「……タニカワじゃまずい?」

 それも、彼女に質問されるまでだった。

 方向転換とばかりに彼女が訊いてきたことに僕はたじたじとなる。タニカワタニカワなんて日本人はいないだろうけど、しかし僕の名前はタニカワなのだ。

 それ以外を、僕は知らない。


「ふーん……別にいいけど。なんか、タニカワ君と話してると最近初めて会ったばかりの人って思えないんだもの」

 案外あっさりと彼女は僕の下の名前を訊くことを諦めてくれた。最近会ったばかりとは思えない――それには僕も納得だ。彼女は誰かに似ている気がする。

「これからも会えるかな?」

「会えたら僕も嬉しい」

 よし、とお互いに顔を見合わせて笑った。

 また隣のサラリーマンがスルメイカを口にくわえながら不思議そうな顔でこちらを見てきた。今度は彼女も気づいたようで、パチパチと数回瞬きをしてから肩を竦めて見せて、僕らはまた笑った。


「よし、ここで降りてみようか」

 やがて、彼女が何度も電車の天井近くに貼られた行き先順路板を見ながら確認していた地名を車掌さんがアナウンスするや否や、彼女は宣言した。そこは僕たちの買った切符で買える最遠の地より一歩手前の駅だ。思ったより遠くには行けなかったけれど、明るい夕焼けのなかに浮かんでいた窓の外の景色は僕たちの出発地からは一変していて、今頃は煌々とついているはずの街灯の類があまり見当たらないのがここからでも分かる。


 無人駅の説明を機械の声が丁寧にしているのを訊きながら銘々にしまっていた切符を取り出すと、僕たちは電車がしっかりと止まる前から立ち上がり、ゆっくりと減速していくのをドアの両側にもたれて一緒に見た。

  


「いるかな?」

「どうだろう?」

 しっかりと帰る時間を確認してからそこだけ明るい無人駅を後ろにすると、後はもう空からの僅かな明かりだけが頼りだ。うるさいくらいに蛙があちらこちらで鳴いているのを聞いていると否が応でも期待は高まる。


 街灯は少ない。

 通り過ぎる人も車も少ない。 

 暢気に蛙が道路を散歩している。


「ホタルってどこら辺にいるの? キレイなところ、っていうのは聞いたことあるけど」

「……うーん、キレイな川の近くって聞いたことある気がするけど……」

 本当にそうだったのかは自信がない。思ったよりも頼りなく聞こえてしまったのか、数歩先を行ってから彼女が隣にいないことに気づき、僕は慌てて振り返る。前へ前へと動いていた彼女の足が、急にピタリと止まってしまっていた。たった数歩の距離でも、薄闇の中ではもっと遠くにいるように感じた。


「……帰りたい」 

 彼女の口からぽつりと言葉が零れた。どうしたのだろう、と問おうとした僕の耳に、遠くで雷鳴が轟く音が聞こえてくる。ポツリ、ポツリと大粒の雨が空から降り始めた。

「タニカワ君、帰ろう」

 彼女がもう一度、無表情な顔で、抑揚のない声でそう言った。どうして、と返したいのに、突然遠慮もなく降り始めた雨に、その音に身体が竦んでそこから動けなくなってしまった。

 声すら、出ない。


「タニカワ君……?」

 彼女が――深山さんが泣きそうな顔になっている。

「帰ろう、ここは怖いよ」

 何が怖いの? でも、確かなのは今、僕が動けないことだった。

 そっと手に温かい感触が宿って、金縛りか何かから突然解放されたように僕の手が、ようやく動く。きっと時間にすればそんな大した時間じゃなかったはずなのに、ずっと長いことここに身体を縫い止められているようだった。


 無言のままのろのろとした足取りで、二人で手を繋いだままで無人駅へと戻る。幸運なことに偶然通りかかった上り――出発駅へ戻る電車へと乗り、僕たちは車内で寒い思いをすることになった。


「……ごめんね、わたしが行こうって言ったのに……わたし、川が怖いの。夜の川は何も見えなくて、真っ暗で……ただあの恐ろしい音が、わたしの大事なひとを飲み込んでいって……」

 朝ならともかく、もう夜の領域に入る今の時間車内はがらがらで、いるのは大きな旅行用バッグを抱え持って疲れたように眠っている人くらいだ。濡れた体のままではやはり寒いのか、彼女はガタガタと体を震わせながら僕の手をぎゅ、と握りなおす。

「僕は雨がダメなのかもしれない……いや、雷がダメなのかな? そういえば雨の日に外出たことなかったしねぇ。ね、暗いのが怖いのなら、暗くなければいいんだよね?」

「え? うーん、どうだろう……昼でも怖いかも……」 

 彼女の手がとても温かくて。さっき、雨で冷え切ってしまった僕の内側にぽかぽかとしたものを取り戻してくれようとしているかのようだ。

 そんな彼女に怖いものがあるというのがイヤで、僕は一つの提案をした。ちらりと視線を動かした先に飛び込んできたもの。


 花火、の二文字。


「今度の日曜日、駅の近くの川辺で花火大会があるの知ってた? 一緒に見られないかな」

 僕の暢気な口調につられたのか、少しずつ彼女の震えが止まっていく。どうやら寒くて震えていたわけではないようだ。不思議そうな顔でこちらを見てきた彼女が不意に可愛らしく……愛しく思えて、僕の表情が緩むのが自分でも分かってしまう。

「イヤならそう言ってくれていいよ。でも、きっとキレイだから。……うん、そういえば花火なんかまん前で見たことなかった気がするし」

「……花火なんか、三年くらい前にみんなでコンビニで買ったヤツ以来かも」

 ニヤけた顔をした僕の表情に気づかなかった彼女は小首を傾げて考え込む振りをする。


 花火。

 真っ暗な空にどんなものよりも美しい光が散らばるのを僕は覚えている。それは何故かずっと遠くで見ただけの記憶しかないので残念だけれど、もしかしたら彼女と残念な記憶を塗り替えられるかもしれないのだ。

 彼女が嫌がる川のギリギリまでは行けないだろう。ただ、キレイな場所でもあったのだと彼女の記憶に残れば嬉しいだけなのだ。悲しくて辛いだけの場所ではなくて。


「……行きたい、かも」

「大丈夫? まぁ、別に近づけなくてもどこかの屋上からだったら見えるだろうし……」

 川に対する思い出を払拭してもらいたいけれど、彼女が先ほどのように泣きそうな表情をするのも避けたい。彼女に逃げ道を残しておいても、彼女はもう悩む素振りは見せなかった。

「本当に真っ暗じゃないなら、きっと大丈夫。タニカワ君も一緒だし……今度は、大丈夫」

「そっか」

 僕たちは再び顔を見合わせていると、どちらからともなく笑い出した。寝ている人を起こさないように、小さく小さく……しかし、我慢しようとすればするほど楽しくて。

 やがて僕たちが出発した地点である駅へと戻る頃には、僕の苦手な雨は過ぎ去っていたのだった。



□ □ □


「よし!」

 

 朝とはいえない時間から鳴いているカナカナゼミと一緒に緊張の一時を過ごし、やがて朝陽が顔を出して僕は手を空に伸ばしながら立ち上がった。こんなに晴れているなら夜の花火もキレイに見えるはずだ。暑くなりそうなのはイヤだけれど、楽しみがあれば何とか乗り越えられそうな気がする――と、思ったその時。 


「仕事はうまくいっているか?」

「ひぇあッ!!」

 そろりと背後から肩に手を置かれて、僕は今なら垂直飛びで素晴らしい記録を出せそうなくらいに飛び上がった。

「い、諫早さん……いや、店長?」

「店長だぁ? そんなやっすい呼称を俺につけるっつーのはケンカでも売ろうってのか、チビ。あの女とはうまくいってるんだろうな」

 こここ、怖い。やっぱりこの人ヤクザそのもの……! 先日前借りしたお金は電車賃くらいにしか使っていないので今すぐお返ししたい気持ちに駆られているのに、そんな僕をヤクザは思いっきり鼻で笑って見せた。

「ま、てめぇにはそんなに期待していないがな」

「……花火を見に行って来るんだ、今夜。でも、彼女はきっと諫早さんから逃げられるって……僕は、思う」

 何とか陰険ヤクザに負けないように僕はいつもよりも視線を思いっきり上げて、心持ち背を真っ直ぐ伸ばしているのに、諫早さんはニヤニヤと笑ったままだ。


「へぇ。仲良くなる、というところはクリアしたってわけだ。じゃあ、ボーナスチャンスってことで一つ賭けでもするか? お前が負けたら一生俺の下でタダ働きだ。もし、お前が勝ったら――願い事を一つ、叶えてやる」

「えぇー? 諫早さんに叶えられる願いって怪し……いだっ!!」

 言い切る前に鉄拳制裁が下された。目蓋の裏に一気に真っ白な星が巡りだし、僕の視界はチカチカとした不快な光で一瞬覆い尽くされる。

「俺だから何でも叶えてやれるんだろ。てめぇらが勝手に創り上げたお空の神サマなんてやつらに何ができる? あるかどうかも知らねぇ空の世界からただ見守っているだけの連中に。まぁ、お前が勝つ見込みなんざないんだから諦めろ。その方がずっと永く彼女と一緒にいられるんじゃないのか?」

「……諫早さん」

 いろいろと言いたいこと、言い返したいことはあるのに、目を細めて口もとから笑みを消したその顔はただただ厳しくて。それが冗談だとでも言うように再び彼の口もとに笑みは戻ったけれど、それでもやはり僕が受けた印象は拭いきれずに名前を呼ぶことだけが精一杯だった。


「ま、お手並み拝見といったところだな」

 そういって締めくくると諫早さんは今までの迫力が嘘のように大きなアクビをしてから「暑くなりそうだな」とごちた。なんだかそんなことを言っていると、諫早さんも真っ当な人間のように見えるというか、そもそもそんな暑くなると分かっていて暑苦しいスーツ姿をしているなんてやっぱり変なひとだなぁと思いながら僕は勇気を振り絞って口を開く。

「ほ……本当に?」

「俺は他のヤツとの約束事だけには嘘をつかない。それだけは絶対だ」

 お伺いを立てるように聞いてみれば、憮然とした表情で諫早さんは答えてくれた。

「ったく、こんなに毎日暑いと俺の仕事が増えるばかりで参っちまう。とっとと仕事決めて俺ンとこの正社員でも目指してみろよ、アルバイト」

 楽しくもなさそうに口だけで笑うと、ひらひらと手を振って諫早さんは去っていった。


「どんな願い、でも……?」

 いいように諫早さんにからかわれている僕には首を傾げたくなるセリフではあったけれど、今の僕にとってその言葉は魅力的だった。


 大丈夫。

 彼女なら、きっと大丈夫。賭けに勝つのはきっと僕だから。


□ □ □


「タニカワ君!」


 いつものように図書館でゆったりと日中を過ごし、僕は来るべき時を迎えた。彼女と話したいことはまた少し増えている。なんと言っても、ようやく犯人の名前が分かったのだ。

 周囲はすでに夜へと差し掛かり、ざわめきながら着飾った人々が今日の舞台である川のほうへと流れるように歩いている。それに遡るように、最初に出会った時に着ていたのと似た細やかな花柄のふんわりとしたワンピースを着た彼女が僕に向かって手を振った。

 いつもだったら群集に埋没してしまうかもしれないその格好も、周囲が浴衣や着流しばかりなので自然と目立つ。僕もいつもの格好だから、二人とも違うところへ行くみたいに見えるかもしれない。


「深山さん」

 大きく彼女に手を振り返し、僕は早足で歩いた。やがて人々の流れに逆らって歩いていた彼女と合流すると、僕たちは手を繋いで二人で歩き出す。


「ね、金魚すくいやってる」

「……こっちにはカメがいるね。うわ、ザリガニも……!」

 川が近づいてくると、道の両側には屋台が設けられていて余計に人々の流れは悪くなった。人の群れに押し流されるように歩きながらもたまに屋台に興味を惹かれて覗き込んでみたりする。可愛らしい柄の浴衣にひらひらとした帯で飾った子どもたちがしゃがみこんで歓声を、たまに悲鳴をあげながら金魚たちと格闘をしたり、電飾ブレスレットをした手であれこれと食べながら笑いあう大人たち。


 わたあめ、りんご飴、焼き鳥。

 金魚すくいに型抜き、ピンポン玉すくいに――あれらこれら。


「――わ」

 ようやく吐き出されるように屋台通りから抜け出ると、そこには今日の舞台が広がっていた。もう既に銘々で用意した敷き物や食べ物で準備万端といった家族連れの間を縫い歩きながら近づいていく。目の前は、暗く沈んだ川ではなかった。


「……キレイ、だね」

 隣に立つ深山さんの声が震えて聞こえた。川を流れていく無数のやわらかな光。その一つ一つには子どもが描いたらしい力強い絵から、心を込めた文字まで様々だ。大きさは十分片手でも持てるようなものだったけれど、光――灯篭を流す役目を負った人々は丁寧に両手で抱えもち、願いを込めてそっと水面へと流していくのだ。

 僕たちが立ち尽くしている間にもどんどんと光の群れは増えていく。屋台で聞こえていた騒がしい音すらも、光が増えていくごとに消えていき――僕たちの周囲にもたくさんの人たちがいるのに、誰もが魅入られていた。


「そろそろ座ろうか……だ、段ボールしか座れそうなものがないんだけど……」

 こんなにも楽しみにしていたというのに、僕はうっかりと敷物というものが必要であることを失念していたのだ。僕はともかく、彼女の服を汚すわけにもいかないというのに。今まで思いつめたような顔で光の水面を見つめていた深山さんは、僕の存外情けなく零れた声にこちらへと視線を寄越すと、ふぅ、と息を吐き出した。それから苦笑して頷くと、彼女の手が後ろ手に隠していた段ボールへと伸びる。


「さっきなんで屋台の人から段ボールなんかもらっているんだろうと思ってたけど、そういうことだったんだ? ありがとう、タニカワ君」

 二人分の段ボールを敷いて座り込む。少しずつ光は下流へと進んでいってしまったけれど、向こう岸にも続く屋台が放つ光が川面に映っているせいか彼女は大丈夫なようだ。

「今日ね、お母さんが浴衣着て行けってうるさかったんだー。わたしが花火行きたいなんて言ったの、多分初めてだから。わたしよりお母さんの方が嬉しそうだった」

「……浴衣着れば良かったのに」

 思わず僕の本音がポロリと漏れた。もちろん、ワンピース姿の彼女だって十分可愛いけれど、浴衣を着た姿も見てみたい気がしたのだ。彼女のそんな姿を見れるのなんて今日が最後のチャンスだろうし。

「だって……下駄履くと、足が痛くて歩けないもの。もしもって時に走れないの、イヤだし」

「そっか。似合いそうなのになぁ。でも、痛いのはイヤだよな」 

 そうそう、と彼女は何度も縦に頷いた。彼女がぎゅう、と僕の手を掴んでくるから彼女の横顔を見ても、彼女の視線は光り輝く川面にだけ注がれていた。


「……本当にありがとう、タニカワ君」

 彼女の口もとに仄かに浮かぶ微笑。

 きっといつもの僕なら彼女が笑うのを見て、良かった良かったと思ったに違いない。彼女が笑ってくれるのは嬉しい。僕に何も感情がなかったとしても、何の想いを向けられていなかったとしても、笑顔を見るだけで僕も安心できるような気になるのだ。けれど今、彼女の口もとに浮かんだものを見た途端に僕の内側がざわついた。


「よっし! ……焼き鳥買ってくる! 深山さんは食べたい物ある?!」

「え? えーと、わたしは……お好み焼きかな……? 夕飯食べてなくて」

 了解、と僕は一際元気良く声を出した。彼女がビックリしたような顔で――現実に戻ったような顔で瞬きを繰り返している。

 いつもは哀愁が漂う僕の財布も、店長……じゃない、諫早さんがくれたお金で潤っている。今日をうまく乗り越えられたら何かが変わる――そう確信していた僕は、僕に残された全財産であるだろうこれを使う決心をした。

 財布の中から取り出した千円札を握り締める。こうしていれば、僕のことに気づいてくれる人が増えることはこの間切符を買った時に経験済みだ。


「待っててね、深山さん! 僕、二人分買ってくるから。多分一人じゃ食べきれないから先に帰ったりなんかしないでよ!」

「……待ってるってば。まだ花火だって始まってないもの。……迷子にならないでね。わたしは、ここにいるから。タニカワ君のこと待っているから、必ず戻ってきてね」

 勿論、と僕は勢いよく頷き、彼女に向かって小さく手を振った。それが大げさに思えたのか彼女が吹き出して笑う。


 あれ、どうしてだろう? 今、この情景がすごくすごく懐かしく思えたのだけど。

 それよりも食べ物だ、食べ物。きっと彼女もお腹がすいているから思いつめたような顔をしたに違いない。空腹の人間っていうのは結構人格が変わってしまうものだもの。

 再び飲み込まれるように屋台が連なるとこへ飛び込むと僕の耳に一気に雑音が戻ってきた。


 僕がいるのに、僕が無視される場所へ。

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