1
一緒に見ようねって、指きりしたんだ。
「随分と暇そうだな、タニカワ君」
もの思いに浸っているところに声をかけられるのは非常に心臓に宜しくない。
「な、なな何かご用事ですか、諫早さん」
こんなにも暑いのに全身黒尽くめだろう男に後ろから気配もなく声をかけられて、隠しようもなくビクリとしてから僕は恐る恐る振り向いた。のんびりとした生活を楽しんでいる僕にとって恐ろしい男が現れたのだ。
「用事はない……って言いたいところだが。今日はあったりするんだな、実は」
見た目だけは格好良い三十手前くらいの男は、何か含んだような笑顔をその口元に乗せて、空いていた僕の隣の席へと腰掛ける。こんな夏真っ盛りに全身黒尽くめで平和な図書館に現れた陰険そうな男は、ものめずらしそうに書架群を見やってから僕の手元を覗き込んできた。そんな男の視線はまるで獲物を狩る肉食獣そのもの。もともとノミの心臓のような僕の心臓は一気に鼓動を早める。小市民である僕がこんな想いをしなければならないなんて不幸だ。不幸にも程がある。
僕は折角読んでいた推理小説の犯人の名があと数ページで判明するだろうということろで断念せざるを得なくなってしまった。
「うぅ、折角ここまで陰陽師先生の長い説明を読み終えたのに……」
片手では持ちきれないような分厚さの本を撫でながら名残惜しみつつ立ち上がると、恐ろしい男はニヤリと黒く笑って見せた。
「おいおい、随分とつれないねぇ。ふらふらしているてめぇにちょいちょい仕事の口探しあててやってるっつーのによ。そんな俺様が用事を頼みたいって言うのを断るなんざ……」
「うぅぅ、分かりましたってば。でもカンペキな諫早さんがそんな前振りつきで僕に頼むような用事ってあるんですか?」
真向かいで手芸の本を読み漁っていた年配のご婦人が、俺たちの会話が聞こえてきたのか怪しい人を見るような目つきでこちらを見てくるのが視界に入る。
「あっち行きましょう」
こちらをじろじろと見ていたご婦人にも軽く一礼してから本を元の場所へと戻し、ご婦人にはヤクザにしか見えないだろう男を連れて、慌てて午後の図書館を後ろにしたのだった。
□ □ □
「それで、僕に用事とは?」
こんな暑い日に話をするのだったら、どこかの喫茶店で冷たいカフェオレでも飲みながらといきたいところだ……が。
「まぁ、ちょっとしたヤボ用だが……俺が今やってる仕事に支障が出ていてな。ちょっくら女と会ってほしい」
こんな犯罪の匂いがしそうな会話を、一般市民の方々の耳に入れられるか? という話だ。結果として、猫達すら寄り付かないような熱風吹き抜ける公園で僕達はベンチに微妙な距離を置いて座っていた。
「へー、仕事なら言語道断・迅速かつ非人情な諫早さんでも引っ張れない人っているんですね……痛ッ!」
ゴン、と小気味良い音を立てて諫早さんの拳が降ってくる。既に抜けでるものもないのに口から何か出そうな感覚に陥って僕が呻いていると、耳に盛大なため息が入り込んできた。
「ったくよ、俺の苦労も知らない若造が適当なこと言いやがって。だが、俺がてこずってるっつーのは本当だな。もうチャンスは残り一回ってところまで来ちまってる。一回目はとうに失敗しているからな」
「へ……へぇ……」
そいつはすごい。
やることなすこと強引かつ正確な諫早さんの手にかかってまだピンピンしているなんて初めてかもしれない。その上、不機嫌そうに語るのは見た目インテリヤクザな男だ。いろんな意味で恐い。
「でも、僕はただの暇人だし、女の子に会ったって……」
「いいや、お前が必要なんだ。はっきりと言ってしまえばお前のそのツラだ。今までの苦労が微塵も出ていないぽんやり顔のお前だったら相手の女もうっかりと罠にはまるかもしれん」
「ワ、ワナって……」
インテリヤクザな顔で言われたくない。最後のあたりは自分では良く分からないだけにゴリ押しされてさすがにへこむ。
「……そうやって僕のことバカにする」
しかも、そういう軽口をこの人が叩くのは僕しかいないのが癪なのだ。僕みたいなのがいっぱいいるはずなのに、他の人たちに対して彼は礼儀正しく――だから僕は彼をインテリヤクザと影で呼んでいるんだが、今こうして行くべきところにも行かずふらふらしていたってうるさいことを言ったりなんかしない。
「ま、お前のぽんやり顔はどうでもいいんだがな。相手の女と仲良くなれ。それが仕事だ。それだけで俺の仕事がうまく収まる――お前でもできる簡単なアルバイトだ。分かったな」
「……はい?」
分かったな。分かったって、何をどう?
さもそれらしい口調で彼は言い切ったけど、諫早さんの口元にはさっきもちらりと見かけた意地悪そうな笑いが浮かび始めている。
「……俺にもう一度説明させる気か?」
諫早さんの二回目は、事前に鉄拳がついてくる。僕にできたのは、ちょっとだけ肩をがくりと落としてから「分かりました」と返すことだけだった。