43「最も青い目」
「海魔だ!」
と大きな声を上げた瞬間、あたりが霧に包まれる。
小舟の中だというのに周りにいたはずの父たちが見えなくなる――海魔の幻影だ。
視界を支配されたせいで、船の大きさの感覚がつかめない。
下手に動けば海へ落ちてしまいかねないが、それを狙っている海魔は大きな波を作って船を揺らす。
「くっ――!」
柵に捕まってやり過ごそうとしたが、波に煽られて手が滑る。
「危ない!」
落ちる――そう思った時、背後から大きな手が体を掴む。
父の傷だらけの手でもなく、ダミアンの熱い熱もない、低い体温の大きな手――シュヴァリエだった。
「すまない。助かった」
「いえ、無事でよかったです」
背後から抱きしめるような体制で体を支えられる。
シュヴァリエの低い、けれども仄かに暖かい体温が背中一面に伝わる。
むず痒さを感じて離れようとするが、シュヴァリエはぴたりと背中に張り付いたまま、耳元で囁く。
「ボスを探さないと……声を出して呼んでも問題ないでしょうか?」
「…………い、いや……やめた方がいい。海魔も同じ罠を使って、ダミアンを海底に誘導するかもしれない」
「かしこまりました」
離れてくれない……
”そんな状況じゃない”と分かっているのに、どうしてもあの日の口づけを思い出して体が固まる。
あの日の熱い舌が、冷たい手が、私の脳を支配する。
「織歌さん……」
シュヴァリエの手が顎に触れる。
そのままくいと顎を引かれ、後ろを向かされる。
顔と顔が近づき、吐息がかかりそうなほど近くで瞳を見つめられると、潮の匂いが鼻をかすめた。
藍色の瞳の奥に熱を感じて、胸がぞわりとした。
「……あなたを、愛しています」
――ああ、やっぱり。
来ると思っていた言葉に胸が痛む。
私はどうすればいい……確証が持てなくて、つい試すようなことを言ってしまう。
「なら、もう一度……口づけをして……」
私になんて台詞を吐かせるんだ……
気恥ずかしくて目を見ることもできないが、シュヴァリエは静かに頷いた。
「仰せのままに」
ためらいのない所作で顎を掴まれ、唇と唇が近づく。
吐息が触れ合い、そして唇が重なった。
熱い舌が口内を蹂躙する、何もかもが、あの日と同じ。
私は思わずため息をつき――
「展開」
――手元の折神を展開した。
紙は宙に浮いてシャチの形を成し、目の前のシュヴァリエの頭を食いちぎる。
[ぐぁああアアっ!!!!]
らしからぬ悲鳴を上げて、シュヴァリエ……の形を真似た海魔は泡となって消えた。
海魔が消えるとともに霧が晴れ、思ったよりも近くにいた父たちの姿が見えるようになる。
「……どういうことだ?」
ダミアンの呆れたような声が夜の海に響く。
「ここの海魔はすでに人型になっていたようだ。私たちの記憶を読み、完璧な幻影を作り上げ、私を狙った」
「……なるほどね、いやな幻想を見たぜ」
ダミアンも過去の記憶から作られた幻影を見せられていたらしい。
ダミアンは何を見たとは言わなかったが、嫌そうな顔からして碌な幻影じゃなかったのだろう。
「人型は力が強いからな。こちらも騙された振りをして、不意打ちをしてやったのだ」
「その作戦なら、人数は少ない方がよかったのでは? わざわざ5人で来なくても」
エンゼル神父も呆れたように声をかけてくる。
「いや、あなたは来るなと言っても来るでしょう」とは言えなかったので、別の意図を伝えた。
「今回は完璧な幻影を作らせたかったんだ。……シュヴァリエ、あなたと話すために」
「……私?」
それまで黙っていた、本物のシュヴァリエが驚いている。
幻影と違って藍色の瞳の奥には熱はない、最も青い目をしていた。
「隊長は私だ。知性のある海魔なら私を狙ってくると確信していた。姿も記憶も完璧な幻影を作らせて、あなたに証明したかった」
「証明……?」
「私は姿に惑わされずあなたという存在を見つけた、と」
シュヴァリエが息をのむ音が聞こえる。
父もダミアンもエンゼル神父も声を出さず、シュヴァリエの言葉を待っていた。
夜の風が潮の匂いを運んで、静かに流れる。
「どうやって見分けたのですか?」
「あの海魔は私に指示を仰ぎ、私を愛し、私を求めた……あなたは、日本人女を尊重するようなこと、しないでしょう?」
意地悪な言い方になったが本心だ。彼は私を下に見ている。
【操縦は私が?】
【それは……女性に容赦ないですね……】
それらの言葉に悪気は一切無い。
無いからこそ出てくる……私を一人の軍人と認めない、見えないナイフのような言葉。
「それは……大変失礼を……」
「責めたいわけではないし、あなたは悪くない。あなたが”そう”考えていて、私が”そう”受け止めた。その事実があるだけだ」
シュヴァリエも意識していなかったのか、私の言葉に眉をひそめて自分を責めている。
「私があなたに知ってほしいのは、私は”そんなあなた”を理解しているということだ。だから私を信じて……教えてほしい」
「教える……?」
「あなたが私に何を求めているのかを」
【|Je me perds《ジュ ム ペール》...】
フランス語で囁かれた言葉は、文化の壁に阻まれて私にはわからない。
だが彼はその壁の向こうで私に何かを訴えている。
「あなたが完璧でなくても、綺麗でなくても、私はあなたという人のことを知りたいよ」
海魔の幻影を利用して、そのことを伝えたかった。
そんな思いの言葉だったが、シュヴァリエは青い瞳から静かに涙を流していた。
「あっ……すまない……試すような真似をして」
「違うんです」
感情から来るものではないのか、シュヴァリエは涙を流しても冷静だった。
まるで物言わぬ絵画のような、ぞっとするほどの美しさがそこにある。
「|Je me perds《自分を見失っている》」
その美しい唇で、彼はついに言葉の秘密を教えてくれた。
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