32「認めたくない」
ちり、ちり。
軽やかな風鈴が鳴る夕暮れ時。
お抱えの家庭教師との授業が終わり、女教師が帰宅するのを見送ったハクレンは部屋の窓際で黄昏ていた。
「勉強、社交界、お作法……こんなことして、何になるネ」
紐育の片隅にある中国系移民による街は黄昏時に黄金に輝く。
提灯の灯が次々とともり、赤と金の輝きが影に沈む路地を染めていく。
どこからか風に乗って届く胡弓の音に父や兄は郷愁を覚えるというが、生まれも育ちも紐育のハクレンには何もわからない。
彼女の周りにあるのは中華街の喧騒、マフィアである父の持つ権力と、厳しい掟。
他の人よりも恵まれていると思うけど、他の人よりも縛られている。
いつか何処の誰とも知れぬ男に嫁ぐために自分を磨き上げる毎日に、ハクレンはもううんざりしていた。
「早くC.A.D.迎えにこないかナ。今日もスピークイージー行きたいヨ」
ぽつりと呟いた悲しい声は胡弓の音に溶け、誰にも届かない。
◇ ◇ ◇
白鰱はチャイニーズマフィアのボスの娘である。
父の庇護のもと大切に育てられた組織のお姫様であり、人生の全ては父に決められている。
贅沢ができているのは父のおかげというのは理解していたから、そんな人生に疑問を持つことはなかった。
そう、ダミアンのことを知るまでは。
【野蛮人が白人を支配した】
ネイティブアメリカンの青年がギャング組織を乗っ取り、徐々に勢力を拡大しているという話がある日突然、雷鳴のように裏社会に轟いた。
父が、兄が、慌てふためく姿を見ながらも、ハクレンは尾ひれの付いた噂だと思って本気にしなかった。
そう思ってしまうくらい、この世界は彼女にとって生きづらいから。
血が、肌が、家が、名が、人を縛る。
見えない掟からは誰も逃げられない。
でもどうしても気になって、ハクレンは父の目を盗んでダミアンを見に行ったことがある。
スピークイージーが何かも知らない少女がひとりで夜の街を彷徨っていると、おせっかいな白人女が「危ないから」とくっついて離れなかった。
【来るかナ、あの人】
【来なかったらまた遊びに来ればいーじゃん。あたし迎えに行くよ~】
【迎えっテ……うちはそんな環境じゃ……】
【パパ厳しい感じ? じゃあこっそり迎えに行くねえ】
チャイナタウンとはちがうスピークイージーの雰囲気に圧倒されながら待つこと数時間。
安い酒で粘り続けながら、C.A.D.と他愛もない話をして過ごしていた。
C.A.D.は白人女なのに、女優なのに、立場を感じさせないほど明るく人懐っこい。
こんな会話をして以来、ハクレンとC.A.D.は無二の親友になった。
【あ、来たよ!】
そして、とうとう彼を見ることができた。
その時の興奮を、ときめきを、ハクレンは忘れられない。
夕焼けをそのまま閉じ込めたような肌に黒曜石のような瞳。
時間がたった血のような深い朱色の髪は長く伸ばされ、三つ編みにして胸元に垂らされている。
白い世界を穢すために落とされた一滴の血のようなその姿に、ハクレンは生まれて初めて恋をした。
◇ ◇ ◇
「それなのに……」
彼はハクレンを選ばず、C.A.D.を選ばず、突如現れた日本人を選んだ。
ぢりぢりと胸が痛む。
でも、ダミアンの熱っぽい視線を見たら、「ワタシもダミアンが好き」なんて言って戦うことはとても考えられなかった。
「だってもう、ダミアンはあいつのこと好きヨ……」
ぢり、ぢり、ぢり。
黒い感情が胸を支配する。
悔しい、悲しい、でも、仕方ない。
そう思ってあきらめようとしたのに。
『お米、たくさん買えましたね』
『日本の米と同じなのか?』
うじうじと悩んでいると中華街の中で呑気な日本語が聞こえてくる。
紐育にいる日本人は少ない。ましてや中華街で呑気に日本語で話すほど豪胆で間抜けな奴らといえば、言うまでもなく織歌とその連れしかいないだろう。
目線を下にやると、案の定その二人だった。どうやら中華街で何やら買い出しをしているようだ。
『荷物、持つぞ』
『あ、ありがとうございます……!』
ぢり、ぢり。
仲睦まじい姿にハクレンの胸が騒ぐ。
目を凝らして織歌の瞳を見れば、ダミアンが織歌を見つめるような熱い視線が目に入る。
諦めようとしたのに、負けを認めたのに。
「織歌、あのアマ……」
あいつには、好きな人が二人いるのだ。
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