29「どこまでも付いていく」
【おはようございます、ニューヨーク。土曜日の朝です。
本日のマンハッタンは晴天、午後の最高気温は華氏62度が予想されています。】
ラジオの音が広々とした居間に響き渡る。
春の朝の冷たい空気に触れて、入れたてのお茶が白い湯気を昇らせる。
窓の外、濡れた石畳が朝陽にきらめいていた。
ニューヨーク生活2日目の始まりである。
晴天の元、爽やかな朝が始まるはずだった――のに。
『おはようございます、お父さん……』
『元気ねえな』
『昨晩ダミアンを怒らせてしまいまして』
『もう!?』
私の心は落ち込んだままだった。
仕事の説明をダミアンにしていたはずなのに、「劇場公演」と言う言葉に彼を相当怒らせてしまった。
そうだ、彼は劇場にトラウマがあるのだった、と気づいたころにはもう遅い。
彼は静かな笑みを浮かべたまま今日する約束だったはずの盗聴器の検査をさっさと済ませてしまい、今日の家デェトの約束はなくなってしまった。
『やらかしたあー』
『いや、まあ……相手さんもちょっと短気だな。お前はそんなに悪くない――』
父は穏やかにお茶を飲みながら慰めてくれる。
『とは言わない!』
『ぐっ』
『これから九十九人攻略する奴が、男心もわからなくてどうする!』
かと思いきやそんなことはなかった。
九十九人攻略に同意したつもりは一切ないが、お説教の雰囲気になってしまったので黙って聞くことにする。
『お前は自分軸で世間を見すぎなんだ。相手の気持ちになって考えてみろ。というのが親としての説教だと思うが』
『母にもさんざん言われました』
『だが、相手に会わせてたら九十九人は相手にできない。お前はお前の魅力で相手を引きつけないと』
『九十九人の件はともかく。嫌われてしまってはどうしたものか』
『あいつらはお前となら地獄……海の底にもいくやつだ』
海の底、1周目で私が落ちた場所。そうだ、そこにダミアンもいた。
『ううっ』
だが、いつものように思い出そうとすると頭痛がする。彼の肌の匂いまで覚えいたはずなのに、大切な記憶が遠くへ行ってしまう。
ぐらりと体が傾きそうになったところを、父が優しく受け止めてくれた。
『無理して思い出さなくていい。大事なのはその事実があったことだ』
ふわりと父の匂いが鼻をかすめる。香水を使わない男らしい香り。深い森で深呼吸をしたように落ち着く匂いに混じって、海の香りがした。
『一緒に死んでくれる奴の愛は本物だ。お前はまず、あいつが付いていきたいと思えるようになればいいんじゃねえか』
『そ、そうですね……』
ごつごつとした掌で頭を撫でられると、心臓が跳ねる。
(お父さんは、運命の人ではないんですか……)
そんな馬鹿な考えが脳をよぎって、頭を振って雑念を追い払う。
今は父のいう通り、私の真摯な態度を見せてダミアンに謝罪をする機会をもらわなければ。
『まずは、今日という一日を本気で過ごします!』
『おう』
私は父と固い握手をして、今日の意気込みを誓い合った。
◇ ◇ ◇
『今日はまず、劇場での挨拶です。私は表向き女優としてポセイドンシアターに雇用されている身です。劇場の人間は軍が用意しなかったので! ダミアンに用意してもらいまして……大方の状況は認識済です』
『そこまでしてくれた奴をよく怒らせるよな、お前は』
『だから、きちんと仲直りしたいんです……』
ニューヨークの風に揺れる裾を抑えながら、私は重い木の扉を押し開けた。
内部は思った以上に静かで、天井の高いロビーには古びた絨毯の匂いが漂っている。前夜の公演の余韻なのか、それともこれから始まる騒がしさの前の静寂なのか──舞台はどこか息を潜めているようだった。
「……あれが、“東洋の主演女優”?」
目立たぬように囁かれた声が、耳に刺さる。
視線の先には、薄暗い舞台袖で待機していた何人もの俳優・技術スタッフたち。彼らの多くは白人で、中には褐色の肌のダンサーや黒人音楽家の姿もある。だがその中で、私の黒髪と洋装は浮いて見えるらしい。
「こんにちは! 海神織歌です! こちらは部下の海神勝!」
「”コンニチハ”」
それぞれ思うところはあるだろうが、まずは大きな声で挨拶。
演出家は笑みを浮かべてウェルカムしてくれたが、その後ろで微笑むメンバーの表情には温度差がある。
「英語、どのくらい通じるの?」
「ダミアンの愛人って話、ホントなのかな?」
「後ろの男は英語話せないんじゃない」
明らかに沈んだ空気に肝が冷える。歓迎されていないとは感じていたがここまでとは。
今後の展開を考えて焦る心に、ひときわ明るい声が響いた。
「あっ、オルカじゃ〜ん」
髪を巻いた派手な女の子が、きらきらのメイクと帽子姿で飛びついてくる。
C.A.D.だった。昨晩振りだというのに、まるで数年ぶりの再会のような雰囲気だ。
「女優だったんだねえ。だからそんな美人なんだ。あたしはダンサーなんだあ~、よろしくねえ」
彼女は身も心も清い人だった。
彼女も恋焦がれていたダミアンを横から掻っ攫った私だというのに、全身で歓迎の意を示してくれる。
反感の入り混じる中に、唯一の味方がいる。それだけで、心の強張りが少しほぐれた。
今日から、ここが私の戦場になる。武器は剣でも銃でもなく【歌】。
劇団は敵ばかり――だが、ここはダミアンの帰る場所にもしたいのだ。
私は彼らに向き直り、新たな戦場に足を向けた。
「よろしく」
放った言葉は挨拶ではなく宣戦布告。
空気がピリッと引き締まり、私は新たな世界に足を踏み入れたことを実感した。
***
「――さて、春の公演は今絶賛開催中だ。君たちには夏公演を務めてもらう」
「はい!」
朝の光がステンドグラス越しに差し込み、赤と青の光が長テーブルに落ちている。
舞台監督、振付師、作曲家、衣装係……それぞれの椅子に錚々たるスタッフが座る中、私はその中央に堂々と座っていた。
何故かというと、主演であることはすでに確定済だからだ。それ故に「コネかよ」と大量の舌打ちが聞こえてきたが、すべて無視した。この程度の反発は織り込み済。本気で役者に打ち込んでいるからこそ許せないという、プロフェッショナル根性だと思うことにしてやり過ごした。
「さて……肝心の“初公演”、演目を決めないとね」
演出家が、軽やかに言う。
「日米合同の琅玕隊の初舞台になるんだし、どうせなら一発かましてやりたいよね」
「アメリカ人が食いつく日本の演目となると、歌舞伎?」
「でもあれは男性だけでやるんでしょう?」
皆新たな公演に思いを巡らせている。だが日本というまだ馴染みのない国の演劇に対してかなり頭を悩ませているようだ。
「はい! 提案があります!」
ここだ! 私は背筋を正し、一枚の戯曲を取り出す。
実はやりたい演目は用意していたのだ。英語に翻訳した戯曲をテーブルに乗せると、皆の視線が集中した。
「それは?」
演出家が訝しむようにこちらを見る。私は胸を張って答えた。
「『海神別荘』、といいます」
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