第23話 『沈黙の書庫と、夜の足音』
港の騒動から一夜が明けても、王都はまだ息を潜めていた。仮面は外されたが、心に残った“跡”は誰も隠せない。夜の倉庫で起きた混乱の記憶が、人々の視線の奥に薄く張りついている。
シャーロットは城の書庫で、一人、黙々と資料を並べていた。演出家ヴァレンが残した紙片の意味を追うため、事件以前から王都に潜む“舞台装置”をすべて洗い直しているのだ。
机の上には、証言、移動記録、古い劇団の公演日程、商館の帳簿コピーが積み重なり、まるで“別の王都”を形作っているようだった。
ページをめくる指が止まる。
——三年前の行方不明者の記録。
そこに、初めて見る名前があった。
「レドモンド・フィス」。
職業は大道芸人。最後の目撃は、市壁近くの仮設舞台。
ただの行方不明……だが、報告書の端に“赤いマーカー”の跡が残っている。
これを記した役人が、特別な注意を払っていた証だ。
「どこかで……見たような」
シャーロットは眉を寄せた。昨日ヴァレンが、礼をしながら群衆に背を向けた時。
その肩の落とし方、腕の角度、姿勢の癖。
——レドモンドの古い舞台の写真の中の、彼と…似ている。
偶然にしては、気味が悪いほど重なる。
身振り、立ち方、観客を“吸い寄せる”ような目線。
「彼は“誰かの模倣”をしている?」
ささやくように呟いた瞬間、書庫の扉が軋んだ。
マーリエが顔を出し、息を少し弾ませている。
「シャーロット、さっき城門で……変なことが起きたの」
胸騒ぎを覚えた。
書庫の中の空気が急に冷たくなる。
マーリエは、小さな封筒のようなものを差し出した。
城門に置かれていたらしい。衛兵の誰も、持ち込んだ人物を見ていない。
封蝋はない。ただ折られているだけ。
だが、その折り方が——
まるで昨夜、ヴァレンが紙片を渡したときと同じ“癖”を持っている。
シャーロットは封を開けた。
中には、短い一文。
「観客はまだ揃っていない。
——君の“影”が、最後の役者だ」
息が詰まる。
影。
ヴァレンが使う言葉は、いつも複数の意味を孕む。
“過去”の影か。
“罪”の影か。
それとも——
“自分に似た者”を指しているのか。
マーリエが不安げに覗き込む。
「……また、挑発?」
「挑発だろうね。でも今回は……ううん、これは“呼びかけ”だよ」
シャーロットは封筒を胸の前でひっくり返した。
一片の灰が、ゆっくり落ちる。
まるで、何かが燃え尽きた後の“残り”のように。
「それともう一つ」マーリエが言った。「リースを、あなたの部屋に移してって陛下が」
「なぜ?」
「……リースの寝所の窓が、少しだけ開いていたの。鍵をかけていたはずなのに」
シャーロットの背を、静かな電流が走った。
それは恐怖というより、“確認された”感覚に近い。
昨夜の倉庫で、ヴァレンは彼女に視線を向けた。
あれはただの合図ではなく、
——“距離を測った”のだ。
シャーロットはすぐに書庫の荷物をまとめた。
「リースのところへ行く」
「でも……もう衛兵が見回ってるし、陛下も——」
「違う。これは、ただの不法侵入じゃない」
シャーロットは短く息を吸った。
「“影”って言葉をわざわざ使ったのは……彼が、もう一歩踏み込んできた証拠」
二人は小走りで廊下を進む。
石造りの城壁が夜より重く感じた。
窓から射す午前の光が、冷たく、薄い。
リースの部屋は静かだった。
扉を開けると、リースは机に向かって本を読んでいる。
「お姉ちゃん?」
リースが笑顔で振り返る。
その笑顔を見た瞬間、シャーロットは確信した。
——ヴァレンは、ここを通った。
窓は閉じられている。家具に乱れはない。
けれど、部屋に“空気の層の乱れ”があった。
空気の温度、匂い、風の流れ。
些細な違和感が、敏感な人間だけを刺す。
シャーロットはゆっくり膝をつき、リースと同じ目線で言った。
「リース、何か……変に思うこと、なかった?」
しばらく考えて、彼は首をかしげた。
「ううん。でも……机の上の紙が、一枚だけ向きが違ってた」
シャーロットは心臓が一拍強く跳ねるのを感じた。
そこへ、静かにドアが開いた。
アルフレッドが入ってきたのだ。
表情はいつもより硬い。
「シャーロット。……王都の北端で火薬の匂いがした。小規模だが、爆破の跡がある。人影はなし。痕跡もほとんどない。ただ——」
「ただ?」
彼はわずかに顎を引いた。
「“舞台の図面”が置かれていた」
部屋の空気が一瞬止まる。
ヴァレンはもう、次の舞台の“開幕ベル”を鳴らしている。
昨夜の混乱は序章にすぎず、
影は、もう足元に立っている。
アルフレッドはシャーロットを見つめて言った。
「覚悟はいいか?」
シャーロットはゆっくり頷く。
「ええ。
彼が幕を上げると言うなら——
私も、舞台に上がる準備をするだけ」
だが、その覚悟の裏側で、彼女の胸はひどく温かかった。
リースの無事が、そこに“在る”だけで強くなれる。
シャーロットは立ち上がり、窓の外の光を見た。
ヴァレン。
あなたの“影”が何を指そうとも。
踏み込んできたのなら、
私もそっちに踏み込む。
沈黙の書庫で見つけた名——“レドモンド”。
彼の姿が、眩暈のように脳裏で結びついていく。
真実は近い。
だがその近さは、刃物のように細く鋭い。
今度は、誰一人として仮面をつけさせない。
シャーロットは、そう深く心に刻んだ。
そしてその刻んだ音が、
遠くでまた“コツン”と鳴る……
まるで、誰かが次の幕を叩いているように。




