嘆息令嬢の同棲婚はまたも裏切られる
ハッピーエンドではありません。苦手なかたはお戻りください
不器用な嘆息令嬢として世間を騒がせているエミリア嬢は、突如突きつけられた婚約破棄にまた嘆息していた。
一番最初の婚約破棄は、3年前。
その時は私的に交流のあった他家の爵位持ち騎士であるフアンを紹介され、時折くる手紙に心を躍らせていたものだった。
遊学先では他家令息からの婚約打診もあったが、エミリアは彼との結婚を待ち侘び、日々淑女として必要な勉強を頑張っていたのだった。
ドレスは買うお金がないので、社交に顔を出すことはできず、あまり華のない顔にも自信がなかった。
それゆえにフアンとの約束だけが生きる原動力となっていた。
だが、エミリアの家はいわゆる没落貴族であり、エミリア自身が豪遊をできる環境にもない。
メイドも最低限しかおらず繕い物も自分でするような有様だったが、それでも日々フアンと一緒になれる日を夢見ていたものだった。
フアンの裏切りが発覚したのは三年後のことだった。
フアンは他家令嬢と五年前に結婚していたのだ。
貴族界でなぜかエミリアの所にだけその情報は意図的に隠され、知ることはなかった。
他国の貴族がそれを聞き、大変な醜聞だと知った上でフアンと他家令嬢は貴族界で注目を集めたが、実際に厳罰がくだることはなく、適齢期に行き遅れたエミリアだけが単純に婚約破棄されたかわいそうな令嬢、というレッテルが貼られて事件は幕を閉じる予定だった。
「エミリア嬢と婚約をしたい人がいる」
親戚であるフォンフリート家からそんな縁談の打診を受けた。
(こんな瑕疵のある、華のない私にどなたが…?)
にわかには信じられず、エミリアは相手を警戒心を抱いた。
紹介されたのは、他国の騎士様で今後フアンを上回る爵位を賜るという若者だった。
(私よりも年下で…? しかも美しい)
名前はハルベルトと言った。
聞けば、フォンフリート家が援助していたという他家の令息だという。
(こんな方と私が結婚?嘘でしょう)
何かの罠だと思い、エミリアは「一旦考えます」と言って領地の屋敷へ帰った。
ハルベルトは事前に見せられた釣り書きの通り、高い身長に金色の髪、青い目のすらりとした体躯の持ち主だった。
(あんな方と私が釣り合うわけないわ。きっとまた、フアンみたいに他の女性と陰で付き合っているに違いない…)
ハルベルトは社交界でも結婚したいという令嬢で溢れていた。
だからこそ、行き遅れたエミリアには釣り合わないと思っていたのだが。
「あなたはまだ私を疑っているようです。同じ屋敷で五ヶ月も暮らせば、きっと信じるでしょう」
ハルベルトから、いきなり同棲する話を持ちかけられた。すでに小さいながらも屋敷は抑えてあり、「本気」をそこで証明すると言っていきたのだ。
エミリアはすでにフアンの件で他の貰い手がいない。だからこそ、このような申し出を断ることもできない。
貴族社会で当然ながらこのような前例はない。
婚約もなしに、没落したとはいえ貴族令嬢がなし崩しに同棲など、聞いたことがない。
それでもハルベルトは「私の本気を証明する」と言ったのだ。
実は前年、エミリアの家業は大きく傾きエミリアの屋敷は競売にかけられることになっていた。
ちょうど行くあてすらない時の申し出を、エミリアは断ることができなかった。
「あの…同棲するのならばせめて婚約を先にしていただきたいのですが」
エミリアは不躾ながらハルベルトに伝えた。
しかし、ハルベルトは「本気を証明する」と言うだけで何も答えなかった。
それから、エミリアとハルベルトは同じ屋敷内で暮らすことになった。寝室は別だが、なぜかハルベルトは毎晩、寝巻きに着替えたエミリアを覗きに来た。
「それは、騎士様のすることではございませんわ!」
エミリアは恥ずかしさのあまりドアに厳重に鍵をかけていたが、それでも合鍵を使ったりして無理やりハルベルトは寝巻き姿のエミリアを覗きに来た。
エミリアが先に寝ていると、時折添い寝をしていたようで、朝起きれば枕に跡がついている。
(こんなことをされてもしまた婚約破棄されたら、私は本当に貰い手がなくなってしまう…)
エミリアは気恥ずかしさと共に、愛の萌芽を感じていた。これが、ハルベルトのいう「本気」なのかと時々目眩すら覚えた。
季節は花が咲こうとする春のことだった。
今までの浅い寝つきが良くなり、誰かが添い寝してくれる安心感を覚えていた。
だが一方で、いつまでもハルベルトは婚約すらしない。
一ヶ月、二ヶ月と過ぎていくハルベルトとの同棲は、エミリアに不安を覚えさせた。
毎日家事にも手がつかなくなり、ハルベルトのいない日中時々泣くことが多かった。
ハルベルトは朝早く王都に勤めに出なければならないため、早朝に決まって出ていく。
エミリアは眠っていていいと言われたので、特に見送ることはしなかったが、もしも会えたのなら手を振りたかった。
エミリアは鉄仮面令嬢といわれるほど、社交界では愛想のない令嬢と言われていた。
笑顔を作るのが下手だったが、この5ヶ月で不思議と笑顔が増えていた。
(これが、愛なのかしら?)
胸に覚えた不思議な感情。だが、朝起きると横には枕の跡だけが残っている。ぽっかりとした感情。
エミリアはその喜びをハルベルトに伝えたかったが、エミリア自身は口下手なのだ。
それを文字に書き起こすことは簡単だった。だが、それを書き記すよりも、今はハルベルトとの愛を静かに育みたいと思った。
***
エミリアには夢があった。
貧乏貴族の地位はいつか返上するつもりだったが、自分で身を立てるため作家になろうと思い、深夜まで物語を描き続けていたのだ。
だが、ある日その物語を書いていたノートが盗まれたり、ひどい時は水をかけられて使えなくされていたことが度々あった。
使用人はほとんどいない屋敷なので、誰かがやればすぐに犯人がわかるはずだった。しかし、誰も知らないという。
(そんな…どうして…)
もうすぐ出版社に持っていこうとしていた段階で、いつも誰かがそのノートを破り捨てていた。
そんな不安はあったが、春の日々は穏やかで、エミリアは毎日公園などを散歩する。
そのたび隣にいないハルベルトを思うが、春の花の匂いをかげば気分が満たされた。
だが、街角を歩いているとふと演劇のポスターが貼られていた。
【仏頂令嬢と騎士の禁断の恋! 同じ屋敷であなたに会います】
(これ、私のこと…?)
王都の口さがない人々は、すぐにこれを知って大々的にエミリアを模したと思われる演劇を作ったのである。
二人の関係はいかに「公的」な親密関係であるか、といった風に。その演劇は瞬く間に王国中で人気となる
演目にされていた。
エミリアは気恥ずかしさもあったが、それについて貴族社会の人間が何かとやかく言ってくることはなかった。
エミリアとハルベルトの関係は公的なものなのだ、と思いつつもあった。
***
ハルベルトとの同棲に日々安らぎを覚えていくとともに、だんだんと不安にもなった。
(でも私たちは同棲しているだけで、婚約すらしていない)
気づけば二人の同棲が始まって、既に5ヶ月という月日が流れていた。
ある日、ベッドでエミリアが目を覚ますと、隣に添い寝をしているハルベルトの様子がおかしい。
体格も、ハルベルトではないことに気がついた。
(ーーどういうこと?)
エミリアは暗がりの中でその男の顔をよく見ると、ハルベルトの従者であるヨハンだった。
(!?)
ヨハンは深酒をした後なのか寝入っている。
エミリアは動悸とめまいを覚えるとともに、使用人を呼んだが誰も来ない。
ドアを開けて助けを求めたが、使用人は誰一人として屋敷にいなかった。
(どうして誰も助けてくれないの!? これはどういうこと!?)
エミリアは同棲のことを自ら王都に名乗り出たことはない。
もしも、フアンの時と同様にこのまま婚約破棄をされたら、あまりの醜聞だからだ。
しかし、王都ではどこからか伝わったのかもう演劇や歌劇でその事実は出回っている。
(私は愛人にされてしまったの?)
エミリアは、作家になる夢を毎回断たれており、追い込まれた故にハルベルトの「本気」にすがるしかなかった。
家を追い出されたらいくあてもなくなってしまうし、物語を書き続けることもできない。
だからこそ、ハルベルトの本心は聞くことはできない。
寝室に、心を許した人以外がいることはとても不安だ。
エミリアはその不安に、日中めまいを覚えて外出すら覚束なくなった。
突然、泣き出すこともあった。
(ハルベルトは私に本気を見せてくれるのではなかったの?)
家に帰ってきたハルベルトにそのことを直接エミリアが問いただすことはなかった。
だが、エミリアの憂鬱に加えて、メイドたちが時々エミリアのほうをちらりと眺めては哀れみの目を向けているのを感じた。
(まさか…)
話は前年に遡る。
エミリアはハルベルトの婚約をと打診された時に、まだフアンとの失恋を引きずっていた。
その時にハルベルトがその場で婚約を結ばなかったのもあり、どこか不安に思う部分があった。
(それにハルベルト様のあの顔と釣書で、寄ってこない令嬢が、いないわけがない)
エミリアは一度目の婚約破棄をされた時に、そのトラウマから立ち直れずに自信が持てずにいた。
フォンフリート家の仲介で、ハルベルトの出仕する王都でのお勤めも打診されたのだが、どんなにノートを破り捨てられても作家になる夢を捨ててはいなかった。
だからハルベルトと一緒になり、夫人としてハルベルトを支えることができればその余暇に作家になることができると考えていた。
ハルベルトは王都に仕えているので、当然機密を扱うこともあるだろう。だがエミリアは自身が職業夫人になれば、そういった部分から完全に目につくこともなくなるのだから双方にとって良いことだろうと思ったのだ。
エミリアは明日にでも貴族返上を考えるほど、作家になることしか考えていなかった。
ただハルベルトの妻として、王都に忠誠を誓い、なるべく不必要なものを見ず夫を支えることを目標にして、淑女教育を学び直していただけだ。
(それなのに、ハルベルト様は…影武者まで使って、私を除け者にしたいのだろうか? 何が「本気」なのだろうか? 私はハルベルト様の意図がまったくわからない。
ただ、愛人として影武者を用いて手元に残しておきたいだけなのだろうか?)
エミリアは「妻」と呼ばれたかった。
フアンとの醜聞のせいで、自分は妻にすらなれない令嬢なのだと思って毎日泣いて過ごしたあの辛い日々を思うと、ハルベルトにいつか妻と呼ばれることが希望だった。
だがある時、作家になるためのノートを破り捨てていたのは、実際はフアンとハルベルトが共同して影を使わせて行っていたと、メイド達が噂をしていたのをたまたま聞いてしまった時、エミリアは目眩を起こしてとうとう倒れてしまった。
倒れたエミリアは寝室で眠っていた。
夜更に戻ってきたヨハンとハルベルトが、隣の寝室でひそひそ話している声がする。
「気付かれてしまったか」
「結婚をさせずにあと何年引き延ばせるかというところだったのに」
エミリアはうとうとと薬の影響でそれらの会話を聞いていた。
(私の夢は、あなたたちの賭け事のように潰されていたの…?)
エミリアは涙を流した。
(私の生み出した生命。私の生み出した物語。
あなたたちの賭け事のために、無為にただ殺されたの?)
だが、エミリアはもはや幽閉状態だ。
どこにも行くあてはない。
あれほど心に花の咲いたような安らぎを覚えたハルベルトとの5ヶ月が、ばらばらに壊れていく。
(ハルベルトの「本気」って? 私を「妻」と呼ぶのは嘘なの?)
ある日、エミリアはハルベルトにいつ結婚をするのかと尋ねた。
だが、ハルベルトはいつもその話題になると「王都へ行く」「外に用事がある」といい、外出してしまう。その横で、ヨハンが意味深な目配りをする。
「私はあなたを愛したいだけなのに…どうして…」
エミリアは恥を忍んで王都に手紙を送ることにした。だが、王家からこの同棲について諌める対応や、仲介してもらえることはなかった。
ハルベルトとの関係ににわかに影がさした時、エミリアはフォンフリート家に呼ばれた。
「エミリア! お前はハルベルトを通じ王家に叛逆しようとしたな! しかも王都に直接手紙を送るなど不敬行為をしおって」
エミリアには、それが何のことだかわからない。
「おじ様、それはどういう意味でしょうか?」
「金銭に困ったお前がハルベルトを通じ、王都の叛逆を企てたと聞いている! この婚約はなかったことにしてくれと相手の家から連絡があった」
エミリアには晴天の霹靂である。
(なぜ? 私はハルベルトの替え玉の件にも黙っているというのに…)
時々、屋敷のメイドたちが意味不明な噂話を捲し立てているのを耳にすることがあった。
その全てが本当だとは思わないが、「ハルベルトが浮気をしている」「王都に愛人がいる」という話にだけは敏感になっていた。
(私が妻ではないの? 寝室に替え玉を使うほどだもの、よほど私には…)
それでも、無力なエミリアにはハルベルトを愛する、ということしかできない。
お金もないので、気の利いた贈り物をすることも、ノートを破かれてしまい収入源のないエミリアにはできない。
ある時、とうとうメイドが「ハルベルト様は、王妃様のいい人なのよ」という噂まで飛び交った時は、さすがにそのメイドを呼びつけて怒った。
その際に、「私は、自分の夫がたとえ王妃と結ばれていたとしても、夫の愛のために王妃を刺し違えてでも諌める程度の気概はある」と言ったことが引き金だった。
その話が曲解して王家に伝わり、エミリアは反逆罪をかけられることとなったらしい。
だが、時系列を追うと、その前からエミリアの寝室には従者が呼ばれていた。
だからこの話の筋通りにはもともと無理がある。
エミリアは貴族牢の中でこう考えた。
ハルベルトは、フォンフリート家に組まれたこの結婚が元々嫌だったのだ。
もしくはエミリアとの婚約はそもそもなく、ハルベルトという婚約者も存在しないのだ。
ハルベルトには他の貴族が隠していただけで、婚約破棄をされたエミリアではなく、昔から交友のある婚約者の令嬢がいるのだという。
エミリアは純粋だった。
婚約破棄された以外には当然、誰とも恋愛したことすらなかった。
ハルベルトが捨て置かれた自分に、手を差し伸べたと思っていた。
だが実際は違っていた。
ハルベルトとフアンは繋がっていて、フアンの復讐のためにエミリアを虐げているのだ。
なぜ自分の純粋な気持ちがこのように踏みにじられて、ただ無為にされるのか。
フォンフリート家が用意してくれたせっかくの縁談に、エミリアがノーを言ったことはない。
素晴らしい騎士の隣に立つことへ気恥ずかしさがあるものの、エミリアはハルベルトと一緒の姓を名乗ることを夢見ていたのだ。
だが実際は、ハルベルト自身がずっとノーを突きつけていたのだった。
エミリアはただハルベルトとの純粋な婚姻を望み、ハルベルトのいう無理な同棲にも巻き込まれた。
ハルベルトと結婚した暁は、ただ静かに自分の書く物語を余暇に行い、静かに子を育てる役割を担うつもりだった。
当然ながら王家に出仕するハルベルトと、その王家にも忠誠を誓う。
ただそれだけのことが、いつまでも出されぬ婚姻届のために融解してしまったのだ。
あの日々がいつまでも続いてほしいと願った。
もし会話がなくても、わずかな時間一緒にいられれば幸せだった。
ハルベルトの本意はただの復讐なのかもしれない。
だが、エミリアは裏腹な言動とぎこちない笑顔の下でいつもハルベルトを想っていた。
「女王陛下であれ、自分の夫を奪う行為があれば辞さない」、と言ったのが家臣として不適格というのなら、エミリアはハルベルトの妻の座にはふさわしくないと判断されたのだろう。
だが冷静に考えれば、爵位もないに等しい、物書きだけが得意な令嬢がそんなことができるはずもないのだが。
エミリアは貴族牢に収監され、毎日あの春の日々を思い出していた。
もしもあのまま春の日が続いていれば、独り身の母になりながらも、作家としてハルベルトとの子を宿し、育てることができたかもしれない、と思いながら。
そうしてあの春の日を綴ったノートを書き上げたエミリアは、一つため息をついた。