07:緊張の瞬間
「いや、何でもない。身支度は終わったようだな。行こう」
「はい」
歩き出したルカ様の背中を追って足を踏み出す。
重いドレスと慣れないヒールのせいで私の歩みは遅いけれど、何も言わずともルカ様は私の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれている。
『柘榴の宮』を出て回廊を進み、やがて王が住まう区画に入ると、多くの女官や騎士とすれ違った。
ルカ様とすれ違う人々は全員、礼節を持って敬礼している。
やはりルカ様はこの国の王子なのだ。
なんで私、王子様と一緒に王宮を歩いているんだろう。
つくづく、人生って何があるかわからない。
ドレスを品よく摘まみ、金の手すりがついた大きな階段を上がっていく。
階段の半分まで到達したところで、摘まみ上げる高さが足りなかったらしく、靴がドレスの裾を踏んだ。
くん、とスカートが引っ張られ、身体のバランスが崩れる。
「!!」
落ちる!!
衝撃を覚悟したけれど、ルカ様が素早く手を伸ばして私の腰を支えてくれたおかげで宙に浮き、行き場を失いかけていた足は無事階段へと戻った。
両足で階段を踏みしめ、そこでようやく息を吐く。
「大丈夫か?」
ルカ様の手が腰から離れた。
「はい、ありがとうございます……」
ドレスの下でまだ心臓が跳ねている。
ルカ様がいなかったら私は無様に転げ落ち、王宮の笑い物になっていた。
「すみません。裾の長いドレスを着て階段を上ったことなどなくて……」
ああ、恥ずかしくて目を合わせられない。
いまルカ様はどんな顔をしているんだろう。
呆れられていそうで怖い。
「気にすることはない。もう少しゆっくり、慎重に進もう。それでも落ちそうになったら俺が支えるから大丈夫だ」
嘲るでもなく、ルカ様は至極真面目な調子でそう言った。
「え………」
恐る恐る顔を上げる。
「慣れないドレスと靴で大変だろうが、転ぶことを恐れているならそれは絶対にありえない。俺がいるからな」
ルカ様は微笑んだ。
優しい微笑みに胸がギュッとなり、ふと視線に気づいて階段下を見る。
階段下にいた女官や警備中の騎士は心配そうに私を見上げていた。
誰一人私の失態を笑ってなんかいない。
そうか、ここはエメルナとは違うんだ。
「……ありがとうございます。頼りにしています」
微笑み返して、私は再びルカ様と一緒に階段を上った。
焦らず、ゆっくり。一歩一歩。慎重に。
無事階段を上り切って廊下を歩き、とうとう私は両開きの重厚な扉の前に辿り着いた。
扉の両脇には金属製の甲冑に身を包み、槍を持った兵士が立っている。
この扉の向こうにアンベリスの王がいると思うと、握った手のひらにじっとりと汗が滲む。
「緊張しているか?」
ルカ様がこちらを見た。
「……はい」
「俺もだ。陛下にお会いするときはいつも緊張する」
意外だ。ルカ様も緊張するのか。
彼にとっては父親だけど、相手が国王ともなればやはり普通の親子のようにはいかないのだろう。
無責任な励ましではなく、正直な胸の内を打ち明けられたことで、不思議と足の震えが止まった。
「行けるか?」
「――はい」
大丈夫。必要な話し合いは昨日のうちに済ませた。
だから大丈夫。ルカ様がいるならきっとうまくいく――いいえ、たとえどんな結果になったって後悔しない。
怯えも迷いも捨て去り、背中をしゃんと伸ばす。
「良い表情だ。行くぞ」
ルカ様が扉を守る兵士たちに向かって小さく頷くと、兵士たちは左右対称の動きで扉を押し開けた。