亜井葵と
亜井葵と
※
四月八日、金曜日。入学式の月曜日から実に波乱万丈な四日間を経て、こうして無事に金曜日を迎えることができていた。奇跡のよう。今はただ、今日一日を穏やかに過ごして、平穏な土日を迎えたい心境である。
「…………」
亜井葵。高校一年生。深く白い霧に覆われた星城高等学校の寮生活に身を置いている。今は一年一組の教室中央の席で、まったりとした気持ちで頬杖をついていた。全身にはとても心地よい疲れが残っている。
「…………」
昨日は結構活躍した感触があるのだが、しかし、その記憶はまるで霞でもかかったかのようなうろ覚え状態。ただし、自身に残っているその感触が確かであることは、今朝の食堂でKポイントの残数を確認したときに確信に変わった。なんとKポイントが十万ポイントも追加されていたのである。学校からの評価に、思わずにんまりしてしまった。
この調子で卒業まで突き進んでいきたい心境であるが、まだたったの四日間、油断禁物である。
「…………」
教室には机が五つあり、今日はどの席の主もちゃんと出席していた。全員集合! いいことである。
そんななか、今日が初対面である転校生二人のカノンともぐは、なんとも姦しく騒いでいた。
『もぐミーもぐミー、とってもとってもかわいいねー』
『カノぐらこそ、とっても大人っぽくて羨ましいです』
『もぐミーもぐミー、カーミーたちと一緒にソフト部に入ろうよ。もぐミーなら大活躍間違いなしだからね』
『それはどういうものなんでしょうか? あんまり部活動というものに疎いものですから、もしよかったら教えてほしいです』
『ソフトはねソフトはね、とにかくおもしろいんだよ。球技なんだけど、そんな細かいルールなんてどうでもいいから、もぐミーはかわいらしさでマスコットとしてチームを鼓舞してくれればいいからねー』
『ご期待の『マスコット』というものがちゃんと務まるかは分かりませんが、でも、全力で頑張りたいと思います。あ、でも、あっちの希望としては園芸部として頑張りたいのですが、その場合は兼部になってしまいますが、それでも構わないものなのでしょうか?』
『いいよいいよ。かわいいからなんでも許す』
『ちょ、ちょっと苦しいですぅ』
ブレザーと作業着コンビ。身長差が四十センチメートルある二人が抱きついていると、カノンがもぐを捕獲しているように見えなくもないが……楽しそうなのでそれもそれでいいのだろう。
そんな賑やかな二人に対して、空星はいつものように硯に墨を擦っているし、ひかりは姿勢よく席について前の席の空星のポンチョな背中をぼぉーっと見つめて始業チャイムを待っている様子。
クラスメート五人で迎える初めての朝である。この五人が全校生徒。
八時半。木造校舎に始業のチャイムが鳴り響く。
「はい、おはよう諸君!」
響くチャイムの余韻のなか、扉から入ってきたのは、今日も変わらず剣山のように髪の毛を尖らせた竜宮先生であった。五つすべての席が埋まっていることに口角を上げ、満足そうに頷いている。
と思ったら、少し吐息。見るからに肩を落としていく。
「……じゃあ、転校生を紹介する」
なんていつもの台詞がさも当然のようにその口から飛び出していた。ただ、その口調はちょっと重いもの。
葵は『えっ、またなの?』なんて目を丸くしながらも廊下に視線を送ったのだが……廊下からは誰も入ってこなかった。というより、人の気配すらない。
首を傾けながら視線を前に戻してみると……その耳には椅子を引く音と、その目には視界の端で動く人物を捉えていた。
立ち上がったのは、葵の右斜め前の席の生徒、ポンチョ姿の銀髪娘、宇野空星である。教卓の隣まで移動して、ゆっくりとこちらを振り返った。
「みんな、今日までお世話になったなも」
なんて驚きの内容をほとんど変わらない静かな表情で口にして、小さくお辞儀。ぺこりっ。
「故郷に帰るから、今日でお別れなも」
「ということだから、お前たち、今日は予定を変更して今から宇野の送別会をやろうと思う。特別に我から一万ポイントを進呈してやるから、今から売店にいって好きなものを買ってくるがいい。そして今度校長に会ったら『竜宮先生はいつも親切でやさしくて心の広いよき憧れの先生です』と遠慮なく目を輝かせて告げるがいいぞ。じゃあ、ほら、さっさといってこい。でもって、亜井! お前だけは残れ!」
竜宮先生の太っ腹なのかどうかも分からない指示に従って、葵以外は廊下に出て一階の売店に向かっていった。
『空ちゃんが転校だなんて、急にそんなことになって、びっくりだよね』
『もっともっとそらミーと一緒にいたかったのになー。寂しいなー』
『そらぐらにはお世話になりっぱなしで、これから少しでもその恩を返そうと思っていたのですが、残念です……』
女子三人は、黙ったままの空星を囲むようにして、階段の方に消えていった。
女子四人がいなくなった一年一組の教室。正面から向き合う二人。教員と生徒という立場。
「おい、亜井! 回りくどいことは言わん、単刀直入に言うぞ」
「あ、はい……」
わけも分からず教室に残ることとなった葵は、竜宮先生とマンツーマン。いい予感はしない。
「生徒会長の責務として、宇野の転校をなんとしても阻止しろ」
「はあぁ!?」
素っ頓狂に葵の声が裏返る。送り出すべき生徒を止めるだなんて、そんなこと聞いたことがない。そもそもそんなことをする理由もないのだから。
「あの、あの入試の日もそうですけど、故郷に帰ることは本人が望んだことですから、転校させてあげればいいじゃないですか?」
「この愚図野郎がぁ!」
怒号とともに竜宮先生のこめかみに太い青筋が走る。
「せっかく新設した学校で、入学式から生徒が徐々に増えてきていい傾向にあったのに、ここで減ってどうすんだぁ!? ああぁん!?」
「ま、まあ、そりゃ学校側からすればそうなり……なります?」
「そうだ! そうなるんだ! 困る! 大変困る! お前も生徒会長として、しっかり学校のことを考えろ! でもって、役目を果たせ! 役割を全うしろ! まったく、少しは自分の立場を弁えて発言や行動しろってんだぁ!」
「…………」
「とにかく宇野の転校を阻止しろよ! いいな! 宇野は我が校の大事な生徒だ、よそに取られてたまるかってんだぁ!」
「…………」
「おい、返事は? 分かったのか、亜井! 返事?」
「……分かったような、分からないような」
「分かれ!」
「……分かりました」
「よし、それでいい! いいか、今後も我の言うことに一切逆らうんじゃないぞ! 無事この学校を卒業したいのであればなぁ!」
そう言い残し、竜宮先生は教室を後にした。自分が提案した送別会には興味がないみたいに。
教室で行われた空星の送別会は、机からはみ出さんばかりのお菓子パーティーと化していた。ひかりたちが一万ポイント分のお菓子を売店で買ってきて、それをひたすら食べて楽しくお喋りするという賑やかなお菓子パーティー。
そこには一切の寂しさなんて感じられなかったが、しかし、葵だけはうまく話しに乗ることができず、憂鬱な気持ちで過ごすこととなった。
こんな楽しそうな雰囲気に、どうやって空星に切り出すか? そのタイミングを計っていたら、いつの間には昼になっていたのである。楽しい時間はあっという間というやつかもしれないが、葵にとっては笑顔こそ浮かべているもののそれは随分とぎこちなく、ちっとも楽しめない会なのだった。
※
昼休み。
大量のお菓子を食べたにもにもかかわらず食堂でそぼろの三色丼を食べた一年一組一向は、午後の授業まで一旦分かれて、それぞれの場所でそれぞれの過ごし方をすることとなる。
ひかりは校長先生に用があるといって一階にある校長室に向かった。
カノンともぐはグラウンド脇にある花壇の様子を見てから一緒にキャッチボールをするということで外に出ていった。
そして一年一組の教室には、葵と空星の二人がいる。
「あのさ、今朝はいきなりのことで聞いてなかったんだけどさ、結局のところ、お前が探してたクロリーはどうなったんだよ? クロリーがないと帰れないんじゃなかったのか?」
「昨日、クロリー、見つけたなも」
空星の話によると、あの洞窟のような場所でもぐがジャンプしていた発散槽の下に溜まっていた黒い粉をクロポットに吸い込んだところ、強いクロリーエネルギーを得ることができたという。あれは元々膨大なエネルギーを有するサンゴみたいなマグエダのカスに過ぎないのだろうが、ただ赤いサンゴ状からカスになると黒くなるので、その分クロリー成分が強くなったのかもしれない。
もちろんそんな現象に理屈、葵にはちんぷんかんぷんだが。
「そうか、あれがクロリーだったのか。なるほど」
「うちが思ってるクロリーとは、ちょっと違うなも。でも、エネルギーとしてなら、あれで充分なも」
空星は今、いつものように硯で墨を擦っている。この学校最後の日でもマイペースであり、よほど書道が気に入ったのだろう。
後ろの壁には、『念願成就』という字が増えていた。
「ところでさ、空星は本当に帰っちまうのかよ? まだ一週間ぐらいしか一緒にいなくて、いきなり別れることになるなんて、ちょっと寂しいじゃんか」
「そんなこと、ないなも」
「あ、ないんだ……でも、まだまだゆっくりしていってもいいんじゃない? お前がいるとみんなも喜ぶだろうから」
「そんなこと、ないなも」
「あ、ないんだ……いや、そんなことないこともないだろ。少なくとも、もぐはお前がいるからこうして学校に通えるんだろうから」
次々に出てくるマグエダの処理に膨大な時間を要するのに対し、空星がクロポットで吸い込んであっという間に処理できたからこそ、もぐは今日登校することができている。あれがなければ今日も欠席だっただろう。
「そうだよ。お前がいなくなったら、もぐは学校にこれなくなっちまうんだから。そんなのよくないだろ。そうだ、よくない、そんなの、かわいそうじゃんか。もぐなんてあんなに小さい体で、は関係ないけど、植物のことを研究しようと張り切ってるのにさ」
「…………」
「それに、三日前のカノンのことだって、実は空星が助けてくれたんだろ。あのわけの分からん研究所の屋上でどうしようもできなかったときに、お前がクロリー使ってさ。って、どんな風に助けてくれたのか具体的には知らないけど……そう、お前が助けてくれたんだ」
「…………」
「みんなのためにももっと一緒にいてほしいし、もちろんおれだってお前と一緒にいたい。だからさ、もうちょっとだけ一緒に学校生活送ってみようぜ。なあ? 急いで帰ることなんてないんだろ?」
「……葵は、字、書けるなも?」
「……ちっとも聞いてくれてないのね、こっちの話は。この娘、相変わらずマイペースが極まってるぜ」
吐息。これぐらいでは挫けない。もう一度意識的に息を吐く。
「難しいのは調べなきゃいけないけど、知ってる字なら書けるな。ただ、うまいかどうかは自信がないし、はっきり言ってうまくないからお手本にはならないぞ。ひかりがいればよかったのにな。あっ、でも、ここにひかりがいたらお前のことを引き留めづらかったか」
「今日は、葵に、書いてほしいなも」
今までずっと硯を見つめていた空星だったが、ここでようやく葵に視線を向け、筆を差し出してくる。
「お願い、なも」
「まあ、それぐらいなら」
葵は筆を受け取り、どの字を書こうか視線を斜め上に向けながら暫く思案した末……空星の席にある習字用の紙に丸を三つぐらい書いて、そのまま何本か線を足してカエルのイラストを描いてみた。
「……よし、かわいい」
「葵、これは、なんて読むなも?」
「ああ、これは字じゃなくて、絵だよ。カエルの絵。ゲコゲーコ」
「なも!?」
少しだけ空星の上半身がびくんっと揺れた。直後に両の瞼を高速でぱちぱちぱちぱちっさせている。
「字だけじゃなくて、絵も描けるなも? 葵は天才なも」
「いやいや、なことはないけど、でも、もしかしたら天才なのかもしれないな。ただ、なことはないけど」
葵はうっすらとした記憶の奥に、滝や鯉を見つける。
「そういや、世の中にゃ『水墨画』ってのもあるからな、そういうジャンルもあるってことだな。お前さ、結構呑み込み早いから、やってみればすぐ上手になるかもしれないな。竹林が風に揺れてるとか、巨大な竜が空を飛んでるとか」
「葵、是非とも教えてほしいなも」
「いいぜ。なら、教えてやるから、転校は取り止めってことでいいよな?」
「なも……?」
葵の勢いに任せたどさくさ紛れの提案に、空星は考え込むように黙り込み……十秒後に口を開く。
「だったら、葵もついてくるなも?」
「ついてって……えっ、それって、もしかして、なもなも村に一緒にいけってこと?」
葵にその発想はなかった。だとすると、一緒にいって家族を説得すれば、もしかしたらまた一緒にいられるという一縷の望みが生まれるかもしれない。しかも、今日は都合がいいことに金曜日で、明日からの土日を利用すればどうにかなるに違いない。あくまで希望的観測ではあるが、でも、希望はできた。
であれば、善は急げである。まずは外出許可を取る必要があるだろう。そうして外に出れば、うまくすれば家に帰れるかもしれない。久し振りのしゃばの空気を味わうことができる! ただし、そうなると左手首につけている赤いKリングが気になるところ。葵の一方的な被害妄想かもしれないが、絶対これで追跡されるに違いない。けれど、やっぱり自由の身は格別なもの違いない。
よし!
「じゃあ、お邪魔じゃなかったら、なもなも村に一緒にいってみようかな。名物なもなもの実で作ったシフォンケーキ、一度は食べてみたかったんだー。なもなもティーと一緒にするといいんだろ? 優雅な午後が過ごせそうだ」
「了解なも」
空星はどこか満足そうにこくりっと小さく頷く。
「じゃあ、出発なも」
そう言うが早いか、空星はポンチョの内側から真っ白なラグビーサイズぐらいのクロポットを取り出した。
刹那、視界は一変する。
※
闇。
漆黒の闇。
これは……。
今の今まで一年一組の教室にいた。その意識ははっきりあって、まだ昼休みだったから窓からの光で明るかったのに、今はどこを見ても光を見出せずに黒色一色。闇ばかり。僅かな光も存在しない暗黒空間に身を置いていたのである。
刹那、ありとあらゆるすべてのものを認めようとしない深き闇は、その圧倒的な力によって、葵という存在をあっという間に呑み込んでいってしまう。
がががががぁ!?
そこにいる葵の意識や感覚に異変が起きる。どこにも力が入らない。手に力を入れようとしても凍りついているみたいに動かすことができず、足で踏ん張ろうとしては膝すら曲げることもできないし、伸ばすこともできない……今は、見えない大量の水に浸かるみたいに浮遊感を得ていた。
これって!?
突如として自身すらも保つことができない奇妙な状況に置かれたのは間違いないが、しかし、葵はこれを一度経験している。あの三月最終日の入試の日に同じことを。その経験こそ、心の僅かな隙間にゆとりを持たせるもの。
…………。
次の瞬間、全身が四方八方から激しく潰されんばかりに圧迫されるのだが、それに耐えながらも、どこか懐かしい感覚に陥ることとなる。
また……。
視界にあるのは、世界すべてを包み込む漆黒の闇……その闇に、光が見えた。ちかっと瞬いた光は、刹那には、一気にその数を増やしていく。まるできれいな水面に大量の雨粒が降ってきて波紋を増やすみたいに、光の数は五、十、二十、五十、百、二百、五百、千……絶対的な存在としてすべてを塞ぎ込む闇を突き破るように、三百六十度どこもかしこも光の瞬きが増殖していった。
やっぱり……。
視界に青い巨大な球体を見つける。十五歳の葵ではとても理解が追いつかないほど、とても大きな球体。それが今は頭上に浮かんでいた。青く青く、それ色はとても深くて輝いているようで、そしてとても美しいもの。そんな青い球体には、垂れる牛乳のように白色が無秩序に流れているのだった。
あの日と同じだ……。
身を置く世界に圧倒されるばかりで、思考がうまく働いてはくれない。脳が破裂せんばかりの異常状態なのだが、しかし、それでも一度した経験が、これに恐怖を与えることはなかった。
…………。
世界は光と闇に覆われている。
そこに存在する葵。
あまりにもちっぽけな存在。
音。音した。それは声。誰かの声。
「やはり、葵には、難しかったなも」
空星の声。
「残念、なも。葵とは、ここで、お別れなも」
その声は、感情のかけらも感じないほど平板なもの。
「みんなにもよろしく伝えてほしいなも」
そうして声は消える。
光が消える。
巨大な青い球体が消える。
闇が消える。
空間が、消滅する。
そこに、葵という存在を関与させることなく、すべてが消えていく。
葵は、ただ、そこに、いて、そこに、いた、だけ。
※
「…………」
気がつくと、椅子に座っていた。教室の自分の席で、周囲は薄暗い。
「…………」
頭上からは光……天井から鎖でぶら下げられた照明に照らされていた。ちゃんと目が見えているからこそ、机にうっすらと自分の影ができていることを認識することができたのである。
戻ってきた。
戻ってこれた。
いや、戻されてしまった。
「あ、れ……」
その自覚はなかったが、気がつくと双方の目から涙が零れていた。確か前回も同じように泣いていた気がする。葵には泣く理由がこれっぽっちも思いつかないのに……手の甲で拭った。乱暴に、二回、三回と拭った。
「…………」
顔を上げる。前を見る。古く使い込まれた黒板がある。黒板の上にある壁には丸時計が設置されている。針が示す時刻は、午後七時。
「…………」
ぽつりっ、教室に一人だけ。一緒だったはずの空星の姿はどこにもない。ただただ静まり返る教室。空気は凍りついたように重いもの。
意識して息を吐いてみる。耳を澄ましてみる。唇を噛みしめる。気持ちが静寂に溶け込んでいく。
「…………」
「亜井君、こんばんは」
「っ……」
声がした。教室後方からの声。振り返ってみるとそこには、一人の老婆が立っていた。ただ、葵に驚きはない。これも経験によるものだろう。
「お疲れさまでした」
老婆は黒色のスーツに身を包み、腰まである長髪は真っ白できれいなもの。背筋がきれいで、女性としては高身長であり、葵には見覚えのある老婆。
森羅育美。この星城高等学校の校長先生である。こうして姿を見るのは入試の日以来のこと。
「あら大変、もうこんな時間になってしまいましたね」
校長は教室前方に向かって歩を進めていく。葵の横を通り過ぎ、前方にある教卓の前に立つ。
「宇野さんのことは宇野さんの自由です。本人の意思を尊重すべきであって、断じてあなたに責任なんてないんですよ」
「…………」
「はてさて、今日も随分と冴えない表情をしているみたいですね」
「空星がいなくなると、もぐが学校に通えなくなるだろうし、カノンがピンチになったときだってこの前みたいには助けてあげられなくなりますから。だから、やっぱり引き留めなくちゃいけなかった……」
葵の焦点の合わない視線は徐々に下がっていく。
「空星が故郷に帰りたがっていたんだから、帰れたことは間違いなくいいことなんでしょうけど……」
「今も心残りがありますか?」
「そりゃ……」
一拍置いてから、つづける。
「せめて笑顔で送り出してあげたかったですね……」
「そうですね」
校長先生は頬を緩めたやさしい笑みを浮かべていた。
「今日は特別に、この時間もまだ食堂を開けてもらっています。早くいって夕食を済ませてくるといいですよ」
「…………」
「生命にとって食べることはエネルギーを摂取することですから、生きていくには欠かすことはできません。亜井君は男の子ですし、なんといっても育ち盛りですから、遠慮なさらずに、いっぱい食べてくださいね」
「…………」
「命がある以上、生きることはとても素晴らしいことです。ですが、生きていられることは断じて当たり前のことではありません」
「…………」
「今の平和は、この星の命は、砂上の城のように、実に危ういバランスで保たれているものです」
校長先生は口角を上げる。
「この星は、いつ地球外生命体の強襲を受けて溢れる命が全滅してしまうかも分かりません。いつ地球内部の膨大なエネルギーが爆発して命が絶えるかもしれません。いつ人類が生み出したウイルスが世界に充満してあらゆる命が死に絶えてしまうかもしれません」
校長先生の腰まである見事な白髪が僅かに揺れる。
「そんな窮地に立たされたとしても、決して諦めることなく命の輝きを持続させなければならないのです。それこそが命ある者の使命です。ただ、そうなる前に、そういった危険を未然に防がなければなりませんね」
「…………」
「そのために、わたくしはこの星城高等学校を創設しました。この星の命がこの星の命を自らの手でつなげていけるように」
「…………」
「これからも亜井君には活躍を期待していますよ」
「……どうしておれなんですか?」
ただの疑問。何の力も持たない十五歳の少年に、なぜ?
「おれにできることなんて……」
「亜井君はみんなの先頭に立つ人間です。そういう存在である以上、不足なんてこれっぽっちもありませんよ。これまでに出逢ったことはありますか、亜井君よりも前に立つ人物を?」
「…………」
「亜井葵君」
校長先生は、やはり微笑みを絶やすことはない。
「生きているのですから、これからも大変なことがたくさん待っていることでしょう。それでも亜井君ならつらい現実から目を逸らすことなく実直に立ち向かっていってくれると信じています」
にっこり。
「すべては因果律の螺旋を描くように」
※
四月十一日、月曜日。新しい週のはじまりの日。
「…………」
もうすぐ八時半になる。そうすれば始業のチャイムが鳴って、担任の竜宮先生が教室前の扉を潜ってやって来る。
そんな時間、一年一組に所属する亜井葵は、いつもの学らん姿で教室中央の席に座っている。深く頬杖をしてぼぉーっとどこでもない虚空を見つめていた。
「…………」
先週の金曜日、この教室には机が五つあった。それが今は一つ減って四つになっている。しかし、四つある机の主は葵を入れて二人しかいなかった。
葵の席の右隣りには、今日も髪を後ろで三本に縛っている神前ひかりがいる。いつものように紺色のブレザーにチェックのスカート姿で、姿勢正しく始業のチャイムを待っている。
に対して、葵の前の席と左隣りの席は空席であった。もしかしたら、また今日も意味不明な研究所に白衣を着て潜入しているかもしれないし、あの洞窟のような場所で何時間も小刻みなジャンプを繰り返しているのかもしれない。
「…………」
教室には葵とひかり。それはまるで三月三十一日の入試の日みたいである。一度は二人から五人に増えたはずなのに。
たった今、時計の針は八時三十分を示したばかり。始業時間である。木造校舎にチャイムが響き渡り、今日も授業がはじまる時刻。
「諸君、おはよう」
一年一組担任の竜宮先生が入ってきた。今日も今日とて変わることのない髪の毛を剣山のように立て、黒いワイシャツにスラックス姿。廊下から入ってきた勢いそのままに教卓の前に立つ。
そして、
「じゃあ、転校生を紹介する」
いつもの台詞を言い放った。
「っ……!?」
廊下から入ってきた生徒の姿に……葵は目を白黒させて『ぱわあぁ!?』という理解不能な生まれて初めて口から出す、もはや言語ですらない奇声を上げていた。
そんな葵の驚いた様子に構うことなく、転校生は教卓横まで移動して、小さく頭を下げる。
「今日からお世話になる、宇野空星なも。よろしくなも」
星城高等学校一年一組という摩訶不思議な教室に、きれいな銀髪に全身を包み込む真っ白なポンチョ娘が降臨した。
「もぐのために、予備のクロポットを注文してきたなも」
竜宮先生は転校生の机を用意するために教室を出ていった後、葵とひかりの質問攻めに銀髪ポンチョ少女は、淀みなくさも当たり前のことを当たり前のことを口にしていく。
「本当は、もっと時間がかかると、思ったなも。でも、帰る途中で、注文が、できちゃったなも。だから、帰ることなく、途中で引き返してきたなも」
「そ、そうなんだ、空星、あんなに帰りたがってたのに」
「そりゃ、今も、帰りたいなも」
間を置かず、空星は言葉を紡ぐ。
「でも、友達を見捨てて帰るわけには、いかないなも」
その発言に、ひかりが勢いよく抱きついて『おお、空ちゃんって、なんていい子なんだろうねー』と涙を流していた。
葵は、抱きつかれて少し困惑している空星の頭に右手を置く。
「よし、じゃあ、これからみんなでカノンともぐを迎えにいくとするか」
「その前に、葵には、水墨画を教えてほしいなも」
「……お前、それが目当てで戻ってきたんじゃないだろうな。けど、それは全員集合した後でもいいだろ。じゃあ、いくぞ!」
そうして三人で教室を出ていこうとしたのだが……しかし、教室前の扉から出ることができなかった。
なぜなら、
「こら、お前ら、勝手に出ていこうとするな。早く席に着け」
机と椅子を持って戻ってきた竜宮先生に進路を阻まれたからである。
勢いを削がれた三人は、仕方なく五つになった机のそれぞれの席に座った。
そんな三人の様子を満足そうに眺めていた竜宮先生は、さも当然のごとく、次の台詞を口にする。
「では、転校生を紹介する」
すると、廊下から一人の生徒が入ってきた。
その姿に、葵は思わず目を見開き、生まれてこの方一度として発したことのない文章を口から漏らしてしまう。
「……おいおい、今度は頭に猫耳ついてんじゃねーか」
一年一組の奇妙な生徒がまた一人増えたのだった。
その星のどこだか誰にも特定不可能な学校には、『よりそい科』という奇妙な学科が存在する。
そこには神もいれば天使もいて、地球外生命体もいればスパイもいて、さらには地底人に獣人と、多彩な生命が星のバランスを保つために、今日もその命を精一杯輝かせているのである。
そこにいる、至って平凡でみんなの先頭に立つ少年の頑張りとともに。