深井戸もぐ
深井戸もぐ
※
四月六日、水曜日。
入学式から二日が過ぎ、朝の始業時間を待つばかりの一年一組の教室。相変わらず窓から見える土のグラウンド奥に広がる敷地外の光景は真っ白なもので、深い霧に覆われているみたいだった。いったいいつになったら晴れるのだろうか?
「…………」
葵は教室中央の自席に座って頬杖をし、どこでもない虚空を目にしていた。することがないので仕方がない。それに、体に疲れが残っているのか、その瞼はなんだかとても重たいものだった。
欠伸が出る。本当に疲れているときに欠伸をすると、なんだかどっと疲れてしまう。不思議である。
昨日、葵が目覚めるとなぜだかこの教室にいた。時刻は午後八時過ぎ。照明も消されたちょっと不気味な空間から逃げ出すように教室を出たのだが、しかし、まるで誰かを背負っているみたいになぜだか体が重たい。そんな疲弊した体を引きずるようにして一階の食堂に向かってみたものの、どうも時間外らしく施錠されていたせいで入ることができなかった。夕食を逃したのである。両肩を落とし、仕方なく視線を落としながら静かな寮の部屋に戻って、ベッドに直行して力尽きるように倒れ込むと……あっという間にこの朝を迎えていた。
そして今朝、まるで予想だにしない、それはもう目を見張る嬉しい驚きが待っていたのである。食堂で朝食を注文し、左手首にあるKリングで清算をしようとしたところ、なんと! 残ポイントが昨日から十万ポイントも増えていたのである。ラッキーラッキー、超ラッキー。
Kポイントは学校のイベントや成績によって増減するらしいので、きっと昨日の行いがこの結果につながったに違いない。ただ、葵本人にはポイントが増えるような活躍をした実感はないのだが……ともあれ、こうした学校から評価されたこと、つい頬が緩んでしまうぐらい嬉しいことだった。
教室。今はただ始業のチャイムを待つのみ。
「…………」
教室には机が四つあり、今は正方形のサイコロの目のように設置されている。左後方が葵で、右隣りがひかり。いつものように後ろで三本に縛った髪を今は順番に引っ張って時間を潰している。ひかりの前は空星で、今日もポンチョ姿で一心不乱に硯に墨を擦っていた。そして、葵の前の席は主が不在となっている。さっきひかりから聞いた話によると、カノンは病院にいっているらしく休みらしい。ひかりは担任でもなければ生徒会長でもないのに、なぜだかこの学校に関することはだいたいなんでも知っていた。頼もしい限りである。
「…………」
八時半。始業のチャイムが鳴る。少し憂鬱な気分。今日はいったいどんな授業が待っているのだろうか?
入学式から数えて三日目だと、これまでの中学校や小学校では授業らしい授業はなく、委員会やクラスの係といった役割分担を決めるところなのだろうが……なんたってこのクラスはわけの分からない『よりそい科』である。これまでの経験や予想は当てにならないだろう。
そうこうしていると、教室前方の扉が開かれる。
「じゃあ、転校生を紹介する」
今日も今日とて剣山のように髪の毛を尖らせた竜宮先生が教卓の前に立つと同時に発した第一声がそれだった。
そんな竜宮先生の隣に立っているのは、胸や股の横などにポケットがたくさんついている茶色い作業着を着た女の子である。
「あっちは、深井戸もぐといいます。みんなと仲良くできるように頑張りますので、よろしくお願いします」
ぺこりっとかわいらしく辞儀した女の子は、なんといっても小柄だった。身長百四十センチメートルあるかどうか。まるで小学生のようで、腰を通り越して尻まで伸びた長い髪は特徴的な白色をしていた。顔には赤縁の大きな丸眼鏡をしているのだが、その眼鏡、両耳にかけているフレーム上部には小さな懐中電灯が両方に装備された珍しいタイプのもの。停電時はめちゃくちゃ活躍しそうである。果たしてあれはファッションなのか? それとも機能性を重視しているのか? 謎である。謎ばかりの学校である。
「よし、転校生は分からないことばかりだろうから、みんな親切に接してあげるようにな」
そう口にする竜宮先生の目が、このクラス唯一の男子生徒をロックオン。目尻は一気に吊り上がっていく。
「じゃあ、亜井! 生徒会長の亜井葵! 暫くお前が面倒を見てやれ!」
「またおれ!?」
二日前にカノンが転校してきたときとまったく同じ展開である。まだ生徒会長になった自覚すらないのに。
「あの、女の子なんだから、ここは三度の飯より世話が好きな神前ひかりさんの方が適任だと思うんですが」
「あ、葵くん、ごめんね。今日もこれから空ちゃんに字を教えてあげる約束してるんだよね」
そう言って空星の横に立つひかりは、『今日は『金色夜叉』に挑戦してみようね』と笑顔が弾けていた。
いや、『金色夜叉』って……ただ聞いたことがあるだけで、意味や内容はまったく知らないが。
それにしても……二日前から格段に空星の日本語レベルが上がっていた。教室後方に貼られている『帰宅』の横に『無事帰還』が追加されていたぐらいである。この調子だと、一週間もすれば『薔薇』や『檸檬』が貼られていてもおかしくなかった。伸びしろが半端ない。
「…………」
葵は、正面で目を吊り上げている竜宮先生の視線が刺さるようにとんでもなく痛く、どうにも逃げられそうにないので、
「……生徒会長、おれ、頑張る」
心を殺した片言になって、観念した。小さく拳を握り、前にいる小学生のような小柄なもぐに微笑みかけていく。
「亜井葵。『葵』でいいよ。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします!」
葵のぎこちない笑みであったが、相手の表情は和らいでいた。
「じゃあ、深井戸、今日のところはそこの空いてる席に座ってくれ。我は今から校長に頼んで新しい机と椅子を用意してきてやるからな。お前用の机と椅子な。転校してきたばかりで不安いっぱいのお前のための机と椅子だからな。もし今後校長に会ったら、『竜宮先生はとても親切でやさしくて、いつもお世話になっている大好きな先生です』とずばり本音を遠慮なく言ってもらって構わないからな」
言い残し、竜宮先生は颯爽と教室を後にしたのだった。
「ふーん、もぐは植物に興味があるんだ。変わってるな、その身長で」
「そうですか、ちっとも変わっていないと思うんですけど。それと、身長関係ないです。その、あっちの暮らしてる場所では、なかなか植物を育てることができないですから。あっち、いっぱいいっぱい植物を育てて、家の周りなんかを緑でいっぱいにしてみたいですー」
もぐは葵に話しかけながらも、椅子に横座りした状態で、作業着を着た短い脚を伸ばしては曲げ、伸ばしては曲げ、伸ばしては曲げ、伸ばしては曲げ、両脚を交差させては戻し、また交差させは戻していた。転校初日で落ち着かないのか、はたまた関心のある植物を育てることを夢想してはしゃいでいるのか。
「とにかく、植物って生きていく上でとても大切ですし、それを自分の手で育てていくなんて、あっちの憧れなんです」
「うーん、気持ちは一切理解できんが、空星の墨みたいなもんなのか。いや、あいつの場合はクロリーってわけの分からないもんのためなんだろうけど……じゃあ、せっかくだから園芸部でも作って、一人で活動してみたらどうなんだ? 園芸部ならチームなんていらなくて、一人で活動できるだろうから。って、部員一人で『部』を名乗れるのかな? もしかすると、まずは同好会とか研究会からかもしれないけど。きっと部費が安いんだろうね。おお、じゃあ、部昇格って目標ができていいじゃん。よし、そんな感じで頑張れ」
「はーい。あっち、園芸部、入りたいです。でしたら、是非あおぐらも入ってほしいです。二人でこの学校の部費をすべて植物に費やしましょう。まずはこの学校を緑いっぱいにしたいです」
「えっ……」
葵の息が詰まる。
「あ、いや、おれは、その、ほら、『ソフトボールやらないか?』って先約がいて、それはもう逃げられないぐらい強く誘われてるからなー……」
そっちにも入る気はないものの、先に誘われたのは事実なので、口実としてはちゃんと成立している。今日カノンが休みで本当によかった。
「部はさておき、とにかく、まずは育ててみるのに挑戦したらどうなんだ? 学校なんだから、花壇でパンジーでも育ててみるとか? って、あれ、そういえばこの学校って、花壇あったっけ?」
だいたいどの学校にも花壇ぐらいありそうなものだが、この学校はそういった常識が通用しないだけに……少なくとも葵の記憶にはなかった。
こういう時こそ、尋ねるべきは世話焼きクラスメートがいる。
「なあ、ひかり、ここってさ、花壇あったっけ? お前のことだから、どうせ校長先生からちゃんと聞いてるんだろ? それだけが取り柄だからな」
「……あのね、葵くん、『どうせ』っていうの、ちっともいい意味ないから気をつけてね。空ちゃんが間違って覚えたら大変なんだよね」
空星に字を教えていたひかりが、『あと、他にも取り柄あるからねー』と眉を上げながらも思案する。
「うんうん、そうそう。も、もちろん花壇ぐらいちゃんとあるから、あとで一緒にいってみることにしようね。そうだ、空ちゃんも一緒にいくかな? ああ、そう、空ちゃんはお習字している方がいいもんね。うんうん、いっぱい頑張ろうね」
そうして花壇を三人で訪れる約束が交わされたこの教室には、今は授業の時間なのだろうが、さっき出ていった竜宮先生がなかなか戻ってくることはなく、自由時間状態……暫くするとチャイムが鳴って休み時間となり、三人でグラウンドに出ることとなった。
※
「なんで……?」
思わず口から零れ落ちた葵の疑問。グラウンド墨の校舎寄りの場所に立ち、赤レンガが五段ほど積まれた全長五メートルはあろう花壇らしきものを目の当たりに、改めて疑問を口にする。
「なんでこんなのあるわけ?」
なかったはずである。ここは食堂のすぐ前で、二階の教室の窓から真下に見える場所。ここに赤レンガが積まれた花壇らしきものなんてなかった。間違いない。少なくとも、一昨日ここでカノンとキャッチボールをしたときはなかったはずである。
なのに、なぜかもぐとのやり取りで花壇が必要になったタイミングで、こうして都合よく花壇が用意されている!?
謎。謎である。もちろんその謎もすぐに『まあ、いいか』で葵の頭から霧散していくのだが。
「竜宮先生からいろんな種をもらってきたから、みんなで植えてみようね」
ひかりが手にしている青バケツから、柄の短いスコップ二つと象の形をしたピンク色のジョウロを取り出した。そして準備よく、ブレザーのポケットからは何種類かの種が入った小ビンを出したのである。茶色いビンにはそれぞれに白地のラベルが貼られている。
「えーと、これがアサガオで、これがパンジーで、これがヒマワリで、これがキュウリで、これがトマトで、これが小松菜で、これがスイカで、これがカボチャで、これがウリで……随分と野菜が多いね」
「よし、スイカ一択だな」
「……葵くんは、花より団子だね」
「花じゃ腹は膨れん。それに、スイカもちゃんと花が咲くんだぞ。そうして立派な実をつけるんだ」
「あ、でも、ちょっと待ってほしいんだよね。校長先生からのアドバイスなんだけど、種を植える前に、土に空気を入れた方がいいみたいなんだよね。ここの土を掘り返して、で、そこに石灰とか枯葉とか肥料とかを交ぜるともっといいらしいんだよね。わたし、そういうのも竜宮先生に頼んでもらってくるから、葵くんともぐちゃんは今から土を掘り起こしておいてほしいんだよね」
言い残して、ひかりは小走りで校舎の方に向かっていく。
残された葵ともぐは、早速スコップを手に、言われた通りに花壇の土を掘り起こしていくことに。
「グラウンドのと違って、なんかちょっと黒いんだな、花壇の土は。見た目だけだが、なんだか栄養ありそうな気がするぜ。いいスイカが食べられそうだ。うん、育てたことはないけど」
「わー、そんなのが分かるだなんて、あおぐらは凄いんですね。あっちなんて全然駄目です。こうやって種を植えるのだって初めてなんですから。今、なんだか、ちょっと緊張しちゃってます」
「緊張って、こんなの別に大したことないだろう。もぐは体がミクロサイズなのに随分と大げさなんだな」
「だって、こんな貴重なものを扱うなんて、考えただけで手が震えちゃいますよ。ただ、あっちがミクロサイズは異論を唱えますけど」
「そんなに珍しいのか、この種が? 圧倒的にお前の方が小さいだろうに」
「そりゃそうです。だって、あっちがいたとこは植物なんて育つような環境にありませんでしたから、種はとても貴重なものですよ。で、えっ、種ってあっちより大きいんです? わー、世の中知らないことばかりです」
「んなわけあるか」
「んなわけあるか、なんですね。勉強になります」
少し驚いた表情のもぐは、その後もスコップを動かして土を掘り返していく。その姿、少しぎこちないものの、それでも実に楽しそうだった。きっと児童が砂遊びや泥遊びをしているのに近い感覚なのかもしれない。あの身長、遠目なら園児で通用するだろうし。
「あっちのいたとこは、ちっとも太陽が当たらなかったですから、まったく植物が育たないのです……だから、あっちの夢なんですよね、一面のお花畑って。いつかきっと実現させてみせるのです」
「そっか、近くによっぽどでかい山でもあるんだろうな。それはそれで、夏は涼しそうでいいけど……」
葵は、もぐの故郷が『半日村』ならぬ『全日村』で、大きな山によって太陽光が遮断される不憫な土地なんだなと想像した。きっと村人が太陽を求めて毎朝巨大山にお祈りをしているに違いない、と一方的に決めつける。
「そんなさ、巨大山を神化させるような、ただただ異常空間な場所なんて、とっとと捨てちまえばいいじゃんか? さすがに文字通りの日陰暮らしは生きててしんどいだろ?」
「あおぐらの言う『巨大山』ってのが、あっちには深く潜るぐらい理解できないですけど……捨てるなんて、そういうわけにはいかないんです。あっちたちにはやらなくちゃいけないことがありますから、それは先祖代々、ずっと受け継がれてきたことで、絶対に投げ出していいものではないんですから」
「なんだよ、それ? 先祖代々やってきたことって」
古くから故郷に伝わる風習でもあるのか、もぐに聞き出そうとしたのだが……そのタイミングでひかりが少しふらふらっとしながら一輪車を押して戻ってきたので会話は中断された。
一輪車にはいくつかの巨大な袋が積まれており、石灰や腐葉土や肥料である。『竜宮先生に用意してもらったんだよね』とひかりはどこか楽しそうにして、額の汗を拭っていた。
その後は三人で花壇半分の土を掘り返し、種を蒔いて水をやる。その頃には昼になったので、教室に残っている空星に声をかけて食堂に向かうのだった。
※
午後。
「なんでさ?」
つい口から出た葵の疑問。
「なんでもう芽が出てんだよ?」
謎でしかない。午前中に種を植えたばかりなのに、昼休みになったから食堂いって休憩してから戻ってくると、土を掘り返した花壇半分の地面から、なんとたくさんの二葉が顔を出しているではないか。びっくり。
「もう一回口にせざるをえないが、なんでこんなに早く芽が出てんだよ。こんなのおかしいだろ?」
「ち、ちっともおかしくないんだよね。だって、土がいいから、芽ぐらいあっという間に出て当然なんだよね。栄養満点で成長促進ね」
「えっ、えっ、そんなもんなのか? 土がいいとこんなにも早く芽が出るもんなのか。って、いや、いくらなんでもこれはな……」
「あのね、葵くんは常識がないからいらないことまで疑ってかかってるだけで、常識人ならこれぐらいで驚いたりしないんだよね」
「……まあ、なんだな、こんなの常識っちゃー常識だけどな。いや、もはやこんなの常識でしかなく常識でしかないわけさ。だって、常識なんだから。ああ、常識さ、常識。こんなの常識前の常識に過ぎん。つまりは、ずばり常識」
心境として首を傾げるしかない葵だが、別に植物に詳しいわけでもなく知識も乏しいので、ひかりの『常識』に全面的にベットした。
「分かったか、もぐ? 芽が出るぐらい常識だからな。お前には少し難しい話だったかもしれないがな」
「ほわー、二人とも結構潜るぐらい博学なんですね。尊敬しちゃいます。あっちにはそんな常識ないですよ」
「そ、そうか。そりゃまだまだ勉強不足だったな。精進したまえ」
「どうすればそんなお勉強ができるんですか? 是非とも教えてほしいです」
「べ、勉強……」
葵に植物関係の知識は一切ないが、ただ、勉強といえば本である。発想が短絡的かもしれないが。
「そりゃ、図書室にでもいけばいいんじゃないか。植物の図鑑ぐらいは……」
言い淀む葵。
あれ?
「おい、ひかり、この学校って、図書室あったっけ?」
「んっ……?」
「だいたいどんな学校にもあるだろ、図書室」
「どんな学校にもある図書室は……そ、そりゃもちろん、あるね」
ひかりは少し視線を上下左右に動かすどこか落ち着かない様子だったが……口を動かす。
「きょ、教室の隣が図書室ね。そ、そう。わたしたちの教室の隣にあるのが、図書室に間違いないね」
「いや、あんなもん空き教室だろ、何もねーじゃねーか。二階はおれらの教室以外、全部空き教室なんだから」
「ち、ち、違うね。図書室なんだから、図書室なんだよね。じゃあ、作業が終わったらみんなでいってみることにしようね。あそこは間違いなく図書室で間違いないんだからね」
「…………」
「あれ、信じてないのかな? だって、葵くんは図書委員長なんだから、そんなの知らない方がおかしいんだよね」
「はあ!?」
裏返る声。葵の目が見開かれる。
「図書委員ですらないのに、おれが図書委員長ってどういうことだよ!?」
「それはね、竜宮先生が『亜井は生徒会長であり、図書委員長の自覚を持たせないといけないな!』ってさっき言ってたんだよね」
「そ、そんな……」
葵当人には得心いかない事実がさらに追加された。生徒会長につづいて図書委員長だなんて……しかし、ここで発動されるのは『まあ、いいか』である。けれど、それでも頭の片隅では『とほほ』が残ることとなり、その後はなんとも複雑な心境でスコップを動かすこととなるのだった。
その後、三人で残り半分の花壇を耕した。そうして三時になって教室に戻ってみると、確かに一年一組の教室に隣接する場所に図書室があったのである。大きさや形は一年一組の教室と同じで、扉には『図書室』とちゃんとプレートがかかっているし、中には本棚が何列も並んで置かれていた。
そんな図書室において、もぐは表情をぱぁーっと輝かせながら、植物コーナーの本を読み漁るようになったのである。それはもう、もぐまっしぐらに。その日は結局、夕食の午後六時までここで過ごしたのだった。
活字の本に興味のない葵は、大半机に突っ伏して眠っていたのだが。
※
四月七日、木曜日。月曜日の入学式から数えて四日目の朝。
「…………」
一年一組の教室には机が一つ追加されて、全部で五席となっていた。なのだが、主が座っているのは三つのみ。葵、ひかり、空星。
ひかり情報によると、葵の前席のカノンは今日も病院にいるらしい。
に対して、葵の左隣に席が追加されたもぐについては、ひかりにもどこにいるのか分からないという。『きっと図書室の本を徹夜して読み耽って、寝坊でもしているのだろう』と楽観的に考えていた。いや、面倒はいやなので、そのように楽観的に考えていたかった。
けれど、葵のどこか胸の奥底では、楽観視する現状とは別の、なんだか凄く面倒な厄介ごとにすでに巻き込まれているようないやな予感が渦巻いている。というのも、今朝は授業がはじまる前に花壇に水やりをする約束をしていたのだが、結局もぐが現れることがなかった。そのせいで葵が一人で水やりをする羽目になったのだが……一人での水やりをする羽目になったことはともかくとして、ああして約束をすっぽかされること、以前にも似たような経験していた身としては、どうしてもいやな思いが脳裏を過ってしまい……。
「…………」
八時半。始業のチャイムが鳴り響く。廊下側から教室前方の扉が開かれる。今日も剣山のように髪の毛を尖らせた竜宮先生が教卓の前に立つ。その目をこれでもかというぐらい吊り上げた状態で。
「亜井! いい加減にしろ!」
激しい怒鳴り声は古い教室を通り抜けて木造校舎に反響していった。
「あれほど深井戸の面倒を見るように口酸っぱく言ってあったのに、これはどういう了見だぁ! ああぁん!?」
「いや、その……昨日はもぐのために、ちゃんと花壇の手伝いもしたし、図書室の本の貸し出しもやりましたけど、図書委員長として」
「だったらなんで学校にきてないんだぁ! ああぁん!?」
「あー、やっぱりそうなんだー」
いやな予感は的中した、残念ながら。思わず『やっぱり』が口から出るぐらい。
「いやー、どこいったんでしょうね、あのちびっこは? 小さいから迷子にでもなってるんでしょうかね。皆目見当もつきませんな。ははははっ……」
「とっとと探してこい! 今すぐ! 早く! 立て! いけ!」
「…………」
葵の胸にはずしんっ! と重たい鉛のようなものが現れた。気持ちは一気に沈んでいく。憂鬱。
葵は、正面から睨みつけてくる人から目を逸らすように、横を向いた。
「じゃあ、ひかりさん、もぐのやつを一緒に捜しにいくとしましょうか?」
「ごめんね、葵くん。わたし、ちょっと校長先生に呼ばれてて一緒についていってあげられないんだよね」
「お前、もぐのことが心配じゃないのか!? 見た目通りに薄情なやつだな」
申し訳なさそうに『ごめんねごめんね』と顔の前で手を合わせ、『見た目ってのは納得いかないんだけどね!』と頬を膨らしたひかりに見切りをつけると、斜め前にいる銀髪ポンチョ娘に声をかける。
「空星さん、あの大事で大切なクロリーを探すついでに、ちょっと一緒に迷子になって泣き喚いているもぐのことを捜しにいきませんか?」
「……間に合ってるなも」
「どいつもこいつも!」
憤慨。葵にとって、まったく融通のきかないクラスメートである。
「もー、仕方ないなー……」
葵は肩を落としながら席を立ち、隣人のブレザーの袖を掴んでみたいが、『ごめんねごめんね』と態度が変わらないことに吐息してから、ずっと不機嫌そうに睨んでくる竜宮先生に背中を押されるようにして教室の扉を潜った。
「っ!?」
刹那、葵のすべてが白に覆われる。どうしたって抗うことのできない圧倒的な純白にその意識は一瞬にして刈り取られ……その全身が深い霧に包まれるように気を失っていった。
※
「葵くん葵くん、早く目を覚まさないと、顔全体にオリオン座の落書きされても一切文句は言えないんだよね」
「……いや、文句は言えるだろ」
どっぷりと浸かっていた深く深い真っ白の世界から覚醒するとともに、葵の突っ込みは反射的ではあるものの的確に発動されていた。
やけに頭はぼんやりするのだが、十秒ほどすると『顔にオリオン座の落書きってどういうことなんだ?』なんて考えらえるようになってきたから、脳に異常はなさそうである。
「…………」
視界に映るもの……周囲の印象としては、夜みたいになんだかとても薄暗い場所。仄かな緑色の光が存在する奇妙な感覚。
その淡い光を纏うようにして、目の前でこちらを覗き込んでいる神前ひかりの色素の濃い大きな瞳が二つあった。
「……あれ、ひかりじゃん!」
「葵くんのことが心配だったから、やっぱりついてきちゃったんだよね。ああ、安心して、ちゃんと校長先生には許可もらってるからね」
「うむ。さすがにおれが見込んだ無類の世話焼きお節介娘は、今日も意味なく髪の毛を後ろで三本に縛っているだけのことはあるな」
「……前半部分ですらちっとも褒められてる気がしないのに、『こんちきしょーっ!』ってぐらいお気に入りの髪型を馬鹿にされてる気がするね」
「こうやって駆けつけてくれるなんて、さすが我が心の友よぉ! 一緒に過ごした長き年月は伊達じゃなかったっていうことか」
「……葵くんと出会ってまだ一週間ぐらいなんだよね」
「にしても、相棒、ここどこだよ?」
横になっているのは、ごつごつした岩肌のような地面で、背中の感触が少し気持ち悪いし、ちょっと痛い。上半身を起こして周囲を見渡してみると……その頭上には巨大な疑問符が派手に点滅していた。
「……洞窟?」
鍾乳洞のような洞窟みたいで、床も壁も天井もごつごつした岩肌をしている。そしてその壁には無数のクリスタルのようなものが生えており、淡い緑色の光を放っているおかげで、こうして周囲や足元まで確認することができていた。その都合のよさは、まるでRPGのダンジョンのよう。だからこそ、ひかりの眉間に皺が寄っていることをしっかりと目で確認することができている。
立ち上がってみると、天井までまだ余裕があるので頭をぶつける心配はなさそうだが、横幅は家の廊下ぐらい狭いので全力疾走すればすぐどこかにぶつかてしまうだろう。よほどの恐怖に追い立てられない限り、そんなことしやしないが。
「それで、ここにもぐがいるってことか?」
「こっちね」
ひかりはさも当然のように一本道を進んでいく。葵にできることは、その背中についていくことのみ。
「にしても、少し蒸し暑い気がするようで、でも、なんだか少し肌寒いような……よく分からん気候だな」
葵本人にも訳が分からないことを口にしている自覚はあるが、訳の分からないことはもう慣れっこなので深く追求することはない。額にかかる前髪に触れると、少し湿っているので、汗をかいているみたいである。
「遊園地のアトラクションみたいで、ちょっと楽しいな」
呑気に『ちょっと楽しいな』と発言した、その約二分後。
「……おい、ひかり、飽きたからおもしろい限定の話をしてくれ」
「要求が、いきなり凄いハードルの高さなんだよね!?」
まだまだ緑色の光るクリスタルに照らされて洞窟のような場所を進んでいく。狭いので歩行スピードはいつもの六割程度。
と、ここで進行方向が三つに分かれている十字路にぶつかった。ひかりは少しも迷うことなく直進していく。
「あ、そうそう、この前あった話なんだけどね、外を歩いてたら今みたいな十字路にぶつかったのね」
「外歩けんのぉ!?」
監禁されているとばかり思いこんでいる葵には、とんでもない吉報が耳に飛び込んできた。今はなんだが、学校に戻ったら早急にその術を確認したいところである。喉から手が出るほど。
「でね、南と北と東の三方向から同時に自動車がやって来て、同時に十字路に進入していったんだよね」
ひかりの話によると、三台の車が十字路の手前でちょっとスピードを緩めて徐行となった。ひかりの予想では、南北の道の方が広いから、きっと東からきた車は停車して、南北の車だけで無難にやり過ごすと思ったのだが、実際は違ったという。なんと、三台が三台とも同じタイミングで十字路に進入して、それぞれがぶつかることなく同時に十字路をやり過ごしてそのまま走行していったらしい。
「では、葵くん、どうして三台の車はぶつかることなく同時に十字路をやり過ごすことができたのか、分かるかな?」
「無理だろ。絶対ぶつかるじゃん」
三方向から三台が同時に進入すればぶつかるに決まっている。同時にやり過ごすには、二台が限界だ。
けど、葵は考える。考えるべき問題が提示されて、かつ、なんせ暇なもんで。
「あー、なるほど、そうかそうか。立体交差点だったわけか。謎は解けたぜ、この名探偵と呼び声の高い者によってな」
「平面交差点ね、名探偵」
「じゃあ、ぶつかったのにドライバーの心の広さで平然と走行していったわけか。なるほど、実に平和的で奥が深いな」
「ぶつかってないし、そんなのちっとも平和的じゃないんだよね」
「じゃあ、そう錯覚したひかりの目が腐ってた」
「……違うね」
「もはや寝言」
「……じゃないね。なんで寝言を問題にすると思ってるのかね、この人」
「嘘つき少女、神前ひかり」
「嘘じゃないからね!」
ひかりの絶叫は、岩肌の空間に大きく反響しながら、前後に響いていく。
「絶対無理だろ、そんなの。本当はめちゃくちゃにぶつかって、三人のドライバーによる罪の擦りつけ合いに発展したに違いない。これこそが真実」
「……あのね、葵くんなんかの『絶対無理』なんて、世の中そこそこ解決できちゃうことばかりだからね」
「じゃあ、正解はなんだっていうんだよ?」
「あーあ、最近の若い者はこうやってすぐ諦めて、簡単に投げ出すよねー」
葵の前をいくひかりは首を大きく左右に振り、『もー、仕方ないねー』なんて感じで両肩を上げていた。
「正解は、三台が三台とも左折したから十字路ではぶつからなかった、ってことなんだよねー」
「……まったく、そんな無駄話してる暇があったら、少しは行方不明になったもぐのことを心配したらどうなんだ? これだから無意味な三本髪娘ときたらお節介が過ぎるんだよ。この際、右でも引っこ抜いてやろうかしら」
今度は葵が両肩をくいっと上げたところ、前をいくひかりの歩調が明らかに加速したのだった。
「んっ……!?」
また十字路に辿り着いた。ひかりは迷うことなく直進していくので、葵もついていこうとして……けれど、その目の隅では、左折する方角に何が映ったため、顔を向けてみると、
「おい、ひかり」
ひかりを呼び止めてその場に立ち止まらせ、二人して右側通路を見てみると……まだ離れているが、そこになんだか通路いっぱいの大きなものがあって、今はそれがこちらに向かって迫ってくるではないか!?
「なんだ、あれ?」
茶色い毛むくじゃらの巨大な……よく見ると、尖った鼻のようなものと、前足を交互に動かして、今はその距離三メートル!
「バケモンだぁ!」
前をいくひかりを追い越さんばりに両腕を大きく振って狭い通路を走っていくが、髪の毛をとんでもなく振った状態で走っている前のひかりとの距離は縮まることはなかった。運動能力としては葵の方に分があるのだろうが、通路の狭さによって二人の距離は縮まることはなかったのである。手を伸ばしても決して追いつけないひかりの背中。
いや、今はひかりの背中より、大事なことはあの化け物だが……葵たちの後方から『ザクッ! ザクッ! ザクッ! ザクッ!』という不気味な音が迫ってくる。きっと前足の鋭い爪が物凄いスピードで地面にぶつかる音なのだろう。
だから、逃げる。逃げる。とにかく逃げるしかない。
「ひかりぃ! もちろんあのバケモンのことぐらい校長先生が聞いてるんだろ!?」
「そんなの聞いてるわけないんだよねーっ!」
絶叫しながらも逃げる二人と、その二人をターゲットにしたであろう一頭のバケモノは、狭い通路を駆けていく。
走る走る走る走る。恐怖から逃れるように今は走る。よそ見なんかすることなく走る。腕を振ってとにかく前に走る。走る走る走る走る。
そんな大ピンチに陥っている葵だったが、その脳裏には数分前に今いる狭い通路を見て心に抱いた『よほどの恐怖に追い立てられない限り、こんな狭い通路を走ることはないだろうな』という感想がマイナスの方向で実現してしまっていること、ただただ苦虫を潰すような思いがした。
「だあああああああああああぁぁぁーっ!」
前を向いて走るのみ。
よく分からない巨大なバケモンに追い立てられるように狭い通路を全力疾走していくと……突如として開けた場所に出た。学校の廊下から教室に入る程度といった場所ではあるが、しかし、中央部まで走ってきて、ぐるりっと周囲を見渡してみても他に通路が見当たらない。行き止まりである。その目の端にこれまでにない赤色が映ったが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
振り返り、こちらに迫ってくるバケモノを迎えるのみ。
大きく喉が鳴る。ごくりっ!
「いぃ!?」
正面に現れたのは全長三メートルがあろうかという巨大な動物で、前後が細くなった紡錘形をしている。巨大なサツマイモに手足が生えているような感じ。全身は茶色く短い軟毛に覆われ、尖った鼻に白い目。四本ある足は短いが、それでも黒光りする爪は長くて鋭いもの。あれで引っかかれては一溜まりもないだろう。
「なんで、こんな……」
じりじりと後退りすると、バケモノも距離だけ近づいてくる。そして、葵とひかりが壁まで追い詰められしまい、もうどこにも逃げ場はない。
絶体絶命。
「っ……」
葵はとても抵抗できそうにない相手に、覚悟を決めるように生唾を飲み込む。『窮鼠猫を噛む』という言葉が頭を過るも、とてもネズミになんてなれそうにない。
瞬間、『窮鼠猫を噛む』という言葉を押し出すようにして、脳裏には過去の映像が流れていく。『あーあ、十五年という短い人生だったな。中学卒業するまでは平凡を絵に描いたような生活だったのに、三月三十一日からの星城高校に関わってからの計八日間は実にはちゃめちゃな生活に身を置いたことが、なんといってもインパクトが強く、もはやおれの人生ってこの八日間だけじゃない!? こんなのいやだぁ!』なんて死を覚悟した。
巨大なバケモノに追い込められるという絶体絶命の大ピンチにおいて、突然! これまでになかった声が空間に響き渡ることになる。
「あれ、誰かと思えば、あおぐらとひかぐらじゃないですか? なぜこんなところにお越しなんです?」
もぐだった。作業着姿の深井戸もぐ。全寮制の学校から行方不明になった深井戸もぐ。全国民から小学生に間違えられる確認百パーセントに違いにない、あの深井戸もぐがいた。
「どういうことです?」
※
「よーしよーし、あおぐらとひかぐらは悪い人じゃないですよ。ここは安心して他のパトロールをお願いします」
学校にいたときと違い、今は眼鏡についた二本のライトを点灯させているもぐは、やさしく声をかけながら巨大なバケモノの体を摩ってやると……それで満足したのか、バケモノは周り右をして通路に戻っていった。
「あの子はグラグラです。毎日ああやってこの辺りに異常がないかパトロールしてくれてるんですよ。そうか、あおぐらもひかぐらも見慣れないから、それで反応しちゃったんでしょうね。でも、決して人を襲うような子じゃなくて、あっちたちからすれば守り神のような存在ですから、安心してくださいね」
「……であることを信じるよ」
「……びっくりしたんだよね」
葵とひかりは肩をぶつけながら、へなへなとその場で座り込んでいく。
葵は手の甲で額の汗を拭い、切れて息を整えてから改めて周囲を見回してみると……この開けた場所もこれまで同様に無数のクリスタルが壁に生えており、緑色の光を放っている。あれが新たな照明器具だとしたら、幻想的な空間作りに流行りそうな印象満点なので、アミューズメントパークが採用しそうである。
「なんだあれ!?」
さっき一瞬だけ目に映った赤色に目が止まり……最初見たときは炎かと思った。でも、炎のように揺らぐことはなく、そこに鎮座しているようである。そんなオブジェみたいなものが地面かいくつも生えていたのだった。
「燃えてる、わけじゃないよな……?」
「はい、燃えてるわけじゃありませんけど……ああ、またいっぱい生えてきちゃいましたね」
葵が息を整えて、冷静になってもぐのことを改めて見てみると、自分の身長と同じぐらいの巨大なフォークを両手で抱えるように持っていた。まるで牧場で多くの草を扱うときに使う集草フォークのよう。重たそう。
「あ、お二人とも、ちょっと待ってくださいね。あれをやっちゃわないといけませんから」
そう言うと、もぐはとことこっと駆けていった。身長ほどある巨大フォークを炎のオブジェの地面に突き刺す。体重をかけ、てこの原理で根本ごとオブジェを引き抜いていた。
「これを早く取っちゃわないと大変なことになりますから」
「なんだよ、それ? 炎が固まったような、見たことないやつ」
「ああ、はい、みなさんのところでは出現しないでしょうね。これはマグエダといいます。放っておくと、地上が大変なことになる厄介なものです」
「……なんだその正義のヒーローみたいな台詞は?」
「違うね、葵くん。今のは正義のヒーローじゃなくて、正義のヒーローを補佐する博士的なポジションの台詞なんだよね」
「んなもん、どっちでもいいから」
葵とひかりも作業しているもぐの傍まで近づいていく。
「よく分からんが、なんか、大変そうだな」
「そこにマグ抜きがあるので、よければ手伝ってもらえないですか? ちょっと目を放すとすぐいっぱい生えてきちゃいまして、困ってます」
「あ、ああ、別にいいけど……」
さっきバケモノから助けてもらった恩もあり、葵は手伝いを引き受けた。床に転がっている巨大フォークことマグ抜きを手にしてみると、ずっしりと重たく、中学校の授業でスイングした金属バットの三倍はあるだろう重さである。だとすると、目の前でああして軽々と扱っているように見えるもぐには、小柄のスラッガーという意外な才能を発掘した気分であり、是非ソフトボール大好きなカノンに紹介したい逸材だった。まだ顔合わせできていないのが残念で仕方がない。
「おい、これ、ひかりの分もあるぞ」
「わ、わたしは、駄目ね。その、お箸より重たいものは持てないことよりもなによりも、もぐちゃんがこうして無事に見つかったなら、校長先生に報告にいかなきゃいけないから、ごめんね」
「ちっ、逃げやがったな。薄情者め」
そそくさと小走りでここまでやって来た通路に引き返す揺れる三本髪に、思わず小さな舌打ち。その直後、葵は息を吐いて腹の中心に力を入れる。『冷静に考えてみると、なんでこんなことを手伝わなければいけないんだ?』なんて疑問は一秒も持たずに『まあ、いいか』で消えていった。
「サンゴみたいだな、これ」
地面から生え、枝分かれするマグエダはまさに巨大サンゴ。横に立ってみると、葵の腰ぐらいまである。それが何本どころか何十本もこの辺りに生えているから、全部取ろうとすると相当骨が折れるだろう。
「あっと、なんか途中で折れちゃったな」
「ああ、それはいけません、もっと潜って慎重にお願いします。地面の底にマグ抜きを力いっぱい突っ込んで、丸ごと取らないとまたすぐ生えてきちゃいますから。注意してくださいね」
「……なんだそれ、根っこを残したらまた生えてくる雑草みたいだな」
「えっと、『雑草』ってなんですか?」
「いらない草だよ。あの花壇だってすぐ雑草がいっぱい生えてきて、抜かないと栄養を持っていかれちまうからな」
「あおぐら、あっちが世間知らずだからって、おかしなこと言っちゃいけませんよ。草にいらない草なんてありません。草が生えてくれるだけでめちゃくちゃ潜るぐらい嬉しいじゃないですか。あっちはね、草一本生えることのないこの場所を、草花でいっぱいにしたいんです。だから、草のことをそんな邪険に扱わないでください。『いらない草』だなんて、草に謝ってほしいぐらいです」
「えっ、ここを草花で……!?」
ここは薄暗い洞窟で、淡いクリスタルの緑色の光源のみ。
「いやいや、ここは無理だろ。無理無理。えっ、お前が言ってた太陽が当たらない場所って、ここなわけ? 完璧に光合成を無視してやがる。素人はこれだから困っちまうぜ」
「無理かもしれないし素人かもしれませんし、『光合成』というものは無視できるほどの知識もありませんが、でも、頑張ります。そのために学校をお勉強しようとしたわけですから……その、今は、できてません、けど……」
言葉が尻すぼみしていったもぐは、マグ抜きでまた一本のマグエダを抜いては、鉄製のワゴンに載せた。そうすると、ワゴンはいっぱいになる。
「もういっぱいになったので、一旦運んじゃいますね」
そうしてもぐは、真っ赤なマグエダがたくさん入ったワゴンを押して、中央部分まで運搬する。そこには家庭用の風呂ぐらいある長方形の穴があった。
「これはマグエダ発散槽といいます。ここにマグエダを入れて、溜め込んでいる膨大なエネルギーを発散させます」
「その辺に放置してたらいけないのか?」
「その場合は、爆発します。気をつけてください」
「ばっ……」
葵はマグエダが積まれたワゴンを目にする。たくさんあるサンゴのようなものが、まさか放置していたら爆発するだなんて……一昨日、葵はどこにあるかも定かでない研究所で爆発を経験している。心臓を突っぱねるような爆音に、強い熱を孕んだ防風を全身に受けて、魂が縮み上がった気分がした。あれと同じようなことがここで起きるのだとすれば……あまりいい気持ちはしないどころか、恐怖で鳥肌が立ってしまう。そう、恐怖である。こんな狭い場所で爆発なんて起きようものなら、自身が木っ端微塵になるなり、天井が崩れてきて生き埋めになるなり、いやな想像は風船のように膨らむばかり……そんなの、本当の本当にごめんである。
「…………」
「ほら、ここでそのエネルギーを安全に少しずつ発散させていくんです」
もぐはワゴンからマグエダを発散槽に移すと、そこに大きな蓋をした。そしてなんと、もぐがその蓋に載ったではないか。
爆発物の上!?
そしてそして、さも当然のように蓋に載ったばかりか、なんとその上をジャンプしはじめたではないか。
ぴょんぴょんぴょんぴょんぴょんぴょんぴょんぴょんっ。
軽快な連続ジャンプは、いかにもやり慣れた様子であり、傍から見ている分にはトランポリンで遊んでいる小学生のようである。
「こうやって少しずつ少しずつマグエダに溜まったエネルギーを発散させていくんですよ」
「そ、それのどこが安全なんだか理解に苦しむところが……そ、それで、発散ってのは、どれぐらいやるんだ」
「そうですね、この量だと六時間ぐらいでしょうか」
「ろっ!? 六時間んんんんっ!?」
六時間ずっとああしてジャンプしているだなんて……気が遠くなる信じられない話である。
「あっちたちは先祖代々こうしてマグエダのエネルギーを発散することで、世界の災いを未然に防いできました。これがあっちたちの使命です」
「まだマグエダがいっぱいあったぞ。あれを全部か?」
「はい。時間が経つとまた別のマグエダが生えてきちゃうので、油断禁物です」
「んなことしてたら、学校なんていってる暇ないじゃんか」
「そうなんです、それが残念でなりません……」
蓋の上でジャンプしながらも、もぐの視線が下がっていく。
「せっかく校長先生に声をかけていただいて、植物を育てる研究をやれるようにあの学校に入れてもらえましたが、でも、やっぱり、あっちにはどうしてもマグエダを放っておくわけにはいきません。残念ですが、通えなくなってしまうでしょうね。転校したばかりで申し訳ないですが……」
「ということは、えっ、もしかして、昨日もぐが学校にきたことで、あんなにマグエダが溜まってること?」
「はい、そのもしかしてです。あれぐらいなら数日は持つかもしれませんが、ちょっとでも気を抜いていると取り返しがつかないことになります。大変なんです、ほんとに……結局のところ、あっちのような使命を帯びた者は、学校に通って植物のお勉強なんてしてる暇なんかなくって、できもしない馬鹿な夢を見るものじゃないのでしょうね。あは、はっ……」
「…………」
きっと本意ではないだろう自分のことを卑下するような発言をして、笑いたくもないような笑みを浮かべて視線を下げていったもぐに、現状の葵にはもぐのやっていることがこれっぽっちも理解できていないが、でも、それがもぐにとってはとても重要なことだということはなんとなく分かった。だから、『もぐの使命を無視して気軽に学校にこいよ』なんて無責任な発言はとてもできない。それぐらいの空気、葵にだって読めるのである。
「…………」
葵の目の前で、もぐはジャンプを繰り返し、尻まである長い白髪が不規則に揺れる。蓋に着地する度に『ボッ、ボッ、ボッ』と音がして、蓋と発散槽の隙間から赤い光が漏れてくるのは、炭火に団扇で風を送ると発熱して光が強くなる現象によく似ていた。よくは分からないが、きっとああして少しずつ膨大なエネルギーを発散させて安全なものにしているのだろう。
ジャンプ。発光。ジャンプ。発光。ジャンプ。発光。
「なあ、ジャンプするの大変そうだから、おれが少し代わってやろうか?」
「お気遣い、ありがとうございます。でも、この作業は誰にでもできるわけじゃなくて、あっちじゃないと駄目なんです。もしあおぐらがやったとしたら、きっと爆発して大事故になってしまうでしょうね。あおぐら、全身が砕け散るか、よくて両脚切断って感じになるんじゃないですか。ですから、そのお気持ちだけありがたく受け取っておくことにしますね。ありがとうございます」
「お、おう。そうか、ば、爆発か……」
葵の脳裏に再び一昨日の記憶が過る。研究所の建物自体が震えていたあの恐怖が心にも体にも蘇り、自然と手が震えてしまった。
「それは、それで、それだから、そうだわな……」
気も引けて腰も引ける葵だったが、そんな心情を誤魔化すように、まだたくさん生えているマグエダに目を移した。
「じゃあ、せめてあそこにあるマグエダを全部抜いてきてやるよ、それだったらおれにもできるみたいだから」
「はい、お願いします」
「おう、任せとけ」
葵は空になったワゴンを押して、にょきにょきと無数のマグエダが生えている地帯に向かっていった。
※
葵がこの洞窟のような場所を訪れて、いったい何時間が経過しただろうか? クリスタルの薄暗い緑色の光が照らすだけの空間では時間の経過を把握することがままならないが……葵はずっと休むことなく地面に生えているマグエダと格闘していた。そうしてマグエダをワゴンに積んではもぐがジャンプしているマグエダ発散槽近くに運んでは地面に置き、また取っては発散槽に運んでは積み重ねていって……とんでもなく腰が痛くなり、両腕が痺れてきた頃、ようやくすべてのマグエダを抜いて発散槽近くに運ぶことができたのである。積まれたマグエダの山の量、推定で発散槽五杯ぐらいはありそう。そうして山になったマグエダは、見ていてちょっと壮観である。ただただ物騒なもののはずなのだが。
「…………」
マグエダを抜き終えたら、葵にすることはない。今は発散槽の傍でしゃがみ込み、目の前でジャンプしつづけているもぐの小さな体を見つめるのみ。
「……明日、花壇の水やりできそうか?」
「そうしたいのは誰よりも潜るほど山々なんですが……すみませんです」
「そうか、まだまだたくさんあるもんな。大変だな……」
あんなに必死になって何時間もジャンプしつづけているもぐの姿に、葵には何をやっているのかも定かでないものの、とても深い感銘を受けていた。
できることなら助けになってあげたい。あげたいが、これ以上できることはなさそうである。
葵にできること、それはこうしてもぐの懸命で健気なジャンプを見守るのみ。しっかり座ってはいるが。
「…………」
意識なく葵の右手が地面につき、そのまま上半身がゆっくりとそちらの方向に倒れていく。大量のマグエダを抜いた疲労のせいか、両の瞼がとても重たくなってきた。傾いた上半身の角度がだんだんと浅くなっていき、すっかり地面に横になった頃には、視界は真っ暗なものに。
その耳に、一定の間隔でマグエダのエネルギーをが発散されているだろう、『ボッ、ボッ、ボッ』という音だけが聞こえてくるのだった。
※
「あおぐら……あおぐら、こんなとこで寝ちゃ駄目ですよ。早く帰ってお風呂でも入ってきたらどうですか?」
「……あ、ああ」
葵が瞼を開けると、目の前に茶色い作業着姿のもぐが立っていた。少し息を切らすように肩を小さく上下させつつも葵のことを覗き込んでいる。
そのかわいらしさに小柄な外見、やはり小学生のようだった。抱きついてもぎりぎり犯罪にはならないと推定するが、実行に移すことはない。
「ごめん、寝ちゃったみたいだな。どうなったんだ?」
「さっきまでのマグエダはどうにか処理できました」
「そうか、ってことはあれから六時間が経ったわけか……」
葵が立ち上がると、処理前のマグエダの山は変わらず健在だが、はみ出さんばかりだった発散槽のマグエダはすっかり消えていた。
「その黒いのが、そうなのか?」
発散槽の底の方に、細かい黒色の砂のようなものが溜まっていた。もぐ曰く、エネルギーを失ったマグエダがその細かい粉であるという。
「これ、どうするんだよ?」
「下の穴に捨てちゃいます」
もぐが発散槽横のスイッチを押すと、黒い粉は直径五センチほどの穴に次々と吸い込まれていく。溜めてある風呂の水を栓を抜いて流しているみたいだった。
「マグエダがなくなるまで、この作業を繰り返します。頑張ります」
それからもぐは、横に積んである赤いサンゴ状のマグエダを一本ずつ発散槽に入れていく。葵もその作業は手伝えるので協力した。
発散槽がいっぱいになったところで、槽よりも僅かに小さい蓋をして、モグがその上に載る。エネルギーが発散できるまで、またそうして一定のリズムでジャンプしていくのである。
これからまた六時間のジャンプ。とんでもない作業である。
「…………」
葵はただ黙ってもぐのジャンプを見つめるのみ。
少しだけ標高を下げた山から残りのマグエダを換算すると、この作業をあと四回はしなくてはならないだろう。
途方もない。
「……もぐのために、クラスのみんなで順番に手伝ってやりたいけどな。当番制にするとかしてさ。けど、それじゃ駄目なんだろ?」
「ありがとうございます。でも、はい、やっぱり絶対無理です。その、これはあっちがやらないと意味ないですから。みんながやると、きっと爆発しちゃいますし……みんなに迷惑はかけられません」
「『絶対無理』か……んっ」
口にしてみて、葵の頭に引っかかるようなものがあったというか、少し既視感のような閃きがあった。
「絶対に……絶対に、無理ね……絶対に……」
最近、『絶対無理』が出てくる会話をした覚えがあって……思案した結果、この広場までやって来る途中にひかりとした暇潰しに行き着いた。
瞬間、葵の頭に電球が光る。ぴかーんっ。
「あのさ、もぐ。交差点の三方向から三台の車が同時に進入したのにもかかわらず、なぜだか三台がぶつかることなく、かつ、同時に交差点をやり過ごせるなんてことなんて、あると思うか?」
「んっ……? なんのことです?」
「そんなの絶対無理なんだよ。だって、考えるまでもなく、どうしたって車はぶつかっちまうんだから」
「ぶつかるんですか?」
「でもそれはさ、三台の車が直進すると決めつけているから絶対に無理なことなんだよな」
直進という一方的な決めつけをなくすことと、ちょっとした頭の柔軟さがあれば話は変わってくる。
「つまりさ、知りもしないのに勝手にできないって決めつけないで、それ以外の可能性を探ることで『絶対無理』が実はそうでなくなるっていう、ありがたい世話焼き娘からの教訓なわけよ」
葵には今日までに得た知識もあって経験もある。得体の知れない星城高等学校に入学してまだ日は浅いかもしれないが、それでも経験して知識を得ていることは間違いなくある。
ある!
「つまりは、三台ともに左折だったらぶつからないってだけのことなんだよね」
葵の口角は大きく上がっていった。
※
「要件は何なも?」
クリスタルに照らされた洞窟のような空間に、とても場違いなポンチョ姿の銀髪娘が降臨した。
「早く帰って習字の練習がしたいなも」
葵が思いついた『左折方法』を実行すべく、校長先生の用事を済ませて戻ってきたひかりに空星を連れてくるように依頼したのである。きっと空星が渋るだろうから、『手伝ってくれたら売店にあるブラックチョコをいっぱい買ってやるぞ』っていう誘い文句で釣り上げるように指示して。
空星は相変わらず黒いものに興味津々だが、しかし、毎日売店で墨や紙を購入しまくっているせいでKポイントがほとんど底をついており、もう自分では買うことができないことを嘆いていた。
だからこそ、
「早くしてほしいなも」
こうして釣り上げることができたのである。ちょろい。実にちょろい。実にちょろいなもなも村の村長、宇野空星。
「実はな、空星、おれはとんでもないエネルギーを見つけちまったんだよ。もしかしたらお前が欲しているクロリーなんじゃないかってな具合のお宝だぜ。ってことで、そこにあるマグエダをクロポットに吸い込んでみてくれ」
「葵、あれ、赤いなも。ちっとも、黒くないなも」
「そこは騙されたというか、クラスメートを助けると思ってだな。あとは報酬のチョコのためにも」
「分かったなも」
明らかにチョコ目当てで目を光らせた空星は、着ている白いポンチョの内側からラグビーボールほどの壺のような形をしたクロポットを取り出した。先端の口を山積みになっている一本のマグエダに近づけてみると、例によって細かく分解されて吸収されていく。
ただ、空星の表情が冴えることはない。
「葵、これ、クロリーと、違うなも。でも、クラスメートを助けるなも。チョコいっぱいもらうなも!」
最後だけ鼻息荒く語尾強くした空星は、そこに積まれているマグエダを次から次に吸収していって……物の一分足らずですべてがきれいさっぱりクロポットに吸収されていった。もうない。
そんな様子を、発散槽の上でジャンプするのを忘れ、思わず目を点にして口をあんぐりと大きく開きっぱなしにしたままの状態でフリーズしている作業着姿の女の子が見つめている。深井戸もぐである。
「ななななななななななななななななななななななななぁ!?」
とても信じられないものを目の当たりに、驚愕の絶叫助走を整えたもぐは、
「なんですかそれえええええぇ!?」
絶叫した。
「なんでそんなのでマグエダをなくせちゃうんですかぁ!?」
「あっ、こっちにまだ残ってたなも」
発散槽にいたもぐをどかして、まだエネルギーの発散途中だったマグエダもすべて吸収し、任務完遂。まさに大活躍のスーパーヒーローである。
そんな空星の活躍に、満足そうに何度も何度も頷く葵は、
「よくやったな、空星。お前のここでの活躍は、あの小学生界隈で永遠に語り継がれることだろう。完璧だぜ。でもって、界隈住人のもぐ。これで一緒に学校に戻れるな。いっぱい植物の勉強ができるからな」
そんな葵の一件落着な決め台詞とともに、みんなで学校に戻ることになったのだった。
めでたしめでたし。
その際、空星が発散槽の方を興味深そうに見つめていたことを葵は目の端に捉えていたのだが、学校に戻れることを泣いて喜ぶもぐに気を取られたこともあり、あまり気にかけることをしなかった。
その時、空星が見つめていたものが、そして、その後の空星の行動が、この先、一年一組の崩壊を招くことなど、知る由もなく。