美馬カノン
美馬カノン
※
入学式。
「いいか、この学校で生活することにおいて、最重要事項を教えるからな。心して頭に深く刻むように」
一年一組担任、竜宮先生。
「校長は神だ! どんなことがあろうとも絶対服従の存在だ。これさえ守っていれば卒業なんて夢じゃない。大事なことだからよーく覚えておくように」
竜宮先生、咳払い。
「でだ、我こそはその神にお仕えする天使である! すべては聡明な校長のお導きのままにあるのだ」
唾を飛ばす勢いの竜宮先生は、今日も剣山のように髪の毛を逆立てている。黒いワイシャツにスラックス姿で、今は安らかに目を閉じて祈るように顔の前で手を組んでいた。
そうして十秒ほど祈りを捧げると、竜宮先生の目がかっと勢いよく見開かれる。
「じゃあ、今日のところは大目に見てやるが、明日からビシバシ! と厳しく鍛えてやるからな。覚悟しとけ」
そうして颯爽と教室を出ていった担任の姿に、葵は鏡がなくても眉間に深い皺が刻まれていることを認識するのだった。
四月四日。日を跨いだ入試からすでに四日が過ぎていた。今日は星城高等学校の入学式である。しかしそれは、一般的なイメージとはかけ離れたものだった。紅白の幕を張った体育館のような場所で大体的に行われるわけでなく、新入生全員がこの一年一組の教室に集合し、今の竜宮先生の話で終わり。それっぽいのといえば黒板に『入学おめでとう。校長の言うことは絶対だ』と白色のチョークで殴り書きにされている程度。
異常である。
異常といえば、葵が置かれている状況も異常そのものだった。なんたって、あの入試の日から一度も家に帰っていないのだから。いや、もはやこの学校の敷地内から一歩たりとも出られていないのである。
入試が二十四時を回って四月一日になっていた関係で帰れなかったのはよしとして……葵はそのまま校舎の東方にある寮、青星寮に案内されていた。こちらも校舎同様に古い木造建てで、校舎に一番近い『青一号室』と表記された扉を開けてみると、十畳ほどのスペースで二段ベッドに机が二つある。そしてなんと、なぜだか机の前に葵の着替えが届けられていたのだ。それはまるで、最初から今日この寮で眠ることが決まっていたかのごとく。
中学校サッカー部のときに使っていた見覚えのあるスポーツバッグに、『なんであるんだ?』と疑問に思うも、その日はもう疲れてへとへとだったこともあり、『まあ、いいか』と処理して二段ベッドの下に潜って就寝した。
瞬く間に翌朝になり、通路を出た先にある洗面所で顔を洗ってから、寮全体に『おはようございまーす。すみませーん』と声をかけてみたが、どこからも返事がなかった。どうやら葵以外は誰もいないようである。仕方なく、玄関を出てすぐにある校舎一階に移動してみると、鼻孔にはいい匂いが届いてきて、入ってみるとそこは食堂だった。そしてそこに待ち構えていた竜宮先生から『暫くは家に帰れないし、連絡も一切取ることはできない。お前はもうこの学校の生徒なんだから学校の方針に従ってもらうぞ。文句や苦情なんて一切受け付けないからな。あと、入学式までうろちょろするな。食堂以外はずっと寮の部屋でおとなしくしてろ。いいな』と言い渡された。そのせいもあって、今日まで食堂で食事する以外、寮の部屋で過ごしてきたのである。といっても、することはなく、ただベッドに横になるだけなのだが……不思議なことに、なぜだか退屈を感じることなく、あっという間に今日という日、入学式を迎えていたのだった。
入試の日に着ていたのは中学校の制服だったが、なぜだか今も同じ学らんを着用している。しかし、誰からもどうとも言われることがないので、これが三年間使用する制服になるのだろう。なぜ?
そんな葵は、教室中央の席に腰かけている。出ていった竜宮先生を見送ってから、特にすることなく、じっと座っているだけ。
「…………」
これまでのことと置かれている状況を冷静に考えてみれば、『これって、拉致監禁じゃねぇ?』なんて慌てふためくところなんだろうが、あの入試によってとんでもない悟りでも啓いたのか、葵は一切喚くことも警察に通報しようともせず、なんなら両親に連絡する術はないかと思案することもなく、当然のように今を迎え、当たり前のように今を受け入れられている。大変不思議なことなのだが、その不思議だと思う感覚も『まあ、いいか』になって霧散していくのだった。
「…………」
教室には生徒の机が三つある。葵が座っている机と、右隣りは紺色のブレザーにチェックのスカート、胸に赤いリボンをした神前ひかりがいる。どうやらあの入試のお手伝いさんは同期の新入生だったようだ。今日も今日とて後ろで三本に縛った髪の毛が背中に届いていた。
そして、そんなひかりのすぐ前の席に、大きなポンチョで全身を包んだ宇野空星がいた。なんとびっくり、あの空星も同級生だったのである。今は黙々と硯に墨を擦っている。その表情は真剣でありながらも和らいだもので、実に楽しそうでもあった。だからなのだろう、今日はフートを被っておらず、耳を覆う見事な銀髪が神秘的な輝きを放っていた。
「…………」
葵、ひかり、空星……以上の三名が今年度の入学生であり、この学校の全校生徒でもある。全員で三人。たったの三人。驚きでしかない。新設した学校とはいえ、生徒がたったの三人だなんて……先行き不安としか思えず、『こんな様子じゃ、あっという間に経営破綻で三年持たずに廃校になっちゃうんじゃ?』なんて真剣に心配になってしまう。なんとも入学式から縁起でもないことだが、その問題には間違いなく直面していることは確かだろう。三人って……。
でもってでもって、この学校の異常性はまだまだたくさんあるのだが……その最たるものは、学科である。普通科でも工学科でも建築科でも農学科でもなく、『よりそい科』という聞いたこともないわけの分からない科。思わず目や耳を疑ったが、そうとしか見えないし聞こえないのでどうしようもない。入試のときに学科を確認すらしなったことを悔やむところであるのだが、あの時は学科どころか学校名も確認していなかったので、ただただ示された藁を掴み、ろくに考えることなく流されていった自分を情けなく思うしかないのだろう。これこそまさに『後悔先に立たず』や『あとの祭り』というやつに違いない。細かくいえば違うかもしれないが。気分はそんな感じである。
よって絶望だった。入学式早々に絶望した。もはやその胸には『絶望』の二文字しかなかった。『よりそい科』なんて、こんな学校を卒業したら怪しい宗教のために働くことになるのだろうか? もはや恐怖でしかない。入学式から早くも前途多難な日々が窺えた。
はあぁー……。吐息。
「…………」
机上にある自身の左手首を目にすると、そこには赤色のリングが着けられている。『Kリング』というもので、入試の翌日に竜宮先生に『入学前に必要なものだ。さっさと着けろ』と無理矢理に、それはもう『有無』なんて言える一秒も与えられることなく強制的に着けられたもの。今履いているスリッパの色と同じなので、きっとこれから学年ごとに色を変えていくのだろうと推定する。
で、このKリングにどんな意味があるかといえば……とても親切であり、お世話焼きのひかりから教えてもらった話なのだが、なんでもこの学校の制度として『Kポイント』というものがあるらしい。そして、そのポイントが入学時に十万ポイント支給されていたのである。そのポイントで食堂を利用し、隣接する小さな売店を利用するシステムなのだった。他にもまだ利用できるのかもしれないが、詳しいことは学科名すら知らなかった葵には見当もつかない。
で、そのKポイント、一ポイントは一円と等価であり、当然のように使った分だけその場できっちりと消費されていく。現金を払わなくても食事やお菓子が食べられるのでいいのかもしれないが、しかし、この制度には落とし穴もある。それは、Kポイントを使い切ってマイナスになると退学になるという制度である。無計画のポイント破産で退学になるって……とてもじゃないが無駄遣いはできないし、なくならないようにこまめにチェックしなければならないし、言うまでもなく計画的に利用しなければならない。
で、救済処置というわけではないが、増やす方法はちゃんと用意されている。学校行事や成績に応じて新たなKポイントは付与されるらしいのだ。それはきっと普通の学校なら単位を取るような感じで、これからKポイントを取得していくのだろう。あんまり詳しい説明は受けていないので、こんなのだいたいの推測でしかないが。知らないこと、とても多い。
で、思うに、第六感としては間違いなく、このリングによって生徒全員が学校側に管理されているのだろう。詳しくも分からないのに、なぜだか葵はその確信を得てしまっている。こんなわけの分からない状況に陥られているのだから、この学校ならそれぐらいのことやるに違いないと。
で、どんな材質か知りはしないが、とにかくリングは頑丈だった。指よりも遥かに細いくせに、力を入れたりどこかにぶつけても折れたり割れたりすることがない。さらには、どう頑張っても左手首から外れることがないのである。つまりは、学校方針に反発してこの学校から逃走したとしても、きっとこれで追跡され、力ずく送還されることは目に見えている。まるで刑務所にいるようであった。
ああ、無情である。
「おい、亜井!」
勢いよく教室の扉が開き、さっき出ていったばかりの竜宮先生が戻ってきた。その吊り上がった目つきは鋭く光るナイフのように鋭い。
「突然だが、転校生を紹介する」
届けられた意外な言葉に、葵は小さく首を傾げる結果となった。『入学式にやって来る転校生は、転校生じゃなく入学生なのでは?』なんて疑問が頭に渦巻いたが、例によって『まあ、いいか』ですぐに霧散していった。
竜宮先生につづいて、扉から転校生が入ってくる。
「こんにちはこんにちは。美馬カノンだよ。よっろしくねー」
教室に入ってきたのは、身長百八十センチメートルぐらいの長身で、まるで西洋モデルみたいな女子だった。顎のラインに揃えられた金髪で、瞳はエメラルドのように深い緑色を有しており、その肌は陶器のように白かった。ひかりが着ているものと同じ茶色のブレザーにチェックスカートに身を包み、新生活に胸をときめかせているのか、にかっと歯を見せる元気な笑顔を携えていた。
「よし、じゃあ、亜井! 亜井葵! 美馬のこと、暫くはお前が面倒を見てやれ」
「えっ、なんで!?」
葵は唯一の男子生徒で、他に女子二名がいるというのに、なぜ?
「口答えしてんねじゃーっ! この愚図野郎ぉ! んなもん、てめえが生徒会長に決まってるからだろうがぁ!」
「お、おれって生徒会長なのぉ!?」
びっくりして裏返る声。立候補もした覚えがなければ誰からの推薦も受けた覚えもなく、ましてやそうなるための訴えだってしたことはない。それどころか、そもそも選挙すらしていないのだ。ただ、選挙しようにも全校生徒は僅か三人なのだが……なのに、あろうことか入学式当日に生徒会長になっていたことが本人の知らない間に決まっていただなんて……青天霹靂、大雪警報、台風一過である。
意味が分からない。ただ、こうなってくると、この学校に意味を求めてはいけないのかもしれない。事実、意味不明なのだから。
けど、やはり納得いかないものは納得いかないので、ささやかながらの抵抗は試みてみることにする。
「いや、でも、なんというのか……ここは生粋のお手伝いさんであり、それだけでとんでもない人脈を広げてきた神前ひかり先生の方が、女子同士、気兼ねなくやれるんじゃないですか?」
「あ、葵くん、ごめんね。わたし、空ちゃんに字を教える約束をしてるんだよね。ほら、空ちゃん、あんなにやる気満々だから、無下に断ることもできないし、少し待たせることもできないんだよね。ごめんね」
そう眉を寄せて少しだけ申し訳なさそうに微笑むと、ひかりは硯に墨を擦りつづけている空星の横にしゃがみ込んだ。机上には筆と紙が用意されているので、きっと習字でもするのだろう。『字を教える』というぐらいだから、もしかしたらひかりは書道の有段者なのかもしれない。
「じゃあ、空ちゃん、まず『あ』っていう字を教えるね。『あ』はね、日本語のはじまりにして、五つある母音の一つだから、とっても大事な字なんだよね。ちょっと丸みがあって、でも真っ直ぐなところは真っ直ぐで、バランスが絶妙で、とってもかわいい字なんだよね」
違った。葵が思っていたのとは違った。『字を教える』は習字を教えるのではなく、本当にそのままの意味だった。しかも『あ』を擬人化しているかのように『かわいい』なんて表現するとは……ただ、ここで改めて思うのは、やはりあの銀髪ポンチョ娘は、『あ』を知らないぐらいだから、初対面のときに睨んだ通り日本人じゃないのだろう。日本の制服という文化を無視なり拒否なりして、雨も降っていないのに大きなポンチョを着用する人種といえば……いったいどこの国の人間なんだか? まったく見当もつかなかった。
「……んっ」
葵が『雨の多い国なんだろうか? イギリスは、霧だったような……』などと思案していると、急に視界が暗くなる……ぱっと顔を上げると、すぐ目の前に噂の転校生が立っていた。長身の女子をこうして上げることなどこれまでなく、自然と口が開いてしまうほど、なんだか圧巻である。この身長だから、きっとバスケットボールやバレーボールでもやっていたのだろう。まあ、今のは『身長が高い女子はそういうもんだろうな』という偏見かもしれないので、口にはしないでおく。
「あ、えっと……実はおれも入学したばかり、ってより、今日がまさに入学式当日だから、あんまりこの学校のこと詳しくなんて……」
「ねぇねぇ、あおミー、お願いあるんだけど」
予告も通告もなく葵のことを『あおミー』と呼ぶ高い位置にある満開の笑顔は、窓の外を指差した。
「外に出てキャッチボールやろうよ」
ほぼエメラルドな瞳は、春の日にとても輝いているのだった。
※
サッカーコート二面はできるだろう土のグラウンドに立ってみて……北側にさっきまでいた木造二階建ての校舎がある。一階は東から順番に食堂、職員室、校長室であり、東西に二つの階段があった。そして二階は、一番東側が葵たちの一年一組の教室で、他はすべて空き教室という、なんとも寂しいフロアとなっている。これが少子化とやつなのだろうか。この学校に関しては違う気もするが。
校舎の東側には葵が生活する青星寮があり、反対の西側にはひかりたちが生活している赤星寮がある。ともに校舎と同じ木造建築。
グラウンドからは見えないが、校舎の北側に体育館があり、その東側が駐車場である。正門は駐車場の西に位置しており、そこからアスファルトの道路がつづいているのだが……その門が開いているのを葵は見たことがなかった。ただの一度も。まだ数日しかいないのでたまたま見たことがないだけだと信じたいが……どうしてその頭には『監禁』という二文字が激しく点滅しては猛スピードで回転してしまう。これから三年間通う学校のことをそんな風に考えるべきじゃないのだが、どうしても考えてしまうのを止めることはできなかった。
そしてそして、それ以外は真っ白だったのである。不思議なことに、この学校を取り囲むように深い霧が立ち込めているのだ。正門からの道路もすぐ白色に遮られてしまうので、どんな風に道がつづいているのかも定かではない。また、空を見上げようにも、そこもまた霧で真っ白。朝も昼も夜も、葵がいつ見ても学校周辺も上空も白色しか見ることができないのである。よほど山深い場所にいるのだろうか? ただ、あんなに霧が濃いなら、この敷地内にも立ち込めていてもおかしくないはずなのに、まるで深い霧から守られているかのように敷地内だけは視界良好なのである。もしくは、この学校の異常さに霧すらも避けて通っているのかもしれないが……あながち冗談に思えないところが怖いところである。
「ねぇねぇ、あおミー、ちょっと力入れてみるねー。えいっ!」
「おおぉ……おあっと、これはまた、結構なお手前で」
飛んできた白球に胸の前でグローブを出したら、どすんっ! と重たい衝撃に襲われた。スピードもそうだが、その球にはボール以上の重みがある。
葵は十メートル先にいるカノンにボールを投げ返す。ソフトボールもグローブも体育倉庫から借りたいもの。
「ねぇねぇ、あおミーって、どんな部活に入りたい?」
「部活?」
考えてもみなかった。ここまで不可解な日々で、そんな学校生活における青春オプションみたいなこと、考えている余裕なんてなかったから。
「部活は、なんだろうな、なんせ全校生徒が四人だからな」
「中学のときは?」
「一応サッカー部だったけど……とても無理だもんな」
人数的な問題もあるし、それに、葵にそこまで思い入れがあるものでもなかったので、サッカーは諦めるというより、選択肢から除外された。
「消去法で個人競技がいいんじゃない? ってのか、それしかないな。個人競技だから卓球とか、テニス、バドミントンとか、なんか似たようなもんばっかりだな。えーと……あ、でも、それだとしても練習相手も必要だからな、やっぱり人数ほしいよな。うーん……少人数の部活って、運動部にはない気がする」
なんとなく、葵には『男で部活といえば運動部一択で、文化部なんか部活じゃない』という変な思い込みがある。偏見といってもいいだろう。そのせいで、文芸部や料理部、演劇部に天体部という選択が最初から頭に思い浮かんでいないのだった。さして運動能力が高いわけでもないのに、部活動に対してはなぜか『運動部』という凝り固まった考えで、そういった偏見に満たされているのである。
「ああ、弓道部なんて、もしかしたら一人で戦っていけるかもしれないな。設備さえあればばっちりだけど……そうか、それだとそれで、練習場所っていうか、弓道場なんてないだろうからなー」
「ねぇねぇ、あおミー、カーミーね、ソフト部に入りたいなー」
「いやいやいやいや……」
飛んできたボールはやはり重たく、カノンが経験者であることは疑いようがなかった。ただ、経験者だからといってできることとできないことがある。数字というものはとても正直であり、決して誤魔化すことはできないのだ。
「全校生徒は、四人なの。たったの四人。そんなんじゃ試合どころかチームすら組めないだろうが」
葵がグローブを着けている左手を少し振ることで、相手に『ちょっとボール、強いんじゃないの?』とさり気なくアピールしてから右手でボールを投げ返すと、カノンは不思議そうに首を傾げながら腕を上に伸ばし、ジャンプをすることなく背伸びをしてぎりぎりでキャッチした。長身。
「そんなのそんなの、別にいいじゃん、気にしない気にしない。ねぇねぇ、ソフトやろうよ。絶対絶対、カーミーはおもしろくなる自信があるよー」
カノンはボールを右手に、その感触を確かめるように、それぞれの指を交互に立てては握りを変えていく。
「まずカーミーがピッチャーで、あおミーがキャッチャーで黄金バッテリー完成ね。これからどんどん三振の山を築いていくんだから。それでそれで、ひかミーが監督で、そらミーがマネージャー。ほら、完璧」
「無理あんだろ! んなもん、ちょっとでもボールが前に飛んだら全部ヒットになるじゃねーか」
「平気平気ぃ。だって、全部三振にすればいいんだから。ほら、完璧」
「……なら、バッティングはどうするんだよ?」
「カーミーたち以外は、全部アウト扱いにしてもらうから。ほら、完璧」
「……二人が敬遠されたら絶対に点取れないんじゃないのか?」
「カーミーが敬遠ボールをホームランにするから。ほら、完璧」
「……お前の『完璧』はちっとも完璧じゃないんだよな」
葵は額に大粒の汗を浮かべて眉間に皺を寄せていきながら……ふとした疑問が葵の頭に浮かぶ。
「そういや、あの二人のこと知ってるのか? さっき教室きてさ、転校生って紹介されたばかりだけど」
「知ってるよ知ってるよ。だってだって、カーミーたち、もう何週間前から寮で一緒に暮らしてるんだもん」
「えっ、そうなの……?」
その事実、まったく知らなかった。ここ数日間、同じ敷地内で暮らしていたというのに……どうやら葵の知らないこと、世の中にはまだまだたくさんあるみたいだし、この学校に関することですら頭が混乱するほどにたくさんあるらしい。
「だとしても、選手二人じゃさすがに大会には出られないし、練習試合だってやってくれるチームはないんじゃないか?」
「大丈夫大丈夫。サッカーだって退場したら人数減るし、バスケットだって交代選手がいなくなったら一人少ない四人で試合するんだから、理論上は二人でやったって問題ない」
「ないとは思えないし、どんな理論なんだか……」
「だいたい、人数が少ないのなんてハンディキャップなんだから。あ、そういう理屈なら、なんだかいけそうな気がしてきた。ほら、完璧」
「うん、いけないからね、ちっとも……」
葵は、意図的に解決できない問題の上に立ってから、もう一つ新たな問題を提起してみせる。
「せめて、あの二人こそチームに入れて、おれが監督じゃなきゃ、女子チームとして成立しないぞ。人数の少ない学校同士が合同チームで試合に出るならありそうだけど、男女混合チームなんて聞いたことないから」
「その辺はその辺は、ほら、あおミーがチョッキンすれば解決するよ。ほら、完璧」
「チョ……」
葵は飛んできたボールをキャッチするとともに、相手がVサインを鋏のように動かしていることを目の当たりにして……急に内股となり、全身に激しい悪寒が走っていた。こんな春の穏やかな日、とても想像したくない未来の自分を思い描いては、膝から崩れ落ちていく。
「おれが不甲斐ないばかりに、まだまだ目くるめく魅惑体験をさせてあげられていないっていうのに……すまない」
「それそれ、ちょうどよかった。あおミーさ、しゃがんだついでに、ちょっとキャッチャーやってみてよ。そろそろ肩が温まってきたから。ふふふっ。今、この瞬間、これこそが百年後まで語られるという、星城高校女子ソフトボールの黄金バッテリー結成の瞬間になるね」
「んっ、ああ……」
顔を上げる。しゃがんでいるのでさっきから視線がだいぶ下にきている視界において、前方にはスカートを穿いた高長身の女子生徒がいる。改めて、その細い脚がとても長いことを実感することとなった。と同時に、ひらひらっと風に靡いているスカートに、なんだか嬉しい罪悪感が生まれそうな、ちょっと複雑な懸念をボールを投げ返しながら提示してみることにした。そこは正直に、これから高校生活、こんなことでしこりを残して後ろめたくならないように。
「でも、そんなんじゃ、パンツ見えちまうかもしんないぞ」
「ねぇねぇ、あおミーって、もしかして、パンツ見たいの? だったらだったら、今穿いてるパンツ、あげようか?」
「ぶわあぁ!?」
まったく予想だにしなかったカノンの魅惑的な提案に、思わず葵の心臓が大きく跳ねてしまう。どっくんっ! 全身の血が逆流するかのように体温は一気に上昇していった。
「おい、おい! そこの転校生、馬鹿にすんなよ! あのな、お前のそんなパンツなんてな、いる!」
「いるのぉ!? それはちょっと、その……随分と斜め上からの意外な発言されて、ちょっとびっくり。あはははっ、あおミーっておもしろいね」
「いいか、覚えとけ。おれはな、斜め上をいく意外性の男だからな」
「ならなら、カーミーは、謎多き金髪長身美少女SPだ!」
葵の瞼が一度大きく上下する。『斜め上をいく意外性な男』と告げた手前、『自分で美少女って言うな』なんてあり触れた返しはできない。
「す、す、す、ス、ストレート、パーマってことか?」
「えっえっ、なにがなにが?」
「最後のSP」
「あはははっ。違う違う。金髪ストレートパーマなわけないじゃん」
「じゃ、じゃあ、なんだってんだよ?」
「秘密」
カノンはにっこりと微笑んだ。それと連動するように、前傾姿勢に沈み込み、ボールを握っている右腕を大きく一周させた。と同時に投球する。
ボールは激しく回転しながら葵が構えるグローブ目がけて飛んできて、構えているグローブ手前で急にホップし、
「っ!?」
葵の額に激突した。
「ったああああああああああああああああああぁぁぁ!」
正面からソフトボールが当たっただけだというのに、まるで首が持っていかれたみたいな強い衝撃。葵の視界にはいくつもの星が瞬いている。
「な、な、なんだ、あの軌道は!? 完全に重力を無視してやがるぜ。これは『無重力ボールSP』と名づけることにしよう」
「あはははっ。ごめんごめん、ちょっと痛かったねー。でも、その痛みに耐えてこそ、カーミーの専属キャッチャーだよ。ファイト!」
「いや……ちょっとどころじゃないんだけどね」
とても報酬がパンツ一枚では割に合わない激痛だった。もちろんもらえるなんて真に受けていないが。断じて。悔いなく。本当に。
葵は少し額を摩りつつ、後方に逸らしたボールを取りにいって、投げ返す。
「にしても……」
ボールを投げ返して、思うことがある。
「いやー、高校生やってるなー」
つい数日前までは高校生活とは無念の人生どん底状態で、ただ部屋に引きこもる生活をするばかりだった。さらには、この学校にきてからもわけの分からない状況に置かれて、奇妙奇天烈な生活を送ることしかできていなかったのだが……こうして明るい時間帯に土のグラウンドに立ち、同級生女子とキャッチボールをしている状況は、紛れもなく青春である。
葵はようやく高校生になれたことを実感した。というより、大きく外れた道からどうにか戻ってこれた安堵感に満たされている。
「いやー、平和だー」
「うんうん。今日も平和だねー。でもねでもね、世の中、こんなに平和な方が結構謎だったりするんだよ」
「どういうことだよ?」
「だってだって、人はたくさんいて、その大勢がいろんなこと考えて、それぞれがそれぞれの主張があって、どうしても譲れないところがあって、それでたくさんの衝突があって、それでそれで、これまでいっぱいいっぱい戦争が起こってきたんだから。いっぱい人がいるのにこんな平和な時間がある方が謎なんだよ」
「『戦争を知らない子供たち』か。なるほど、まさにそうだな。にしても、なんか急に社会情勢に首を突っ込むような、ちょっと賢さアピールの発言してきやがったな、あの金髪美少女」
「そりゃ、謎多き金髪長身美少女SPジャーナリストですからね」
「わっ、職業が追加されている!?」
「きっときっと、みんなの知らないところで今にも崩れそうな危うい砂山があって、そのバランスを汗水流して必死に決死にうまいこと取っている人がいるから、こうも平和な世界なんだろうね」
「なるほど、だったら、今は亡きそのバランサーに感謝だな」
「そうだよそうだよ。って、亡きかどうかは分からないけど、きっと亡きの人もいるんだろうね……明日もこうして当たり前のようにキャッチボールができる保証なんて、実はどこにもないんだから、あおミーのいう『バランサー』には感謝してもしきれないね」
葵には、どこかカノンのエメラルドの瞳が、より深い緑色を得たような気がした。それがどんな意味合いを持つものなのかは定かでないが。きっと謎多き人はやっぱり謎が多いのだろう。
ただ、葵にとってはそんなものこと『まあ、いいか』である。
「あのさ、カノン、明日のことはさておき、そろそろ昼だから、食堂いこうぜ」
「じゃあ、お昼食べたらまたここに集合ね」
「昼からもやるんだ、これ。まあ、暇だからいいけど。せっかくだから教室の二人も誘ってやろうぜ。って、今はポンチョ娘の日本語講座に首ったけなんだっけ。よし、無理矢理にでも連れ出すか。おお、それがいい」
昼からの約束を交わし、二人で校舎の方に歩いていく。今日の昼食は定食か麺類か丼か、どれだって楽しみであることに違いない。食堂のご飯はどれもおいしいのだから。
平和な食事。食べられて当たり前。
しかししかし、だがしかし、その時グラウンドで交わされた二人の約束は、守られることがなかった。急な雨でグラウンドが使えなくなるとか、竜宮先生に扱き使われるとか、熱が出て寝込むことになるとか、大地震が起きて学校が崩壊するとか……そんなことは一切起きることなく、ただグラウンドに集まるという約束が果たされなかったのである。
その理由は、カノンが失踪したから。寮にも学校の敷地内からも、どこからも。まるで白く深い霧へと吸い込まれたみたいに姿を消したのだった。
※
本日四月五日は火曜日であり、入学式の翌日である。
「…………」
朝八時半の始業時刻に合わせるように校舎二階の一番東側にある一年一組の教室で机に頬杖をついている葵。亜井葵。その横には今日も髪の毛を後ろで三本に縛ったひかりがいる。神前ひかり。葵の斜め前にはパンチョ姿の空星がいる。宇野空星。この三人が席にいるのは昨日と同じこと。
昨日までと違うのは、すぐ前に新しく用意された机があり、かつその席の主が不在であるということ。
「……なあ、ひかり、『帰宅』って教えたのか、空星に?」
「あれ、葵くん、どうやら分かっちゃったみたいだね。空ちゃん、覚えるの上手だから、こっちも教え甲斐があるってもんだよね」
「あ、そう……」
教室後方の壁に『帰宅』と毛筆で書かれた紙が貼られていた。しかも結構な達筆で。昨日の最初は確か『あ』を教えていた気がするが……少女の成長は目まぐるしいものがある。
と、チャイムが響いて、鳴り止まないうちに教室前の扉が開いた。廊下から入ってきた竜宮先生のホームルームがはじまるのだろう。
「おい、亜井! いい加減にしろ!」
いつものように髪を逆立てた竜宮先生は、教室に入ってくるなり怒鳴り声を上げていた。それも真っ直ぐ教室中央にいる葵に向かって。
「お前は、なんで美馬の面倒をちゃんと見てやらないんだ!? 転校二日目でこれじゃ、先が思いやられるぞ! まったく、しっかりしろ!」
「いや、おれだって、約束すっぽかされて迷惑してるんですけど」
「口答えしてんじゃねえ!」
一喝。葵の話など耳にもかけない一方的な決めつけで。
「罰として、今から美馬を迎えにいってこい。これは命令だ。ぶつくさ言うな。早く立て。すぐ出ていけ。はい、駆け足。いちにーいちにー」
「あ、あの、竜宮先生、カノちゃんのこと、わたしも心配だから、一緒についていってもいいかな?」
「はぁ!? なんで神前までいこうとするんだ? んなもん、駄目に決まってるだろう。そうやってこいつを甘やかす必要なんかない。これっぽっちもな」
「いや、でも、『神前さんもついていった方がいいですね』ってさっき校長先生が仰っていたんだけどね」
「なななななななな、なにぃ!?」
実に大げさに両腕を前後にさせ、まるで歌舞伎のようなポーズで驚きを表現する竜宮先生。
「こ、校長がそう仰っていたっていうのかぁ! えー、ごほんっ、ごほんっ……まったく、仕方がないな。亜井一人じゃ心許ないから、今回だけは特別に神前もついていってやれ。充分注意して、怪我には気をつけろよ。迷いそうだったらすぐ帰ってきていいからな」
「じゃあ、葵くん、これから一緒にカノちゃんを迎えにいくから、元気いっぱい出発しようねー」
「あ、いや、ああ……」
葵は自身の扱いや置かれている状況に、なんだかとても納得いかない思いが体の内側から溢れんばかりだったが、ひかりに手を引っ張られて渋々歩き出すことにする。『ほら、急げ!』と急かす竜宮先生の前で少しだけ進む歩を緩めてささやかな抵抗を試みてから、重たい足取りで開いていた教室の扉を抜けると、
「へ……」
刹那、迫りくる絶対的な白色に押し潰されるように、葵は『これって、最近よくあるやつだー』と思った一秒後に気を失っていた。
※
「葵くん、早く起きないと、葵くんのおでこに『帰宅』って空ちゃんに書かれちゃっても、これっぽっちも文句言っちゃいけないんだよね」
「……いや、文句は言えるだろう」
葵はすぐ前で覗き込んでくる満面の笑みに対して、無難な突っ込みをしてみたが、それは考えてではなく反射みたいなものに過ぎない。その頭はぼんやりと霞がかかっているようだった。
「……ここ、どこだ?」
すぐ前に見慣れない階段がある。どうやら一番下の階らしくこれより下はない様子。今は階段の裏側スペースで横たわっていた。すぐ横には段ボールが積まれており、ここの人たちの荷物置き場として利用されているのだろう。『ここの人たち』が誰だかは見当もつかないが。
「おいおいおいおい、ひかり、ここって、どこさ?」
「しぃーっ! しぃーっ! お願いだから静かにしてほしいね」
「…………」
「今からカノちゃんを迎えにいくから、絶対に喋らないでね。無駄口厳禁だからね。ちょっとでも声を出したら大量の凶暴なスズメバチに襲われると思って、緊張感を持ってほしいんだよね」
「なんかよく分からんが、随分と緊迫してることは理解した」
教室を出たと思ったらよく知らない狭い場所で目覚めて、前にいるひかりの表情が実に硬く、今はスズメバチの様子を窺うように周囲を警戒している。映画やゲームでいうところの追いかけてくる敵から隠れているみたいである。
「…………」
いきなりこんな緊迫した状況に置かれているので、一刻も早く置かれている状況を把握しておきたいところだが、我慢することにする。我慢、大事。
ひかりが手招きしたので背中を追いかけて通路を進んでいくことに。どこにも窓がなく、圧迫感のある真っ白な壁がつづく狭い通路を抜けていき……一分も経たずにとある扉の前に辿り着いた。鉄製の扉で、何も表記はされていないシンプルなもの。
ひかりは耳を扉につけて聞き耳を立てて中の様子を確認してから、ゆっくりと慎重にノブを手前に引いた。
中にも窓がないせいでとても暗く、ひかりは扉近くの壁にスイッチを見つけたようで、天井の照明が点くと……どうやらこの部屋は物置のようで、いくつかある棚には箱や布が畳まれて収納してある。
「カノちゃん、いたね!」
部屋に入って左側の角に、カノンがぐったりするようにしゃがみ込んでいたのである。ぴっちりとした黒いライダースーツ、その上から医師のような白衣を羽織っている。今は膝を抱えてしゃがみ込んでおり、その顔は少し青白くあった。きれいだった金色の髪は土埃で汚れており、弱々しい目であるが、しかし、あのエメラルドな輝きは健在である。
「大変、どこか怪我でもしたのかな?」
「あはははっ……いけないいけない。カーミーとしたことが、ちょっと失敗しちゃってね。その、右の足首がやばくって、まともに歩けないんだよね。あー、情けないやら惨めやら……」
「見日の足首だね、ちょっと待ってね」
ひかりがしゃがみ込み、ブレザーのポケットから包帯と湿布を取り出すと、カノンが負傷したという右足首を固定していく。手慣れた様子なので何度か経験があるのだろう。もしかすると運動部のマネージャーでもやっていたのかもしれない。こうしてまた一つひかりの過去が推察できたような、新たな謎が増えたような。ただ、世話焼きスキルはかなり高い模様。
「よし、これでちょっとは楽になるはずだからね」
「ありがとねありがとね、とってもとっても楽になったよ。にしても、ひかミー、よく包帯なんて持ってたね?」
「ふふふふふっ。こんなこともあろうかと、校長先生に持っていくように渡されていたんだよね」
「あはははっ、さすがさすが。あのしんミー校長は抜け目がないなー。もう尊敬しちゃう。きっとこの場所もしんミー校長から教えてもらったみたいだね。あの人、本当に凄いなー」
笑顔で励まそうとするひかりと、弱々しいながら口元を緩めるカノン……そんな二人の様子に、棒立ちの葵は場違い感があるというか、すっかり周回遅れの状態で置いていかれているからこその疑問をぶつけてみることにした。
「でさ、学校さぼって、カノンはここで何やってたんだよ?」
「それはねそれはね、もちろん世界平和だよ。だってだって、カーミーは謎多き金髪長身美少女SP正義のヒーローだからね」
「いや、そんなウインクされても……」
この瞬間、葵の奥深い部分で、この件に関してあまり触れてはいけないような気がして、場が落ち着くまで引いた感じで様子を見守ることに決めたのである。
「きっときっと、一階の出入口は封鎖されてると思うから、どうにか脱出ルートを見つけなきゃいけないんだろうけど」
「じゃあさ、まず屋上を目指すことにしようね。そうできれば、きっと相手の意表を突けるはずだからね」
「確かに上に逃げるって発想はなかったから、盲点ではあるけれど……それでそれで、どうにかできるの?」
「その辺は行き当たりばったりでどうにかできる予感がしてるから大丈夫だと信じていてほしいんだよね」
「さすがさすが、ひかミーは頼りになるなー」
「じゃあ、わたしはちょっと先いって様子見てくるから、二人は二分ぐらいしたら階段に向かってほしいんだけど、いいかな?」
言うが早いか、ひかりは扉を開けて出ていった。身を屈めて小走りしているのに、こんなにも静かな通路でも一切靴音が響かない。忍者の末裔かもしれなかった。謎の世話焼き忍者……多分違うだろうけど。
残ったのは、葵とカノン。少し埃っぽい静寂の小部屋。
「……まったく理解できんのだが、とにかくここにいちゃまずいんだろ? だったら早く出ようぜ。ほら、掴まって」
葵は肩を貸し、カノンを負傷した右側から支える。そうこうしているうちにひかりが出ていってから二分が経過したはずだから、ゆっくりと扉を開けた。出てすぐ右に進路を取り、窓のない狭い通路を進んでいく。一定の間隔で設置された天井の照明は、壁や床の白さを強調するようであった。そんな空間には、一人と右足を引きずる一人の靴音が小さく響いていたのである。
「だいたい、カノンさ、なんで白衣なんて着てるんだよ? お医者さんごっこなら、ちゃんと聴診器もつけてもらわないと困るんだけど」
「ああ、これはねこれはね、これ着てると、この白い壁と同化して目立たなくなるでしょ。これこそ得意のカメレオン戦法で、これで好きに移動できちゃうってわけ。ほら、完璧」
「でも、完璧な人間が怪我なんかしないだろうが」
「まあまあまあまあ、カーミーはね、その辺りのチャーミングさも兼ね備えているわけさ。あははははっ」
そうこうしていると、先ほど葵が目を覚ました階段に戻ってきた。しかし、ひかりの姿はない。
「あいつ、どこいった?」
耳を澄ましてみると、遠くの方で移動する靴音が響いている。複数あるので、ひかり以外のものであることは間違いない。
周辺にひかりの姿はなく、上階の方にもその気配は感じられなかった。それがいいことなのか悪いことなのかは定かでないが、立ち止まっている場合ではないことは確かだろう。
「ひかりがいないけど、あいつのことだからうまくやる方法をきっと校長先生から聞いてるはずだから……向かうのは、確か屋上だったな、おれたちもいくぞ。いけるだろ? いくぞ」
怪我人に肩を貸しながら階段を上がっていくのはかなりしんどそうだが、弱音を吐いている場合ではない。いや、正確には『どんな場合』なのかもろくに理解できていないのだが、ここで立ち止まっていてはいけないことは葵にもなんとなく察することができていた。
であれば、カノンに肩を貸しながら一段ずつ懸命に上がっていく。
カノンは声こそ漏らさないものの一段ずつ顔をしかめるようなので、相当な痛みがあるに違いない。けど、我慢してもらうしかないだろう。
二十段ぐらい上がって、最初の踊り場に辿り着いた。折り返しのために向きをくるっと変える。同じような階段が二十段ほどつづいているので、また一段ずつ。確実に次の一段を。また一段。
「ところで、ここ、どこなんだよ?」
「ああ、ここはねここはね、IMAY研究所よ。近年極めてきな臭い大国西側の怪しい研究所であることは間違いないわね」
「な、なんでそんな場所に、カノンがいるんだよ?」
「その辺りは全面的に謎だって思っておいてほしいな。だってだって、あおミー、それ知ったらもう引き返せなくなっちゃうよ。それでも構わない?」
「構う!」
「あれ、あれれ……なんか、思ってたのと違う。もうちょっと男気がある感じの格好いい台詞が返ってきて、『さすがにあおミーは選ばれし勇者だなー』ってなることを期待したのに」
「引き返せなくなるとこなんていくもんじゃない。安全が一番だからな」
「そうそう、安全が大事だね。だから、カーミー、ここにいる。あっ、痛たたたたっ」
「なんだかよく分からんが、これ以上怪我しないように頑張れよ」
「そうするそうする。痛たたたたっ」
また踊り場に辿り着き、また踊り場に辿り着き……何度目かの踊り場で、異変が起きることとなる。
「ニーカン、ジ、サエバ!」
唐突に声がした。下方からの声。静かだった空間に反響して、同時に靴音が下の階から迫ってくる。
「ジーシエ、パン、ダーカ、ワイイ、デ!」
発せられた声は少し甲高いもので、葵には何語なのかさっぱり分からないが、とても助っ人がきたとは思えない怒声も交ざっていた。さらには靴音が二つ、三つと徐々に増えていく。響いている声に集まっているかのように。
「あらあら、追いつかれちゃったか。ならなら、これはしょうがないよね。よし、あおミー、ちょっとだけ耳を塞いでて」
下の様子に少しだけ目を細めて思案した様子のカノンは、そう言うが早いか、白衣のポケットから黒光りする丸いものを取り出し、階段と階段の隙間から投下した。床にぶつかった音と、またどこか床にぶつかった音がする。
「ぃ!?」
きっちり三秒後、轟く爆発音! 夏の夜を彩る花火大会の比でないほどに、葵の心臓は大きな衝撃を受けていた。と同時に、強烈な熱風が下の階から迫ってきたではないか!
熱い!
衝撃による階段の振動は凄まじく、周囲の空気は大きく震えており、天井から埃のような粉状の破片が宙を舞っていた。
あまりの激震に、葵はふらついた足で倒れそうになるも、肩を貸しているカノンのために堪えてみせた。根性である。
「ななななななななな、何投げたんだ!?」
「もちろんもちろん、季節外れの花火だよ。どっかーんってね。さっ、追いつかれちゃう前に、先に進もう。もうすぐ屋上に着くと思うから」
「なぜそうも平然としてられる……」
葵は何か強烈な脅威に追い立てられるような心境がした。無責任に投げ出せるものなら投げ出してしまいたいが、そういうわけにもいかない。全身に激しい熱を帯び、大量の汗を分泌させながら階段を上がっていく。その間ずっと得体の知れないものが、大蛇のようにすでに首に巻きついている気分の悪さがあった。
「っ!?」
と、次の踊り場で全身がびくんっ! と揺れた。その影響でぴたっと足を止めて、立ち止まる羽目となる。
すぐ上の階に白色のフルフェイスに全身白装束が立ち塞がっていたのだ。その姿、まるで蜂の駆除業者のよう。
「ジージー、チョーチョー、コマッチョ、バ!」
そしてなんと、右手には不気味に黒光りする拳銃が握られていたのである。その銃口はさも当然のように葵とカノンに向けた状態で。
拳銃!?
「コセコセ、ヨ! ンチャ、コセコセ、ヨ!」
葵には相手の言葉が分からないので大声を出している白装束の仕草だけで推測するしかないのだが、それでも『ホールドアップ』と伝えているのは明白だった。
さすがに拳銃相手に観念するしかないだろう……そもそも拳銃を向けられている理由も定かでないが、葵はカノンに肩を貸した状態のまま抵抗なく手を上げた。強者には逆らえないという自然の摂理に従うかのごとく。
しかししかし、カノンはどこ吹く風といった様子。拳銃にも決して屈することなく、次の一歩を踏み出そうとする。
「お、おい、カノン。さすがにあんなの無理だろ。そりゃ、きっとモデルガンなんだろうけど、そうに決まってるんだろうけど、そうであってほしいけど、ただただそうであることを祈るしかないけど、でも、ここはおとなしくしとかないと。モデルガンで撃たれても痛いけど」
「大丈夫大丈夫。カーミーに任しといてよ」
エメラルドのウインク。平然とした表情には、焦燥や強がりといったものは感じられなかった。
「ほらほら、そこの宇宙服のおじさん、これがどうなってもいいのかしら?」
カノンは白衣のポケットから一本の試験管を取り出した。茶色いゴムの蓋がしてあり、中には部分的に黒く変色した綿が入っている。
「ギーギー、ニー、ソレ、ハヤ、マルマルナ! ニー、シエ!」
カノンが手にした試験管に反応するように、白装束はさっと身を引いてすっかり及び腰になっている。こちらに向けられた手は『ちょ、ちょっと待て。早まるな。そう、絶対に早まるなよ』ということを如実に物語っていた。
「ほらほら、あおミー。今のうちに屋上にいこう。ひかミーが待ってるだろうし、早くしないと連中の仲間がやって来るかもしれないから」
「そ、それはいいけど……んなことより、何だよ、それ?」
上にいた白装束の横を警戒しながら通り過ぎ、階段をさらに上がっていく二人。怪我人に肩を貸している少年と、白装束に対してとんでもない脅し効果抜群のとてつもないだろう試験管を持っている少女。
「なんで拳銃持ってるやつが、そんなもんにびびってんだよ!?」
「ああ、それはねそれはね、これが泣く子も黙る以前に絶句するSBHK25ウイルスだからに決まってるじゃーん。これに逆らえるやつなんてこの世にいないさ。なーんてね」
「いや、断じて決まってないないし、逆らえる人ぐらいいるだろうけど……って、えっ、ウイルス!?」
目を真ん丸に、仰天。『ウイルス』という言葉の響きに、ここが『研究所』という事実と、あの密閉性満載の『白装束』の腰が引けた反応は……ただただいやな予感しかない。
「ウ、ウイルスって、感染しちゃうっていう、あの?」
「あのあの。これはねこれはね、一気に空気感染しちゃうとんでもなく恐ろしいやつなんだよ。なんでもちょっとでも吸い込んじゃうと体内の血液が凝固しちゃって、全身にたくさんの黒い斑点ができちゃうんだって。いやだよね、斑点ができるだなんて、そんな風になったらお嫁とパリコレにいけないじゃん」
「いや、そんな見た目よりも、圧倒的に血液が凝固する方がいやだろ。んなもん、死んじまうじゃねーか」
「だからだから、ああしてびびっちゃってるんだろうね」
少しだけ後ろを振り返ってみる……白装束は変わらずに拳銃を向けているが、さきほどと違ってトリガーに指はかけていなかった。相手の心情を推察するに『もし撃った弾がカノンに当たり、間違って試験管が床に落ちて割れ、ウイルスが空間に拡散していったら大惨事だ』なんて想像をしてはその場から動けないに違いない。
その間に、葵たちは階段を上がっていき、とうとう目指していた最上階に辿り着いたのである。
※
「よかったー、二人とも無事だったみたいだね。さっき下の方で凄い音がしたから、ちょっぴり心配しちゃったんだよね」
階段の最上階で、屋上へとつながるだろう鉄製の扉の前に先にいっていたひかりが立っていた。合流して屋上へ逃げようとするのだが……そのタイミングで下の様子が一気に騒がしくなる。
「ジージーシエ。ニーカン、ジージーシエ、サエバ!」
「サエバサエバ! サンジュウ、カン、ロンニー」
「チーチー、チーカン、ポンチー、ロン。サエバ!」
無数の靴音がしたかと思ったら、すぐ下の階にさきほど見た白装束と同じ格好をした大勢の人間がわけの分からない言語を発しながら集まっているではないか。その数、ざっと十人は下らなかった。
そして大変残念なことに、下にいる全員が当然のこちらに拳銃を向けているのである。
大ピンチ。
「ニーカン、ニーカン、ジーシエ! ニーニーカン、サエバ!」
葵には言葉が理解不明なので、相手と意思の疎通を取ることができない。そもそも置かれている現状がどんな状況なのかも分からないため、言葉を理解できたとしてもどうにもならないだろう。
現状において葵にやれることといえば、どこにいるとも分からない神に無事脱出できることを祈るしかないが、そういえば竜宮先生が『校長は神様だ』なんてことを声高らかに言っていたので、今は見事な白髪でおなじみの校長先生の顔を思い浮かべながら手を組んだ方がいいのだろうか? ただ、左肩を貸している状態では、それもうまくいかないのだが。やったところできっと効果もないだろうし。
大ピンチであり、特大ピンチ。
「ねぇねぇ、あおミー、ひかミー。ここはカーミーにどんと任せて、先にいってくれるかな」
カノンはこれ見よがしに試験管を白装束に見せつけ、牽制している。しかし、相手はすっぽりと頭と顔面をすっぽりと覆い隠す巨大なヘルメットまでした白装束軍団なので、いざとなっても多少の時間なら平気と踏んでいるのか、じりじりと階段を上がってきた。
「ほらほら、早く早く! こんなとこでみんな犬死なんて馬鹿らしいじゃん。そもそもカーミーがしくじっちゃったからこんなことになっちゃったわけだし。ちょっぴり責任感じてるんだよ、これでも」
「あ、あ、あ、葵くん、どうしたらいいかな!? どうにかしなくちゃいけないんだけど、どうにもできないんだよね。でも、カノちゃんがわたしたちのために犠牲になるなんて、わたし、そんなの絶対いやなんだよね」
「いや、ひかり、冷静になれば、この場面、もしかしたら犠牲はつきものなのかもしれないな」
その葵の薄情な発言に、ひかりがとても信じられないものを目撃したかのように目を満月のように丸くしていた。
葵は小さく息を吐く。
「でも、やっぱりそんなの駄目だな。大事なクラスメートを見捨てるわけにはいかない。ってことで、カノン、一緒に帰るぞ。帰るんだからな」
「いやいや、あおミー、今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ。ほら、急がないと、みんな捕まっちゃうよ。三人まとめて捕まるぐらいだったら、カーミーだけ捕まればそれでいいじゃん。拷問だけならともかく、高確率で死んじゃうかもしれないんだから。あおミー、命を粗末にすべきじゃないよ」
「お前もな!」
言い放つ。
「いいか、カノンにはカノンの立場があって役割があって考えがあるんだろうけど、そんなのおれには関係ない。気にかけるつもりもない。だから、お前の理屈も通用しない。お前を置いていくなんてことはしない。ほら、一緒にくるんだ」
「そんなのそんなの、できっこないよ。状況分かってる?」
「まったくもって分かってない」
正真正銘、これっぽっちも分かっていない。ただし、葵には葵の考えがある。今はそれを優先するのみ。
「あのさ、カノン。お前にこんなとこでくたばってもらっちゃ困るんだよ。なんたって生徒会長として、竜宮先生にお前のこと頼まれてんだから」
下の白装束軍団は、またじりじりと距離を詰めて迫ってくる。その姿、打ち寄せる白波のよう。
「だいたい、おれはまだお前からパンツをもらってないんだからな。あの約束を果たしてこそ、こうして生きているお前の存在価値だ」
「パンツ!?」
カノンにとってはとんでもない角度から飛んできた予想外の言葉だったのだろう、エメラルドの瞳が豪快な水飛沫を上げるバタフライで泳いでいた。
刹那、その頬が小さく緩む。連動するように張っていた肩の力が抜けていった。
「そっかそっか……そういえば、昨日穿いてたのをあげるって話で、あ、でも、昨日のは今も穿いてるやつだ。あははははっ。なら、捕まっちゃったら約束守れなくちゃっちゃうか。なるほどなるほど」
「分かったなら、いくぞ」
葵は再びカノンに貸している肩に力を入れて、その重みにこれまでにない緊張感を得る。当然その重みには穿いているパンツも含まれていた。
葵のすぐ横で『パパパパパパパパ、パンツってどういうことなのかな!? 女の子のパンツもらうって、そ、そんな話、き、聞いたことないんだけどね!』と顔を真っ赤にして両手をばたばたっさせながら騒いでいるひかりに凛々しく力強い頷きを返すと、『そこで頷くの、ちっとも格好よくないんだよね!』と少し怒ったような様子ながらもひかりが屋上へとつづく鉄製の扉を開けてくれた。
「いくぞ」
ひかりにつづいて扉を抜けていく。
空はとても広くて青く、いくつもの白い雲が浮かんでいた。そこだけ切り取れば、とてものどかである。
「…………」
周囲には木が生えずに岩と土の山肌が露出した大きな山々が聳えていた。その反面、人工的な建物はどこにも見当たらず、空気が少し薄い気がするのは、ここが標高の高い場所だということを物語っているのかもしれなかった。
「…………」
視界の隅……遠くの方で大きな鳥が、広げた翼で優雅に弧を描いている。
やっぱり、のどか。
「……どこだよ!?」
この建物、きっと地上十階建て程度なのだろう。びゅびゅーっ! と強く吹きつける風は髪の毛を乱暴に撫でていき、少し肌寒く感じた。
立っている屋上を見渡してみる。目につくのは貯水槽があるといったぐらいで、あとは周囲をぐるりと落下防止のための一メートルぐらいの柵があるだけ。ただそれだけ。
「ひかりさんや、もしかしてここで待ってると救助用のヘリが颯爽と飛んできてくれるわけ?」
「ううん、そんなの要請してないから飛んでくるわけないよね」
「えっ……一か八かで、ここから飛び下りるとか?」
「そうしたいならわたしは止めないけど、そんなことしたら死んじゃうのは目に見えてるんだよね」
「ああ、あそこの鳥が、こう、おれの両肩をがしっと捉えるように合体して、空を飛んでいくわけね?」
「そんな漫画みたいなこと起きたら、それはそれで大冒険の結末としてはおもしろいかもしれないけど、手なずけてる鳥なんていないんだよね」
「どうすんだよ!?」
謎でしかない。ひかりの指示に従ってこうして屋上にきたものの、どこにも逃げ場がない。そりゃそうだ、ビルの屋上なのだから。
そうこうしている間に、閉めた鉄製の扉の向こうから、だんだんだんだんっ! と激しく扉を叩かれてしまう。今はどうにか背中で押さえてはいるが、突破されるのは時間の問題だった。
「おい、ひかり! いい加減にしろ! 冴えなくて笑えない冗談は顔と三本髪と存在そのものだけにしろ」
「大丈夫だから、安心してほしいんだよね。ちゃんと校長先生にどうすればいいか聞いてあるんだから、もはや余裕ね……って、わたしの顔も髪型も存在そのものも冴えなくて笑えない冗談扱いされちゃってるんだよね!」
ぷくーっと大きく頬を膨らませたひかりは、『だからって、冴えてて笑える冗談でもないんだけどね』などとぼやきながらも、両手の指を口に突っ込み、指笛を吹いた。盛り上がっている人気のコンサートでノリノリの観客が喝采する際に響くであろうピューイ! なんて音が一瞬だけ周辺に大きく鳴り、すぐに大空へと溶けていく。
屋上に残されたのは静寂と強い風、そしてだんだんだんだんっ! という背後からの極上の恐怖。
「ひかり、『いい加減にしろ』って先言ったばっかりなんだけど!」
「うーん……前後の脈絡は置いといて、言葉だけを切り取ってみると、『いい加減にしろ!』って、いい加減なことをしなさいって意味合いのような気がするんだけどね……日本語って難しいね」
腕組みをして小さく首を傾けたひかりは、しかし、にっこりと微笑んで次の衝撃的な一言を口にする。
「じゃあ、戻るとしますかね」
そして扉のノブに手をかけた。
「な、なにしようとしてんだ、ひかり? おい!? おいおい!? ひかりさん!? 神前ひかりさんってばぁ!?」
「もちろん、向こうに戻るんだよね」
ひかりが手で示している方は扉の向こうで、今もだんだんだんだんっ! と激しく叩かれている。
状況に構うことなく、葵の懸念なんて一切無視して、ひかりは勢いよく扉を手前に引いた。
「ぃ!?」
葵の視界には、大勢の白装束軍団がこちらに銃口を向けて怒り狂っている光景……なんてものは映らなかった。白装束どころか、さっき頑張って上がってきた階段も見当たらず、そこにあるのは黒一色のみ。
「なんだこれぇ!?」
扉を開けたら、真っ黒な闇が大きく口を開けているではないか。そして、葵は肩を貸しているカノンとともに、とてつもない吸引機にでも吸い込まれるように闇へと呑み込まれていったのだった。
「だあああああああああああぁぁぁーっ!」
真っ暗闇。四方八方、黒ばかり。
こんな場所にいると精神がおかしくなるようであり、全身が漏れなくその色に染色されそうな気がして……黒は葵の存在を塗り潰すかのように逆らうことのできない絶対的なもの。
そして、当然のように、葵という一人のちっぽけな意識は刈り取られていった。簡単に、ぷちっと。
呆気ないものである。
※
「っ」
その存在が光というものを感じて、感じたからこそ反射的に瞼を上げると……古い木造の教室にいた。そして、全身が激しい筋肉痛みたいに動かすことができず、その頭はどこかぼんやりとしている。
そんな葵の視界には、ブレザーの制服姿とポンチョ姿という二人の少女がいた。
「空ちゃん、ごめんね。せっかく集めたクロリーを使わせちゃって、お礼ってわけじゃないけど、今度またお菓子ご馳走してあげるからね」
「クロリーのことは気にしなくていいなも。また頑張って集めるなも。お菓子はまたあの真っ黒なチョコレートがいいなも。楽しみなも。それよりも、カノンはどうしたなも?」
「ああ、カノちゃんは病院にいったんだよね。ちょっと怪我したみたいだし、結構疲れてたみたいだし、今日はそっちでお世話になると思うんだよね。今は安静が一番だよね」
「大丈夫なも?」
「うん、大したことないみたいだから、安心していいんだよね」
「そっか、みんなが無事でよかったなも」
「そうそう、そういえばカノちゃんから預かってたんだけど……空ちゃん、これ、ちょっとクロポットに入れてみてくれないかな?」
ひかりの右手には試験管が握られている。カノンが持っていた、あの。
「もしかしたらとんでもないクロリーが秘められてるかもしれないから、試してみようね」
白いラグビーボール型のクロポットに試験管を近づけていくと、例によって地球上の法則を完全無視して試験管は液状に変化し、空星が持っているクロポットの小さな口へと吸い込まれていった。
「どうかな?」
「駄目なも。ちっともクロリーを感じないなも」
「そっか、残念だね。でも、こうなることをカノちゃんも望んでたと思うし、これでちょっとは世界もよくなったと思うから、空ちゃんのおかげで助かったんだよね。ありがとね」
「じゃあ、今からまた新しい字を教えてほしいなも。もっともっといっぱいいっぱい教えてほしいなも」
「えらいなー、空ちゃんはほんとに勉強家だね」
そんな二人のほのぼのとしたやり取りは、葵の瞼が急激な重みを得たことによって視界から遮断されるのだった。