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宇野空星


 宇野(うの)空星(そらほし)



       ※


「それでは亜井葵、お前がカスなのは……じゃなかった、お前に課すのは、これからこの教室を訪れるやつの問題を解決することだ」

 そう告げた竜宮先生が教室前方の扉を左手で示すと、連動するようにゆっくりと扉が開く。そこから一人の少女が入ってきた。その姿、腕の振りはまったくなく、歩調はゆっくりと、足取りはとても重たいもの。

「う、宇野、空星……よ、よろしくお願い、します、な、も……」

 教卓の横に立ち、人見知りをしているのか極度の緊張を帯びているようで、途切れがちに言葉をつないで自己紹介したのは宇野空星という変わった名前の少女だった。いや、名前以外も大いに変わっていた。耳を隠す程度の銀色の髪、大きな瞳は猫のように黄色くアーモンドの形をしており、透き通るような白い肌をしている。身長は百五十五センチぐらいで、ほっそりとした体形なのだが、その全身をフードつきの真っ白なポンチョですっぽりと包み込んでいたのである。例えるなら、綿棒の先端みたいだった。

 変な外国人?

「あ、あの、うち、その……」

「おい、亜井! お前はこれからこの宇野の抱える悩みをばしっと解決するんだ。いいか、ただ解決すればいいだけのことだから、簡単だろ? そして、それまでは絶対にこの教室から外に出るんじゃないぞ。いいな、一歩でも出たら即失格にするからな。健闘は祈らず!」

 そう一方的に言い残して風のように教室から出ていった竜宮先生。

 そんな竜宮先生に、切り捨てられるみたいに取り残された葵は、ぽかーんっと口を開けているしかなかった。

「…………」

 えっ? これが試験なの? 要するに、あの子の悩み相談をするってこと……? 高校入試だよね、これ? えっ? えっ? えええええぇ!?

 提示された試験内容があまりにも突飛であって異様なもので、もはや謎でしかなかった。あんなに頑張って勉強した国語も数学も社会も理科も英語も、どうやら役立ちそうにない。

 困惑。

「…………」

「ほらほら、葵くん、ぼけーっとしないでね。竜宮先生がああ言ってたことだし、まずは宇野空星さんの……空ちゃんの話を聞いてあげようね。ほら、空ちゃん、こっちにきてね」

 葵とひかりで教室の中央に机を二対一の構図で並べて、三人が着席する。黒板を背にする一の席が伏し目がちの空星。

「あの、えっと……」

 空星は、対峙している初対面の相手に戸惑っているのか、はたまた内気な性格なのか、なかなか視線を上げることができない様子。それでもゆっくりと口を動かしていく。

「うち、その……こ、故郷に、帰りたい、な、も……か、帰れなく、なっちゃった、なも……」

「なーんだ、ただの迷子か。よし、そうと分かれば、さっそく警察に通報して保護してもらおう」

「なも!?」

 目をぱちくりっ。空星は首を小刻みに横に振る。

「け、け、警察、なんてそんな、ことじゃ、全然駄目、なも……」

 言葉に力なく、猫のように背中を丸める空星。

「そんなんじゃ、無理、なも……」

 まるですべての事象から目を逸らすように、自分がこの場から消え去るかのごとく、空星は勢いよくその頭にフードを被った。その動作だけは信じられないほどのスピードである。

 謎。

「あのさ、そもそも、そのー……根本的な部分を確認しておきたいんだけど、空星はどこの国の人なわけ? さすがにその容姿で日本人ってわけじゃないんだろ?」

 銀髪に肌白で、黄色の瞳……国籍だけ日本人ってことはあるだろうが、印象としては北欧人って感じである。

「ノルウェーだかスウェーデンだかフィンランドだか、はたまたグリーンランドだかは知らないけど、地球上のどんな国だろうと、お前が不法入国してるなら、警察いけばすぐ国に帰ることができるぞ。よし、強制送還で一件落着だな。やった」

「そ、そ、そ、そんなんじゃない、なも……」

「あのな、本当に不法入国をしているやつは『不法入国者です』なんて顔をしてないんだよ。だからさ、もう観念しろ。どう考えたってこれ以上罪は重ねるべきじゃないし、言い逃れしようたってそうはいかないからな。ほら、神妙にお縄につけ。さあ、さあ、さあ! さあ! さあ! さあ!」

「なもぉ!?」

 空星は両頬に手を当てて、突きつけられた現実に抗うように、首をぶんぶんっ横に振っている。何度も。何度も。とても現実を認められないかのように。現実から抗うかのごとく。

「違うなも違うなも。そんなの違うなも。い、違法入国なんて、してないなも……きっと……」

「いや、『きっと』って……」

 なんだか今にも泣きだしそうな相手の様子に、葵は『どうしたもんか?』と腕組みをして天井を見上げた。

 解決策につながる考えを巡らそうとして……こくっとかわいらしく小首を傾ける。吐息。

「……ギブアップ」

「早くないかな!? 葵くん、結論早くないかな!?」

「あのね、ひかりさん。今、この状況、そんな簡単に諦めちゃいけないってことは誰よりもおれがよーく分かっている。そう、よーく分かってるんだよ」

 目の前で困っている人がいるならば、是非とも助けてあげたい……それ以上に浪人なんかせずに高校に入学したい。だからこそ、この入試にはパスしたい。だが、どれだけその願いを重ねようとも、そうできる術が思いつかないのである。まったくもってノーアイデア。

 ギブアップ。

「だいたいさ、こんなのおれにどうしろっていうんだよ? いいか、これ以上こいつのこと匿っていたら、こっちにまで警察の手が伸びるかもしれないんだぞ。『なお、警察の捜査によると、今回逮捕された不法入国者の少女に対して、同席していた少年Aの関与が認められる模様です』なんてテレビのニュースに流されたくないだろうが。あーっ! 少年Aになりたくなーい」

「いやいやいやいや……それは葵くんが、空ちゃんが不法入国だってことを一方的に決めつけて、話がめちゃくちゃ飛躍させちゃってるだけだからね」

「なら、違う根拠でもあるのかよ? もしかして知り合いなのか、お前?」

「し、知り合いじゃないけど……空ちゃんはそんなことする子じゃないね」

「根拠は?」

「……そういったことは、その、ちゃんと校長先生が太鼓判を押してくれるはずだから、心配ないね」

「校長先生が太鼓判……って、会ったことないけど、でも、あの竜宮先生がその名前を出すだけで態度を豹変させるぐらいだから、きっと恐ろしい人なんだろうな。極道かはたまた妖怪や化け物か?」

「あ、あのね、葵くん、校長先生は極道でも妖怪でも化け物でもないからね。校長先生はとても立派な方で、常に仰ることは正しいことばかりなんだから、だからこそ、竜宮先生だって素直に従ってくれてるんだよね」

 こほんっとひかりは咳払い。気持ちを切り替える。

「と、とにかく、不法入国で強制送還以外の方法を考えようね。ってことで、まずは空ちゃんの話をじっくり聞いてみることにするといいんだよね。さっきから葵くんの一方的な決めつけがこの場の空気をおかしくしてるんであって、ここは状況確認が大事になってくるに違いないんだからね」

「なるほどなるほど、珍しく一理あるな。びっくりした、ひかりって、顔に似合わずたまにはいいこと言うんだよな」

「どどどど、どういう風に見えてるのか、じっくり腰を据えて聞いておきたいところなんだけどね!」

 そうして頬をぷくーっと焼餅のように膨らませたひかりの助言もあり、葵は暫く空星の話に耳を傾けることにした。


       ※


「うち、人生経験っていうのか、その、見聞を広めるために、一人旅をしてみようって決意したなも。いや、でも、本当は一人でなんて怖かったなも。でも、いつまでもみんなに甘えてたらいけないから、ちゃんと一人前にならなくちゃいけないから、勇気振り絞って旅に出ることにしたなも。ほ、本当に怖かったけど……なも」

 旅立った当時を思い浮かべるように、空星は何もない斜め上の空間を見つめて、言葉をつなげていく。

「勇気いっぱいに狭かった自分の世界を飛び出してみて、そうすると一気に世界が広がっていって、最初こそ順調だったなも。だけど……途中からよく分からないまま、どこをどう通ってきたかも分からず、どうにもこうにもどうにもならなくなったなも。それで……気がついたら、帰れなくなっちゃったなも。でも、その、こんな状態になってた、なも」

 空星は口を尖らせ、細く長い息を吐き出す。

「本当にどうすることもできなくて、一人でずっとずっと困ってたら、その、校長先生が声をかけてくれた、なも。『この学校にいれば力になってくれる人が現れるから、その人を頼ってみるといいですよ』ってやさしくしてもらったなも。そして、その……今があるなも」

 葵の方をちらっとだけ見つめてから、空星は着ているポンチョに手を突っ込み、白い楕円形の物体を取り出した。

「これはクロポットっていうものなも。その……故郷に帰るには、クロリーが必要なも。ああ、えっとえっと、うちも詳しくは分からないけど、その、『クロリー』っていうのは、えーとえーと、その、エネルギー? なも? うちの源であり、すべてなも。でも、クロリー、今はなくなっちゃったなも。残念なも」

 空星が両手で持っているクロポットは、縦にしたラグビーボールほどの大きさである。上が花瓶のように切られていて中に何かを入れられるようになっているのだが、今は何も入っていないみたい。

「クロリーは、うちの故郷にはいっぱいいっぱい、あーんなにもいっぱいあったなも。それなのに、この辺りにはちっともなくって、困っちゃったなも」

 クロポットを机に置くと、どういったバランスで保っているのかは定かではないが、なぜか縦に立つことができた。

「クロリーは、その……とにかく黒いものなも。黒くて黒くて、とっても黒いものなも。というぐらいしかうまく表現できない、なも」

 下を向く。

「クロリーがないと故郷に帰れないなも。ずっとずっとここで一人なも。一人で寂しく生きていくしかないなも。ううん、そうやって一人で生きていくのも心配なも。うちだけでどうやって生きていけばいいのか、皆目見当もつかないなも。どうしたらいいなも?」

 空星は、椅子に座っているのに膝を抱えて、唇を小さく噛みしめたまま膝に顔を埋めたのだった。


 空星の話を聞いて、葵の両目の間に小さな皺ができていた。

「あー、なんだかよく分からないけど、とにかく『クロリー』っていう黒いものが必要なわけか。なるほどなるほど。あー、なるほどなるほど。なるほどったらなるほどでしかないな。よし……さっぱりだ」

 葵は、見たことも聞いたこともなかった『クロリー』という存在に、早くもお手上げ状態。事実、その両手を上げてしまっている。

「にしても、クロリーねー……」

 話からすると、ヒントは黒いことしかない。考えたところでどうにかできると思えないが、とにかく視線を上げて虚空を見つめてみる。そうして、状況を打開するアイデアが降ってくるのを待つのみ。

 あれ?

 と、葵はこのタイミングで奇妙なことに気づいた。さっきから疑問に思ったことが、なぜか自然とすべてを受け入れられている気がする。

 どうしてなんだろ?

 今日ここまでの事実だけを並べてみると、とても奇妙で、不思議なことだらけだった。三月三十一日に高校入試があることも、予備校から記憶なしにこの教室にいることも、ここがどこにあるかということも、試験中は教室を出ていけないことも、目の前でクロリーを求めているポンチョ姿の少女のことも……普段なら気になって仕方のないことばかり。であれば、すぐその疑問を解消するために周囲の人に質問をするし、そんな奇妙な疑問を抱えたままだと会話を先に進めようとは思わないはずなのだが……今だって閉じられている遮光カーテンを開けてここがどういった場所なのか外を確認すべきだろうに、そうしようと思っても実際に立ち上がることはしない……なぜだか、すべての疑問を自然と受け入れられている状態で、少しでも疑問に思った刹那には、『まあ、いいか』で処理されていたのである。

 深い謎でしかない。

 ただし、思いついたその謎ですら、一呼吸分の時間が過ぎると『まあ、いいか』で葵の思考から霧散していった。

「とにかく今はクロリーが必要ってことなんだね。クロリーってのがなんのことかは分からないけど、要は黒いものを準備すればいいんだろ。よし、ひかり、今からクロリーっぽい黒いものを用意してきてくれ。ああ、大急ぎで頼む」

「うーんと……それで、わたしはどうすればいいのかな?」

「黒くてクロリーなものを用意してくれさえすればいい」

「……いや、だから、どうすればいいのか教えてほしいんだよね」

「とにかくクロリー的なものを用意してくれればいいだけだから」

「で、それを用意するにはどうすればいいのかな?」

「くっ、役立たずが」

 ひかりが頬を小さく膨らませたことを横目に、葵は大きく咳払い。

「あのさ、ひかりって、校長におれの手伝いを頼まれてるんだろ? だったら今すぐここにクロリーを持ってこいよ。それで万事解決なんだから」

「だーかーらー、どうすればいいか分からないんだよねー」

「くっ、役立たずのポンコツが」

 さらに頬を大きく膨らませたひかりの横目に、葵は小首を傾げる。

「いいか、ひかり、難しく考えるんじゃない。難しくじゃなく、とにかくクロリーっぽい黒いものを連想してみればいいことの話なんだよ。ほら、いろいろあるだろ? そう、今思い浮かんだその中で、『こいつは間違いなくクロリーっぽいな。ってより、もはやクロリーの化身だな』ってのを持ってくればいいだけのことなんだから。うん、簡単。実に簡単。あまりにも簡単だから、こんなのその辺ではしゃいでる三歳児でもひかりでもちゃんとできることだな。よし、自信を持て。ひかりならできる! はい、いってらっしゃい」

「……あのね、『クロリーっぽい』とか『クロリーの化身』って、どういうことなのか、ちゃんと説明してもらえないかな? そもそも受験者は葵くんであって、わたしはお手伝いさんに過ぎないから、考えるのだって葵くんがメインでやるに決まってるんだよね」

「くっ、役立たずのポンコツがいっちょ前に戯言ほざきやがって」

 隣人が限界まで頬を膨らませ、握った拳で机をだんだんだんだんっ! 叩いているのを横目に、葵は嘆息してゆっくりと両の瞼を閉じた。

「そうだな、黒いといえば……」

 グーになった右手の指を一本ずつ伸ばしていく。

「日焼けした人に、通りかかった黒猫に、パンダ半分に、シマウマ半分に、パトカー半分」

 グーだった右手がパーとなる。

「ざっと、こんなもんか」

「……葵くん、随分と感性が独特だね。五分の三が『半分』って……うん、そんなの意味ないと思うんだよね」

「あーあ、これだから素人は。いやだいやだ。いいか、ひかり、よーく考えてみろよ。男女問わず真っ黒に日焼けした人なんてものはだな、そりゃもうエネルギーで満ち溢れてるに決まってるんだ。日焼けした元気のない人なんてこの世に一人もいないんだから。なら、これはまさにクロリーに違いない。よし、今ので確信した」

「かもしれないけど……今はそんなことより、クロリーを求めてるんであって、クロリーっぽい人を求めてるわけじゃないんだけどね……」

 ひかりの口から吐息が漏れる。

「あー、もー、このまま葵くんに任せてると一生空ちゃんは故郷に帰れない気がするねー」

「だったら、いい加減、クロリーが何か教えてくれよ」

「だーかーらー、わたしは葵くんみたいな受験者でもなくて、正解教えてあげるとってもかわいい女の子でもなくて、ただのキュートなだけのお手伝いさんだから、教えることはできないんだよねー」

「それはそうと……」

 葵の頭に『こうして隣にいて試験の手伝いをするという神前ひかりという謎の存在は、いったい何者なのか?』という疑問が頭に浮かぶも、刹那には『まあ、いいか』で処理されていた。

「黒いもの、黒いもの……」

 葵はリュックからノートを取り出すと、思いつく限りの黒いものを書いていき、それをひかりに託していった。

「どうやらおれは教室から出られないみたいだから、代わりにひかりが急いでこれらを集めてきてくれ。頼みましたぞ、ひかりどん」

「うん、任されたでごわすね」

 走り書きされたノートを持って教室から出ていくひかりの背中は、ようやく出番がきたことに対してなのか、少し弾むようであった。事実、縛られている三本の髪の毛はリズムよく揺れていた。


       ※


 賑やかで騒がしかった女子、三本髪の神前ひかりがクロリーを求めて教室から出ていった。

「…………」

 教室に残る葵。

「…………」

 教室に残る空星。

「…………」

「…………」

 席をくっつけて向き合っている二人は、しかし、視線が合うこともなければ会話を交わすこともなく、ただただ無情な時間が過ぎていく。

 そんな意味を持たない沈黙……もちろん葵はなんだか気まずい感情を得ているので、これといった話題はないものの、これまでの延長線上のことをちょっと辿ってみることとする。

「……あのさ、空星はそんなに帰りたいのか?」

「なも……?」

「空星は、そんなになもなも村に帰りたいのか?」

「なもなも村なも!?」

 目をぱちくりっ。よっぽど意外な言葉を突きつけられて驚いたのか、空星の下がっていた顔がさっと上がった。

 そんな相手の様子に、その変化に、葵はゆっくりと右腕で頬杖をつき、これから話す内容がさも当然の事実みたいな顔をして言葉をつなげていく。

「空星は若くして、なもなも村の村長だもんな、そりゃ帰りたいか。ってより、帰らなきゃいけないわけか。そうかそうか。そういえば今年ももうそんな時期だもんな。あれだろ、なもなも村名産のなもの実の収穫をしないといけないんだろ? あれを出荷しないと村の財政が逼迫するからな、一個たりとも取りこぼしのないようにしないといけないな」

「……い、いったい何の話なも」

「もちろん空星の故郷の話だよ。なもの実、一度食べたらやめられない、中毒性の高い禁断の果実だからなー」

「そ、そんなのないなも。なもの実なも?」

「山間の自然豊かな、まだまだ人の手が入らない秘湯が出るっていうもっぱらな噂の、あの」

「分からないなも分からないなも。どこに秘湯が出るなも?」

「でもって、収穫したなもの実を村の乙女たちで歌いながら絞って酒にするんだろ。毎年の収穫祭では村長自らが乾杯の挨拶をして村民を労ってたじゃないか。あー、古きよき田園風景が目に浮かぶようだぜ。なもなも村、最高。『第二の人生、あなたもなもなも村でスローライフとしゃれ込みませんか』ってか」

「ないなもないなも。村長じゃないからそんな挨拶したことないし、そもそも、なもなも村なんて知らないなも」

「おいおい、ひどいな、自分の故郷をあろうことか知らないだなんて。空星みたいな冷血な人間ばかりだから、あっという間に過疎化が進んで、高齢化する村民は明日への希望を見出せなくなってるんじゃねーか。なもなも村が潰れたら、全部全部、空星、お前のせいだからな。ちゃんと責任取れよ。っていうのか、その前にまず謝れ。それが村長としての責任だ」

「なもぉ!?」

 意味不明な謝罪を求められた空星は、困ったように両頬に手を当て、大きく開けた口を閉じることができないでいた。

 そんな様子に、葵は頬と唇を小さく緩めていく。

「まっ、本当のことはこれぐらいにして、そろそろ本題に入るとしますか」

「本当じゃないなも本当じゃないなも。うち、村長じゃないなも。ちっともそんなものじゃないなも」

「空星は村長の勤めとして以外に、どうしてそんなに帰りたいんだよ? っていうより、本当にそれがお前の願いなのか?」

「な、も……?」

 急な問いかけに、空星は一呼吸分だけ間を空け、視線はまた下がっていく。

「……そりゃ、帰りたい、なも。こんな知らない場所で一人はいやなも。またみんなと一緒に暮らしたいなも。でも、クロリーがなくなっちゃったから、帰れないなも。悲しいなも」

「目先の望みはそれかもしれないけど、そんな様子の村長が帰って、みんなと楽しく暮らせるか?」

「そ、村長じゃないなも。それに、みんなと一緒は、楽しいなも」

「でもよ、だったら、ずっとみんなと一緒にいればよかったじゃねーか。ずっとずっと一緒に、楽しくさ。でも、そうしなかったんだろ? 勇気を持って冒険の旅に出たんだろ? そりゃ、いつかは故郷に帰るのかもしれないけど、それが今で本当にいいのか? 冒険の最後が、こんな形でいいのかよ?」

「な、も……」

 空星が一人旅を決意したのは、狭い世界から飛び出して見聞を広めるため。現状として、その目的を果たしたと胸を張って帰れるのか?

「もちろん帰る手段を確保しておくことは大事なんだと思う。でもよ、お前には目指したもんがあるんだろ? そういったことがあるなら、帰ることより、まず目指したことを成し遂げることの方が重要なんじゃないのか?」

「…………」

「さあ、胸に手を当てて自問してみるといい。旅に出てから今日までに『これだ!』っていうものを一つでも手に入れられたか? こんなめそめそしてる状況で、胸を張って故郷に帰ることができるのかよ?」

 葵は、眼前で僅かに唇を尖らせ、目の端に涙が浮かんでいく空星の様子に、『あれ、もしかして、地雷踏んじゃった? うわー、ちょっと言い過ぎちゃったかも? うーん、こりゃまずい』と思わず及び腰になってしまう。

 あははははっ。状況を誤魔化すように笑ってみた。

 そして、気分を変える意味合いで、ぱんっ! と手を叩いてみると、静かな教室には、驚くほどに大きく響いたのだった。

「まあ、あれだ、その……目指すべき理想ってのは、人それぞれだからな。うんうん。空星には空星の人生があるわけだし、空星のしたいようにするのが一番なのかもしれないな。あははははっ……うん、頑張れ。一旦というか、ここで故郷に帰るってのもありかもしれないな。無事に帰ること、それが旅の一番の目的でもあるし、醍醐味でもあるしな。うんうん」

「…………」

「醍醐味? いや、教訓? 目的? えーと、そのだな……ど、どうせなら、一緒に連れてってくれよ、なもなも村。上流にある巨大な滝で全身にマイナスイオンを浴びてみたいもんだぜ」

「…………」

「あ、あとは、あとあと……も、もちろんあれだぜ、ちゃんとなもの実の収穫は手伝うし、この際、なもの湯にも一緒に入ろうじゃないか」

「…………」

「なもなも最高ぉ! っていう感じで、さ……」

「…………」

「う、うん……」

 気まずい空気。その重たさに、もう言葉が出てこない。


「うあーっ! なんで空ちゃんを泣かしてるのかな!? 葵くん、わたしだって怒るときは怒るんだからねーっ!」

 暫くして、大きな段ボールを抱えて教室に戻ってきたひかりが、教室に漂う重たい空気、そして空星の悲しそうな表情を見て、髪の毛を逆立てん勢いでその目を吊り上げていた。

「女の子を泣かすなんて最低だね」

「か、勘違いされては困るんだよね、ひかりさん。こうして空星が泣いているように見えるのは、さっきまでしてたおれの話に感動して思わず涙が浮かんでいるように見えているだけに過ぎないわけであって、ひかりが考えているようなことは一切ないと断言したい方に一票を投じたい気分ではあることもある」

「なんだかとっても言い回しが妙な気が……だいたい、葵くんに感動的な話があるだなんて、とても信じられないんだよねー。もしそれが本当のことだったら、今からしてみるといいね」

「その辺りに関しては、ずばり、信じる信じないは人それぞれだから強制はしないし証明もする気はない。一切ない。これはもはや、どうにも言い様すらないものなのだけれど……ほ、ほら、空星の方からもばしっと言ってやってくれ、この勘違い娘に。うん、なるほど、そうして何も言わないってことは、おれの話に感動したってことで間違いなしってことなんだよな? よし、これで一件落着だ。どうにか誤解が解けてよかったぜ」

 葵の声かけに、空星は俯いたまま無言を貫く。そんな様子に、葵は何度も大きく頷いていく。

「ほらな、もはや感動して言葉もないんだってさ。なことより、ひかり、頼んだもんは持ってきてくれたか。いよいよ謎とされたクロリーの正体を突き止めるときがきたんだからな。ここから先は心してかからないといけないんだ。なんたって、これからの人生が大きく左右される重大局面なんだからな」

「うーん……なんだか葵くんに、それはもうめちゃくちゃはぐらかされた気がするんだよね」

 ひかりは納得いかないように小首を傾げながらも、抱えている段ボールを机に置いた。蓋を開けると、黒色から連想したものがたくさん入っていることが分かる。

 葵は段ボールの上の方にあったカラスの羽を摘まんだ。

「頼んでおいてなんだが、よくこんなもん見つけられたな。こんな羽なんて、落ちてそうでなかなか落ちてるもんじゃないと思うけど」

「えっへん、『わたしって凄いでしょ』って自慢してもいいんだよねー」

「芯が結構丈夫なんだな、羽って。で、どこにあったんだよ、こんなの?」

「んっ!? そ、それは……もちろん企業秘密なんだよねー」

「ちっ。今すぐ潰れちまえ、そんな企業」

 頬を少し膨らませたひかりを横目に、葵は右手で摘まんでいるカラスの羽を差し出す。

「ほら、空星、さっきのさ、なんとかっていう、これ入れるやつ出してくれ。さっそく試してみようぜ」

「…………」

 空星は無言のまま頷くこともなく、着ている白いポンチョ内側に手を突っ込んで、ラグビーボールほどの真っ白なクロポットを取り出した。先端は花瓶のように小さな口が開いている。

「どれどれ」

 葵がクロポットの口にカラスの羽を近づけてみると、

「うおっ!?」

 眼前で驚くべきことが起きた。なんと、近づけたカラスの羽がまるで液状のように形をなくし、そのままクロポットへと吸い込まれていったのである。

『な、な、な、な、な、な、な、な、なんだこれえええぇ!?』と信じられない現象を目の当たりに、瞬きを幾度となく繰り返す葵だったが……五十瞬きする頃には、『まあ、いいや』で処理されていた。事実、他二人にも驚いた様子はない。これこそが平常なのだろう。

 平常?

「それで空星、どうなんだよ? カラスの羽がクロリーだったのか?」

「……違う、なも。クロリーの、エネルギー、感じなかった、なも……」

「そうか、残念……残念だけど、残念だったけど、だからっていちいちめげてる場合じゃないな。今回はたまたま違っただけだ。うんうん。世の中、黒いものなんてたくさんあるんだから」

 葵はまた段ボールに手を伸ばし、次のものを取り出す。

 どこの誰が使ったものでは定かでない黒い靴下をクロポットに近づけてみると、さきほど同様に形が崩れて液状の状態で吸い込まれていくのだが、それも空星が微笑む結果にはならなかった。

「よし、次だ」

 めげることなく、段ボールに手を伸ばしていく。

 次へ。次へと。


 黒色のもの。海苔や黒豆、サングラスにヒジキ、コーヒーと黒ゴマ、おもちゃのピアノにおもちゃのテレビにおもちゃの高級外車おもちゃのタイヤ……などなど、葵が思いつく限りにノートに書いてひかりに用意してもらった黒いものを順番にクロポットに入れてみたのだが……残念ながらどれもクロリーではなかったらしく、空星の表情は冴えないまま。

 葵が手を伸ばした段ボールは、とうとう空っぽである。

「嘘でしょ。ひかりが持ってきたやつ、どれも使えないもんばっかなんだけど。役に立たねー」

「ちょっとちょっとちょっとちょっと、それじゃまるでわたしが使えない人みたいに聞こえて心外なんだけどね。いい、わたしは、あくまで、葵くんが指定したものしか持ってきてないんだよね」

「その辺は融通をきかして、そっと段ボールにクロリーを忍ばせてもおけよ。まったく、ひかりって、この世に生まれ落ちたときから気が利かないよな。うん、端的に役に立たないし」

「ひ、ひどい。気が利かなくて役に立たないなんて、せっかく手伝ってあげたのにひどい言われよう……もうお手伝いなんてしたくないんだよね。ってより、手伝う気力をなくしたんだよね」

「おいおい、そんな無責任なこと言ってもいいのかよ? お前、おれのことを手伝うように校長から言われたんだったら、最後までしっかり手伝うしかないんだろ? まったくさ、そんないい加減な気持ちで取り組んでほしくないんだよねー。はぁー、最近の若い者といったら、ちょっとうまくいかないことがあると、すぐ投げ出すんだから。あー、情けない。あまりにも情けない……」

 すぐ横でひかりが頬を大きく膨らませた様子に、『そのまま田んぼの蛙みたいに鳴いたら、きっと格段にかわいくなるぞ』とアドバイスしたところ、すっかりそっぽを向かれてしまう葵だったが、気にすることはない。意識して息を吐き出し、黒板の上にある丸時計を目にしてみて……驚愕する。

「七時ぃ!?」

 自分の足で駅前の予備校からこの教室にやって来た記憶はないが、最初にこの教室にいることを認識したのが午後三時だったから、かれこれ四時間が経過したことになる。四時間!? あっという間。感覚としてはせいぜい一時間程度だったのに。おかしい。時間の進行が歪曲したに違いない。ろくに知りもしない相対性理論を疑いたくなっていた。けど、すぐに『まあ、いいか』になるのだけれど。

 と、一つの疑問が浮かぶ。

「なあ、ひかり、試験時間って何時までなんだろうな?」

「ふふーんだ、そんなの知ってても教えてあげないもんねー」

「そうやって意地が悪いのはお前の個性でもあるけども……でも、ひかりさんは底意地が悪くてもやさしい人だから、いつだって親切に教えてくれるんですよね? ねっ? ねっ?」

「ううっ、この身からやさしさが溢れんばかりだから、断じて拒否はできない……試験時間は、その、わたしだってただのお手伝いさんだから詳しくは知らないけど、でも、竜宮先生に確認してきてあげてもいいんだけど、どうしてほしいかな? ちゃんとお願いしてくれたら考えてあげてもいいんだよねー」

「よし、とっとと確認してこいよ。ほら、早く」

「うぎぎぎぃーっ!」

「ああ、ついでに晩飯が出ないかの確認も頼む。おれはともかく空星の腹がさっきからぐーぐーぐーぐーっ! 鳴りっぱなしでうるさくてしょうがない。育ち盛りなんだから、いっぱい食べさせてあげないと」

「ご飯はいいけど、でも、空ちゃんは別にお腹空いてそうには見えないし、ぐーぐーぐーぐーも聞こえないけど……もー、仕方がないな、とにかく竜宮先生に相談してくるね。やさしいひかりさんに感謝してほしいんだよね」

「じゃあ、高級ステーキ五人前な。あと、回転してない寿司もよろしく」

「……この人、いったいどんな立場の受験生なんだろうね……」


       ※


 その後、葵は学校側から支給された唐揚げ弁当をひかりと空星と一緒に食べた。考えてみると昼食どころか朝食も食べてなかったので、今日初の食事である。腹が満たされたせいか、それまで抱いていた焦りや悲壮感みたいな感覚は薄まり、急にまったりとした時間を過ごしていくこととなる。まったり……そうして気がつくと、黒板上に設置された丸時計は午後九時を回っていた。

「あれ、あれれ、おかしいな、誰かあの時計を弄ったか? なぜだか今日があと三時間しかなくなってるぞ。ど、どうすんだよ、ひかり? お前がもたもたしてるから、いつの間にかこんな時間になっちまったじゃねーか!」

「わ、わたしに大声出さないでほしいんだよね。『腹もいっぱいだし、ちょっと休憩しようかー』なんて悠長なこと言ってた葵くんが『うさぎとかめ』のうさぎ状態であっただけのことで、ただただ全面的に葵くんが悪いだけであって……っていうのか、葵くんがうまくいかないだけで、わたしは全然関係ないんだけどね」

「もー、焦るわー。よし、気持ちを入れ替えよう。よし、入れ替えた」

「とても変わってるようには見えないんだけどね……」

「さーてと、これからいったいどうすればいいんだろ? クロリーって、他に何があるんだ?」

 今までよりも強くシャープペンシルを握りしめ、まだ何も書かれていないノートの白紙を穴が空きそうな眼力で凝視する。

「クロリー、クロリー、クロリー、クロリー、クロリー、クロリー」

「わっ、葵くんがいつの間にか『クロリー教徒』になってるんだよね」

「クロリー、クロリー、クロリー、クロリー、クロリー、クロリー」

「……急に手を組んで、上の方見て神頼みするようになってるね」

「カバディー、カバディー、カバディー、カバディー」

「……この人いつの間にか東南アジアの伝統的なスポーツやってるね」

「カバの汗が黒い、カバの汗が黒い、カバの汗が黒い」

「……カバの汗は赤いんだよね」

「そうか! そうなんだ! こうなったら最終手段として、クロポットにひかりの腹を入れるしかないな!」

「……わたし、腹黒じゃないけどね」

「もー、まったくもって、クロリーって何なんだよ!? 意味分かんねー。ちっともアイデアが浮かばないくせに背伸びして週刊連載してる漫画家の気分だぜ。印税ひゃっほーい」

「わっ、葵くんが見開いた目を血走らせておかしな感じになっちゃったね」

「黒いもの! 黒いもの! 黒いもの! 黒いもの!」

 そうして葵は、現状思いつく限りの黒いものをノートの上から順番に記していく。そのすべてをひかりに持ってくるように託したのだが……残念ながらすべてクロリーに値するものはなかった。

 有限な時間は、確実にその限りに近づいていく。無情にも。


       ※


「……もう駄目だあああぁ!」

 まだそんな元気があったのかと疑いたくなるほどに、力いっぱい髪を掻き毟っては深く頭を抱える葵。その姿、今にも頭上から落ちてくる『絶望』の二文字から大事な頭を保護しているかのよう。

 時刻は午後十一時三十分。タイムリミットまで残り三十分。昨日までだったら布団に潜って、生きる気力を見出すことができずにただ横になっているだけだったのに、まさか二十四時間後にこんな時間に迫られる切羽詰まった状況に陥るとは、人生分からないものである。と同時に、もはや一寸先は闇だった。

「あーっ! これじゃあもう高校浪人で、高校浪人にして、高校浪人決定じゃんかーっ! くそー、なまじ希望を持っちまったせいで、お先真っ暗のブラックホールに呑み込まれちまいそうだぜ。はぁー、希望が一切見出せないこの気持ちをありのままにクロポットに入れられたら、うまくいく予感だけはしっかりあるのになー。もう駄目だあああぁ!」

「あのね、葵くん、まだまだ諦めない方がいいと思うんだよね。だってだって、諦めたらそこで人生終了だからね」

「わわわわわーっ! こんなことでおれは命まで取られるのか。はぁー、人生どん底だぜ……」

「……あ、いや、えーと……おかしいな、こっちからの冗談がまったく通用しなくなってるだよね」

「よし、死ぬときは一緒だ。ひかりの道連れ片道切符も買っておいたからな、安心しておいてくれ」

「は、払い戻してほしいんだよね、そんな切符っ」

「もおおおぉーっ!」

 落ち着きなく視線を四方八方に巡らす葵は、動物が咆哮するように絶叫した。握るシャープペンシルを潰さんばかりに力を込めて、頭には何も思い浮かんでいないというのに、ノーアイデアのままノートに次の文字を書き込もうとして……勢いあまって芯が折れてしまった。

「くそおおおぉーっ! 軟弱な分際でおれの心みたいに簡単に折れやがって。近い将来のおれ自身を暗示しているようだぜ。もう駄目だあああぁ!」

「葵くん、少し落ち着いた方がいいと思うんだよね。意味なく縁起悪くしちゃってるみたいだけど、ただ芯が折れただけだからね。そもそも、そんなに力入れたら、折れるに決まってるんだよね。はい、リラックスして深呼吸しようねー」

「どいつもこいつもまったくもう!」

 目の前に転がる折れた芯を左手の人差し指で押しつけるように拾い、そのまま手を伸ばして、まるでごみ箱に捨てるような気持ちで無意識にクロポットに吸収させてみると……なんと、これまでにない異変が起きたではないか。

「わっ……」

 一瞬ではあるが、クロポットが光ったのである。とても淡い白い光だったかもしれないが、クロポット全体が、まるで古くなった蛍光灯が瞬くように、ちかっと光ったのである。

 大発見!

「ちょ……今のって?」

 葵は反射的に向かいに座る空星に視線を走らせると……ずっと力なく半分閉じられていた瞼が、今は大きく見開かれているではないか。

 これは!

「おい、空星、もしかして、この芯がクロリーってことか!?」

「……反応は、あった、なも。そんなに大きなエネルギー、なかったけど、でも、似たような、というか、微弱な力、感じられた、なも」

「なるほどなるほど。随分と力は薄かったかもしれないけど、でも、クロリーだったことに間違いないんだな。だからさっきみたいにちょっと光ったわけか。なるほどな。とすると」

 どんよりと薄暗かった世界が急に輝きを取り戻した気がした。葵は、筆箱から未使用の芯を取り出し、意気揚々とクロポットに吸収させたのだが……反応なし。

「なんでだよ、くそ」

 舌打ちをするも、手は止めない。せっかく見つけた手がかりを失うわけにはいかないのだ。さらに未使用の芯を三本、四本とクロポットに吸収させてみたが……やはり反応はなかった。

「だぁーっ! なんでだよーっ!」

 思わず天を仰ぐ。世の中、そう簡単にはいかないみたいである。

「うーん、とすると、さっきのって気のせいだったのかな……」

 葵の弾むような気持が一気に萎んでいく。意気消沈。

 一瞬のきらめきに希望を見出した反動は強く、全身から力を奪っていくばかり。だらーんと両腕は垂れ下がり、その背中はずるずる背もたれを滑るようにして上半身が沈んでいった。

「もう、時間が、ないってのに……」

 ただただうなだれるのみ。

 万事休す。

「…………」

「……あ、あの、葵……葵、その、もしかしたら、えーと、さっきのを、もう一回入れてほしい、なも」

「おお、珍しく空星から喋ってきたよ。天変地異の前触れなんじゃないか。しかも、下の名前で呼ばれるなんて、なぜだかちょっとこっぱずかしい気持ちになるのはなんでなんだろう……? で、えっ? さっきのをもう一回? いやいや、見てなかったのか、こんなのどんなけ入れたって一緒だっただろ?」

「そ、そっちじゃない、なも。こっちのがいい、なも」

 小さく首を振った空星が指差したのは、葵が持っている芯入れではなく、机上に転がっているシャープペンシル。

「折れたなら、さっき、の、まだ残ってる、はず、なも」

「ああ、そういうことか」

 力なくぐでーんと、だらしなかった姿勢から素早く起き上がるようにして椅子に座り直した葵は、手にしたシャープペンシルをかちかちっと押して芯を出してみる。出てきたものを摘まんでクロリーに吸収させてみると……今度は仄かな光が宿ったではないか!

「うわっ、ど、どういうことだよ!? えっ、使ってないのは光らないけど、使いかけならいけるってこと? えっ、それって、どういう……」

「多分、だけど、それを使うことで、それがエネルギーを有するようになるんだと思う、なも。でもでも、これじゃ、まだまだ弱い、なも。もっともっと強いエネルギーが、必要なも」

「エネルギーを有する? 使うことでチャージされるってことなんだろうか。うーん、よく分かんないけど……そうか、字を書くってことだから、摩擦なんかのエネルギーが芯に蓄積されるってことなのかな? いや、それでもさっぱり理解できんのだが……とすると、こんな感じの黒いものが必要なのか……いや、芯みたいに書くものがクロリーってことなのか?」

 推測を確かめるには、正解だと予測されるものを試しにクロポットに入れてみるしかない。葵は急いで『ペン、鉛筆、墨汁』とノートに走り書きをして、なんだかとても嬉しそうに受け取って後ろで縛った三本髪を大きく揺らしながら教室を出ていったひかりに託したのだった。


 時刻は午後十一時五十分。早いもので今日も残り十分である。

 いや、もはや十分しかないというのが直面する現実であろう。

「エネルギーってぐらいなんだから、そりゃ薄いよりは濃い方が断然いいってことなんだろ? でもって、さらに濃ければ濃いほどいいに決まってる。ならさ」

 葵は硯に垂らした墨汁を、固形の墨を摘まんで何度も何度も擦っていた。目に映る黒色をより深く濃くするために。

「頼む頼む頼む頼む!」

 ひかりに用意してもらったペンや鉛筆は、残念ながらクロポットが反応することはなかった。また、容器に入った液状の墨汁を入れても反応しなかったのだが、墨を硯で擦ったものを入れたところ、僅かな発光を確認できたのである。

 ならば、墨は擦れば擦るほど濃くなるから、これが正解なら擦れば擦るほどエネルギーが強くなるはずに違いない。これといった根拠はないが、葵にはもうそれに縋るしかなかった。

 だからこそ、今はただ、掴みかけた希望を信じ、全力で墨を擦るのみ。

「頼む頼む頼む頼む!」

 一心不乱に墨を擦る葵の様子に、向かいにいる空星は胸の前で手を組んで祈るように見つめている。一方、隣のひかりは『フレーフレー、葵くん! 頑張れ頑張れ、葵くん! 葵くんならきっとできるんだよね!』と声を上げて応援していた。

 時刻は午後十一時五十一分。

「頼む頼む頼む頼む! こいつがクロリーであってくれ。おれにはもうこれしかないんだ!」

 午後十一時五十二分。

「でもって、これで空星の願いを叶えてやってくれ!」

 体が熱い。じっとりと額に汗が滲む。無意識に左手で拭って、その意識は常に硯と墨に向かっている。

 擦って擦って擦って擦って、今はただ黒の濃度を増すしかない。

「これで!」

 その目に映るのは眼前にある硯に溜まった黒い液体。葵は酷使した右手を労わるように大きく左右に振りながら一つ大きな息を吸い、唇を尖らせて長い時間を使って吐き出していく。

 腹の中心に力を入れた。

「いくぞ」

 合図するように空星とひかりに視線を送ってから、ゆっくりと手にした硯をクロポットに近づけていく。

 すると、硯に溜まった墨は、液体がさらに細かい粒子の状態に分解されていき、小さな口への一気に吸い込まれていった。

「っ!?」

 刹那、視界が一変する。


       ※


 ここは……?

 今まで木造の教室にいた。天井から鎖で吊るされた照明に照らされながら、懸命に墨を擦っていたはずなのに、今は……光の存在しない暗黒空間に身を置いているではないか!?

 闇。闇。闇。闇。右を見ても左を見ても、どこを見ても黒一色。

 闇はその圧倒的な力によって、ちっぽけな人間を呑み込んでいく。

 わわわわわぁ!?

 全身に異変が起きた。どこにも力が入らなくなったのである。右手に力を入れようとしても凍っているみたいに動かすことができず、左足で踏ん張ろうとしては少し曲がった膝すら伸ばすことができず……その体はどうにも姿勢を変えることすらできない浮遊感を得ているではないか。

 こ、これって、どうなってやがるんだぁ!?

 体に力が入らず、周囲のどこにも踏ん張ることができないから、そこに自身を保つことができない。まるでプールの水面に浮かんでいるようであり、しかし、四方八方から全身を引っ張られているようでいて、全方向から激しく圧迫されているような……これまでに感じたことのない奇妙な感覚に陥っている。

 えっ……?

 覆われる真っ暗闇……一瞬、そこに光が見えた。ちかっと瞬いた光は、次の瞬間には、一斉にその数が増やしていく。まるで水面に大量の雨粒がぶつかるように、光の数は五、十、二十、五十、百、二百、五百、千……絶対的な闇を突き破るかのように、三百六十度どこもかしこも光の瞬きが増殖していった。

 っ!?

 思わず喉を鳴らした。言葉どころか思考すら失う衝撃的な光景を目の当たりにしたからである。

 これって……。

 青い球体を感じた。十五歳の葵ではとても理解できないほど、それはとても大きな球体。それが今は頭上に浮かんでいる。青く青く、それ色はとても深くてとても広く、そしてとても美しい。そんな青い球体には、机に零れた牛乳のように白色が無秩序に流れているのだった。

 激しく迫るほどの強烈なインパクトを有する巨大な球体は、しかし、葵にはこれまでどこかで見たことがあるようなものであって、けれど、人口の建造物なんて比較にもならない巨大さに圧倒されるばかりで思考がうまく働いてくれない。

 …………。

 とてもではないが、置かれている現状すべてを把握して、理解するなど一人の人間には不可能なこと。そう葵の意識は悟っていたからこそ、思考が停止したに違いなかった。

 …………。

 葵は、こんな異常空間に身を置き、理解の追いつかない精神不安定な状況において、崩壊せんばかりの膨張した脳は今にも破裂してしまいそうなのだが……その意識は、失われつつあったその自我は、消えかけていたその存在は、両の耳に届いた音によって保つことができるようになったのである。


「カーチャなも! カーチャなも!」

 声がした。無音だった世界に声がした。

「カーチャ、うちなも! うちなも!」

『あらあら、ソーじゃない。随分とお久し振りね。元気にしてましたか? あまりに音沙汰なかったものだから、てっきりどこかで遭難でもしてるのかしら? なんて思ったものですよ』

「そ、そんなこと、ない、なも……」

 少し気まずそうな小さな声。

 空星の声。

「うち、うちね、頑張った、なも。ちゃんと頑張った、なも」

『そうなの、それはよかったね。でも……無理してない?』

「なも?」

『よければ、こちらから迎えにいきましょうか? ソーのことだから、きっと配分を間違えて、うっかりクロリーを使い切っちゃって、もうこっちに帰ってこれないのかと心配しているところですけど』

「む、迎えにきてくれる、なも……」

 故郷に帰りたい。空星の力では叶えられていないが、でも、誰かの迎えがあれば、空星は帰ることができる。故郷に帰るという願いを叶えることができる。

 ただ、迎えを頼むだけで。

 差し伸べられた手に掴まるだけでいい。

 それだけで、

「カーチャ……」

 帰ることができる。

「……ありがとなも」

 ありがとう。

「ありがとなも。でも、どうしても困っちゃったら、カーチャに迎えにきてもらうことにするなも」

 でも。

「でも、まだ大丈夫なも。今ね、とってもとっても楽しいなも。世界はこんなにも大きいもので、いろんな経験をたくさんすることができて、とってもとっても楽しいなも」

 だから。

「だから、まだカーチャのとこには帰れないなも」

 帰らない。

 本当は今すぐにでも帰りたいところだが、帰らない。

 実態としては帰れないのだけれど、帰らない。

「いっぱいいっぱい世界を見て回って、いっぱいいっぱい勉強して、ちゃんと一人前になったら、カーチャのとこに帰るなも。それまでもうちょっとだけ待っていてほしいなも」

 今はまだ帰らない。

 いつか誰の助けなしに、自分だけで帰ることのできる力を得るために。

 しっかりと成長するために。

 そして、胸を張って堂々と故郷に帰るために。

「カーチャ、あんまり時間がないみたいなも。カーチャ、うちが帰る日を楽しみにしててほしいなも」

『はい、楽しみにしていますね』

「でもでも、本当に困った状況になったら、すぐ助けてほしいなも。SOSには躊躇しない自信があるなも」

『ふふふふっ。そのおかしな自信を信用することにするね。じゃあ、ソー、クロリーの管理をしっかりするんですよ。またね』

「また、なも」

 声が消える。

 光が消える。

 青い球体が消える。

 闇が消える。

 空間が、消滅する。


       ※


「…………」

 椅子に座っている。

「…………」

 こうして、天井から鎖でぶら下げられた照明に照らされている。木造の教室で、窓には分厚い遮光カーテンが閉められていた。

「あ、れ……」

 葵が周囲を見渡しても、そこはさきほどまでいた教室。全身がおかしくなるような異様な空間はどこにもない。

 ついさきほどまでの世界や感覚は、すべてが夢や幻だったかのように。

「…………」

 おかしい。なぜだか双方の目から涙が零れている。手の甲で拭う。

「…………」

 前を見る。古く使い込まれた黒板がある。黒板の上にある壁には丸時計が設置されている。

 針が示す時刻は、十二時十五分。

 さっきまでの今日が昨日となり、さっきまでの明日が今日となっている。

 この世から三月三十一日は過ぎ去り、この世は四月一日を迎えていた。

 タイムリミット。

「いない……」

 教室に一人だけ。正面にも隣にも、空星とひかりの姿は見当たらなかった。静まり返る教室。満たされる空気は凍りついたよう。

 気持ちを落ち着けるように意識して息を長く吐く。小さく下唇を噛みしめる。心が静寂に溶け込んでいく。

「…………」

「亜井君、こんばんは」

「へっ……?」

 声がした。教室後方からの声。振り返ってみるとそこには、老婆が立っていた。

 黒色のスーツに身を包み、腰まである長髪は真っ白できれいなもの。背筋がきれいで、女性としては高身長であり、葵には見覚えのある老婆。

 予備校にいた、あの。

「もうすっかりこんな遅い時間になってしまいましたね」

 老婆は教室後方よりゆっくりと歩を進めていく。女優のような優雅な足取りのまま、一度も止まることなく葵の横を通り抜け、前方にある教卓の前に立つ。

「そうそう、わたくしったら、亜井君にちゃんと自己紹介したかしら? どうだったかしらね? わたくし、森羅(しんら)育美(いくみ)と申します。こう見えても、この学校の校長先生をしているんですよ」

「校長先生……?」

 こうして、初対面相手でも口調の荒いあの竜宮先生がずっと気にかけていた『校長先生』と対峙したこととなるのだが……予備校のときはそう思わなかったが、説明を受けると、なんとなく威厳のようなものが感じられた。

 そんな校長先生は口角を上げて微笑むと、胸の前でぱんと手を叩く。

「それではこれで今年度の星城高等学校の入学試験はすべて終了です。お疲れさまでした」

 微笑むは微笑みのまま。

「はてさて、どうかしましたか、亜井君? これまた随分と冴えない表情をしているみたいですが」

「そりゃ、その、駄目でしたから……」

 葵の焦点の合わない視線は徐々に下がっていく。

「故郷に帰りたがっていた空星のことを、その願いをちゃんと叶えてあげることができなくて……」

 空星の姿こそないものの、それが失敗したことは分かっている。うまく言葉で説明できないが、駄目だったことはちゃんと分かっている。

「いいところまでいったような気がしたんだけど、結局、最後まで『クロリー』が何なのか分からなくて……」

 故郷に帰すことができなくても、そのキーアイテムを突き止められれば叶えたも同然だったのだが……駄目だった。

「黒くて、エネルギーがあって、字を書くような芯やインクのようなもので……なんだかさっぱりです」

「そうでしたか、それは残念な思いをしたのでしたね」

「はははっ。来年こそはちゃんと健康面に気をつけて受験に挑むことにしますよ。志望校は別かもですけど」

「えええっ? 亜井君、入学してくれないんですか?」

「へっ……? だって、おれ、不合格でしょ」

 合格条件は『空星の願いを叶える』ということ。駄目だった。

「こんなの、ごねたってどうにもならないでしょうから」

「合格です」

「は、い……」

「亜井君は合格したんですよ」

 反射的に葵の視線が上がると、そこにはずっと変わることのない校長先生の微笑みがある。

「宇野さんは、亜井君が頑張ってくれたこと、とても嬉しそうでしたよ。『ちゃんと自分の力で帰るなも』って、さっき硯に墨を擦ってました。信じられませんでしたよ、あの宇野さんがあんなに活き活きとした表情をするだなんて」

 校長先生の視線が斜め上の虚空に向かう。

「最初に会ったときは、雨に打たれた捨て子猫みたいに元気なくて、とても弱々しくて、もう生きる気力も感じられないぐらいでしたから。それがあのように。ふふふふふっ。すべて亜井君のおかげですよ」

「でも、おれは……」

「あの宇野さんに生きる希望を与えられたのですから、これでいいのです。少し勘違いされているかもしれませんが、出題した課題は『宇野さんが抱えている問題を解決すること』ですから。ずっと下を向くだけだった宇野さんの表情がああも輝いているのでしたら、それはもちろん合格です」

「えっ……じゃ、じゃあ」

「よければ、我が星城高等学校の一期生になっていただけますか?」

「あ、はい、はい、もちろんです」

「ありがとうございます」

 腰を直角に曲げて校長先生はお辞儀をする。

「これからも大変なことがたくさん待っているかもしれませんが、亜井君ならどんなことも逃げずに乗り越えていってくれると信じています」

 にっこり。

「すべては因果律の螺旋を描くように」


 こうして亜井葵は、『高校浪人』という本人にとっては不名誉な立場をめでたく回避することができた。

 そうして新年度。新たな学校生活が待っている。

 幕を開ける波乱万丈な生活は、しかし、身を置く存在には些細な日常に過ぎない。それがどれだけ大変な思いをしたとしても、過ぎ去ってみれば、どれもいい思い出になるのだから。


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