亜井葵
亜井葵
※
人生最大にして最悪の大大大ピンチを迎えていた。齢十五歳において、目の前が『絶望』の二文字に閉ざされるほどの窮地に追い込まれた状況に、もはや二度と明るい日なんて訪れないのではないかと思えて仕方がない。心境としては、強烈に恥ずかしいやら激烈に情けないやらで、穴があったら入ってすぐ上から土で埋めてもらいたいぐらい、それはもうただ道を歩くだけでもまともに顔を上げることができなくなったほどだった。
とにもかくにも、現状は大大大大大ピンチ! もはや人生崖っぷち。
なんでだあああああぁぁぁーっ!
亜井葵、北川中学校の中学三年生。所属していたサッカー部は夏の県大会二回戦で早々に敗退し、その当日にサッカー部を引退した。引退といっても自然と涙が込み上げるような熱い思いがあるわけではない。練習の厳しい環境でもなかったし、そもそも強豪校でもなかったので、『早く引退して放課後の練習から解放されたいな』と入部した一年生の頃から思っていて、とうとう念願の日がきただけのことである。なのに、いざその状況になってみると、いっちょ前に引退する寂しさをどことなく感じるようになっていたのを不思議に感じたものだが……そんな話は半年も前の出来事に過ぎない。それからというもの、中学三年生ということで自他ともに認める高校入学に向けた受験生として日々を送ることとなっていた。
葵が通っている北川中学校は近所にある公立校で、成績も半分よりやや上ぐらいといったところ。この成績をキープしていればあまり偏差値の高い高校は望めないものの、公立の進学校ぐらいは狙うことができた。だから、成績を落とすことなくぼちぼち勉強をしていこうと心に秘めていたのだが……残念なことに、その誓いの効果は部活引退後の三日間だけに留まり、残りの夏休みはぐーたらな生活を送ることとなっていたのである。なんたって、どの科目にも三年生には宿題が課されていないし、高校入試は年が明けた来年のことなので、まだまだこの頃は受験なんて遠い未来のことだと高を括っていた。だからこそ、ただただ受験生として一切意味を持たない自堕落で無気力な時間を過ごしていたのである。
暑くて暑くてあまりにも暑かった夏休みが終わり、初日がとてつもなく気だるい二学期を迎えることとなる。
生活は部活動がなくなっただけで、さして変わることはない。世間一般でいわれる『受験勉強』というものをやろうという気が起きず、せいぜい中間テストと期末テストのときだけ勉強を頑張った程度に過ぎなかった。だが、運がよかったか実は秘めた自力があったのか、成績は落ちることなく冬休みを迎えることができたのは僥倖と呼べるものだったかもしれない。
冬休みになると、何かに追いやられるような心境に陥ることとなり、『さすがにそろそろ本腰を入れて受験勉強をしなくてはいけないな』と一念発起することとなる。年末年始は毎日午前三時までの勉強に取り組んだこと、振り返ってみると自身でも驚嘆するほどであった。当時は、平日ではなく年末年始に頑張っていることに特別感があり、受験生として充実した冬休みを過ごすことができたという実感や達成感でいっぱいだったのである。
そんな冬休みの勢いのまま、三学期がはじまってからも毎日午前三時まで勉強をつづけることとなる。一度はじめたことは、結構長続きするタイプなので、当時はその生活リズムに無理をしている感じはなかった。ご近所さんのおばあちゃんに『最近ずっと夜遅くまで勉強してえらいわねー』と声をかけてもらえたこと、ただそれだけのことで報われた気がした。『やってきたおれの頑張り、やっぱり見ててくれる人はいるんだなー』としみじみしたものである。
学校にいても教室中に充満する今までにない受験を控えたプレッシャーをひしひしと感じるようになっていた。休み時間にいつも通りクラスメートと話していても、近くで自習している生徒を目にすると、『ま、まずい。こんなことしてるより、もっと勉強しなくちゃ!』なんて不安な気持ちになり、休み時間なのに気が休まらない時間となっていたのである。同時に、『受験生』ってこんなに特別なものだと改めて大変さを痛感し、なんとしても春には満面の笑みで新たな門出を迎えられるように、その日も午前三時まで勉強に勤しんだのである。
当時はこの先に、明るい未来が待っていると信じて疑うことはなかった。
そうこうしているうちに、あっという間に二月を迎えることとなる。気温はどんどん低下していき、吐く息は日中でも白く濁り、吹きすさぶ北風には凍えるような冷たさが含まれるようになっていた。
二月といえば私立高校の受験である。葵は私立と公立を二校ずつ受験する予定であり、親からは『私立はもろもろお金がかかるから、絶対公立にしてね』なんてことを懇願されていたので、私立受験は模擬受験のつもりでプレッシャーもあまり感じることなく本番当日を迎えられるはずだった……のだが、予想外のことが起きてしまう。受験日前日、突如として四十度の高熱に見舞われたのだ。
体は丈夫な方でこれまで大した病気に罹ることなく、中学生活三年間はずっと皆勤賞だった。たまに熱が出てもせいぜい三十七度程度だったのに、いきなりの四十度の高熱。大げさかもしれないが脳裏に死が過るほど、もはや未知の領域である。
顔は鬼のように赤く、布団で横になっていても呼吸は荒く、喘息のようにとにかく咳がひどい。横になっているだけで苦しかった。親に病院に連れていってもらって処方された薬を飲んでも一向に改善されることがなくて……結果として一週間寝込むこととなった。その間に予定していた二校の私立高校受験は過ぎ去ってしまい……二校で数万円した受験料は気泡に帰したこと、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいとなるのだった。
落ち込む。
原因不明の高熱のせいで、私立受験を受けられなくなったこと……過ぎたことは仕方がない。体調が回復してから一度しっかり落ち込んだ後に、ちゃんと気持ちを切り替えることとする。あくまで本命は公立高校の進学校なのだ。私立受験という予行演習で予想もできなかった失敗を経験できたこと、これを糧にするしかない。目指すは公立高校の進学校に入学、卒業後は大学進学。そうして社会に出るまでの四年間は悠々自適に遊んで暮らす予定なのである。
ビバ、大学生!
二学期に受けた模試の結果でもB判定をもらっており、大きなミスを犯さない限り受験は大丈夫なはず。ただ、私立のときみたいに原因不明の高熱に見舞われては敵わないので、これまでみたいに午前三時までの勉強をやめ、午後十一時には就寝するように心がけるようにした。今さら勉強時間を減らしたところで、これまでの蓄積でなんとかなるだろうと、少し自信も芽生えていたのである。
そうして三月上旬、体調万全で公立高校入試を迎えるはずだったのだが……またしても前日に思いもしない不運に見舞われることとなる。
腹痛。それはもう人生が狂うほどの猛烈な腹痛。明日の生活すら考えられないほどの、右下の腹部の猛烈な痛みに見舞われたのだった。
腹の中が内側に強く引っ張られているような強烈な痛みに加え、全身がやけに熱っぽく、視界が霞んでは何度も何度もホワイトアウトとして気絶することがつづいたのである。これまで経験したことのないほどに顔面からは大量の脂汗が分泌され、幾度となく目に染みて痛かったことが鮮明に記憶に焼きつくこととなる。『ああ、人ってこうして死んでいくのかな……』と何度目かの気絶の寸前に頭を過っては死を覚悟して意識が強制的に刈り取られていって……刹那! 顔を歪める激しい腹痛に叩き起こされることとなる。
もはや受験どころの騒ぎではない。親に急いで病院に連れていってもらい、医師に診てもらうと、その診断結果は虫垂炎であった。いわゆる『盲腸』というやつである。しかも『厄介な』という言葉が頭につく。通常なら三日の入院でいいはずなのに、『腹膜炎が異常に広がっている』というわけの分からない状態だったそうで、結果として二週間の入院を余儀なくされたのだった。
この二週間は、受験生にとってもっとも重要で時間であり、とてつもなく貴重な期間だったのに……葵はその重要で貴重な二週間を病院のベッドの上で過ごすこととなってしまう。である以上、公立高校の入試は、二回とも受けることができなくなっていたのだった。
今日までしたくもない学校の勉強を眠い目を擦りながら頑張ってきたのに、結末がこれだなんて……きっと神や仏なんてどこにもいやしないのだろう。
馬鹿野郎ぉ!
お先真っ暗だった……。
どんなに絶望しようが強く嘆こうが、決して時間は止まってくれることなく、無常にも葵の横を通り過ぎていってしまう……三月中旬に卒業式が行われるのだが、その二日前に退院となった。であれば、必然的に卒業式には出なくてはいけなくなったのである。
気が重い。とんでもなく気が重い。
どうせなら卒業式の翌日まで入院できていれば、みんなの顔を見なくて済んだのに。まさか高校受験にこのような形で失敗し、高校受験浪人になって卒業式に出ることになろうとは。
とほほ。
この三年間、そんなにいやな思い出があるわけでもないのに、こんなにも通学路を進む足取りが重たくなるなんて……あー、いきたくない。このまま家に引き返してベッドに潜りたい。
当人の気持ちがどんなに沈んでいても、時間だけは止まることなく過ぎていく……体育館で行われた卒業式は、葵だけ前日まであった予行演習に参加できなかったが、どうにかぶっつけ本番で恙なく終了することができた。教室に戻ってから三年二組担任の関口先生から卒業証書を受け取り、解散となる。教室には中学最後の日を惜しむようなクラスメートの笑顔が溢れており、写真撮影がそこかしこで行われていたのだが……葵はすぐ帰った。さもそうすることが当然のように一本たりとも後ろ髪を引かれることなく、誰にも声をかけることなく正門を潜っていたのである。
それもそのはず、卒業式の朝からクラスメートのよそよそしさが胸を抉り、不幸のどん底にいる自分がいることがクラスの不協和音となっていることは明白だった。葵がいることで、おめでたムードが台なしである。即効で逃げるようにして家に帰ったこと……密かに帰り道で泣いたことは誰にも言えない秘密として記憶の奥底に封印されたのだった。
卒業式後は冬眠中の熊のように一切家から出ることはなかった。二十四時間ほぼ無気力でいつ起きたかもいつ寝たかも定かでない生活に身を置いたのである。もはや誰とも関わりたくなかった。
そんな一人の人生において意味をまったく持たない時間は容赦なく過ぎ去っていき、ただただ三月の日々が瞬く間に通り過ぎてしまった。
進学できない以上、どこかの予備校でも探して通うべきなのか、はたまたこのまま十五歳で同級生の誰よりも早く社会出て働くべきか……本心としてはどちらも選びたくはないが、どっちも選ばないと人生の落伍者といっても過言じゃないニートになってしまう。家族の不良債権が確定して、いよいよ社会不適合者として家族にも白い目で見られることだろう。
この三月が何の意味を成さないまま過ぎていくように、一度でもニートになってしまえば、この先ずっとニートのまま気がつけば成人しているに違いない。引きこもりのまま家族に多大な迷惑をかけ、大人になってからも働くことなく当然のように親に養ってもらい……社会のお荷物になるのは決定的である。
そんな絶望的な想像が容易にできてしまうからこそ、やはり十五歳ニートは非常にまずい。まずいといったら絶対まずい。だからといって、それに抗おうとする気力がかけらも湧いてこず、焦点の合わない目でどこでもない虚空を見つめたまま、そうして今日も一日が過ぎ去っていく。
ああ、無情。
『せめて受験した上で、自分の実力不足で不合格になっていたなら、まだ踏ん切りもつけられただろうに……』といった現実逃避を幾度となく繰り返しては、また意味のない一日が過ぎていく。
ああ、無情すら無情なり。
最近、やけに天ぷらや焼き肉といった葵の好物が食卓に並ぶ日が多い気がする。そうやって細やかながら言葉なくこちらを気遣ってくれている親のこびりつくような笑顔を目の当たりにする度に、惨めで今にも消え去りたくなる気持ちに陥る毎日。けれど、そんな心情でもご飯はとてもおいしかった。次はうなぎを期待したいところである。
そうして気がつけば、三月三十一日を迎えていた。
いよいよ明日から四月で、もう中学生ではいられない。いや、もしかしたら四月一日生まれまでが同学年だったはずなので、明日でもまだぎりぎり中学生を名乗ることができるかもしれないが、そんな細かいことはどうでもいい。どうにか状況が好転するものでもないから。
四月といえば、この国の全同学年は新たな新生活を迎えることとなる。きっと今頃は、未知の進路にちょっぴりの不安と大きな期待に満ちた時間を過ごしているに違いない。
だというのに……。
とほほのほ。『新たな新生活』って、『新』が被ってるし。
そんな今日、三月最後の三月三十一日、葵にとって思いもしない出来事が起きることとなる。それはもう『ああ、今まで一度も信じたことなかったけど、神様って本当にいたんだなー』という思いを、いつまでもいつまでも味がなくなるまで噛みしめることになるのだった。
※
朝、電話があった。まだぎりぎり担任と呼べる中学校の関口先生からの電話である。なんとも気が重いながらも受話器を手にすると、少し興奮気味な口調がその耳に届けることとなる。
『おお、亜井よ、元気にしてるか? いやー、卒業式以来だな、元気にしてるか? おいおい、たかだが受験に失敗したぐらいで、元気なくすなんて言わないでおくれよ。でもって、元気してるか? それはそうと、元気にしてるか?』
「…………」
「まあ、自分がお前の立場なら、とても立ち直れずに絶望の果てに立ってるだろうから、きっと今にも首吊りたくなるだろうがな。がはははっ。だから、とにかく元気にしてるか? 亜井よ、元気であれ!』
「…………」
『亜井が元気かどうかはさておき、いきなりなんだけど、今から時間あるか? そう、今の今から。うん、なくても作れ。元気がなくても時間は作れ! いいか、聞いて驚くなよ。いや、驚いても差し障りがあるとは思えんが、とにかく気持ちを落ち着かせて、心の中心にしっかりとした気持ちを保って聞いてほしい。あ、でも、だからって、そんなに身構えることもないんだぞ。すっと全身の力を抜いて、リラックス、リラックス。はい深呼吸して。すーはー、すーはー』
「…………」
『じゃあ、ただただ心を静かに、気持ちを強く、生きていくことに希望を持って聞いてくれればいいだけのことだから。気楽にな。いいか? 準備オッケー? オッケー牧場イスタンブール営業のミルクソフトが食べたい年頃だったりする? なるほどなるほど、成長期、ミルク、大事! 腕白でもいい、骨を丈夫にして生きてほしい! 大きくなれよ!』
「…………」
『とにかく人間っていう生き物には骨格っていうか、そもそも骨そのものは大事なんだよ。だろ? 骨が脆かったら骨そそそしょ……あ、いや、こつしょしょしょー……ごほん、骨しょしょそそー……さーてと、そろそろ本気でも出すとしますかなー。ごほんごほん、骨しょーしょしょー、しょしょしょーしょしょーしょしょー……おい、いい加減にしてくれ!』
「…………」
『結論としては、骨折なんかしやすくなったら大変だから、骨は大事にしろよ。まあ、『骨を大事にしないで小事に扱うなんて行為』っていうのは、いったいどういうことだか見当もつかないけどな。がはははっ! いや、こりゃ傑作だ! 一本取っちゃって、これでかれこれ、五本目の次の六本目の次の七本目の次の、こいつはもはやエロ本だなー。がはははっ! おっとっと、思春期の少年には少し刺激が強くて、甘美な表現に興奮させちまったかもしれないな。がはははっ』
「……切っていいですか?」
まだぎりぎり担任である年中角刈りの体育教師が『骨粗鬆症』を諦めた辺りから、『持っている受話器を力いっぱい叩きつけて早く部屋に戻って神聖な聖域であるベッドの布団に逃げ込みたい』という思いがふつふつと湧き上がっており、そろそろ右手が受話器を耳元から外そうとした……その直前! 百八十センチメートルとごつい体で口髭を生やし、生徒からのあだ名が『ひげ口』である関口先生が発した一言によって、葵の半分閉じられていた瞼がぱっと見開かれることとなる。
『高校浪人が決定的で穴があったら頭を抱えたまま丸くなって飛び込んで、上をセメントで固めてこれから死ぬまで地底人の生活に身を置きたいと思ってる亜井に朗報がある。そう、朗報なんだよ。なんとなんと、聞いてびっくり玉手箱! まだ入試をやってくれるという奇特な高校があるんだってさ』
「……へっ」
最初は何を言われたのか頭がついていかなかった。だが、『まだ入試をやってくれるという奇特な高校がある』という言葉が頭を十周も二十周もぐるぐるぐるぐると回っていって……刹那、全身に大量の水を浴びせられた気がした。目の前の暗黒だった世界に突風が吹き、眼前の世界は眩いばかりの光に照らされた心境である。
葵は鼻息荒く、興奮によって全身に熱を帯びる。
「ほ、ほ、ほ、本当ですか!? ま、まだ入試してくれる学校があるって!?」
『嘘ぴょーん』
「…………」
『というのが、嘘ぴょーん嘘ぴょーん、嘘ぴょーんぴょーん』
「……切りますよ」
『今日の十時、駅前の予備校の受付で元気いっぱい名を名乗れ。『亜井葵、ぴちぴちの十五歳でーす。趣味はサンタクロース捜しです。えへっ』ってな具合にな。それで万事うまくいくような手筈となっている、はずだ。いいか、このチャンス、絶対無駄にするなよ。これは神が与えた最大のチャンスにして最後のチャンスなんだからな。気合入れていけよぉ!』
「は、はい!」
『断じて『お腹がぺこぺこで力が出ないよー』みたいな感じで牛丼が食べたくなったからって、途中で寄り道して牛丼特盛り食べて当然の顔して腹壊して救急車で運ばれてる最中に交通事故に遭ったせいで重症化して予備校にいけなかった、なんてことにならないようにな。健闘を祈る、アディオス!』
通話が切れた。つーつー、と耳には電子音のみが残る。
葵はゆっくりと右手の受話器を戻し、近くにある大理石っぽいデザインの置時計を確認すると、午前九時を回っていた。目的地は駅前の予備校で、初めていく場所なのですんなりと辿り着けないかもしれないが、でも、今からならどうにか間に合いそうである。
いや、ここはなんとしても間に合わせてみせる!
葵は、内側から込み上げてくる急いた思いに動かされるようにして踵を返し、ダッシュで部屋に戻っては、大急ぎ準備を整えるのだった。
このラストチャンスを掴み取るために。なんとしても!
冷静に考えてみれば、ひげ口こと関口先生の話はめちゃくちゃ嘘臭かった。まるでエイプリルフールを一日前倒したような、実に真実味が欠けるものなんだろうが……でも、家を出るまでは藁をも掴む思いに突き動かされていた。卒業式以来の制服である学らんに身を包み、筆記用具を部活のときに使っていた青いリュックに入れ、財布とハンカチと携帯ティッシュをズボンのポケットに素早く突っ込み、玄関から飛び出したのである。
その一連の動作、まるで見えない力に操られているようですらあった。
しかし、バス停からバスに乗って、今はただバスの進行を座席に座って待つしかないという状況になってみて……葵は急に不安になってきた。なんだか入試の話が半信半疑に思えてきて、バスから地下鉄に乗り換えた頃には最後の最後にひげ口に騙されたのではないかと疑うようになっていたのである。そうして辿り着いた予備校の自動ドアの前に立つと、そこからなかなか足を踏み出す勇気が持てずに……十時まで残り二分というところで『もう破れかぶれでだ! 騙されて大恥かいても失うもんなんかない』と開き直った気持ちで自動ドアを抜けていった。
正面にいた受付カウンターのおねえさんに『亜井葵というものですが、えーと、その、えーと……きょ、今日、ここで、その高校の試験って、その、にゅ、入試があると聞きまして……はい、その受験者なんですけど……』としどろもどろに説明した際、ひげ口に受験する高校の名前すら確認していなかったことに愕然とすることになる。頭を抱えてしゃがみ込みたくなったのだが……カウンターのおねえさんにさも当然のように予備校一階の一室に案内されたことで、思わず机に突っ伏して全身の力という力が抜けるほど安堵の息を漏らしたものである。
ぶはあああああぁぁぁーっ!
本当だったんだー。ありがと、ひげ口先生! あなたのことはこれから一生、忘れるまで忘れないよぉーっ!
今朝の電話のやり取りで三度ほど殺意を覚えた気もするが、今は感謝の気持ちが溢れていた。
と歓喜に酔いしれている場合でないので、いつまでも机に突っ伏しているわけにもいかない。今から入試がある以上、試験官がどこで見ているかも分からないのである。油断大敵。
葵はリュックから筆記用具を出して準備しようとして、リュック右側に合格祈願のお守りがつけられていたことを改めて認識する。年末に母親にもらったもので、今まではずっとそうしてぶら下げているだけだった。ようやくご利益を試す舞台に立てたことに、恥ずかしながらも口元が大きく緩んでしまって……ぶるぶるぶるぶるっと首を横に素早く振る。決して緊張感をなくしてはいけない。このチャンスは絶対にものにしなければならない。こうして絶望の地獄に垂らされた糸は、とても細くて脆いものなのだから。
筆記用具を取り出して、お守り揺れるリュックを右隣の椅子に置いた。準備万端。どんとこい。
「…………」
葵が気合を入れたところで、水を打ったかのように静まり返っている空間に、これといって変化はない。ただただ不気味なほどに静かだった。それはそうだろう、案内してくれたおねえさんが去ったことで、ここにいるのは葵ただ一人なのだから。
ここにきて、冷静に辺りを見渡してみる……受付カウンターで名前を告げて案内された予備校の一室は、中学校の教室二個分はある大きさで、床に固定された白い長机と椅子が全部で二十ぐらい並んでいる。一つの机に三名は座れるため、定員はざっと六十人ぐらいだろう。そんな場所に一人、ぽつりっ。エアコンも動いていないため、空気までが停止していた。
「…………」
現在、教室中央の一番前に座っているので、目の前には教卓がある。その奥に巨大なホワイトボードが設置されていて、そこには何色かのペンがしっかり蓋をされた状態で置かれていた。普段であればここで授業が行われ、多くの中学生や高校生が予備校講師の授業を受けている違いない。
視線を左方に向けてみると、窓側はすべて分厚いカーテンが引かれているので外を眺めることができなかった。反対側の右方は前後に扉があり、さっき通ってきた前の扉には僅かに隙間ができていることを確認できる。案内してくれた受付のおねえさんが戻るときに少し横着したのだろう。きっちり閉めにいこうかと三秒だけ逡巡するが、やめておいた。
じっとする。おとなしく待つ。姿勢を正す。
「…………」
こうしてどこの誰かは分からない誰かを待っているときの感覚として、少しだけ内側に熱を帯びているというか……どきどきしてきた。胸に手を当てなくても鼓動が感じられる。どくっ、どくっ、どくっ、どくっ。ようやく今日まで努力してきた成果を発揮できる敗者復活のチャンスということもあり、無償に気持ちが急くというか、漠然とした不安が募るというか。
とにかく、どきどきした。
「…………」
葵がここに腰かけてから、かれこれ十分ぐらいが経過しているだろうが……まだまだ静かなだけの時間が過ぎていく。『こんなことなら参考書の一冊でも持ってくればよかったなー』と思うも、家を出る際はそんなゆとりはなく飛び出してきたため、仕方がない。今はただ静かに待つのみ。
「…………」
ここに座ってからかれこれ二十分は経過しただろうか……まだ誰もやって来なかった。誰もいないよく知らない一室に一人、不安でしかない……世界にぽつんっと取り残されたかのような、漠然とした恐怖すら覚えてしまう。よく知る校舎も、夏休みで誰もいない日に入ってみると普段とは別の空間に迷い込んだみたいに感じたことがあったが、今の心境はあれによく似ている気がした。
どきどき。
どきどき。
「……んっ」
少しずつ興奮状態が落ち着いてくると、『あれ、もしかして騙されてない?』なんて思いが脳内を侵食しつつあり、誰に騙されている前提で置かれている現状を考察する方向に頭を傾けようとした……まさにその刹那! 前方の扉が音を立てて開いたのである!
「っ……?」
葵の上半身が反射的にびくっ! 大きく揺れた。直後に『騙されてなかったんだー』と心底ほっとした気持ちに包まれていったことが実に奇妙なことであり、『テレビじゃないんだから騙されているなんて、そんな誰も得しないことあるはずがないじゃんか』と頬を緩めて大きく何度も頷くのであった。
「大変お待たせいたしましたね。えー、あなたが亜井葵君ですね。わたくし、森羅と申します。よろしくお願いします」
入ってきたのは六十代と思われる老婆だった。腰まである白髪のストレートな髪、しかし、老婆にしては背筋がぴんっと伸びており、身長百七十センチはあるだろう女性としては長身な印象である。全身黒スーツに身を包んだ体は、まるでモデルようにすらっとした体型で、実に若々しかった。ただし、あの見事な白髪に顔に刻まれた多くの皺は、やはりその分だけの年齢を重ねていることを物語っている。
森羅は、頬を大きく緩めた、まるで見る人を安心させられる微笑みを携え、言葉の最後に小さくお辞儀していた。
「こんな時期外れに我が星城高等学校の入学試験に応募してくださり、誠にありがとうございます」
「あ、いえ、こ、こちらこそ……」
葵には、願書を書いた覚えもなければそもそも受験を申し込んだ覚えすらないのだが、その辺はきっとひげ口先生がうまくやってくれたに違いない、と納得することにする。どうせなら申し込んだことを事前に連絡しておいてくれればいいものを、というより、そういった話があることをもっと早く伝えておくべきなんじゃ? なんて思ったりするが、考えても詮なきことだと頭から除外する。
にしても、ここでようやく受験する学校の名前を知ることとなった。『星城高等学校』だなんて、なんて響きのいい名前であろうか。今まで半信半疑だった状態だったが、これでようやく現実味を帯びてきた気がする。
葵は姿勢を正し、勢いよく立ち上がった。
「亜井葵です。この度はこのようなチャンスをいただきまして、誠にありがとうございます。これはもう、どれだけ感謝してもしきれません。これから一生、死ぬまで星城高校のことは誇りにしたいと考えております。はい、受験ができて、本当に嬉しい限りです。ありがとうございます。誠にありがとうございます」
ぺこぺこと何度も頭下げる。まだ入試を受けるだけで、入学できると決まったわけではないが……次々に溢れてくる感謝の気持ちは紛れもない本心だった。
に対して、森羅と名乗った老婆は目を細めた笑みを携えたまま、左手を今入ってきたばかりの扉に向ける。
「さっそくではありますが……実はですね、試験会場は別にあるんですよ。亜井君には今からその会場まで移動していただくことになります。忘れ物をなさらぬように、お気をつけくださいね」
「そ、そうなんですか、今から別の場所にいくわけですね。そうですか、分かりました。どこへなりとも」
まさか予備校の一室が試験会場でなく待ち合わせ場所に過ぎないなんて思いもしなかったが、これは相手の都合なので仕方がない。さっき出したばかり筆記用具を素早くリュックにしまって背負うと、前方の扉の前まで移動する。
扉の横には森羅の笑みが待っていた。近くでみると百六十センチの自分よりも頭一つ分背が高いことが分かる。こんなに背の高い老婆、初めて見た。これだけの高身長、以前は何かスポーツでもやっていたのだろうか? いや、もしかしたら世界的なファッションモデルだったのかもしれない。森羅について気になるところだが、今そんな質問をしている場合ではない。それに、そんなことして万一印象が悪くなったら大変である。ぐっと自重する。
「えーと、おれが先に出ればいいですんですね?」
「はい。大変かもしれませんが、是非とも頑張ってくださいね。亜井君には期待していますから」
「あ、はい、ありがとうございます。頑張ります」
森羅に大きくお辞儀をしてから、踏み出す足に力を入れた。見送る森羅に背中を押されるように開いていた扉を通り抜けると、
「っ!?」
突如として異変が見舞われることとなる。なぜだか葵の目の前が白色に塗りたくられたのだ。
「な……」
今までその目に映していたリノリウムの床や通路の壁は、もうどこにも存在しない。前も右も左も上も、まるで深い霧に包まれた白の世界に変貌しており……刹那、巨大な疑問符が荒れ狂う葵の意識は、巨大な力に吸い取られるようにして遠のいていくのであった。
『この星のことをよろしくお願いします』
心の深い部分に、そんな意味が分からない言葉が刻まれた気がした。
真っ白。
※
深く深い真っ白の世界に漂う意識。世界は生粋の純白に染められており、きっとその色以外、この世界には認められていないのだろう。
白い、白い、白い世界。
白の世界。
「…………」
「おーい……おーい……うーん、おかしいね、これだけ呼んでも起きないってことは、あれ、あれれ、もしかして、死んじゃってるのかな? って、いやいや、そんなことないよね。おーい、おーい」
「……っ」
寝起きみたいにぼんやりする頭……全身のどこにも痛みは確認できないものの、意識がやけにぼやけている。まるで存在が霞に覆われているみたいで、しかし今、それがゆっくりと晴れるように視界が開けていって……意識的に強く瞼を開いてみると、自分が椅子に腰かけていることが分かった。前には木製の机もある。
席。
「あれ……?」
置かれている状況に頭がついていけず、かつ、記憶が途切れているみたいなので大きな戸惑いに思考力が鈍らされているのだが……確か、ついさっき森羅という老婆の横を通って扉を抜けたと思ったら、またこうして椅子に座っている? なぜ?
「んっ?」
こうして腰かけているのは、さっきまでの長机の椅子じゃなく、中学校で使っていた個人用の椅子。その視界にはすぐ前にも机があって、もう少し顔を上げると、前方に黒板を確認することができた。それは予備校のホワイトボードではなく、中学校にあったのようなチョークを使う黒板。実際に、白と赤と黄色のチョークが何本か置かれている。
「えっ……」
まるでどこかの学校の教室のようだが……卒業したばかりの中学校でもなければ、さきほどまでいた予備校でもない。
どこ?
突如として、知らない場所の知らない教室にいる?
「えーと……」
視界の隅に動くものが映り、導かれるように顔を右に向けてみると……そこには少女がいて、両手を小さく振っていた。
「やっほーやっほー、やほやっほー、ようやく起きたみたいだねー。さっきからずっと声をかけてたんだけどちっとも起きないもんだから、もしかしたら死んじゃってるんじゃないかと思って、警察に通報しようとしちゃったんだよね。よかったよね、寸前のところで踏み止まれて」
同世代と思われる少女は、今は頬を緩めて歯を見せるまでの大きな笑みを浮かべている。きれいな顔立ちをしており、丸みを帯びた眉に、色素の濃い大きな瞳。少し尖った顎の印象から、標準よりも痩せた体つきを想像させた。いや、間違いなく痩せ型だろう。
「わたし、神前ひかり、よろしくね」
そう自己紹介した少女は、隣の席で少しだけ斜に構えていたこともあり、肩まで届いている髪の毛が、後ろで左右と真ん中の三本で縛られていることが分かった。
三本? 後ろで三本に縛った髪の毛? そんな髪型、これまで見たいことのない、まさに未知の領域である。
「あ、ああ、その、おれは、亜井……亜井葵。よ、よろしく」
「なるほど、葵くんだね」
ひかりが着ているのは紺色のブレザーにチェックのスカート、胸には赤いリボンがある。どこかの制服のよう。
とすると、同じ受験生かもしれなかった。いや、間違いなくそうだろう。三月三十一日に受験するという極めて稀な同じ立場の人間がここにいる、というだけで一気に気持ちが楽になり、随分と心持ちが軽くなっていった。
「あのさ、ここって、どこなの……?」
教室を見渡してみる。今制服姿の少女を通して見ている方が廊下側で、前後に扉、中央は擦りガラスの窓が閉められている。だとすると、反対側が外なのだろうが、分厚い遮光カーテンが引かれているので外の情報を得ることはできなかった。天井からは鎖でぶら下げられた照明がいくつもあり、今も教室を照らしている。壁や床は木目の木造。それは木目調ではなく、実際に木造の建物で、黒ずんでいる箇所が多数あることから随分古い建物と推測された。まるで古い映像に出てくる教室みたいである。
この教室、机は三十ぐらい並べられているのだが、こうして席についているのは二人だけ。
んっ? 二人だけで、入試? 考えてみると、こんな三月ぎりぎりのおまけみたいな入試だから、それも仕方のないことかももしれないが……けど、たった二人のために入試をしてくれるだなんて、高校側としても相当生徒集めに困っているのだろうか? 受験生としてはいらない心配だが。ただ、だからこそ助かっている。異例中の異例の入試に、ただただ感謝である。
「あのさ、えーと……」
「わたし、『神前ひかり』だって自己紹介してるから、『ひかり』でいいんだよね」
「あ、ああ、ごめんごめん」
三本髪のひかり。心に刻みつける。
「ひかりは、ここで……」
これまでの記憶がないので、いろいろ訊きたいことがあり、意識的に上唇と下唇の間に空間を作るのだが……けれど、声を発することができなくなっていた。なぜなら教室前方の扉が開き、一人の男性が入ってきたからである。
教室に入ってきた男性は、二十代後半といったところだろう。百八十センチぐらいあるすらっとした長身で、短髪を剣山のように何本も上に立てている。黒いワイシャツにスラックス姿で、ずかずかと中央にある教卓の前に移動すると、その口は、
「てめえぇ、亜井葵! 遅えーんだよぉ!」
と語気を強めてきれいとはいえない言葉を発していた。それも嘘や漫画みたいに双眸を急角度で吊り上げた状態で。
「てめえ、さんざん待たせやがってよぉ! この学校のこと、いや、我のこと、舐めてんのかぁ! ああぁん! 絶対舐めてんだろうがぁ!? ぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろってかぁ!」
「…………」
黒板上の壁に設置された丸時計は、午後三時となっていた。
三時!? 十時に予備校に着いて、暫く待って、扉を潜ってすぐ記憶を失ったと思ったら、午後三時!? あれからもう五時間も過ぎてるのぉ!? 驚きでしかない。
だとすると、目の前の男性が激昂するのも無理ないだろう。入試するのに午後三時開始なんて聞いたことがない。目くじらを立てている前の人間がいったい何者かは知らないが、きっと物凄い時間を待たされたのだろう。
実感として非はまったく感じていないが、ここは謝っておくに限る。
「あ、あの、すみませんでした……」
「んなことだから、どの学校にも受験できずに、惨めな思いをすることになるんだろうがぁ! ああぁん!?」
「…………」
「なあ、反省の色はねーのかぁ!? ああぁん!? いいんだぞ、今から受験資格を取り消してやってもよ。てめえなんていようがいまいが関係ねー。とっとと帰って社会不適合者の烙印でも押されてこい。この愚図野郎がぁ!」
「…………」
ひどい言われようだが、ぐうの音も出ない。自業自得というか、この状況に追い込んでしまったのは自分自身なのだから。
葵の視線は徐々に下がっていく。あの卒業式の日の賑やかな教室に居心地の悪さを得た心境に似通うものがある。
「てめえみたいなカスがこの星を好き放題汚していくんだよ。これほどまでに尊くきれいなこの星に、誰も住めなくなったらどうする気だぁ! ああぁん!? この下等生物がぁ!」
「…………」
なんだか一気にスケールが大きくなって、そんな責任まで背負わされるのかと口調を荒く反論したいところだが、ここはぐっと我慢である。あの口振りからすると、入試の試験官に違いない。下手なことを言って本当に受験資格を失ってしまっては、もう明日から生きていけない。お婿にもいけない。絶望の淵で、せっかく掴みかけた希望なのだ、なんとしてもしがみついていかなければならないのである。
我慢。我慢。ただ今は我慢の一手。
「てめえよ、いつまでそうして座ってやがんだぁ! さっさと立ちやがれ! 出口はあっちだぞぉ! ああぁん!?」
「あの、竜宮先生、葵くんに対して、そんなのちょっとひどくないかな?」
どうやら惨めに俯きながらぐっと耐えるしかない隣人のことを哀れに思ったのか、無関係なはずのひかりが声を上げた。
「葵くんはちゃんと受験資格がある受験生なんだから、受験すべきであって、そんな竜宮先生の一存で受験資格をなくすなんてことはできないと思うんだよね。もしそんなことをしようもんなら、職権乱用の横暴だね」
「な、な、なんだとぉ!? こんにゃろ、もう一遍言ってみろぉ!」
「ってなような内容のことを、さっき校長先生が言ってた気がするんだよね。『彼なら我が校でもやっていけるでしょうね。楽しみです』ってね」
「なっ……」
激しい口調だった竜宮先生の勢いがなくなり、その表情が凍りつく。
「な、なるほど、なるほどな、なるほど、それを、あの、校長が、ねー……」
今までとは打って変わって、一気にトーンダウンする竜宮先生。
「こ、こ、校長が仰っていたことなら、そりゃ、まあ、仕方がないことだわなー。うん、これは仕方がない。うんうん、仕方のないことなんだな、これは……」
竜宮先生は気持ちを落ち着かせるために、呼吸とともに一度両肩を大きく上下させる。
「ったく、今回は特別に試験を受けさせてやってもいいだろう。いいか、これはお情けだからな。調子に乗るなよ」
「それとね、竜宮先生がさっき葵くんに言った『愚図野郎』や『カス』や『下等生物』っていうのは悪口であって、校長先生は悪口がとってもとっても嫌いだから、ちゃんと謝った方がいいと思うんだよね」
「こ、こ、校長が嫌ってるだと。がびーん……」
竜宮先生は多大なるショックを受けたみたいで、口を半開きのままフリーズすると……五秒後に、深々と頭を下げた。
「それは大変申し訳なかった。この通りだ、許せ」
ぱぱっと姿勢を正し、素直に謝罪する竜宮先生。上半身をほぼ直角に曲げ、下げた頭を十秒間は停止させていた。
「とにかく、許せ」
「あ、あの、い、いいですよ、そんな、の……」
いきなり向けられた剣山のような髪が、葵にはまるで鋭く尖ったナイフを向けられているようで落ち着きなく、それはそれで居心地の悪さを感じてしまう。胸の前で幾度となく手を振って、頭を向けている相手に言葉をかける。
「き、気にしないでください」
「そうか。じゃあ、そうする」
竜宮先生は、ぱっと気持ちを切り替えるように頭を上げると、今度はひかりの方に視線を向けた。
「それはそうと、神前、なんでお前がここにいるんだよ? あのな、入試に関係ないやつは、とっとと寮に戻れ! 早く寮の部屋に戻ってこの星の平和でも祈ってろ。しっしっ」
「あれれ、竜宮先生、わたしにそんなこと言っていいのかな?」
ひかりの口元が緩む。
「さっき校長先生にね、『神前さんは入試のお手伝いをしてあげてくださいね』って言われたんだけどねー。それなのに竜宮先生に『とっとと帰れ』なんて言われるだなんて、これはもう校長先生に言いつけてもいいんだよねー」
「全面的に申し訳なかった」
素早いお辞儀。どうやら竜宮先生はこの短期間で、秒の謝罪という対応を習得したみたいである。
「ごほんごほん。あー、茶目っ気たっぷりと冗談はこれぐらいにしてだな、そろそろ本題に入るとするかな」
どれだけ校長が怖いのか知らないが、これまでの非道なやり取りをしれっと冗談ということで流して、竜宮先生は高らかに宣言する。
「これより、星城高等学校の入学試験をはじめる」
はじまる。