4話 まだ穏やかだったあの頃
気合いを入れて今後のことを考え始めたレティシアは、まるで思い出したかのように頭に手を当てる。
すると、足の痛み以上の激痛が走った。
「っていうか、痛っ!」
記憶が戻っていろいろと興奮していたせいかまったく気がついていなかったが、痛みを知った瞬間急にズキズキと痛みがひどくなっていく。
胸にくすぶる苛立ちも相まって、やや口調は荒い。
頭に触れた手を見てみると、そこにはべったりと血がついていた。
一瞬ぎょっとするレティシアだったが、すぐそばに転がっているテーブルを見て合点がいった。
「そうだった、死のうとしたんだった……」
結局死にはしなかったが、そのおかげで記憶は戻ったのだから意味がまったくなかったわけではないだろう。
それでも痛いものは痛い。
「先に傷をどうにかしないと……」
もし死のうとしたことがあの男に知られたならば、また激しい怒りをぶつけられるに違いなかった。
まあ、記憶と魔力を取り戻したレティシアが、あのような力だけが取り柄のような男に後れを取りはしないが、まだ準備が整っていない。
知られる前にこの場をなんとかする必要があった。
記憶とともに、最高神が預かっていた魔力も取り戻した。
最高神の言葉を思い出して、自分の中にある魔力を感じ取る。
試しに手に魔力を集中させてみると、まるで息をするかのように自然に魔力が扱える。
そしてそれは前世で何度となく繰り返し、魂にすら刻まれるほどに慣れた動作だった。
その瞬間、レティシアの手にぱっと分厚い本が出現する。
創造神であり最高神であるかの神から加護とともに与えられた魔導書。
この世界のすべての魔法が詰まっていると言っても過言でない、最高神がレティシアのために作ったレティシアにしか使えない神の魔導書である。
レティシアがさらに魔力を魔導書に込めると、本がパラパラとめくられる。
まっさらな紙に、文字が浮かぶ。
それはどこの世界の言葉でもない、神が使う神の文字。
それは神の加護を得た者にしか理解できないものだ。
《癒しを――》
紙に浮き出た神の言葉を口にすれば、ふわりと温かく柔らかな光がレティシアを包み、傷を癒していく。
それば頭の傷だけでなく、レティシアが何度も逃げ出そうとしたために切られた足首の傷すらも、跡形もなく癒してくれた。
「さすがに、傷がないとおかしいか」
どうして傷がなくなってるのか問いただされるのは困る。
古い傷を癒すほどの魔法を持っていると気づかれては、今後の行動が制限されてしまう。
「あいつらには、まだ私はか弱いなにもできない非力な人間と思ってもらわないといけない……」
レティシアは再度魔導書を使う。
《幻影を――》
先ほどとは違う浮き出た文字を唱えれば、消えたはずのレティシアの足首に傷痕ができた。
けれどそれはあくまで見せかけのもので、レティシアより魔力が多く強い者でなくては見破るのはほぼ不可能だ。
獣人の多くはその身体能力が並外れている代わりに、魔力を持つ者が少ない。
いたとしても、最高神の加護を持つレティシアに勝る者がいるはずはなかった。
「ついでに《浄化》っと」
レティシアは床やテーブルについていた己の血も綺麗に消しておく。
鼻のいい獣人に気取られぬように、空気さえも浄化してみせた。
気持ちいい、以前より淀んだ空気が澄んだように思えたが、さすがにそこまでここにいる獣人は気にしないだろう。
なにせ、ここでのレティシアの扱いは決していいものではないというのは、今いる状況を見れば明らかだ。
あの日までレティシアは普通に暮らしていた。
多少魔法が使えたりとおかしなことはあったが、間違いなく穏やかで笑顔に満ちた生活を送っていたのだ。
それが壊されたのはレティシアが八歳の時――。
***
「レティ、かまどに火をつけてちょうだい」
「はーい」
母親にお願いされ、レティシアは慣れた手つきでかまどに火をつける。
「ありがとう、レティ」
そう言って優しく頭を撫でてくれる母親に、レティシアは「えへへ」とはにかむ。
「次はお隣のリブおばさんのところに行ってあげて」
「はーい」
朝のレティシアは村の誰より忙しい。
なにせ、朝食のために必要とする火を起こすのは地味に面倒なのだ。
しかしレティシアならば一瞬でそれを行ってしまう。
さらに、井戸で水を汲みに行くのが大変なお年寄りの家を周り、水がめに魔法で水を満タンにしてあげるのだ。
しかも、レティシアが魔法で出した水は大層美味しく、飲み水はもちろん、料理に使えば一層おいしくなるとあって、毎日のように争奪戦が繰り広げられる。
しかし、レティシアの体は一つだけ。
なので井戸汲みが大変な年寄りを優先にし、それ以外は日替わりの順番制にすることで大人達の話し合いの決着がついたらしい。
「はい、お水いっぱいにしておいたよ」
「いつもありがとうね。はい、お駄賃」
そう言って渡されたのはお金ではなく、蜂蜜で作った飴玉だ。
村にいるとそうお金を使うことがないので、レティシアにとっては飴玉の方がずっと価値あるものだった。
「わーい、ありがとう!」
無邪気に喜ぶレティシアは、次の家へ周り、そこでもまたお駄賃という名のお菓子をもらうのだ。
それ故、滅多に行商など来ない辺鄙な田舎にいながら、レティシアはいつも甘いものには困らない。
そんなレティシアを羨ましがる同世代の子供は少なくないが、レティシアはちゃんと皆でお菓子を分けているので文句を言う子など一人もいなかった。
むしろレティシアのおかげで普段食べる料理の美味しさも変わってくるとあって、レティシアがいかに効率よく家々を回れるか協力体制を取るほどの団結力を持っている。
「レティ、持ってきたぞー」
「こっちもお願い」
必要な家を周り終えたレティシアのもとに、子供達が水がめを持って集まってくる。
中にはレティシアより小さな子までが、よいしょよいしょと小さな桶を持ってやって来ていた。
「今日もよりょちく」
舌ったらずな言葉でお願いをされては頑張るしかないと、レティシアは袖をまくって気合を入れる。
「任せといて」
レティシアは子供達が各家から集めてきた水がめに次々水を出していく。
さすがにすべてとなると量が多いので、満杯にすることはできないのが申しわけないが、それでも村の人達はレティシアにお礼を言って喜んでくれる。
それがレティシアも嬉しい。
魔法を使う様子は、はた目にはレティシアが手をかざしただけにしか見えない。
「本当に不思議ねぇ。どうしてレティだけこんなことができるのかな?」
そう興味津々にレティシアの手元を注視しているのは、同世代の中では年長の十二歳の女の子だ。
この村ではだいたい十五歳ぐらいになると、村から出て出稼ぎに行くか、村に残って農業をしている。
今十五歳以下で一番上なのが、このリリーという女の子だった。
「うーん、なんでだろ?」
レティシアも何故かなど口では説明できない。
できたから仕方ない。
「たとえば水をイメージするとね、なんか体の中にあるゆらゆらってしたものがぐわーってなってどばーってするみたいな?」
「そんなんじゃ分かんないよ」
リリーはものすごく困った顔をする。
「だって口で説明できないんだもん」
「いいじゃんいいじゃん、理由なんてさ。おかげで俺ら上手い飯が食えるんだから」
ニカッと快活に笑うのは、ロドニー。リリーの弟でレティシアの同い年の少年だ。
「まあ、そうだけど、私も同じことができたらレティシアみたいに村の役に立てるのになって」
「リリーは十分役に立ってるじゃない。裁縫をさせたら私達の中じゃ一番だし」
レティシアの言葉に、他の女の子達もうんうんと頷いている。
「そりゃあ、レティの裁縫の技術に負ける奴なんていないだろ。俺でも勝てるもん」
声をあげてぎゃははっと笑うロドニーを、レティシアはじとっとした目で睨む。
「今日はロドニーのところに水入れてあげなーい」
「えっ!? ちょっと待てよ! そんなことされたら母ちゃんに叱られるじゃん!」
「ロドニーのせいですって言ってあげる」
「すいませんでしたっ!」
ペコペコと謝るロドニーに、皆が笑う。
そんな平和はあっさりと崩される。