14話 逃亡
殴られたカシュは勢いよく吹っ飛び、たくさんの料理が並んだテーブルに突っ込んだ。
激しい食器やグラスが割れる音が響いたが、それが終わると、訪れたのは静寂。
誰もがぽかんと口を開いて、状況を理解できずにいた。
体格のいい大男が、子供のように小さい少女に拳で一発殴られただけで吹っ飛んだのだ。
獣人でなくとも驚いて言葉をなくすだろう。
だが、これでは終わらない。
「一発じゃなく何発もだったよね」
本当ならこの一発でレティシアの目的は達成されているのだが、本人が何発も望むので仕方ない。
仕方ないのである。
レティシアはただ本人の希望を叶えてあげようとしているだけなのだ。
憎き男の望みを叶えてやるなど、なんて優しいのだろうか。
「私の善行に最高神様も涙を流して喜んでくれるでしょう」
レティシアが、いまだテーブルに埋まっているカシュのもとへ歩くと、ジリジリと獣人達が後ずさりして、自然と道が開けた。
得体の知れないなにかを見るように、その目は驚愕に彩られている。
カシュは相当なダメージを受けているようだが、驚きの方が勝っている様子。
びっくりと目を大きくしてレティシアを見つめた。
レティシアはそんなカシュの胸ぐらを掴むとにっこりと微笑みかける。
すると何故か頬を赤らめたため、レティシアからはすんっと表情が抜け落ちた。
どうしてカシュがそんな表情になるのか分からなかったが、そういえばレティシアの方から進んで微笑みかけるということはしたことがなかった。
いつも笑顔はカシュの暴力によって強制されたものだった。
その笑顔はどれも引きつっていたに違いない。
それが、心から喜びを感じるレティシアの笑みに心が動いたとでもいうのだろう。
だとしたらなんとも――。
「気持ち悪い……」
嫌悪感を隠そうともせず見下すレティシアは、さらにパンパパンと、往復ビンタで追い打ちをかける。
レティシアの平手が当たる度に「ぐっ」とか「うあっ」とか、呻いているが、レティシアは構わず続ける。
獣人であるカシュが、力のないレティシアの攻撃にこれほど苦しんでいるのは、レティシアが身体強化を全力で両手に集中させているからである。
ただでさえ魔力の強いレティシアの攻撃は一つ一つが重く、カシュに痛みを与えていく。
周囲には邪魔が入らないようにしっかりと結界を張っているので、兵士達は右往左往しながら、結界を壊そうと奮闘しているがまったく歯が立たないようだ。
いくら獣人が身体能力に長けていようと、かつて大魔導師と呼ばれたレティシアが張った結界を破れるはずがない。
一旦手を止めたレティシアは、外からの邪魔がないのを確認して、再度手を振り上げる。
まだまだ終わるには早い。
「ちょ、待って!」
「やめるんだ!」
あわあわと外野がうるさいが、レティシアは右から左に流した。
なにせ、溜まりに溜まった憎しみが、吹き出して止まってくれないのだ。
これまでカシュがレティシアにしてきた暴力によって与えられた痛みはこの程度ではなかった。
足の健を切られ、逃げられなくされ、それでもまだ足りないとばかりに、おもちゃを蹴飛ばすように何度も痛めつけられた。
いまここで殺しても殺したりないほどの苦痛を、八年も続けられたのだ。
だが、さすがに時間らしい。
自分であって自分のものではない魔力が、この建物からだいぶ離れたのを感じる。
どうやら時間稼ぎはもう必要ないようだ。
レティシアは真っ赤に腫れた頬のカシュから手を離すと、カシュはすでに壊れていたテーブルに崩れ落ちた。
「本当はまだ足りないんだけどなー。やっぱぶっ潰しちゃおうか」
などとレティシアが呟けば、「絶対駄目ー!!」と叫ぶように、空に稲光が走った。
そして、その直後にポツリと雫がレティシアの頬に落ちたかと思うと、土砂降りの雨が突然降りだす。
「これで勘弁しろっていうんですか、最高神様?」
獣人は鼻が利く。
レティシアの魔法があれば些末なことではあるが、逃げ出すのにレティシアの利となるだろう。
「仕方ない」
ようやくカシュから離れたレティシアは、結界の外で固まっている兵士達に向けて手を振り払うように、すっと横に一閃させた。
そうすれば見えない衝撃が当たったように全員が吹き飛ぶ。
「あんなに魔法を使えるなんて聞いてないぞ」
「どうなってるの?」
ざわざわと招待客が離れたところから様子を窺っている。
レティシアの魔法力に恐れを抱いているのが分かった。
先程までの嘲笑はいつの間にか消えている。
これだけの力を見せれば当然というもの。
逆に、ここまでしてまだ立ち向かってくるなら、賞賛に値する。
兵士達ですら怖じ気づいてレティシアから距離を取っている。
「本当に、もっと早く記憶が戻ってたら……」
何度思わずにはいられない。
前世であんなに頑張ったというのにこの仕打ち。最高神への怒りはしばらく冷めそうにはなかった。
「じゃあ、私は出て行かせてもらうから」
「ま、待て!」
カシュがゆっくりと起き上りながらレティシアへ手を伸ばすが、レティシアがその手を取るはずがない。
レティシアは追ってこられないように、庭全体に結界を張った。
「これでしばらくは足止めになるでしょ」
そして、後ろから何度も聞こえるカシュの声に一度として反応せず、レティシアは身体強化をして走った。
***
レティシアがいたのは、アカシトロビアの王都のようだった。
誰にも気づかれないように魔法で姿を消した上でカシュの屋敷から出ると、王都の外へ出る門へ向かった。
地図はきちんとレティシアの頭の中に入っている。
エアリスが屋敷の中で見つけた地図を共有しただけでなく、実際にエアリスに外までの経路を確認してもらっていたのだ。
その過程でエアリスが見た景色も、レティシアはエアリスを通して、まるで自分が実際に見てきたかのように記憶の共有をしていた。
これはさすがに他のどんな魔導師にでもできないだろう。
聖獣を持つレティシアだからこそできる技だ。
アカシトロビアの王都は城塞都市という雰囲気だ。
外界からの接触を極力減らし、独自の昔ながらの文化を守っている。
それ自体はいいことなのだろうが、排他的なところが問題だ。
獣人至上主義。
他の種族を受け入れないアカシトロビアの獣人は、滅多に外の人を入れたりしない。
カシュや、その屋敷の人達が外から来たレティシアを受け入れようとしなかったように。
だからこそ、文明の発展も緩やかで、まるで取り残されたようなところがある。
アカシトロビアの獣人が自慢する堅牢な城塞都市は、どことなく冷たく感じるのはレティシアの気のせいだろうか。
同じ感想を抱く者は多いと思っている。
そんな城塞都市を駆け抜けるレティシアは、慎重に門をくぐるとようやく外へ出られた。
しかし、まだ油断はできない。
王都から出ただけであって、まだアカシトロビアの領内であることに違いはないのだから。
できるだけ遠くへ逃げる必要がある。
それこそ、アカシトロビアでも手が出せない強国へ。
「でも、その前に家に帰りたいな……」
またカシュがやって来るかもしれないので、もうあの村で暮らすことはできないが、せめて両親に顔を見せて、無事であることを知らせたい。
なによりレティシアが両親や村の人達に会いたかった。
「デュークは来てくれるかな?」
いや、迷わずレティシアといることを選んだデュークなのだから、今回も一緒に行くと即答してくれるに違いない。
そう思うと、自然と口元がほころんだ。
***
門を抜け、その先にある深い森へ突き進むと、そこにエアリスとデュークの姿を見つけた。
一人と一羽は、まだレティシアが姿を消しているにもかかわらず、魔法を解く前にレティシアの存在に気がつく。
「レティ!」
まるで飼い主の帰りを待ちわびた子犬のように満面の笑みで駆けてくるデュークは、そのままの勢いでレティシアに抱きついた。
「よかった、ちゃんと来た」
ほっと安堵したような声色のデュークは、本当にここにレティシアが来るか不安だったのだろう。
わずかに溢れていた闇の力が、レティシアが来たことによりすっかり霧散する。
そのことにレティシアの方がよりほっとするのだが、デュークは気がついていないようだ。
レティシアは視線を木の枝に止まるエアリスに向けると、やれやれという様子。
「エアリス、なに? どうかした?」
「どうもこうも、こいつ本当に連れてくのか? 置いていった方がいいんじゃね?」
邪竜の危険さはエアリスがよく知っているだろうに、なにを今さら言い出すのかと、レティシアは不思議そうに首をかしげる。
「なんかあった?」
「ねえ、レティ。あのうるさい鳥、焼き鳥にしていい?」
無邪気な顔でとんでもないことを言い出したデュークに、レティシアはぎょっとする。
「いや、駄目駄目駄目! あの子は私の相棒なんだからいてくれないと」
「レティには僕がいればいいでしょう?」
さらりと見せるほの暗い独占欲は、さらっと流していいものではなく、危うさを感じ、レティシアは冷や汗が流れる。
「さっきからそいつ、この調子なの! お前はレティのなんだとかいって、俺様にまで敵意向けてくるし。連れてくの危険だって」
「いや、まあ、懐いてくれたと思えば……」
「懐くのレベルを通り越してるだろ! この少しの期間でどうしてそうなる!?」
レティシアに聞かれても答えられない。
「もうこうなったら仕方ないでしょう。それより身代わりは置いてきた?」
レティシアは考えるのをやめて、強制的に話を逸らした。
エアリスは不満そうにしつつもきちんと答える。
「一応な。でも、レティじゃなくて俺が作ったものだから、あんまり時間は稼げねぇぞ」
「少しあれば十分。ちゃんと追ってこられないように私も結界張っておいたから、すぐにはこないって。でも、早く領地内から出ないと……」
レティシアはデュークに向いて問いかける。
「デューク、これから私の故郷に行こうと思うの」
「レティの故郷?」
「そう。私のお父さんお母さんがいて、私が生まれ育った村。別になにか特産物があるわけじゃないんだけど、無事に逃げ出せたことだけは伝えておきたくて」
この先もずっと心配させたままにしておきたくない。
「一緒に来てくれる」
「うん」
またもや迷いのない返事に、レティシアは苦笑する。
それでいいのかいろいろ注意をしたいところだが、今は一刻も早く王都から離れておいた方がいい。
「じゃあ、決まり。早速行こう」
元気よく拳を空に突き上げるレティシアに倣って、デュークも同じ仕草をする。
けれど、あまり感情が表に出ないタイプなのか、無表情だ。
それでも、何故だかレティシアにはデュークが楽しそうに見えた。




