13話 脱出の前の一撃
そして決行の日がやって来る。
耐えに耐え続けた我慢を解放する時でもある。
出て行くことを決めてから、従順にカシュに接するのには骨が折れた。
やっちまえやっちまえと、心の中の悪魔が囁くので、追い払うのに苦労したのである。
記憶を取り戻す前ならいざ知らず、今のレティシアには強大な魔力と魔導書があり、抗う力を持っていた。
その気になればアカシトロビアという国そのものを滅ぼしかねない強い力だ。
これまでやられてきた不遇な対応を考えれば、国までとはいかないが、この屋敷を吹っ飛ばすぐらいはいいのではないかと思えてくるから困った。
それでもそうしなかったのは、別に慈悲からではない。
何度となく最高神が「駄目だからね!」と訴えてくるからである。
普通はそんな頻繁に神とやり取りすることなどできないのだが、やはり最高神ともなると他の神とは一線を画するようだ。
そんな最高神の加護を与えられているレティシアだからこそ、やり取りができるというのもある。
他の者には恐らく最高神の言葉を伝えるのはそう簡単ではないはずだ。
レティシアとしては聞かなかったふりをしたいが、最高神を無下にはできない。
まったくもって面倒な神である。
そうして我慢を続けてきたが、その必要もなくなると思うだけで歓喜で踊り出したくなるほどだ。
予定されている結婚式は明日だが、エアリスに見回りをしてもらったところ、邪竜復活を見届けるためか、ただ結婚式に参加するためなのか不明だが、多くの獣人が集まってきているそうだ。
窓もなく、重厚な扉で閉ざされているレティシアのところまでその声はまったく聞こえないのだが、相当な獣人が訪れているようだ。
それも上流階級の者ばかりだという。
カシュ自体が貴族なので、必然とそうなるのは予想されたことだが、その中の何人が邪竜のことを知っているのかは定かではない。
調べるにしても人が多すぎて、エアリスだけでは手が足りないのだ。
だがまあ、今日デュークと出て行くのでいちいち調べる必要もないだろう。
「レティ、そろそろいいんじゃね?」
「そうね」
屋敷の使用人は慌ただしく動き回っており、レティシアに構っている暇はないという様子だ。
それもこれも、たくさん訪れている招待客の対応に追われているからだ。
それだけ大勢上流階級の獣人が集まってきているなら、レティシアとしても好都合だった。
人が多ければ多いほど、意図的にパニック状態を引き起こし、逃げる隙が生まれる。
エアリスの調べによると、招待客を歓待するために庭で食事会が行われているという。
なんとも豪勢なことだ。
レティシアなどは朝にパンとスープを食べただけだというのに、なんとも恨めしい。
しかし、デュークはレティシアよりもっと粗末な食事しか出ないらしいので、文句など言えない。
この屋敷を飛び出した暁には、デュークとそろって食い倒れの旅に出るのだと、レティシアは気合いを入れる。
そして、八年もの間レティシアをここに縛りつけていた枷をあっさりと破壊した。
枷が外れると同時に心まで開放された気になってくるから不思議だ。
もうレティシアを縛るものはなに一つありはしない。
なんの力もなかった頃のレティシアではないのだから。
「ところで、本当にこのままこっそり行っちゃっていいのか?」
エアリスがレティシアに問う。
当初の予定では、ボヤを起こして、これまで通り姿を隠して、火消しに回る人達に気づかれぬようにこっそりと屋敷から逃げ出すというものだった。
「どういうこと?」
「お前をこんな目に遭わせた奴に復讐していかないのかって言ってるんだよ」
「…………」
レティシアは即座に反対できなかった。
そればかりか、レティシアの脳内で天使と悪魔が争い始める。
『やっちゃえ! 本当にこのまま出てっていいの? 一発ぶちかませ!』
『駄目よ。あんな最低男なんて放置して、後でじわじわいたぶる方がいいわよ』
正直、天使の方も言っていることは悪魔とあまり変わりがない。
ようは、今やるか、後でやるか。
「ぐう……。うーん……」
レティシアは激しく葛藤する。
これまでの恨みを後回しにして果たしていいものか……。
答えは思ったよりすぐに出た。
「よし、一発ぶちかましてから逃げよう」
「おう! そうこなくっちゃな。やられたら十倍返しが基本だぜ」
エアリスはその言葉を待ってましたとばかりに、くるりと空中で一回転する。
「あの男は庭にいるんでしょう? 私は大暴れして注意をこちらに向けてから逃げるから、エアリスはその混乱に乗じてデュークを逃がしてちょうだい。後で合流しましょう」
「えー、俺様も見たかったんだけど」
「後で私の記憶を覗かせてあげるわよ」
レティシアの魔力を元に作り出された聖獣エアリスは、レティシアと魔力だけでなく魂とも繋がりができているので、記憶の共有が可能だ。
いちいち説明せずに済むのは本当に助かる。
屋敷の隠密活動において、これ以上ない相棒だった。
「はた目から見てるのが面白いのに……。まあ、仕方ねえ、言う通りにしてやるよ。だが、そもそも奴は俺様に従うのか?」
「デュークなら魔力の質が私と同じだって、きっと気づくわ。だからお願いね」
エアリスを形作るのはレティシアの魔力。
それは普通の魔力ではなく、最高神の加護が含まれた魔力なのだから、対となる闇の女神の加護を持っているデュークが気づかぬわけがない。
それに、エアリスの無駄に回る口ならば、デュークを丸め込むぐらい造作もないだろう。
「よーし、待ってなさい。八年分の怒りと恨みを思い知らせてやるわ」
レティシアは気合いを入れ直して、外の音すら遮断する重厚な扉を正面から魔法で吹き飛ばした。
もちろん魔導書は持っていない。
そんなものを持っていたら、大魔導師となんらかの関わりがあると言い回っているようなものなのだから。
それに、基本的に魔導書は邪竜討伐のため、世界の平穏を守るために最高神がレティシアの力になるだろうと与えられたもの。
魔導書などなくとも、レティシアの力は大魔導師と呼ばれるだけの強い魔力と魔法を持っている。
ドカーンと、盛大な音を立てて扉がぶち破り、庭に向かって歩いて行くと、さすがにあれだけの大きな音がして誰も気がつかないはずもなく、すぐにこの屋敷の警備兵が集まってきた。
現在この屋敷には多くの要人が集まっているからか、常駐している兵士の数も多く、警戒も強めていたために血相を変えてやって来たが、レティシアの姿を見て二度驚いているようだ。
それもそのはず。
レティシアは、幾度かの脱走未遂の末に、足の健を切られていたのだ。
その後も最低限の治療しかされず、一人で歩き回れる状態にはない。
そんな猟奇的なカシュの行いに、この屋敷の――いや、獣人達はなんの違和感も持たず、また、カシュの非道な行いをいさめることもしなかった。
逃げるレティシアが悪いというように。
だからこそ、レティシアにとってはこの屋敷の関係者全員が敵である。
駆けつけたのは普段からこの屋敷にいてレティシアの顔を知る者達だった。
「どうして動いてんだ? 誰か足を治したのか?」
「いや、そもそもどうしてこいつがここにいる?」
「そんなのどうでもいい。早く捕まえろ。カシュ様に叱られるぞ!」
「そ、そうだな」
兵士達はカシュの名を聞いて慌ててレティシアを捕獲しようと動き出す。
相手は身体能力の高い獣人の中で兵士として日々訓練している者達だ。
見た目は幼いレティシアのような人間などひとひねりだろう。
そう誰もが思っていたが、レティシアは屈強な兵士達を前にしても臆するどころか不敵な笑み浮かべる。
「かかってらしっしゃいな」
これまでのあれやこれや、溜まった不満を晴らす時が来た。
レティシアは目の前に人の大きさほどの水球を作り出すと、正面にいた獣人に向かって放った。
身体能力の高い獣人ではあるが、抵抗する力などないだろうと油断していたのに加え、なにより水球の勢いがすさまじかった。
避ける余裕すらなく、まるで巨岩にぶつかったような勢いで水球にぶつかった兵士が後方に吹き飛び、壁にめり込んだ。
「おっと、久々すぎて力を入れ過ぎちゃったか」
しかし、やり過ぎたかと思ったが、獣人はそもそも強靱な肉体を持つのでちょっとやり過ぎぐらいがちょうどいいようだ。
意識を失っているようだが、目立った怪我はない。
さすが獣人。と、感心している場合ではなく、一気に獣人達は戦闘態勢を取った。
「こいつ魔法を使いやがる!」
「魔力封じはどうしたんだ?」
驚き、戸惑う獣人達に、レティシアは笑顔で彼らの前に枷を放り投げる。
「魔力封じってそれのこと?」
長年レティシアを縛りつけていた枷は、魔力を封じる作用もあった。
その頃のレティシアは魔法が使えるが、それほど魔力は強くなかったので獣人が用意した質の悪いものでも魔法が使えなくなっていた。
けれど、最高神から前世の力を返された今、その程度の道具で抑えられやしない。
「さーて、張り切って行こうー!」
拳を突き上げて、次々に向かってくる兵士をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、時には超絶痛いが怪我はしないという、お仕置き目的で前世に編み出した魔法をぶん投げたりもした。
そうすれば自然とレティシアの前に道は開かれ、背後には痛みに悶え苦しむ獣人達が床に転がっていた。
「ドジっ子のせいでしなくていい労力を使ってる気がする……。絶対今度会ったら闇の女神様に告げ口してやるんだから」
すでに闇の女神の耳には入っていそうだが、改めて言うことでレティシアの気が収まるのだ。
ドジっ子女神が故意にしたとは思っていないが、彼女の行いでレティシアとデュークの運命が不運になってしまったのは変えようのない事実だ。
加護を与えた愛し子を不幸にされて、闇の女神が黙っているはずがない。
しっかりお叱りとお仕置きと受けてもらわねば、レティシアの気も収まらないのだ。
「多すぎて面倒になってきた……」
次から次へとキリがなく兵士が現れる。
向かってくる兵士を返り討ちにしながら、レティシアは食事会が行われているという庭へ足を運んだ。
当初はなかった予定。
それもすべて散々な扱いをしてきたカシュに一発食らわせるためである。
庭に近づくにつれガヤガヤと人の声が聞こえてくる。
その中には音楽の音色も含まれており、なんとも優雅で楽しそうではないかと、レティシアはふつふつと怒りに燃える。
その感情の赴くままに庭園に堂々と真っ向から乗り込んだレティシアの前に、すぐさまにっくきカシュがやって来た。
向こうからやって来てくれるなど、レティシアにとっては好都合。
ようこそいらっしゃいましたと皮肉を込める。
「お前、どうやって……」
カシュはレティシアがこの場にいることにひどく驚いている。
けれど、次の瞬間、その視線だけで人一人殺しそうな眼差しでレティシアを射抜いた。
以前のレティシアならばそれだけで怯んだだろう。
怯え、怖がり、泣き叫び、震えていたはずだ。
だが、今となっては怒りの感情が湧いてきこそすれども、恐怖は微塵も抱かなかった。
真っ向からカシュの目を睨み返す。
「なんで? そんなのここから逃げ出すからに決まってるじゃない」
堂々と相対するレティシアの目には強い光が輝いている。
そんなこれまでと違うレティシアの反応に苛立つカシュは舌打ちをした。
「どうやって出てきたかは知らないが、すぐに部屋に戻れ」
「はあ!? 馬鹿じゃない? 今の話聞いてなかった? 逃げるって言ってるの。自分からあんな空気の悪い部屋に帰るわけないじゃない」
嫌みをたっぷりと込めて、カシュを睨みつければ、カシュの眼差しがさらに鋭くなる。
「最近やっと従順になったと思ったが、どうやら躾直す必要があるらしいな。自分の立場というものを忘れたようだ。お前が誰のおかげで生かされているかもう一度教えてやろう」
そのあまりにも傲慢で自分勝手な言い分に笑いしか出てこない。
レティシアははっと鼻で笑う。
「それはこっちのセリフ。誰のおかげでこの屋敷がまだ無事だと思ってるのよ。あなたこそ感謝なさいな」
見上げ続けると首が痛くなるほど身長差のあるカシュを前に、レティシアは強気な姿勢を崩さない。
それは、これまでカシュに見せていたどのレティシアとも違っていた。
怯えでも、悲しみでも、絶望でもない。
そして、ただの抵抗とも違う。
そこにあるのは、絶対的優位に立っている者だけが持つ自信に溢れ、目は生気に満ちていた。
「本当はなにもせずに出て行こうかと思ったけど、やっぱり癪だから一発殴らせて」
レティシアがそう言うと、どっと笑いが起きた。
それは周囲で様子を見ていた招待客だろう者達からだ。
「人間が獣人相手に殴るですって」
「赤子の攻撃より弱いだろうに」
「なんの意味があるんだい?」
「あははっ、公爵様。かわいそうだから結婚の祝いとして受けてあげたらどうだい?」
聞こえてくるのはレティシアを馬鹿にするものばかりで、誰もが嘲笑を浮かべている。
「けっさくだ」
あははっと笑いながら手を叩いている者もいる。
レティシアはそんな獣人達を冷たい目ですがめる。
けれど、すぐにカシュへ戻した。
カシュも周囲の空気に当てられてか、いつもならレティシアに反抗されると癇癪を起こした子供のように暴れるというのに、くくっと笑っているだけ。
今日はずいぶんと機嫌がいいらしい。
それは邪竜を復活させられると思っているからだろうか。
だとしたら、レティシアはカシュの二つの予定をぶち壊すことになる。
一つは結婚。
もう一つはデュークという存在による邪竜復活。
「いいだろう。今日の俺は機嫌がいいのでな。余興として受けてやろうじゃないか。一発と言わず何発でもな」
どこまでも不遜なカシュには、レティシアの細腕でなにができるのかと言いたげだ。
まあ、それは他の獣人達も同じだろう。
人間の小娘ごときにどれほどの力があるのかと、完全にレティシアを舐めきっている。
だからこそ、何発もと言っているのだ。
「ふーん。何発もね……。それはずいぶんと太っ腹だこと」
カシュはニヤリと嘲笑う。
それを見たレティシアもまた、ニヤァと口角を緩めた。
「その言葉、速攻で後悔させてあげる」
「くははっ、獣人相手に人間ごとき下等生物がなにを――ぶへっ!」
不快な声をこれ以上聞いていたくなかったレティシアは、話している途中にもかかわらずお構いなしにぴょんとジャンプしてカシュの左頬にグーパンチをめり込ませた。